無能令嬢と祓い屋当主の契約結婚~契約で結ばれたわたしたちが、本当の夫婦になるまで~


 それから、二週間が過ぎた。
 あれからもう一度妖怪祓いの仕事が入ったが、灰音を気遣って斎はひとりで向かった。
 灰音には体調が悪い自覚もない。体などに目に見える違和感もなく、寿々も毎日診察していたが、原因は判明しなかった。
 そして、今日。灰音はとうとう、斎の仕事に同行していた。

(もしかしたら、わたしの気のせいで――異能は使えるままかもしれないし……。寿々ちゃんの言うとおり、新しい使用人の方たちが、適性がないだけかもしれないし……。それに、もう、これ以上嘘の体調不良で誤魔化すわけには……)

 斎と共に山道を歩きながら、灰音の思考はぐるぐると回る。
 今日は山の中のとある湖に向かっている。湖の水が沼に変わってしまったので、調査したところ妖怪の仕業だというのだ。山と言っても街に比較的近い場所にあり、十分もしないうちに目的地に着くようだ。
 先を歩いていた斎が、振り返って言った。

「この近くに、流行(はやり)の喫茶店がある。帰りに寄って帰るか?」
「……はい。ありがとうございます」
「どうした。顔色が悪いが。……やはりまだ体調が優れないのか?」
「いえ。久しぶりに外に出たもので、……体力がないだけです」

 この後のことなど、全く考えられない。今は、妖怪祓いのことで頭がいっぱいだった。
 そっと胸に手をやる。懐には、以前斎にもらったレースのリボンをしまっていた。

(これをいただいた日は、ただただ、嬉しかった)

 なんの心配もなかった、幸せな日の象徴。
 これを髪に着けることは、今の灰音にはためらわれた。

(それでも、持っていたいのは、どうして……)

 頭はぐるぐるし、手は汗で湿り、背中には運動量以上の汗が滑り落ちる。

 斎はそんな灰音を見て、歩くペースを落とした。

「道に迷うことでも心配しているのか? 今日は迷わない。以前も行ったことがある場所だからな」

 灰音の暗い表情を見て、斎は少し明るい声で言って、前方の木を指差した。

「ほら、あの白樺が目印だ。もうすぐ着くぞ」
「はい……」

 彼の言ったとおり、灰音たちは迷わず目的地の湖まで辿り着いた。湖というには、泥まみれで、確かに沼である。

「この湖は何度も妖怪が棲み着いてしまう。上流に寺があるから、その影響だろう」
「…………」

 相づちを打とうと思ったが、喉が詰まった感じがして声が出せず、灰音は頷いた。
 心臓が、いつもよりドキドキと速く鳴る。
 呼吸を整えたいが、余計に浅い呼吸になり、小さく息を吸うことを繰り返した。
 妖怪の姿は、まだ、ない。
 だけど……。

 斎が、いつものように陣を描く。その手には、先日灰音が贈った万年筆が握られていた。

(斎さま……。使ってくださってるんですね……)

 異能を失ったかもだなんて微塵も考えていなかった頃に買った、万年筆。クイナさまじゃなくて、わたしが彼の隣に立っていても良いんだと許されたことが嬉しくて、贈った、万年筆。それを見るのが、今、こんなにも心苦しい……。

 いつもの、木蓮の香りがして――平常心を保つのに一杯一杯だ。
 この匂いがしたら、(じき)に……。

(どうしよう。もう……。…………)

 斎は陣を描き終わり、周囲を警戒している。

「さて、どのくらいで現れるかな」
「…………」

 妖怪が現れるのを待つ間、時間の進みが永遠のように感じられた。灰音の足は沼の泥に嵌まったかのように動けない。

(このまま、現れなければ、いいのに)

 そうすれば、このまま曖昧にしておける。

 そんな思いは虚しく、妖怪は現れた。それは大蛇だった。沼の底から浮かび上がってきたそれは、三メートルほどの大蛇であった。体から妖気とともに黒い霧を放ち、その異様さは普通の蛇と一線を画す。
 大蛇が口を開けると、紫色の液体がボトボトと沼に落ちた。

「……っ!」

 灰音はごくりと唾を飲み込んで、斎を見た。
 彼は――まだ抜刀していなかった。

(やっぱり……! 見えて、ないんだわ……! なんとか、なんとかしなくちゃ……!)

 ――そうだ、以前、分かれ道を見つけられなかった時――近づいたら彼にも見えたことがあったじゃないか!

 灰音は泥に取られたかのような重い足を動かして、斎に近づいた。

「あのっ……!」
「どうした? 悪寒がする。もうじき現れそうだ」
「……っ」

 灰音は斎の目の前で、ハアハアと荒い呼吸をした。

(どうしよう。どうしよう。どうしたら)

 ぐっと唾を飲み込んで、灰音は斎の腕を取り、彼の腕を大蛇の方へ向けた。

「……っ! あそこです! 大蛇が、沼の中に……!」
「来たか。……ん? あれは……。……黒い、影……?」
「ひっ……!」

 想像通りで、小さく悲鳴が出た。
 彼は最初――灰音に会うまで、妖怪のことが黒い影のように見えると言っていたのだ。

(やっぱり……)

 灰音は、よろりと斎から離れた。
 斎は抜刀し、いつものように刀に炎を纏わせた。

「灰音。危ないから下がっていろ。――(つつし)んで(たてまつ)る。(あま)(ほむら)よ、我が(やいば)に宿りて(けが)れを焼き祓い(たま)え。――『(えん)()ぎ』!」

 彼が刀を振ると、勢いよく炎の渦が飛び出していく。炎は真っ直ぐ妖怪に向かい、そして――避けられた。当たらなかったのだ。

(わたしが、わたしが、斎さまの〝目〟になれていないから……っ)

 大蛇は攻撃を受けて、斎を敵と認識したようで、沼から上がると牙をむいて襲ってくる。
 それを斎はギリギリのところで躱した。

 灰音には、大蛇の姿が見える。
 しかし斎は、途中で大蛇の影すら見失ったようで、全く違うところを攻撃していた。
 その様子が、灰音の胸を締め付ける。

 斎はしばらく格闘し、何度かの攻防の後、ようやく大蛇を切り裂いた。
 大蛇の姿は、炎で包み込まれる。

 そして、周囲は辺り一帯が焼け焦げていた。木々は燃え、泥の上は焦げている。何度も炎を放ち、大蛇が何度も躱したからだった。
以前の彼の言葉が思い出される。
 
 ――「俺は……妖怪の姿がぼんやりとしか見えない。だから、いつも広範囲を焼き払うことで誤魔化してきた」
 ――「森の中だし、無闇に炎を使いたくない。だから周囲を焼き払うのではなく、ピンポイントに当てたい」……。

 今の惨状は、彼が避けたかったはずのものだった。
 
 斎は刀をしまうと、灰音に近づいた。

「灰音、お前……能力はどうした……?」
「あ……。あの……。す、すみません。わたし……」
「まさか、使えないのか……?」

 斎の目が、険しくなったように見えて。
 灰音は浅い呼吸を繰り返した。
 

 こうなるかもしれないと、わかっていたのに。
 今日ついてきたのは、わたしの意思だ。
 これ以上嘘を重ねることも出来ず、異能が使えないのは気のせいかもしれないと思い込もうとして、そして、本当に使えなかった。
 そしてそれを、彼に知られてしまった。

「すみません。わたし、黙っていて……。すみません、すみません……」
「灰音」
「わ、わたし、すみません」

 気がつくと、走り出していた。――いや、逃げ出したのだ。

 灰音はその場から離れて、来た道を戻っていった。

「灰音!」

 遠くから、彼の声が聞こえる。
 だけど、追ってくる足音はない。

 ――ああ、使えないわたしは、離縁されるだろう。だけど、だけど、聞きたくない。

 灰音は転がるように山を下りていった。





「ハア、ハア、ハア」

 足がもつれそうで、だけどそのまま走った。
 前方の木立に切れ目が見え、道に出るというところで――。

 ガン! と横から殴られて、灰音は地面に転がった。腕が地面を擦れる。

「うっ……。な、なに……?」

 腕も痛むが、なにより頭だ。衝撃を受けたこめかみを抑えながら、頭を上げようとする。――と、その頭が上から踏みつけられた。

「!?」

 土を口に含んでしまい、咳き込みながら吐き出す。しかし、ぐりぐりと地面にねじ込まれ、わけもわからないまま土を吐き続けることしか出来ない。
 そうしていると今度は腹を蹴られ、灰音は腹痛と共に土から解放された。

「がはっ……。ハア、ハア……」

(一体なに……!?)

 薄目を開けた灰音を待っていたのは、聞き慣れた高い声。

「こんにちはぁ。お姉さまぁ。相変わらずどんくさいわねぇ。少しは気配でわかんないものなのぉ?」
「も、みじ……!?」

 そこにいたのは、妹の紅葉の姿だった。

「どうして……っ。なにするの……っ」
「うっふふふふふ! いいじゃない、たまには。いつもしてたでしょう、私たち。お姉さまがいなくなって、私寂しくってストレスで死んじゃいそうだったわぁ」

 彼女は笑みを浮かべて、髪を指先でいじった。

(た、助けを呼ばないと……!)

 灰音は体を起こすと、懐から寿々を呼び出す御札を取り出した。
 そして、

「ダメよ」
「!」

 寿々の御札は、いつの間にか紅葉の手にあった。

「なっ……!?」

 代わりに灰音の手には、紅葉の髪の毛が数本。
 小さく悲鳴をあげて、灰音はそれを手放した。

(持ち物が、入れ替わった……!?)

 青い顔で、紅葉を見る。
 彼女は両手で御札を持って、灰音に見せていた。御札の上部を、両方の指でつまむ。

「待って、紅葉!」
「うふ! こぉんなの使っちゃダメよぉ。ね?」

 そして紅葉は、御札をビリビリと破ってしまった。

「ああぁっ!」
「うっふふふふふ!」

 紅葉の笑い声が響く。
 寿々を呼び出す御札を、破られてしまった……!

「あら? もう手は終わり? 情けないのねぇ」

 紅葉は、懐から手鏡を取り出した。
 途端、灰音の体が痺れる。透明な紐で体を縛られたかのようだ。

「それにしても、鏡月院の呪具はすごいわねぇ。こーんな簡単にいっちゃうなんて。さて、と。じゃあ行きましょうか」
「鏡月院、って……」

 クイナの顔を思い出しながら、灰音は荒い呼吸をした。
 紅葉はこちらに向かって歩き、口をとがらせながら続ける。

「あっちこっちで迷惑をかけているお姉さまが悪いのよぉ? 反省なさって? ああ、今からしにいくんだものね、反省。大丈夫よ。ちょーっと、離縁、してもらうだけだから!」
「なにを、言って……っ!?」

 紅葉はしゃがみ込むと、灰音の髪をむんずと掴み、顔を寄せた。

「お姉さまは、実家に帰ってきてもらうわよ。それが皆が幸せになることなの。わかってくれるわよね? うっふふふふふ!」
「紅葉……!」

 バチン! 感電したような衝撃があって、

「ぁ……っ。……っ」

 灰音はドサリと地面に落ちた。

(なにをされたの……?)

 薄目を開けると、紅葉の手から、金属の棒がのぞいている。

「やーん。これもすごぉい! クイナさま様様♪ じゃ、行きましょ♪ お・姉・さ・ま♪」
「…………」

 薄れゆく意識の中で、灰音は妹の満面の笑みを見たのだった。