削除しても残る

送信しました。

画面の白い余白に、その文字だけが居座っている。

……終わった。
いや、人生じゃない。私の高校生活が。

指が滑った。下書きに戻したつもりで、投稿ボタンを押した。しかも、裏じゃない。鍵でもない。誰も見ていないはずの、私だけの言葉が――本垢へ。

「相沢怜司の声、ずるい。
みんなの前では冷たいのに、私が落としたプリントだけ拾ってくれた。
そういうところが、好き。消したい。消えない。」

自分の文章が、クラスのタイムラインに流れていく想像をした瞬間、胃がひっくり返った。

消す。今すぐ。

私は廊下の真ん中で立ち止まり、親指で画面を連打した。削除。確認。削除。震える。
背中に視線が刺さる。ざわつきが、波みたいに広がってくる。

「え、いまの見た?」
「相沢の名前入ってたよね?」
「やば……」

ダメだ。消すのが遅かった。

「三木」

呼ばれて、肩が跳ねた。

声の主は、よりにもよって。

相沢怜司が、私の落としたスマホを拾い上げていた。
手のひらの上で、私の世界が、彼に持ち上げられている。

「……返して」

掠れた声しか出ない。

相沢は画面を一瞥した。瞬間、彼の眉がほんの少しだけ動く。

「これ、お前の本垢か」

最悪だ。
最悪の出会いは、これ以上ないほど最悪だった。

「見ないで」

伸ばした手が空を切った。相沢は私の手を避けたわけじゃない。ただ、落とさないように持ち直しただけだ。なのに、それが妙に冷たく感じる。

「走るな」

相沢が言った。

「は?」

「今、走ったら目立つ。まず息をしろ」

何その指示。生徒会の段取り担当は、人の心まで段取りに入れるの?

「息とかどうでも……」

言い返そうとして、言葉が詰まった。相沢の目が、私の顔を見ている。人を責める目じゃない。ただ、状況を見ている目。

「……削除した」

私は唇を噛みながら言った。

「削除したなら、終わりだろ。だから返して」

相沢はスマホを返しながら、首を横に振った。

「終わってない」

「は?」

「削除は“なかったこと”じゃない。見た人の端末に移っただけだ」

廊下のざわめきが、急に近くなった。
「見た?」が「送って」に変わる気配。

「……うそ」

「うそじゃない。スクショはもう出てる」

相沢が顎で示した先で、二年の女子がスマホを覗き込んで笑っている。笑い声が、針みたいに刺さる。

「やめて……」

声が震える。

「黙っててください」

私は相沢を睨んだ。相沢が見た。相沢が言った。相沢が悪い――そう言えたら楽なのに。

「言わないと……」

相沢は淡々と言った。

「言わないと、何?」

「燃える。今は、燃える材料があるだけで勝手に燃える」

「だからって、あなたが見たことは変わらない」

「変わらない」

認めるのかよ。

「……死にたい」

ぽろっと出た。
言った瞬間、自分の弱さが恥ずかしくて、喉の奥が熱くなる。

相沢は、少しだけ息を吐いた。

「死ぬな。今やるのは“処理”だ。感情は後」

「慰め方が下手すぎる」

「得意分野じゃない」

真顔で言うな。
私は泣きそうなのに、変に笑いそうになってしまって、余計に惨めになった。

「……どうするの」

やっと、それだけ言えた。

相沢は周囲を一瞬見回し、私の腕を掴んだ。

「ちょ、ちょっと!」

「ついてこい」

「手、離して」

「今離したら、お前、廊下で崩れる」

なんで分かるの。分かるくらい、私は情けない顔をしてるの?

相沢は生徒会室の鍵を開け、私を中へ押し込んだ。冷房の匂いと、紙の匂い。

「座れ」

「ここ、生徒会室……」

「臨時避難所」

「生徒会って炎上対応班なんですか」

「今だけ臨時」

本気で言っている顔が、可笑しい。可笑しいのに、胸が少しだけ軽くなるのが悔しい。

相沢は机の上のノートPCを立ち上げた。手際が良すぎる。

「まず、通知」

「通知?」

「引用、タグ付け、リプ。そこから燃える。スクショが回ったら終わりじゃない。二次燃料が来る」

「二次燃料って、火事みたいに言わないで……」

「火事だ」

相沢は平然と言った。

「お前の投稿は、相沢怜司という固有名詞を含む。しかも“好き”。材料として強い」

「材料……」

私の胸の中の柔らかいものが、ゴミみたいに扱われた気がして、むっとする。

「馬鹿にしてる?」

「してない。むしろ逆だ」

相沢は画面から目を離さずに言う。

「お前の文章、刺さる。だから燃える」

刺さる。

私が、誰にも見せないはずの言葉が。

「……それ、褒めてない」

「褒めてる。今は褒めてる場合じゃないだけ」

意味が分からない。

相沢が机の引き出しからペットボトルの水を取り出し、私に差し出した。

「飲め」

「……なんで、ここに水」

「会計が買ってくる」

「生徒会、家庭的……」

「雑談するな。飲め」

私は受け取った。指が触れた。

一瞬、時間が止まる。

相沢の指は冷たい。私の指は汗ばんでいる。

「……っ」

私が先に引っ込めた。水を飲むふりをして、視線を逸らす。

「次」

相沢が言った。

「拡散の中心を止める。スクショ班が誰か」

「どうやって」

「最初に騒いだやつを追う。今、お前のクラスの――」

相沢はスマホで何かを見て、眉を寄せた。

「もう“相沢の件”で回ってる」

「うそ……」

「うそじゃない」

私は椅子の背にもたれ、頭を抱えた。

「やっぱり、死にたい」

「それは後」

「後っていつ!?」

声が裏返る。自分でも驚くほど子どもっぽい。

相沢はため息をついた。

「……今夜、帰って風呂入って、布団で“死にたい”って言え。今は動け」

「そんな段取り、いらない」

「いる」

相沢は即答した。

「人は、段取りがあると耐えられる」

……何それ。

私は、喉の奥が詰まるのを感じた。段取りなんて、私が一番欲しかったものかもしれない。

相沢は校内放送の原稿を開き、別ネタの告知を作り始めた。午後の委員会連絡。体育館の使用変更。どうでもいい情報の洪水で、話題を流す。

「こんなので流れるの?」

「流れない日もある。でも、流れる日もある。燃えるのは暇だ。暇を奪えば弱る」

「……怖」

「安心しろ。怖いのは“拡散”の方だ」

私は口を尖らせた。

「慰め方が下手すぎる二回目」

「学習する」

「嘘くさい」

相沢が、ほんの一瞬だけ口角を上げた。
見間違いかもしれない。でも、その一瞬が、胸をぎゅっと掴んだ。

――なんで。

なんで私は、こんな最悪な日に、相沢の表情の変化なんかを覚えてしまうの。

しばらくして、廊下のざわめきが少し落ちた。スマホの通知音も、さっきほど鳴らない。

「……落ち着いた?」

私が聞くと、相沢は画面を見ながら頷いた。

「一旦は」

一旦。
その言い方が怖い。

相沢が私の方を向いた。

「さっきの文」

心臓が跳ねる。

「……聞かないで」

「聞く。なんであんな下書きを書いた」

「やめて」

「やめない」

相沢は、私の逃げ道を残さない。
正論で壁を作るくせに、私の内側には踏み込んでくる。

「……笑うでしょ」

「笑わない」

「馬鹿にするでしょ」

「しない」

私は、手元のペットボトルを見つめた。ラベルの文字が滲む。

「……私、目立たないんです」

口に出してしまうと、想像以上にみっともない。

「知ってる」

「知ってるって……」

「クラスで、いつも端」

相沢は淡々と言った。淡々と言うのに、ちゃんと見ていたことが分かってしまって、余計に苦しくなる。

「私、誰にも見られないのが普通で。だから、誰かに親切にされると、変に……」

言葉が絡まる。

「変に、なに」

「……嬉しくて。怖くて」

私は笑おうとした。でも笑えない。

「プリント拾っただけで?」

相沢が言った。

「“だけ”って言わないで」

声が強くなった。

「拾った“だけ”が、救いになる人もいるんです」

言ってしまった。

相沢は黙った。
その沈黙が、怖い。

「……私、文章にしないと、消えるんです」

私の中の何かが、決壊した。

「消える?」

「自分が。誰にも見られてないと、ほんとに居ないみたいで。だから、メモに書く。下書きに書く。誰にも見せないけど、書くと……残る気がする」

相沢の目が、少しだけ揺れた。

「で、相沢くんが拾ってくれたとき、……あ、私、居たんだって思って」

自分で言って、泣きそうになる。

「それで、好きって……」

「好きって言うの、怖いんです」

私は先に言った。

「言った瞬間、全部汚れる気がして。軽く見られる気がして。だから下書きに置いておけば、汚れないと思ってた」

相沢が、ゆっくり息を吐いた。

「汚れたのは言葉じゃない」

彼の声は、いつもより低い。

「周りの目だ」

私は顔を上げた。

「……あなたは平気そう」

相沢は、少しだけ目を細めた。

「平気な顔してるだけだ。俺だって、見られるのは嫌だ」

その言葉が、胸の奥に落ちた。

同じ。

同じ場所に立てた気がして、泣きそうになる。

「……ごめんなさい」

私は言った。

「何が」

「名前、出して。勝手に。巻き込んで」

相沢は首を振った。

「謝るなら、次を考えろ」

また段取り。
でも、その段取りが、今はありがたい。

相沢は私のスマホを指さした。

「一旦は静まった。でも終わってない」

「……まだ?」

「スクショがどこまで回ったか分からない。あと、お前、下書き以外にも残してるだろ」

「残してない」

反射で言った。

相沢の目が、私の嘘を見抜く。

「ある」

「……あるけど、別に」

「別に、じゃない」

相沢は机の上に肘をつき、私の目を見た。

「条件」

「は?」

「今夜、俺と一緒に、お前の下書きと予約投稿を全部確認する。二度と同じことを起こさないために」

「なんであなたと」

「お前一人だと、またパニックで押す」

「押さない」

「押す」

即答やめて。

「……私のスマホ、覗くの?」

「覗かない。見るだけ。必要なところだけ」

「覗くと見るは同じでしょ!」

相沢は眉一つ動かさずに言った。

「違う。覗くのは興味。見るのは処理」

「言い方が冷たい」

「冷たいのは手順だ。お前は――」

相沢は言いかけて止まった。

「……お前は、守る」

その一言が、ずるい。

私は返事ができず、ただスマホの画面を開いた。

予約投稿。
そんな機能、使ったことない。

相沢が言う。

「投稿画面。設定。……ここ」

指で示され、私はタップした。

一覧が出る。

……え。

「これ、何」

私の指が止まった。

投稿予定:今夜二十二時。
タイトル(というか、冒頭の一行)が見える。

「相沢怜司へ」

喉が、凍った。

「……私、こんなの、作ってない」

声が震える。

相沢の表情が、初めて硬くなった。

「誤爆じゃない可能性がある」

「え……」

相沢が画面を見つめたまま、低く言った。

「誰かがお前の“好き”を、武器にしようとしてる」

最悪だ。
最悪の出会いから始まって、最悪が更新されていく。

でも。

私は、隣の相沢の横顔を見た。

今夜だけは、ひとりじゃない。

画面の「投稿内容を見る」を、私は押せなかった。
押したら、また世界が壊れる気がした。

相沢が言う。

「開くのは、俺がいるときにしろ」

私の心臓が、少しだけ落ち着く。

「……うん」

返事は、たったそれだけ。

最悪の一日が、終わらないまま続いていく。

その続きが、怖い。

それでも――。