無能令嬢と祓い屋当主の契約結婚~契約で結ばれたわたしたちが、本当の夫婦になるまで~


 ふたりの姿は、鳳凰寺家の庭園にあった。
 日が暮れており、月が昇っている。それでも、庭には淡黄色の光を放つ石灯籠がいくつもあり、夜の屋外でも歩く分には困らなかった。
 斎が先に立って歩き、灰音はその後に続いた。

(いったい、どちらへ向かわれるのかしら……?)

 二月の夜だ。肌寒いが、庭園に出る際に渡された毛織物のショールがあるので、まだ平気だった。
 そうして少し歩くと、目の前に大きな池が現れた。庭園用に造られた、形の良い岩で縁取られた池だ。水面は夜なので暗く、静けさに包まれている。池の中央に掛かる朱色の太鼓橋には、(あん)(どん)が複数置かれており、辺りを一層明るく照らしていた。
 斎は太鼓橋を進む。

「こっちだ」
「あの、斎さま……。ここは……?」
「池だ」
「…………」

 それはそうだろう。
 灰音も太鼓橋に足を踏み入れる。
 橋の中央まできたとき、斎は足を止めた。

「ここから見てくれ」
「……? なにを、ですか……?」

 斎が水面を指差して、灰音はそれを見ようとした。水面は黒いままだったが、なにかが動いた気がして、灰音は目を凝らす。
 その時だった。

 ザパァン! ――大きな水音とともに、池から大きな魚が飛び出してきたのだ。

「きゃあっ!?」

 盛大な水しぶきが上がった。魚は太鼓橋の上を飛び越すと、再び水中へと戻った。
 ジャバジャバと水音を立てながら魚が潜ってしまうと、辺りは再び静けさに包まれる。
 灰音はいつの間にか停めていた息を吐くと、言った。

「……び、びっくりしました……。お魚、でしたか。でも、大きかったですね。赤かったので、鯉でしょうか?」
「…………」
「斎さま?」
「……やはり、そうか……」

 水面を見ていた斎が、こちらを向いた。彼の瞳は()(がね)(いろ)をして、まっすぐ灰音を見つめている。その瞳を見ていると、なんだか目をそらしたいような――でももっと見ていたいような――そんな気持ちになった。
 灰音の手が、そっと取られる。その温かさに、指先が冷えていたことを思い出した。
 月明かりと行灯に照らされた彼の姿が、今一度はっきりと目に映る。艶やかな黒髪、凜とした眉、すっと通った鼻筋――それらを携えた眉目秀麗な彼の、形の良い唇が言葉を紡ぐ。

「やはり、思った通りだ。使()()()。――お前、俺の〝目〟となれ」
「えっ……?」
「お前の異能の話だ」
「なにを……仰って……」

 灰音は言葉に詰まって、彼の顔を見上げた。

 ――彼がなにを言っているのか、わからない。だってわたしは無能で、なんの力もないはずだ。能力なんて、ひとつもない。だからきっと彼はなにか勘違いをしているはず……。
 周りは静けさに包まれていて、灰音の言葉を待っているかのようだった。
 ああ、早く何か答えなければ――。
 そう思いながらも声に出せずにいたので、次に彼が発した言葉にはもっと驚いた。

「ただでとは言わない。――結婚するか」
「え……っ?」
「そうだな。これは……契約結婚だ。そうすれば、お前を救ってやる」

 なにがなんだか、わからない。
 ただ、彼の瞳がまっすぐに灰音を貫いて、決して冗談なんかではないことを物語っていた。

「今、なんて……」
「俺はお前をそばに置きたい。だが年頃の令嬢をもらい受けるには、これしか思いつかない」
「……どう、して……」

 灰音が尋ねると、斎は少し逡巡したあと、握っていた手をそっと離した。

「実は――俺は妖怪の姿がはっきりと見えないんだ」
「……え……?」

 思ってもみなかった告白に、灰音は目をしばたたく。
 斎は、内緒にしてほしいと念を押してから、話し出した。

「祓い屋としての条件は、妖怪を見て、祓う能力があることだ。だが俺は……妖怪の姿がぼんやりとしか見えない。だから、いつも広範囲を焼き払うことで誤魔化してきた。だけど、今日――お前といたがしゃどくろを見て驚いた。初めてあんなにもはっきりと妖怪の姿を見ることが出来たんだ。だから俺はもう一度確かめたくなって、ここへ来た。……さっきの鯉は妖怪だ。今まで俺は、奴のことを黒いぼんやりとした影としか認識することが出来なかった。だが、今は赤い魚の姿で見ることが出来る……」

 そう言って彼は、水面を覗いた。先ほどの鯉がまた少し跳ねて、斎は少し嬉しそうな顔をした。

(知らなかった……)

 灰音は、彼のこれまでの生活に思いを馳せる。

 鳳凰寺家と言えば、祓い屋御三家筆頭格であり、その当主である斎は高い能力をもっていると聞いていた。他家では敵わないような強い妖怪をも、たくさん祓ってきたはずだ。そんな彼が――ターゲットの姿がぼんやりとしか見えなかったなんて、相当の苦労があったはずだ……。

 斎は、再び灰音の顔を見て言った。

「お前はおそらく、他人に妖怪を見せることが出来る異能なんじゃないか?」

 ……言われてみれば、思い当たる節がないでもない。甘露桜家の使用人たちが、蔵の妖怪の声を聞けること。それに、学生時代に女学院でも同じようなことがあった。だが、『妖怪の姿が見えることが当たり前』の祓い屋の世界では、気づかなかったのだ。

 ――普通の祓い屋の前ではなんの役にも立たない、無能だったわたし。だけど。

「もし、そうだとしたら、……わたしはあなたのお役に立てるかもしれないのですか……?」
「そうだ」

 彼は真剣な顔で頷いた。

(本当に……?)

 灰音は、自分の両手を見た。
 なにもかもがすり抜けていくと思っていた、わたしの両手。

「……っ」

(初めて――わたしは誰かの役に、立つことが出来るんだ)

 灰音の目には、みるみる涙のしずくがたまる。

「わたし、そのお話、お受けします……っ」

 涙があふれて、どうにも止められなかった。
 斎が困ったような表情を浮かべ、ぎこちなく灰音の体を引き寄せる。彼の胸に抱き寄せられ、その胸に涙の染みを作ってしまう。それでも、優しく背をぽんぽんと叩いてくれる温かな手が、このままでいいのだと教えてくれていた。