ふたりは、灰音の自室に戻ってきた。
灰音は座布団に座ると、ようやく肩を下ろして息を吐いた。
(はぁ……。緊張した……)
無能であることは事実だ。いつも言われてきたことだし、仕方ない。わかっているが、やはり改めて他人に言われると――無力感に支配されてしまいそうになる。
「すまなかった。気分を害しただろう」
「いえ、慣れていますし……。むしろ、申し訳ないです。わたしのせいで、斎さまがお父さまと……」
灰音は少し俯いて、胸を手で押さえた。斎の顔を見ることが出来ない。
「このままわたしがいても、大丈夫なんでしょうか……?」
「ああ。問題ない。――俺が当主だ。鳳凰寺家の仕事は、今は俺がすべて回している。そして、お前がいればもっと回せるはずだ。言ったとおり、結婚式は今月挙げるつもりだ」
「……はい……」
彼の言うことを疑ってはいない。だけど――。
「わたし、斎さまのお父さまに認められるよう、頑張りたいです。やはり、今のわたしのままでは……結局、無能のままです」
「……そうか」
斎は少し考えるような仕草をした。
「では、祓い舞の稽古を始めるか? 講師をつけよう」
「よろしいのですか?」
顔を上げて、彼の顔を見る。斎は頷いた。
「ああ。やりたいことはなんでも言え。といっても、父のことは気にしなくてもいいが」
「ありがとうございます。祓い舞の件、ぜひお願いします」
「……わかった」
祓い舞は、現代ではほぼ演舞だ。昔は一部の家しか踊らなかったが、その華やかさと祓い屋繁栄の祈りから、次第に各家の令嬢が踊るようになった。今ではどこの家が習ってもいいし、楽器の演奏と同じような習い事として扱われている。鳳凰寺家ならば、舞う機会もあるかもしれない。
「では、手配しておく」
斎は言ってから、
「そうだな……。祓い舞を始めるということは、扇がいるな」
「あ、そうですね」
「来週の日曜日に見に行くか」
「え?」
灰音は目をしばたたく。
演舞に使う扇がいるのは、それはそうだが、まさか買い物に誘われるとは思わなかったのだ。
「なんだ。都合が悪いのか?」
「い、いえ……。大丈夫です。ありがとうございます」
(お、お出かけ……だよね。デートみたい……)
休日にふたりで買い物する様子を想像して、灰音の心は静かに弾んだ。
斎は頷くと、
「ちょうど店の近くで、気になる妖怪の噂があってな。通り道なんだ」
「あ……。わかりました。お仕事のついでですね」
(デートじゃなかった……!)
灰音は、取り繕って笑顔を作った。
「では、その日に」
斎は立ち上がって部屋から出て行く。
自室でひとりになった灰音は、首をぶんぶんと振った。
「ち、違うわ……! デートだとかじゃなくて、扇を買っていただけることが、ありがたくて……。早く舞を覚えることが、斎さまのお役に立つことに繋がるんだから……!」
彼の仕事に同行し、彼の目になること。彼の父の承認を得るために、祓い舞を覚えること。今の灰音には、このふたつが目標だった。
斎は、廊下を歩く。
玄関付近の廊下の壁沿いに飾ってある、扇や壺に目を留めた。
「…………」
(出かける必要はなかったんじゃないか……? いつものように外商を家に呼べば、それですんだはずだ)
実際、これらの品は外商が持参した物の中から選んで購入したのだ。その品質にも絵柄にも満足している。
(いや、持ってくる量は限界があるし、商人が選んだ品になるから、自分が使うものならたくさんの展示品の中から直接選ぶ方がいいだろう。……そうだ。だから俺は店で選ぶことを提案したんだ)
もっともらしい理屈を頭に浮かべ――頭を振る。
(……だとしても、俺が行く必要はない。誰か――吉江でもいいから使用人をつけて、買いに行かせるとか……。女同士の方が、会話も弾んだだろう)
斎は前髪を書き上げた。
――どうしてあんな提案をしたのか、考え直してみてもよくわからない。
店の近くで、最近妖怪の噂があるというのは本当だ。だが、小物で――本来、斎が見に行くほどのものではなかった。
「主さま~」
虚空から声がして、宙から寿々が現れた。切りそろえられた白い髪が、扇のように広がってからすとんと落ちる。
「麒麟堂の小僧が、東山の妖怪を式神としたそうじゃ」
「なに?」
東山とは、日曜日に見に行こうとした場所である。つまりは、噂の小物妖怪の場所だ。
「小物ではなかったのか? 瑛士がでるほどじゃないだろう」
「妾にはわからぬ。気まぐれかのぅ?」
「…………」
(では、日曜日は店にしか用がなくなったのか……?)
斎は、約束を変更することは嫌いだった。だが、自分がなにに迷っているのかもわからない。
(いや、そもそも夫婦になるのだから……出かけることになんの問題もないはずだ。むしろ……)
昨日会った、瑛士のことを思い出す。彼は灰音の背に触れ、自分の系譜だと言い、灰音も瑛士に笑いかけて――。
ダン! 気がつけば、拳で壁を殴っていた。
「主さま、そんなに取られて悔しかったのかや?」
「違う。取られてなんかない。灰音は俺の――」
「灰音? なぜ小娘がでてくるのじゃ? 小物妖怪の話じゃなかったのかや?」
「……っ!?」
ごくり、唾を飲み込む。
(俺は、いったいなにを言って……)
寿々は口角を上げてにんまりと笑った。
「灰音に、麒麟堂の小僧の話を聞いてこよーかのぅ!」
「寿々!」
着物の裾をひらりと揺らし、寿々は再び虚空に消える。
あとに残された斎は、ため息をついた。
「まったく。なんなんだ、あいつは……」
そしてそれは、自分にも言えた。
――どこかおかしいのか? 疲れているだけか?
斎は頭を振って、再び飾られている扇を眺めた。
(……どういうものが、彼女に似合うだろうか……)
家にあるものは黒地に金と赤の装飾をした物で、これを持つ灰音はなんだかしっくりこない。
そのようなことを考えていると、廊下を歩く足音が聞こえて、斎は音のした方を見る。廊下の角を曲がって見えたのは、
「……父さん」
やってきたのは、斎の父だった。
「――斎。話がある」
「……なんでしょう?」
「お前、意思は変わらないのか? 本当にあの娘を妻にするのか?」
「はい」
斎が答えると、彼の父は「はぁ」とため息をついた。
「甘露桜家などという無能の娘との結婚は癪だが、うちのメンツもある。他家の手前、適当な結婚式は出来ん」
「……つまり、お認めになると?」
斎は、父をまっすぐ見て問うた。しかし、父は首を振った。
「いや。許したわけではない。だが、許せはしないが……結婚式を挙げる条件がある。もし、お前が――第二夫人を迎えるなら、考えよう」
この国では名家などは複数妻を持つことが許されている。灰音の父もまた、妻をふたり娶っていた。その地位は灰音の母が存命中から優遇して扱われており、第二夫人のほうが実権を持つこともある。
静かな廊下で、斎の父はその後も続けて条件を提示していった。利益の絡むそれを、斎はじっと聞いていた。
灰音は座布団に座ると、ようやく肩を下ろして息を吐いた。
(はぁ……。緊張した……)
無能であることは事実だ。いつも言われてきたことだし、仕方ない。わかっているが、やはり改めて他人に言われると――無力感に支配されてしまいそうになる。
「すまなかった。気分を害しただろう」
「いえ、慣れていますし……。むしろ、申し訳ないです。わたしのせいで、斎さまがお父さまと……」
灰音は少し俯いて、胸を手で押さえた。斎の顔を見ることが出来ない。
「このままわたしがいても、大丈夫なんでしょうか……?」
「ああ。問題ない。――俺が当主だ。鳳凰寺家の仕事は、今は俺がすべて回している。そして、お前がいればもっと回せるはずだ。言ったとおり、結婚式は今月挙げるつもりだ」
「……はい……」
彼の言うことを疑ってはいない。だけど――。
「わたし、斎さまのお父さまに認められるよう、頑張りたいです。やはり、今のわたしのままでは……結局、無能のままです」
「……そうか」
斎は少し考えるような仕草をした。
「では、祓い舞の稽古を始めるか? 講師をつけよう」
「よろしいのですか?」
顔を上げて、彼の顔を見る。斎は頷いた。
「ああ。やりたいことはなんでも言え。といっても、父のことは気にしなくてもいいが」
「ありがとうございます。祓い舞の件、ぜひお願いします」
「……わかった」
祓い舞は、現代ではほぼ演舞だ。昔は一部の家しか踊らなかったが、その華やかさと祓い屋繁栄の祈りから、次第に各家の令嬢が踊るようになった。今ではどこの家が習ってもいいし、楽器の演奏と同じような習い事として扱われている。鳳凰寺家ならば、舞う機会もあるかもしれない。
「では、手配しておく」
斎は言ってから、
「そうだな……。祓い舞を始めるということは、扇がいるな」
「あ、そうですね」
「来週の日曜日に見に行くか」
「え?」
灰音は目をしばたたく。
演舞に使う扇がいるのは、それはそうだが、まさか買い物に誘われるとは思わなかったのだ。
「なんだ。都合が悪いのか?」
「い、いえ……。大丈夫です。ありがとうございます」
(お、お出かけ……だよね。デートみたい……)
休日にふたりで買い物する様子を想像して、灰音の心は静かに弾んだ。
斎は頷くと、
「ちょうど店の近くで、気になる妖怪の噂があってな。通り道なんだ」
「あ……。わかりました。お仕事のついでですね」
(デートじゃなかった……!)
灰音は、取り繕って笑顔を作った。
「では、その日に」
斎は立ち上がって部屋から出て行く。
自室でひとりになった灰音は、首をぶんぶんと振った。
「ち、違うわ……! デートだとかじゃなくて、扇を買っていただけることが、ありがたくて……。早く舞を覚えることが、斎さまのお役に立つことに繋がるんだから……!」
彼の仕事に同行し、彼の目になること。彼の父の承認を得るために、祓い舞を覚えること。今の灰音には、このふたつが目標だった。
斎は、廊下を歩く。
玄関付近の廊下の壁沿いに飾ってある、扇や壺に目を留めた。
「…………」
(出かける必要はなかったんじゃないか……? いつものように外商を家に呼べば、それですんだはずだ)
実際、これらの品は外商が持参した物の中から選んで購入したのだ。その品質にも絵柄にも満足している。
(いや、持ってくる量は限界があるし、商人が選んだ品になるから、自分が使うものならたくさんの展示品の中から直接選ぶ方がいいだろう。……そうだ。だから俺は店で選ぶことを提案したんだ)
もっともらしい理屈を頭に浮かべ――頭を振る。
(……だとしても、俺が行く必要はない。誰か――吉江でもいいから使用人をつけて、買いに行かせるとか……。女同士の方が、会話も弾んだだろう)
斎は前髪を書き上げた。
――どうしてあんな提案をしたのか、考え直してみてもよくわからない。
店の近くで、最近妖怪の噂があるというのは本当だ。だが、小物で――本来、斎が見に行くほどのものではなかった。
「主さま~」
虚空から声がして、宙から寿々が現れた。切りそろえられた白い髪が、扇のように広がってからすとんと落ちる。
「麒麟堂の小僧が、東山の妖怪を式神としたそうじゃ」
「なに?」
東山とは、日曜日に見に行こうとした場所である。つまりは、噂の小物妖怪の場所だ。
「小物ではなかったのか? 瑛士がでるほどじゃないだろう」
「妾にはわからぬ。気まぐれかのぅ?」
「…………」
(では、日曜日は店にしか用がなくなったのか……?)
斎は、約束を変更することは嫌いだった。だが、自分がなにに迷っているのかもわからない。
(いや、そもそも夫婦になるのだから……出かけることになんの問題もないはずだ。むしろ……)
昨日会った、瑛士のことを思い出す。彼は灰音の背に触れ、自分の系譜だと言い、灰音も瑛士に笑いかけて――。
ダン! 気がつけば、拳で壁を殴っていた。
「主さま、そんなに取られて悔しかったのかや?」
「違う。取られてなんかない。灰音は俺の――」
「灰音? なぜ小娘がでてくるのじゃ? 小物妖怪の話じゃなかったのかや?」
「……っ!?」
ごくり、唾を飲み込む。
(俺は、いったいなにを言って……)
寿々は口角を上げてにんまりと笑った。
「灰音に、麒麟堂の小僧の話を聞いてこよーかのぅ!」
「寿々!」
着物の裾をひらりと揺らし、寿々は再び虚空に消える。
あとに残された斎は、ため息をついた。
「まったく。なんなんだ、あいつは……」
そしてそれは、自分にも言えた。
――どこかおかしいのか? 疲れているだけか?
斎は頭を振って、再び飾られている扇を眺めた。
(……どういうものが、彼女に似合うだろうか……)
家にあるものは黒地に金と赤の装飾をした物で、これを持つ灰音はなんだかしっくりこない。
そのようなことを考えていると、廊下を歩く足音が聞こえて、斎は音のした方を見る。廊下の角を曲がって見えたのは、
「……父さん」
やってきたのは、斎の父だった。
「――斎。話がある」
「……なんでしょう?」
「お前、意思は変わらないのか? 本当にあの娘を妻にするのか?」
「はい」
斎が答えると、彼の父は「はぁ」とため息をついた。
「甘露桜家などという無能の娘との結婚は癪だが、うちのメンツもある。他家の手前、適当な結婚式は出来ん」
「……つまり、お認めになると?」
斎は、父をまっすぐ見て問うた。しかし、父は首を振った。
「いや。許したわけではない。だが、許せはしないが……結婚式を挙げる条件がある。もし、お前が――第二夫人を迎えるなら、考えよう」
この国では名家などは複数妻を持つことが許されている。灰音の父もまた、妻をふたり娶っていた。その地位は灰音の母が存命中から優遇して扱われており、第二夫人のほうが実権を持つこともある。
静かな廊下で、斎の父はその後も続けて条件を提示していった。利益の絡むそれを、斎はじっと聞いていた。



