その日の夜――。
青黒い空に、上弦の月が浮いている。
皇都の一角に、大きな洋館があった。御三家のうちのひとつ、鏡月院家である。
「クイナさま! ……クイナさま!」
「どうしたのです。騒々しい」
息を切らして廊下を走ってきた従者を、主人――鏡月院クイナがたしなめる。今年で十八歳になる彼女は、美しく華やかな雰囲気だ。
部屋の窓は開いており、彼女の濃色をした長い髪がゆるやかなウェーブを描いて揺れている。総刺繍の水色の着物が、夜の窓辺では白く浮いて見えた。
窓辺の椅子でお茶を飲んでいたクイナは、瞳を細めながら言った。
「どんな時でも落ち着いて、優雅に過ごさねばなりませんわ。さぁ、ゆっくり話してご覧なさい」
「恐れながら申し上げます……! 斎さまが……! ……っ。鳳凰寺斎さまが、本日街でご令嬢と歩いておりまして……っ!」
「なんですって……? 斎さまが……?」
クイナは一瞬眉をひそめたが、すぐに元の表情に戻った。
「……そうですか。そういうこともあるでしょう。彼は鳳凰寺一門のトップなのですから、一門の中には女性もおりますわよ」
「ですが……っ!」
従者はガタガタと震え、目を泳がせた。
「……なんですの? もしや、ただの知り合いではないと?」
「で、ですから、旦那さまにお伺いしたのです」
「お父さまに?」
クイナが尋ねると、従者はコクと頷いた。
「斎さまは、その――クイナさまとの婚約を破棄して、その令嬢とご結婚なさるとのことなのです……っ! 鳳凰寺家から婚約破棄の話がきて、旦那さまはそれを了承したと……!」
「はい?」
ガチャン! 湯飲みが床に落ち、中身をこぼした。湯飲みがクイナの足下に転がり、彼女は自分の足が濡れるのも厭わず、それを乱暴に蹴り飛ばした。
ガン! 壁にぶつかった湯飲みは、割れて動きを止めた。
クイナは立ち上がると、従者をにらみつけながら低い声を出した。
「このわたくしが、婚約破棄ですって……? ありえませんわ。うちは鏡月院ですわよ? そんなこと、許されるはずがありませんわ……!」
すぐにクイナは部屋を出ると、父の部屋へと向かった。ノックもせずにドアを開けると、部屋にいた父に向かって言った。
「お父さま? 斎さまの件、本当ですの……?」
「クイナ……。話を聞いたのか。この話を聞いたとき、どのようにお前に伝えようか迷って……伝えるのが遅くなってしまってすまない」
鏡月院家の当主は、ばつの悪そうな顔をした。
父の弱々しい表情を見て、クイナは唇を噛む。
「そうではなくて。どうしてですの? 婚約破棄なんて、到底承諾出来ませんわ。わたくしが斎さまと結婚するのではなかったですの? わたくしは嫌ですわよ。わたくしに適う殿方は、斎さまくらいですもの。麒麟堂は皆、いけすかないですわ」
「残念だが、斎くんは好きな人が出来たんだそうだ。……数日前に斎くん直々に来て、話してくれた。――結婚式も今月挙げるらしい」
「彼に今さら好きな人が……? この美しいわたくしがあんなにお誘いしても、一向に会ってくださらなかったのに……?」
クイナは、親指の爪を噛んだ。歪な形をしていた爪が、さらに歪む。
「クイナが斎くんのことを気に入っているのはわかっている。今、クイナを第二夫人にしてくれるよう交渉しているから」
「わ、わたくしが第二夫人、ですって……?」
歯が欠けそうなほど歯ぎしりして、クイナは父を睨んだ。
「馬鹿にしているんですの……?」
彼女の父は、娘の両肩に手を掛けた。
「クイナ。うちは呪具は豊富だが、昔ほどの勢いはない。結界などの大仕事も、術者の能力ではなく、呪具の力に頼っているところがある。それはお前自身が一番わかっていると思うが……」
「それがなんだというんですの? 呪具をどれだけ使おうが、鏡月院が勤めを果たしていることに変わりありませんわ」
「御三家は、今は鳳凰寺家が主導していて、麒麟堂家がその追随をしている。……お前の兄のために、鏡月院家のこれからのために、理解してくれないか。……本当は、一度、第二夫人も断られたんだ。だが、この父が必ず繋ぐ」
「…………」
クイナが父を睨み、父は再度「わかってくれ」と繰り返した。鳳凰寺家が本妻を決めたならば、鏡月院家は従うしかないと、そう言っているのだ。
父の部屋を出たクイナを、影で見守っていた彼女の従者が支える。
クイナがなにか小さなぼそぼそとした声を出して、従者は彼女を見た。
「……クイナさま?」
「……許せませんわ……」
「クイナさま。今はおつらいでしょうが……」
「わたくしが鳳凰寺家の本妻として、チヤホヤされる予定でしたのに。他の家を蹴散らして、今までずっとわたくしが婚約者でしたのに……。わたくしは鏡月院ですのよ? 許せない……。どこの女か存じませんが、許しませんわ。絶対に……」
夜の廊下で虚空をにらみつけ、クイナは歯ぎしりをした。
* * *
三月末の、晴れた日――。
灰音と斎の結婚式が行われた。
鳳凰寺家が祀る神社――紅蓮鳳凰宮という――で、式は行われた。
斎の両親はともに参列し、やってきた麒麟堂家と鏡月院の当主と次期当主に、なごやかに取り繕った笑顔をしてみせた。
参列客として鳳凰寺一門がずらりと並び、豪華な式であった。
式が終わり、会食になった。斎の元へ彼の両親が行き、なにやら会話をしている。それを灰音は、少し離れた位置から見ていた。
(良かった……。斎さまのご両親も、参列してくださって……)
初対面以来、灰音は斎の両親に会っていなかった。だから、彼らには結婚式を挙げることを反対されたままだと思っていたのだ。
(まだ正式には認めてもらえてないと思うけれど、とにかく斎さまとはお話されていて良かった)
自分のせいで斎が両親と仲違いするのは、胸が痛む。だから、今日は親子が会話している姿が見られてよかった。
やがて慌ただしかった一日が終わり、灰音と斎は自宅へと戻った。
灰音はとうとう、鳳凰寺灰音となったのだ。
ふたりの部屋の前の廊下で、斎が言う。
「では、こらからよろしく頼む」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
鳳凰寺家にやってきて、もう一ヶ月が経つ。実家にいたときに比べて、ずいぶんとよくしてもらっている。使用人たちは優しく、食べ物も三食あり、良い着物をもらい、こき使われることもない。部屋の家具も調達してもらったし、話し相手として寿々もいる。
妖怪祓いの仕事に同行するのも、二週間に一度あるかないかだ。こんなの苦労でもなんでもない。
(それに、なにより斎さまとご一緒だし……)
灰音は、自室に戻っていく彼の姿を見ていた。
これからもこんな日々が続くのだと思うと、思わず顔が緩む。
しかし、幸せな日々は続かないのだと――忍び寄る足音に灰音が気がつくのは、もう少し後のことであった。



