日が差して、雨上がりの空が晴れた。
結婚式を挙げてから、二ヶ月と少しが経った。季節は六月にはいり、自室の窓からはアジサイの花が見える。春の時は紅梅にばかり目が行っていたが、花が咲けばそこにあったことに気がつくものね、と灰音は思う。
寿々がやってきて、ひょこと灰音の顔をのぞき込んだ。
「ぼーっとしていてもいいのかや? 遅刻してしまうぞ?」
「あ、そうでした……。早く行かないと」
「今日のお稽古はなんなのじゃ? 作法か? 茶か? 楽器か?」
「祓い舞です」
出かける用意の途中で手を止めていたことを思い出し、灰音は再び荷物を用意した。着物で舞うのはまだ動きづらいため、浴衣。汚れても良い足袋などの小物。それから、斎に買ってもらった舞扇だ。
「踊れるようになったのかや?」
「うーん……。少しだけ、です」
「『全然出来ん~』と泣いていた頃よりマシじゃのぅ!」
寿々はそう言って笑った。彼女はすっかり懐いてくれたようで、灰音の自室にいることがほとんどだ。家人は怪我をしてくることもないので治療の出番もなく、戦闘には付き添わないので、寿々はもっぱら屋敷で遊んでいるだけだ。それでも、今まで弟妹と仲が悪く友人もいなかった灰音にとって、良い話し相手になっていた。
鳳凰寺家に来て以来、徐々にいろんな稽古が増えてきた。中でも祓い舞は十年のブランクがある分、習得に苦戦している。
用意が出来た灰音は、立ち上がった。
「行ってきます」
「頑張るのじゃー!」
手を振ると、手を振り返してくれる人がいる。――妖怪だけど。それだけでも励みになって、灰音は心が軽い思いで、練習場へと向かった。
車で移動すること、三十分。
祓い舞の講師は、祓い屋中級位・五十鈴川家の五十鈴川房子という四十代の女性だった。快活な人柄と気品とを併せたような人で、初心者同然の灰音にも一から教えてくれている。
舞の練習は、五十鈴川家で行っているのだ。
広い板張りの広間で、房子は灰音を迎えた。
「あぁ灰音さま! いらっしゃい。待ってたよ」
「こんにちは、房子先生。本日もよろしくお願いします」
房子は、近づいてきた灰音の肩を叩くと言った。
「さっそくだけど、〝鎮妖大祓の五節の舞姫〟は知ってるね? その舞姫だけれど。今年は灰音さまが選ばれたのさ!」
「……え? わたし、ですか……?」
灰音は瞬きを繰り返し、房子の顔を見た。
〝鎮妖大祓〟。それは祓い屋の繁栄を祈り、妖怪を祓い国を守り続けられるようにと祈る祭りで、毎年八月に行われている。その中で行われるのが、〝五節の舞姫〟による舞だ。五家の女性による、祓い舞で妖怪を浄化する様子を模した演舞だ。毎年、祓い舞が上手な女性が選ばれることになっている。
過去に紅葉が選ばれたことがあり、灰音はその舞台を見に行ったことがあった。たくさんの祓い屋が集まる中、揃いの衣装で踊る令嬢たちは美しく、皆の注目を集めていたものだ。
「その……わたしには無理だと思います。そんな大任……。上手くもないですし」
「そういうわけにも行かないのさ。毎年、御三家からは舞姫がでることになっているもんでね。灰音さまはまだ始められたばかりだけれどさ。やっぱり、本家の方がいいんじゃないかってお話になったみたいでね。本部が恒道さまにも伺ったら、ぜひにと言われたそうだ」
恒道さま――斎の父のことだ。
灰音は唾を飲み込むと、彼と会った時のことを思い出す。
――「お前のことは無能と聞いているが、どのくらい無能なのだ? 祓い舞は? 一体なになら出来るんだ!!」
(……どうしよう)
皆の前で演舞するには、まだ拙いだろう。恥をかくかもしれない。だけれど。
(もし、上手く出来たなら……)
――胸を張って、鳳凰寺灰音と名乗れるだろうか。
小さく息を吸い込んで、灰音は頷いた。
「わかりました。あの……頑張りますので。ご指導よろしくお願いします」
「そうこなくちゃ!」
房子は笑って、灰音の背を叩いた。
「あたしが見る限り、筋はいいよ。杵柄もある」
「……そうでしょうか。先生が諦めずに、一から教えてくださったからです」
「ははっ。そうかい。まぁ、そういうことだからさ。今日から、ひとりでの練習じゃなくて、ふたりでやったらどうかと思ってね。ほら、鎮妖大祓は五人で踊るわけだろう? 他の舞手といっしょにひとつの動きをするパートもあるんだよ」
「そうなんですね」
灰音が頷いた時、部屋の奥から声がした。
「ねぇお母さま。もう出て行ってもいいかしら?」
「これから呼ぼうと思ってたのさ。勝手に出てきて、灰音さまに対して失礼じゃないか。……まぁもう出てきたなら仕方ない。おいで」
「こんにちは! 灰音さま」
そう言ってひょっこり現れたのは、ひとりの令嬢だった。ぱっちりした目に口角を上げて、人懐っこそうな笑顔を浮かべている。切りそろえられた髪は美しく、艶があった。
「私、五十鈴川鈴蘭よ。鈴蘭って呼んでね。灰音さまって私と同い年だって聞いたわ。仲良くしましょうね!」
「鈴蘭……さま」
「あらあら。うちは中級位なの。そんな呼ばせ方してたら取り潰されちゃうわ。鈴蘭でいいのよ」
鈴蘭はくすくすと笑った。冗談のようだが、灰音は少し考えて、
「では、鈴蘭さん、でいいでしょうか?」
「もちろんよ! 私、灰音さまとずっとお話ししてみたかったの。だってあの斎さまとご結婚されたんですもの! 彼、ずっと女性には厳しかったから、恋愛結婚するなんて思わなくて」
「……えっと……」
対外的には、恋愛結婚、ということになっているのだ。
灰音は少し恥ずかしくなった。
「こら、鈴蘭」
「あらいけない。後でお話を聞かせてくれる? まずは練習しなくちゃね。私も五節の舞姫に選ばれたのよ。いっしょに頑張りましょうね」
そう言って鈴蘭は笑った。
「あとは麒麟堂家とか鏡月院家とかの方がいらっしゃると思うけれど……さすがに彼女らと基礎練というのはね。顔合わせの日までに、手順だけでも覚えないと。一人用の舞とは少し違うのよ。――こうとか、こうとか、こうとか」
言いながら鈴蘭は、踊りのポーズをしてみせる。その動きは滑らかで、隙がない。
「一人だとこうなんだけど、二人だとここがね。対称の動きになるのよ」
「すごい、ですね」
「私、小さい時からやってるから。でも、五節の舞姫に選ばれるのは初めてなのよ。今まではお姉さまが出てたから」
「そうなんですね」
灰音は頷いた。
五十鈴川家は、房子だけではなく、子どもたちも皆舞が上手らしい。房子の教え方を思えば、当然に思えた。
鈴蘭はにっこり笑って、灰音の手を握った。
「だから私、今年はとっても楽しみなのよ。灰音さまのことはお母さまから聞いてるわ。私も教えるから、絶対成功させましょうね」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
こうして、この日から灰音は鈴蘭とともに、祓い舞の練習をすることになった。



