瀬ヶ崎くんの家を訪問し、数日が経った。
週が明けても、頭から離れない――耳の奥に残る彼の低い声や、包まれた両頬の温かさ。触れ合うか触れないかの距離で触れた手の甲の感触。
その記憶を、俺は「機密事項フォルダ」に無理やり押し込んで封印した。
放課後の飼育室で、いつも通りに振る舞いさえしていれば、日常は保たれる。そう、何も変わらないはずだったのに。
俺は瀬ヶ崎くんが黙々と黒丸のケージを掃除し、柵の部分についた汚れまで丁寧に拭き取って行くのをじっと見つめていた。
(細かい所まで、ちゃんとやってくれてる。丁寧だし、やっぱり、優しい……)
ぼーっとそんなことを考えながら、よく前も見ずに、お世話セットを棚に戻そうとして――。
「ぎゃっ!?」
何ということだ。中途半端に開いていた棚の扉に、思い切り直進して顔面を強打した。
鈍い衝撃音と共に、視界の裏側で鮮やかな火花がスパークする。俺はその場に蹲り、ズキズキと脈打つ箇所を押さえた。
めちゃくちゃ痛い。物理的な痛みもさることながら、彼の前で「扉に自爆する」というあまりにマヌケな失態を演じた自分自身のスペックの低さに、涙がこぼれそうになる。
「陽彩!? おい、大丈夫かよ」
掃除の手を放り出し、瀬ヶ崎くんが文字通り飛んできた。
床にへたり込む俺の肩を、優しく抱き起こす。
「……っあ、あはは。大丈夫です、今のは扉の耐久テストと言いますか……。僕の頑丈な頭蓋骨と扉、どちらが勝つかという物理実験の結果、僕の敗北が確定しただけで……」
「こういう時まで、強がんなって。ちょっと見せて」
痛みに耐えながら必死に紡いだ俺の冗談は、彼の低く冷たい、けれど焦燥を含んだ声に一瞬で掻き消された。
額を押さえてうめく俺の様子に、瀬ヶ崎くんはひどく複雑で心配そうな顔をしている。
次の瞬間、彼の長い指先が俺の額にかかった前髪を静かに払った。そして、逃げ場を塞ぐように俺の頬に手を添えると、迷いのない動きでマスクの耳紐に指をかける。
「……ちょ、瀬ヶ崎くん、汚いですよ、今の僕、下手をしたら鼻血とか出てるかもしれませんし……っ」
「いいから。……じっとしてろ」
抵抗も虚しく、俺の顔を覆っていたマスクが、ゆっくりと引き下げられた。
「額、少し血が出てる。保健室行くか?」
「い、いいえ、デカめの絆創膏で足ります! 救急箱が、そこの三段目の引き出しに入っているので……それさえあれば、俺の再生能力なら瞬く間に完治しますから!」
激痛でチカチカする視界を必死に繋ぎ止め、涙目で棚を指差す。
瀬ヶ崎くんは迷いのない動きで木箱の救急セットを取り出すと、俺の目の前で膝をついた。
(うわ、どうしよう……近すぎる)
放課後の柔らかな光が差し込む飼育室の中で、瀬ヶ崎くんはコットンをとり、透明な消毒液をたっぷりと染み込ませた。鼻をくすぐるツンとした薬品の匂い。
床にぺたんと座り込む俺と、その前に屈み込む瀬ヶ崎くん。その距離、わずか数センチ。
近すぎて、彼の瞳に映る夕陽や、その透けるような焦茶色に釘付けになってしまう。
「……ごめん、ちょっと染みるかも」
低く、けれど優しく鼓膜を揺らす声。 彼は空いた方の手で、俺の頬にそっと触れた。
ひんやりとした指先が、熱を持った俺の肌に触れた瞬間、そこから小さな電流が走ったような錯覚に陥る。逃げ出したいのに、その指の感触から片時も離れたくないという、矛盾した衝動が胸の奥で暴れ始めた。
「……あ、あの、瀬ヶ崎くん。そんなに慎重にならなくても、適当にぺたっと貼ってくれれば、あとは俺の自然治癒力が……」
「少しくらい、黙ってらんねーの? ……じっとしててろって」
ちょっと苛立ったような瀬ヶ崎くんの囁きに、俺はそれ以上、酸素を消費するだけの無駄な言葉を紡ぐことができなくなった。
「うひゃい……」
「うん」と「はい」が混ざったような情けない声が漏れ、ぎゅっと目を閉じる。コットンが優しく、羽毛が肌に触れるような慎重さで額を叩く。
緊張で肩が跳ねるのを隠しきれない。瀬ヶ崎くんは俺に前髪を抑えさせ、くい、と顎を持ち上げて俺を上に向かせた。
「目ぇ、閉じてろよ」
大きめの絆創膏をそっと貼られ、おそるおそる目を開く。すると、視界いっぱいに、まつ毛の影まで見えるほど近い瀬ヶ崎くんの不安げな顔があって。俺は反射的に、両手で自分の顔を覆い隠した。
「あ、ありがとうございました! もう、そんなに近くで確認して頂かなくても大丈夫です!」
「……何それ。普通に心配なだけだろ」
「俺の目にゴミでも入ってますか!? それとも、あまりにトロすぎて動体視力を疑ってますか!? 俺、こう見えても視力だけは良いんです!」
瀬ヶ崎くんは「違うけど」といつもの呆れ顔だ。
でも、こうして機関銃のように喋っていないと、心臓の音が飼育室中に響いてしまいそうで怖いのだ。
向こうはあんなに平然としているのに、俺だけがこんなにバカみたいに……。
「あの、その……マスクを、返してもらっていいですか?」
俺がテーブルの上のマスクに手を伸ばそうとすると、彼はその紐をひょいと指先に引っ掛け、意地悪そうに、でも隠しきれない嬉しさを滲ませて笑った。
「……早口になるってことは、恥ずかしい? 俺のこと、前より意識してくれてんの?」
「瀬ヶ崎くんっ、か、返してください……!」
「嫌だ。正直に答えたら返してあげる」
「ほほ、本当に無理です! 付けないと死んじゃいます、逆呼吸困難になっちゃいます! 」
奪い返そうと身を乗り出した瞬間、俺の手は瀬ヶ崎くんの胸元に突き当たった。抱き留められるような形になり、顔が煮えたぎるマグマのように熱くなる。
「なんでそんな必死になってんの?」
その問いに答えてしまったら、もう二度と「ただの友達」という安全圏には引き返せない。
けれど、指先を介してダイレクトに流れ込んでくる彼の荒い鼓動が、俺が必死に組み立てたロジックをバラバラに解いて、溶かしていく。
「……か、顔が、赤くなっているのを……絶対に……瀬ヶ崎くんだけには、見られたくないから、です」
そこまで言い切るのが、俺の全生命をかけた限界だった。
視界が自分自身の熱さで滲み、耐えきれずに俯く。
意識しないように、踏み込まれないようにと、強固なバリアを張っていたはずだったのに。いつの間にか、俺の瞳は、彼の姿を、その熱を、そしてその大きな手のひらを――切ないほど、意識して追いかけてしまっている。
沈黙の中、俺の頭上から、絞り出すような低い溜息が降ってきた。
「……マジでずるい。陽彩さぁ……その表情、可愛すぎるんだけど」
次の瞬間、繋いでいた手にぐいっと力が込められ、俺の体は彼の腕の中に、逃げ場のない強さで引き寄せられた。
彼の制服越しに伝わる体温は、すべてかき消すほどに熱い。耳元で、瀬ヶ崎くんが愛しくて仕方ないといった風に低く囁いた。
「顔、真っ赤だよ。ドキドキしてんの?」
「ち、ちがいます! これは急激な感情の起伏による血管の拡張現象ですよ! 見てて何が楽しいんですか!? 肖像権の侵害、プライバシーの保護を断固主張します!」
「あー、はいはい。ほんと頑固だな、お前」
そう言いながらも、瀬ヶ崎くんの手は俺の背中を優しく、それでいてどこにも行かせないという強い意志を持って引き寄せる。
ぽんぽん、と大きな手で後頭部をあやすように撫でられて、俺はもはや心臓が口から飛び出し、飼育室の壁に激突するんじゃないかという妄想に逃げる。
「気を付けろよ。怪我するほど、俺のこと見なくていいから」
「うっ……」
瀬ヶ崎くんのことを見ていないと否定するどころか、図星すぎて、ぐうの音も出ない。しかも、その口ぶりからして、俺が彼のことをチラチラと盗み見ていたのが、思い切りバレている。
俺はよろよろと立ち上がると、騒動の目撃者である黒丸を振り返った。黒丸はケージの中から「お前ら、飼育室で何をやっとるんや……」とでも言いたげに細めた瞳で俺たちを見つめている。照れ隠しにそのおでこを指先でこちょこちょと撫でると――ふと触れた耳が、いつもより少しだけ冷たいような気がした。
具合でも悪いのかと、エサ入れの中を確認する。
「あれ……瀬ヶ崎くん。黒丸が人参を食べてないみたいです」
「え? さっき切りたての最高にフレッシュなやつ置いたから、絶対食いつくと思ったんだけど」
けれど、瀬ヶ崎くんが愛情を込めてカットした人参は、一本も減っていない。
俺は不安に突き動かされ、その小さな体をそっと抱き上げた。
「黒丸、どうしたの? どこか具合悪い……? 俺のバカ騒ぎがうるさくて、呆れて食欲失くした?」
黒丸はヒクヒクと鼻を動かすけれど、返事はない。いつも通りと言えばそう見えるし、かといって「元気いっぱい」とも言い切れない、何とも言えない静けさ。
「……先生に一応、報告しておいた方がいいな。俺、日誌に詳しく書いておくから」
瀬ヶ崎くんは黒丸の背をひと撫でして安心させるように触れると、パイプ椅子に座って日誌を開いた。
他の当番の日誌を遡っても特に変わった様子はない。けれど、黒丸のちょっとした変化が、俺の胸に冷たい影を落とす。
「もうすぐ、黒丸の誕生日なんだよ。盛大にお祝いするんだから、ちゃんと元気でいてくれないと……。俺、葉っぱケーキの試作まで考えてるんだからね」
そう言って黒丸をそっと、抱きしめる。瀬ヶ崎くんはペンを走らせる手を止め、こちらを振り返って言った。
「陽彩。こいつの誕生日パーティー、俺も参加したいんだけど」
「えっ……。じゃあ、二人で準備しませんか!? プレゼントは新鮮な葉っぱの盛り合わせで……俺が『開会の言葉』をやるので、瀬ヶ崎くんは『閉会の言葉』を担当してください!」
「はいはい……。了解、大役だな。後は何を準備すればいい?」
「ここのホワイトボードにプログラムを書いて、部屋中を飾り付けして……」
必死に明るい未来を話しているうちに、黒丸は腕の中でスヤスヤと寝息を立て始めた。いつもならもっと「もっと撫でろ、手を止めるな」とせがんでくるのに、今日はそれがない。しん、とした静寂に不安が煽られるようだった。
「……季節の変わり目だしな。うさぎもそういう空気の変化に敏感なのかもしれない」
「そうかもしれないですね。……瀬ヶ崎くん、今日は、もう少しだけ残ってもいいですか?」
「一緒に?」
コク、と頷く。 今までだったら「瀬ヶ崎くんはお忙しいでしょうからお先にどうぞ」と、配慮という名の壁を作っていただろう。けれど今は、一人で黒丸を見守る勇気がなかった。
瀬ヶ崎くんは「いいよ」と短く答え、椅子を俺のすぐ隣まで引き寄せる。
西日が差し込む静かな部屋で、二人。
黒丸の規則正しい寝息を聞きながら、俺たちは世界で一番小さく大切なパーティーの計画を、下校を告げるチャイムが鳴るまで話し続けた。



