視界が泡に滲んでいく。
ふわりと伸ばしたてのひらは、指先から水にほどけてとけてゆく。
――ああ、もう、終わりかぁ。
溺れるような夢心地のなかで、私は確かに、そう思ったのだ。
「人魚の愛さん、で、お間違いないですか?」
……なのに、これはどういうことだろう。
目の前には不思議な空間が広がっていた。
淡い橙の灯りにともされた、書斎、のような、どこかの部屋の中だ。窓は一つもなくて、代わりに本棚と書き物机と、かさのついたランプがおいてあって。
そして私の周りを、骨だけになった魚が何匹か、ふわふわと泳いでいる。水もなにもない空中を。
かたん、と万年筆を置いて、書き物をしていた一人の男性が立ち上がった。
気品を感じさせる上品な服装に、整えられた髪、そして二本の足。
にんげん、だ。
「そう、ですが。……私、死んだんじゃないんですか?」
死んだ。それも、心ごとぜんぶ、泡になって。
魂だって残らないだろうなと思ったのに。
男の人はゆっくりと頷きながら答えた。
「そうですねえ、本当ならあなたは今頃、泡になって消え去っていたはずなんですけど。……未練、ですね」
「未練……」
「はい、未練です。それだけが消えずに残ってしまったために、あなたの体も魂も引き留めている。――というわけで、現世に戻りましょう」
「えっ」
思わず飛び出た声がひっくり返った。
「も、戻れません!」
「どうして」
「だって……私、あの人を……」
手が震える。
見下ろした手の中になにかが見えた気がして、ぎゅっと強く握りしめた。
殺そうとした。
鈍く煌めく短刀を手に持って。
心臓を貫こうとして。
「ああ、安心してください、大丈夫です。戻るといっても、幽霊として現世に降りるので、周りの人にあなたの姿は認知されませんし、声も聞こえません。よほど霊感のある方でない限り。そしてあなたが殺そうとした男性は、まず間違いなく霊感ゼロ、素質なし、論外の問題外です。ばったり遭遇する可能性は万に一つもありませんよ」
妙に流暢にするするとそう話し、大仰に手を広げる男性。
私は目を見開いて、じっと彼をみつめていた。
とはいえ、と男性は椅子を引いて、洗練された動作で腰かけた。
万年筆を再び手に取り、夜色のインクにペン先を浸して、さらさらとなにごとか書きつける。
「人魚が幽霊になったところで、右も左もわからないでしょう? ということで、人間の幽霊と一緒に現世に降ろします。いわゆるサポーターですね。その人間たちも幽霊であるからして、当然未練を持っていますから、あなたはパートナーと一緒にお互いの未練を頑張ってほどいてあげてください。――どうか成仏できますよう。応援していますよ」
「え、あの」
待って、という声が形になる前に、目の前が光にさらわれる。
いっしょだ、と思った。
泡になった、あのときと。
視界が泡か、光か、それだけ。
浮遊するような、溺れるような、何かにとけるような、何かにぎゅっと抱きしめられるような、それでいて放たれるような、この不思議な感覚は。
「愛さん。これよりあなたを、人間の世に送ります。幽霊として、ふれられない場所から現世の人にふれ、自分の未練がなんなのか見つけてください。それでは――」
最後に見えたのは泡だった。
ふわりと、雲が霞むように意識が途切れる。
ふわりと伸ばしたてのひらは、指先から水にほどけてとけてゆく。
――ああ、もう、終わりかぁ。
溺れるような夢心地のなかで、私は確かに、そう思ったのだ。
「人魚の愛さん、で、お間違いないですか?」
……なのに、これはどういうことだろう。
目の前には不思議な空間が広がっていた。
淡い橙の灯りにともされた、書斎、のような、どこかの部屋の中だ。窓は一つもなくて、代わりに本棚と書き物机と、かさのついたランプがおいてあって。
そして私の周りを、骨だけになった魚が何匹か、ふわふわと泳いでいる。水もなにもない空中を。
かたん、と万年筆を置いて、書き物をしていた一人の男性が立ち上がった。
気品を感じさせる上品な服装に、整えられた髪、そして二本の足。
にんげん、だ。
「そう、ですが。……私、死んだんじゃないんですか?」
死んだ。それも、心ごとぜんぶ、泡になって。
魂だって残らないだろうなと思ったのに。
男の人はゆっくりと頷きながら答えた。
「そうですねえ、本当ならあなたは今頃、泡になって消え去っていたはずなんですけど。……未練、ですね」
「未練……」
「はい、未練です。それだけが消えずに残ってしまったために、あなたの体も魂も引き留めている。――というわけで、現世に戻りましょう」
「えっ」
思わず飛び出た声がひっくり返った。
「も、戻れません!」
「どうして」
「だって……私、あの人を……」
手が震える。
見下ろした手の中になにかが見えた気がして、ぎゅっと強く握りしめた。
殺そうとした。
鈍く煌めく短刀を手に持って。
心臓を貫こうとして。
「ああ、安心してください、大丈夫です。戻るといっても、幽霊として現世に降りるので、周りの人にあなたの姿は認知されませんし、声も聞こえません。よほど霊感のある方でない限り。そしてあなたが殺そうとした男性は、まず間違いなく霊感ゼロ、素質なし、論外の問題外です。ばったり遭遇する可能性は万に一つもありませんよ」
妙に流暢にするするとそう話し、大仰に手を広げる男性。
私は目を見開いて、じっと彼をみつめていた。
とはいえ、と男性は椅子を引いて、洗練された動作で腰かけた。
万年筆を再び手に取り、夜色のインクにペン先を浸して、さらさらとなにごとか書きつける。
「人魚が幽霊になったところで、右も左もわからないでしょう? ということで、人間の幽霊と一緒に現世に降ろします。いわゆるサポーターですね。その人間たちも幽霊であるからして、当然未練を持っていますから、あなたはパートナーと一緒にお互いの未練を頑張ってほどいてあげてください。――どうか成仏できますよう。応援していますよ」
「え、あの」
待って、という声が形になる前に、目の前が光にさらわれる。
いっしょだ、と思った。
泡になった、あのときと。
視界が泡か、光か、それだけ。
浮遊するような、溺れるような、何かにとけるような、何かにぎゅっと抱きしめられるような、それでいて放たれるような、この不思議な感覚は。
「愛さん。これよりあなたを、人間の世に送ります。幽霊として、ふれられない場所から現世の人にふれ、自分の未練がなんなのか見つけてください。それでは――」
最後に見えたのは泡だった。
ふわりと、雲が霞むように意識が途切れる。



