シカゴを舞う京の鳳凰~あなたの財布で眠っている130年の誇り ―

◇10‐1【敬意の萌芽(ほうが)】

それからの日々、桐島の苦闘は二つの戦線で繰り広げられた。
昼間は、バーナムという「公的な壁」との、冷徹な論理と規則を巡る消耗戦。
彼の鉄壁の守りを前に、桐島の心は少しずつ、やすりで削られるように摩耗していった。

そして、その交渉に敗れ、事務所に戻る道すがら、今度はジュリエットという「私的な壁」が、彼女の前に立ちはだかるのだ。
「あなたの言う『もてなし』とは、結局、本音を隠すための技術でしょう?」

「あなたの言う『引き算の美学』とは、豊かさを知らない者の、自己弁護に過ぎないのではなくて?」
その一つ一つの言葉が、バーナムとの交渉で疲弊した桐島の傷口に、塩を塗り込むように染みた。

(なぜ、分かってもらえないの……。なぜ、私の言葉は誰にも届かないの……)
桐島は心身ともに追い詰められていった。
超才媛と見られていた彼女が、初めて見せる焦りと、そして深い孤立感。その人間的な苦闘を、隣で支える大野だけが、身を切られるような思いで見守っていた。

だが、皮肉なことに、桐島を打ち負かそうとすればするほど、ジュリエットの心の中にも、さざ波のような変化が生まれ始めていた。

あれほど批判した職人たちの仕事ぶり。
だが、毎日毎日、飽きもせず、ただ黙々と木と向き合い続けるその姿には、ジュリエットが知るどんな芸術家とも違う、
祈りにも似た静寂が宿っているように見えた。 あれほど見下した芸妓たちの稽古。
だが、その一糸乱れぬ所作と、一つの舞にかける張り詰めた集中力は、パリ・オペラ座のプリマドンナにも匹敵する、鋼のような規律に裏打ちされていることを、彼女は認めざるを得なかった。

そして何より、桐島文子。
彼女は、何度論破され、傷つけられても、決してその背筋を曲げなかった。その姿は、もはや「異国の花」などではない。
自らの文化と誇りを背負い、たった一人で巨大な壁に立ち向かう、孤高の戦士そのものであった。
ジュリエットは、苛立ちと、そして自分でも認めたくない、喉の奥に引っかかるような敬意の間で、心が揺れ動くのを感じていた。

◇10‐2【鉄の門前、再度の問いかけ】

数日後、桐島文子は大野健吾だけを伴い、腹をくくってダニエル・バーナムの執務室へと向かった。
これまでのあらゆる間接的な働きかけも、彼の心を動かすには至っていない。
しかし今回の訪問へ向けて「鳳凰殿特別懇話会」の許可を得るために、考え得る限りの譲歩案を綿密に練ってきた。
桐島の胸には、消そうにも消せない日本文化への信念が残り火のように燻(くすぶ)っていた。

重厚なドアの向こう、バーナムは山のような書類に囲まれていた。
彼の鋭い目が、入室してきた桐島と大野を一瞥する。
「ミス・キリシマ、また君か。私の時間は有限なのだが」 その声には、隠そうともしない不快感が滲んでいた。
桐島は、その冷たい空気にひるむことなく、丁寧に口上を述べた後、用意してきた企画書を示しながら懇話会の意義を説いた。

そして、バーナムの懸念を先回りするように、具体的な運営案を提示した。
「ミスター・バーナム、懇話会開催にあたり、万博全体の運営にご迷惑をおかけすることはございません。
提案の一つとして、鳳凰殿は日中、他のパビリオンと同様に一般の来場者の方々にも公開いたします。その上で、特定の限られた時間帯、あるいは日本館に隣接する小さな別棟の会議室などを利用し、選ばれたゲストの方々に向けてのみ懇話会を開催するという、いわば並行開催の形ではいかがでしょうか」

しかし、バーナムの反応は冷ややかだった。
「来場者の流れが複雑になり、混乱を招くだけだ。それに、結局は『特定の者だけへの特権』であることに変わりはない」

桐島は、唇を噛み締めたが、すぐに次の案を提示した。
「では、提案の二つ目として、万博の公式な運営時間が終了した後の、閉館後の夜間に懇話会を開催するというのはいかがでしょう。日中の一般公開とは完全に分離し、万博全体の運営に支障をきたすこともございません。記者の方々や外交官など、夜の会合にも参加しやすい層をターゲットとすることで…」

「それも却下だ」 バーナムは、桐島の言葉を遮った。
「夜間の警備体制、照明、スタッフの追加動員…運営負担とコストが増すばかりだ」
彼の言葉は短く、そして断崖のように険しい響きを持っていた。 この日の交渉は、桐島の提案がことごとく打ち砕かれる形で、わずか20分ほどで終わった。

◇10‐3【三度目の挑戦、最後のカード】

数日後、桐島は、みたびバーナムの執務室の前に立っていた。
前回の交渉で彼の強固な拒絶に直面し、一時は膝が折れそうになるほどの失意に沈んだものの、彼女の胸にはまだ諦めという言葉はなかった。 これが最後の切り札となるであろう提案を手に、彼女は固くドアをノックした。

バーナムは、またしても現れた桐島に、露骨に眉をひそめたが、今回は意外にもすぐに面会を許可した。
「ミズ・キリシマ、何度来ても、私の決定は変わらんよ」
先手を打つようにバーナムが言う。
「承知しております」
桐島は、静かに、しかし毅然として応えた。

「本日は、懇話会のことではございません。ミスター・バーナム、あなた様のご慧眼と、このシカゴ万博全体の成功を願うお心に、
一つ、より大きな視点からのご提案をさせていただきたく参りました」
そして彼女は、これが最後の賭けであることを胸に秘め、「ジャパン・ディ(Japan Day)の開催」という、これまでの懇話会とは比較にならないほど大規模な構想を打ち明けた。

この「ジャパン・デイ」提案は、あくまで本命の「鳳凰殿特別懇話会」実現への布石であり、バーナムが好みそうな大きな話で彼の関心を引き、その議論の中で懇話会を小さな譲歩として認めさせようという、彼女の捨て身の交渉術だった。

「私どもが構想しておりますのは、日本の伝統的な祭りの行列が万博会場を練り歩き、特設舞台では一日中、選りすぐりの日本の芸能が披露され、鳳凰殿では特別な茶会や美術工芸の展示が行われる。まさにシカゴが日本の色に染まり、世界中から万博へ、そして日本へと熱い視線が注がれるような、そんな祝祭の日でございます」

だが、バーナムは、その提案を聞き終えると、眉一つ動かさなかった。
それどころか、その鋭い目に、冷ややかな嘲りにも似た光が宿ったように見えた。

「ジャパン・デイ? ミス・キリシマ、万博のバランスを考えろ。 今の日本館の準備状況と財政で、そんな大規模な夢物語は論外だ」

その返答は、即座で、そして氷のように冷たく断定的だった。 桐島が用意した最後の策もまた、バーナムの揺るぎない合理性の前に、音を立てて砕け散ったのだ。

◇10‐4【読み切られた策謀、砕け散る望み】

(よし、ここまでは計算通り…)
桐島文子は、内心で短く息を吐いた。ジャパン・デイの拒絶は、桐島文子にとって計算の内だった。
表情筋を強張らせ、ショックを受けた演技をしながらも、彼女は冷静に本命のカードを切る。

「ミスター・バーナム、あなた様のおっしゃることは承知いたしました。『ジャパン・デイ』が無理なのは致し方ございません。しかし、それならば、せめてあの小規模な『鳳凰殿特別懇話会』だけでも、もう一度ご検討いただけないでしょうか。あれならば、限られた方々をご招待するのみ。公平性を損なわず、予算も最小限、日本の文化の真髄を静かにお伝えできる、ささやかな機会でございます…どうか…」

彼女は、声を震わせ必死に懇願した。大野健吾もまた、呼吸を忘れてそのやり取りを見守っている。
だが、バーナムは微動だにしない。その鋭い目が桐島の計算をレントゲンのように見透かす。
「ミス・キリシマ」 彼の声は低く、鉄の扉が閉まるような響きだった。
「君の交渉術には感心するが、私の答えは変わらない。 懇話会であれ何であれ、日本館の特別扱いは一切許可しない」
その言葉は、桐島の最後の望みを根こそぎ刈り取った。 計算も懇願も、この鉄の男には通じなかった。

◇10‐5【砕け散る理想、バーナムの最終通告】

彼女の脳裏に、一瞬、京都駅で見送ってくれた中村会長の顔が浮かび、そして滲んで消えた。

バーナムは、そこで初めて椅子から立ち上がり、窓辺に立つと、建設が進むジャクソン公園を見下ろしながら、静かに、しかし最終通告とも言える言葉を口にした。その声は冷静だったが、拒絶の意思は岩のように動かなかった。

「ミス・キリシマ、君の日本文化への情熱は理解できなくもない。だが、私の使命は、このシカゴ万国博覧会を、予定通りに、そして全ての参加国にとって公平かつ円滑に成功させることだ」

彼は、ゆっくりと桐島に向き直った。その瞳は、まるで磨き上げられた鋼のように冷たく光る。
「君の言う『鳳凰殿特別懇話会』は、その理念に照らして必要ない。日本館の展示は、他のパビリオンと同様に、万人に開かれるべきだ。 特定の選ばれた者だけが特別な体験をする場など、この万博には不要だ。そして全ての展示は、公平な条件の下でその価値を競い、自らの力で大衆の注目を勝ち取るべきだ」

「しかし、それでは日本の文化の真髄が、その奥深さが…」
桐島の声が、枯れ葉のように震える。

「私は日本館だけを特別扱いすることはできない。これはこの万博全体の秩序の問題なのだ。もし日本館が、特別な配慮など一切なしに、圧倒的な注目を集め、万博全体の利益に繋がると明確に判断できる状況が生まれたならば、その時は、君の言う『特別な伝え方』についても、改めて検討する余地がないとは言わない」

「しかし、今の段階で、君の理想論だけで前例を作るわけにはいかん。 君の考えは、いち担当者の理想としては理解できる。だが――」

バーナムの唇が、最後の言葉を紡ぐ。 その瞬間、桐島文子の耳から、全ての音が消えた。重厚な置き時計の音も、窓の外の喧騒も、隣に立つ大野の息遣いさえも。 世界が、無音のスローモーション映像と化す。彼の唇だけが、残酷なまでにゆっくりと動き、最後の宣告を形作るのを、彼女はただ見つめていた。

「――ここは君の理想を実現する場ではない」

バーナムの言葉は、冷徹な宣告として、音のない世界に突き刺さった。
(……ああ、窓の外の星条旗が、やけにゆっくりと…風に、はためいている…)
精神的な衝撃が極限に達した時、人の感覚は麻痺するという。桐島の意識は、目の前の現実から逃れるように、部屋の些細なディテールへと飛んだ。 彼の目には、もはや交渉の余地はないという、冷ややかな断絶が映し出されていた。

桐島文子の「鳳凰殿特別懇話会」構想は、今、バーナムによって完全に否定された。彼女の理想は、音もなく、粉々に砕け散った。 桐島はただ、深く、そして静かに一礼すると、唇を血が滲むほど固く噛み締め、大野と共に、足を引きずるようにしてバーナムの執務室を後にするしかなかった。

重厚な扉が、まるでギロチンの刃が落ちるかのような、無情な音を立てて閉まった。
白亜の管理棟の、どこまでも続くかのように長く、そして墓地のように静まり返った大理石の廊下を、桐島文子と大野健吾は、一言も交わさずに歩いていた。 コツ、コツ、と二人の足音だけが、乾いた音を立てて反響する。
窓の外からは、他の華やかなパビリオンから漏れ聞こえてくる楽しげなマーチングバンドの音楽や、人々の陽気な歓声が、いかに無慈悲に、そして残酷に二人の鼓膜を打つことか。

大野は、隣を歩く桐島の横顔を、直視できずに盗み見た。
あれほど情熱と論理を尽くした提案が、完璧に、そして冷徹に打ち砕かれたのだ。 彼女の肩は、心なしか小さく見え、その表情からは、先ほどまでの輝きが完全に消え失せている。
彼女の心の中で、何かが音を立てて死んでいくのが、隣にいるだけで肌に伝わってくるようだった。敗北の味とは、これほどまでに苦く、そして喉を焼くものなのか。

◇10‐6【絶望の報告、京都の魂はどこへ】

日本館の建設事務所に戻った桐島の顔からは、全ての血の気が失せ、まるで死人のように白く冷たかった。
集まっていた久留正道をはじめとする日本の職人たち、そして運営スタッフを前に、彼女は糸のように細い、しかし努めて平静を装った声で、バーナム総監督との交渉の完全な失敗と「鳳凰殿特別懇話会」開催が不可能となったことを報告した。

一瞬の空白の後、久留が吐き捨てるように言った。
「…だから言っただろう。お嬢さんのような甘い考えが、あの鉄の男に通じるわけがないのだ」
その言葉は冷たく、容赦なく桐島の傷ついた心にさらに追い打ちをかけた。 職人たちの間にも、重苦しい沈黙が澱(おり)のように沈殿する。
「あの懇話会とやらが駄目になり、プレオープンにも出遅れた。我々のこの仕事の真髄を、一体どうやって伝えられるというのだ…?」
「これだけの心血を注いで鳳凰殿を建てても、ただの物珍しい東洋の建物として見られて終わるのでは、あまりにも…やるせないではないか…」

そんな嘆きとも諦めともつかぬ声が、あちこちから漏れ聞こえてきた。
それは、シカゴの地で孤軍奮闘してきた彼らの、悲痛な唸り声にも似ていた。
大野健吾が、「桐島さん、まだ何か別の手立てがあるかもしれません。諦めるのは早すぎます。まだ万博は始まってもいない。私にできることがあれば何なりと…」と必死に励まそうとするが、桐島の虚ろな瞳には、その言葉は届いていないようだった。

「…もう、終わったのよ……」
彼女は、窓の外に広がる、建設途上の鳳凰殿を、焦点の合わない目で見つめながら呟いた。あれほどまでに情熱を傾け、実現を信じて疑わなかった「鳳凰殿特別懇話会」という夢は、無残にも打ち砕かれた。

それは、単なるいち企画の失敗ではない。幼き日のフィラデルフィア万博で刻まれた悔しさ、そして京都で出会った職人たちの魂の輝きを世界に届けたいという、彼女の長年の強い使命感そのものが否定されたに等しかった。
頼みの綱であった「建築記録」の記事もあれから何の音沙汰もなく、日本の広報戦略は完全に手遅れとなり、打つ手はもう何一つ残されていない。 中村会長をはじめとする京都の人々の大きな期待を裏切り、異郷で孤軍奮闘する仲間たちの信頼にも応えられなかったという自責の念が、鉛のように重く彼女の胃の腑にのしかかり、指先から感覚を奪っていく。

◇10‐7【砕かれた翼と一杯の静寂】

「……少し、風に当たってきます」

桐島は、誰の顔も見ることなく、そう言って事務所を後にした。彼女は、あてもなく、夕暮れの喧騒に包まれ始めた万博会場を、まるで影のようにさまよい歩いた。 壮麗なフランス館、巨大なドイツ館、エキゾチックなオスマン帝国館。 そのどれもが、自らの成功を誇示するように輝いて見える。それに引き換え、自分たちの鳳凰殿は……。いや、もう考えることさえ、肺が痛かった。

(私の力が、足りなかったから……。私の言葉が、届かなかったから……)

彼女の武器は「言葉」だったはずだ。 だが、その武器は、鉄の男の前ではあまりにも脆く、折れてしまった。
いつの間にか、彼女の足は、賑やかなメインストリートから外れ、比較的人通りの少ない、新聞社や通信社が仮設のオフィスを構える一角へと迷い込んでいた。

その一際大きなオフィスの一つから、激しい口論の声が漏れ聞こえてきたのは、その時だった。
「――納得できません!この記事は、私の署名で出すものです!あなたのゴシップの道具ではない!」 それは、フランス語だった。そして、桐島には聞き覚えのある、凛とした声。 (ジュリエットさん……?) 桐島は、思わず足を止め、建物の影に身を潜めた。

オフィスの窓から、室内の光景が伺えた。デスクに座る、恰幅のいい男性――おそらくシカゴ支局の編集長だろう――に対し、ジュリエット・ロシュフォールが、激しい剣幕で詰め寄っていた。 彼女の手には、赤インクで無残に修正された原稿が握られている。

「何を言うか、ジュリエット君。君の書いた記事は、高尚すぎて大衆受けせんのだよ。 誰も、日本の木箱の建築哲学なんぞに興味はない!人々が読みたいのは、エキゾチックな舞姫たちの、扇情的なスキャンダルだ!」
「低俗です!ジャーナリズムへの冒涜よ!」
「ジャーナリズム?ハッ、それが金になるのかね? いいか、これはビジネスだ。 君の美術史の講義を発表する場ではない。この記事は、私が書き直させた通りに掲載する。嫌なら、フィガロ紙との契約を、今この場で打ち切ってもいいのだぞ!」
編集長は、葉巻の煙を、ジュリエットの顔に吐きかけるようにして言い放った。 それは、議論の余地のない、絶対的な権力者からの通告だった。

「……っ!」
ジュリエットの肩が、微かに震えた。 彼女は、何かを言い返そうと唇を開きかけたが、言葉にならなかった。

代わりに、その大きな瞳から、一筋、透明な雫が頬を伝うのが、桐島にもはっきりと見えた。
キャリアの危機、そして何よりも、自らの矜持を踏みにじられた痛み。
彼女は、固く握りしめた拳が白くなるのも構わず、ただその場に立ち尽くすしかなかった。

やがて、ジュリエットは、無言でオフィスを飛び出した。桐島は、咄嗟に柱の影に隠れる。
ジュリエットは、周囲に誰がいるかなど、もはや気にも留めていなかった。 彼女は、近くのベンチまでふらふらと歩くと、そこに崩れるように座り込み、ついに両手で顔を覆った。
その華奢な肩が、声を押し殺すように、小さく、何度も震えていた。
いつも自信に満ち溢れ、完璧な理論武装で桐島の前に立ちはだかった、あの誇り高いフランス人記者の、初めて見る、あまりにも無防備な姿。

桐島は、その光景から、目を離すことができなかった。
(……彼女も、戦っていた。そして、敗れたんだわ……)
国も、文化も、信じる美学も違う。だが、今この瞬間、二人は驚くほど似ていた。 自らの信じる価値を、理想を、巨大な権力を持つ男に、冷徹な論理で、あるいは剥き出しの力で、完膚なきまでに打ち砕かれた。 その傷の深さを、今の桐島は、自分の痛みとして感じることができた。

桐島は、何も言わずにその場を静かに立ち去った。
しかし、数分後。彼女は、一つの盆を手に、ゆっくりとジュリエットの元へと戻ってきた。
盆の上に乗っていたのは、コーヒーカップではなかった。
日本の、素朴で、しかし温かみのある湯呑が一つ。
そこからは、ほのかに青々しい香りと共に、柔らかな湯気が立ち上っていた。

ベンチの隣に、人の気配を感じ、ジュリエットは、はっと顔を上げた。濡れたその瞳が、驚きに見開かれる。 そこに立っていたのは、彼女が最も見られたくない相手――桐島文子だった。
「……何のつもり?」
ジュリエットは、慌てて目元を拭い、棘のある声で言った。
「憐れみのつもりなら、お断りだわ。あなたに同情される筋合いはない」

桐島は、何も答えなかった。 ただ、静かにジュリエットの隣に腰を下ろすと、盆の上の湯呑を、そっと彼女の前に差し出した。
「……コーヒーよりも、今のあなたには、こちらの方が良いかと思いまして」
それは、抹茶だった。日本館で、ささやかながらもてなしのために用意されていた、貴重な一杯。
ジュリエットは、戸惑いながらも、差し出された湯呑を、思わず受け取っていた。
湯呑の温かさが、凍えた指先にじんわりと染みてくる。

「あなたの葛藤、私にはよく分かります」
桐島は、夕闇に染まり始めたシカゴの空を見上げながら、静かに、そして自分自身に言い聞かせるように言った。
「私も、ほんの少し前に、あなたと同じように負けたばかりですから。私の言葉も理想も、ここでは何一つ通用しなかった。…自分の無力さが、骨身に沁みています」

その言葉に、ジュリエットは息をのんだ。彼女の言葉には、嘘も憐れみもなかった。
ただ、同じ傷を持つ者だけが共有できる、静かな共振が、そこにはあった。 ジュリエットは、しばらく黙って、手の中の湯呑を見つめていた。 やがて、意を決したように、その緑色の液体を、そっと口に含んだ。
初めて感じる、ほろ苦い味。しかし、その苦さの後から深い静かな甘みがゆっくりと心の中に広がっていく。
それは、彼女が知るどんな飲み物とも違っていた。ただ興奮させるのでもなく、ただ喉を潤すのでもない。
荒れ狂う感情の波を、凪いだ水面のように、穏やかに鎮めてくれる、不思議な力があった。

「……ありがとう」
ぽつりと、ジュリエットの唇から、言葉が漏れた。
それは、もはやライバルに対してではなく、同じ暗闇の中で出会った、一人の同志へ向けられた、偽りのない言葉だった。

二人の間に、それ以上、言葉はなかった。 ただ、夕闇が白亜の都を包み込んでいくのを、言葉も国籍も文化も超えて、同じ痛みと、そして同じ一杯の温もりを分かち合いながら、静かに見つめているだけだった。
砕かれた二つの翼が、暗い底で、ほんの少しだけ、寄り添った瞬間だった。