クラスのド陰キャで「うさぎ係」の俺は、瀬ヶ崎くんからの告白フラグを折りまくっています。


 瀬ヶ崎くんの「好きって言わせる」宣言から、数日が経とうとしていた。あの日、動物園の帰り道に落とされた爆弾の影響は、計り知れない。

 けれど、俺が身構えていたような少女マンガっぽい「髪に乾草ついてたよ」とか「クサすぎる甘い囁き」だのといった、心臓に悪いアプローチは特になくて。
 教室で目が合えばふっと微笑んでくれたり、飼育委員の仕事も、俺との時間を慈しむように丁寧にこなす――。
 そんな、穏やかでこそばゆい日々が続いていた。

「――恭平っ、ナイスパス!」

 コート内を縦横無尽に駆け抜ける瀬ヶ崎くんの姿に、女子たちの黄色い悲鳴が、もはや物理的な衝撃波となって俺の鼓膜をバイブレーションさせる。

「マジやばいって、汗かいてんのに何であんな爽やかなの?」
「ご褒美タイムすぎる……おかげで六限まで生きていける、今日も」

 合同体育の授業は、バスケットのミニゲームだった。
 瀬ヶ崎くんは、まるで重力という概念を演算から除外してしまったかのような軽やかさで、ディフェンスを鮮やかに抜き去っていく。滴る汗に濡れた前髪を無造作にかき上げ、一点を見据えて放たれたシュートは、吸い込まれるようにゴールネットを揺らした。

「キャー! カッコいいー!!」
「瀬ヶ崎くーん! こっち向いてーー!!」

 その声に顔を上げ、瀬ケ崎くんがふっと軽く手を上げる。……それだけで、体育館が割れんばかりの歓声に包まれた。スマホを片手に、一分一秒も逃さないと言わんばかりにカメラを回す女子の面々。先生たちが「授業に集中しろ!没収するぞ!」と怒鳴っているけれど、その怒号すら掻き消されている。

(……ああ、やっぱり。住む世界が違いすぎる)

 やっぱり学年イチのモテる男。誰からも愛され、何をやっても「正解」を叩き出す完璧な男。
 そんな、もはやドラマの登場人物に近い瀬ヶ崎くんが、ふと足を止めた。
 汗ばんだ首筋、激しく上下する肩。そして、俺と視線がぶつかった瞬間――彼は、周囲の熱狂をまるごと置き去りにするような、とびきり不敵な笑みを浮かべた。

(うわぁぁ……今の、俺に、俺に向かって笑ったよな絶対……あぁ、もう……心臓に悪すぎる……!)

 「好きにさせる」なんていうあの日からの不穏な宣言が、冗談なんかじゃなく、着々と俺の包囲網を狭めている気がして、俺は思わず持っていたスポーツタオルを握りしめた。

 試合終了を告げるホイッスルが鳴り、汗を拭いながら歩み寄ってきた彼は、俺の隣にすとんと腰を下ろした。
 運動直後の体温と、かすかな制汗剤の香りがふわりと届く。

「……俺のプレー、ちゃんと見てた?」

「み、見てましたよ。網膜に焼き付くほど、四K画質の高解像度で」

「で、どうだった?」

 膝を突き合わせて、少しだけ期待を孕んだ瞳で俺を見つめてくる。正直に答えるのが礼儀だろう。俺は思考回路をフル稼働させ、今のプレーを物理的・審美的に総括した。

「ええと、その……惚れ直しました」

「……え?」

 隣で、瀬ヶ崎くんが目を見開いたまま、ピタリと動きを止めた。
 水を飲もうとしていたペットボトルのキャップを指にかけたまま、呼吸さえ忘れたかのように、吸い込まれそうな瞳がまっすぐに俺を射抜く。その沈黙があまりに重く、俺の脳内サーバーには瞬時に『言語選択ミス』のエラーログが大量発生した。

「あ、ちがう。見直した? ああ……うまく言葉が見つからないんですけど、やっぱり、格好いいなと思いました」

「……っ」

 惚れ直した、なんて。まるで俺が元々、瀬ヶ崎くんに惚れていたみたいで絶対に変だ。慌てて言い直した「見直した」も、元々尊敬していた相手に使うには日本語として致命的なバグがある気がする。

 語彙力が迷子になり、思考回路がスパークした結果、結局は一周回って「格好いい」というあまりにシンプルすぎる結論へ着地してしまった。
 そんな俺の内心のパニックを余所に、瀬ヶ崎くんが震える声で、確認するように言葉を漏らす。

「やっぱりってことは、前から俺のこと……格好いいって思ってくれてたって事?」

「えっ……それはそうですよ、今更何を言ってるんですか? 瀬ヶ崎くん」

 思わず、驚きで声が裏返った。太陽は東から昇り、重力は下へ向かい、瀬ヶ崎恭平は格好いい。これらはこの世界の物理法則、いわば「義務教育レベル」の真理ではないか。

「瀬ヶ崎くんをカッコイイと思わずに生きていく方が、数学の難問を解くよりよっぽど難しいですよ。顔の造形から立ち居振る舞いに至るまで、全人類にとっての正解じゃないですか。自覚、足りなすぎませんか?」

 顔が良い人間を格好いいと言うのは、空が青いと言うのと同じくらい当たり前のことだ。なのに、それをわざわざ信じられないようなトーンで聞かれて、俺は『何をそんな初歩的な質問を……』と、学級委員のような真顔で熱弁してしまった。

 すると、どういうわけか。
 瀬ヶ崎くんは『……死んだ』と呻くように呟き、座り込んだまま膝の上に肘をついて、両手で顔を覆ってしまった。

「せっ、瀬ヶ崎くん!? どうしたんですか、脱水症状!? それとも脳への酸素供給が不足して……!」

「……違う。あー……お前、マジで無自覚テロやめろって……」

 顔を隠した指の間から、耳の付け根まで真っ赤に染まっているのが見える。
 そのまま彼は深いため息をつき、しばらく天を仰いでいた。どうやら今のプレーで……いや、俺の失言(?)のせいで、自分が思っている以上に致命傷を負わせてしまったらしい。完璧超人の瀬ヶ崎くんでも、俺の日本語にここまで振り回されることがあるなんて。

「はぁ。……よし、落ち着いた」

 ようやく顔を上げた彼の瞳には、これまでの余裕とは違う、どこか必死で、それでいて熱っぽさが宿っていた。

「……で、本題なんだけど」

 瀬ヶ崎くんはペットボトルの水を一口飲むと、喉仏を大きく揺らした。その仕草すら、俺は視線のやり場に困ってしまう。

「明後日の土曜、予定空けとけよ。……この前、家に来いって親父が言ってただろ。なんか気合入れて、お前に会うのを楽しみにしてるから」

「えっ、あの、本当に僕なんかがお伺いしてもよろしいのでしょうか。国家機密とか、見てはいけない機密文書をうっかり視認して、社会的に消されたりしませんか?」

 俺の必死な問いかけに、彼はふっと喉を鳴らして笑った。  そして、まだスポーツの熱を帯びた体のまま、少しだけ声を低くして俺の顔を覗き込む。

「隠さなきゃいけないものなんて、お前にはないよ。っていうか、」

 至近距離。彼の瞳が、俺の視線を逃がさないように真っ直ぐに射抜く。

「……俺の家も、俺のことも。全部、陽彩にだけは知っていてほしいから」

 それは、完璧な王子様が初めて見せた、どこか幼い子供のような、無防備な「おねだり」だった。
 冗談めかした口調の裏にある、ひどく真面目で、少しだけ切実な熱。その熱に浮かされるように、俺は「はい」と小さく頷くことしかできなかった。

 ――かくして、俺の人生最大級の難題「瀬ヶ崎家・初訪問」が、ついに幕を開けることになったのである。





 目の前にそびえ立つのは、公安という国家権力・瀬ヶ崎本部長閣下がお住まいになられている、瀬ヶ崎家の邸宅だ。

「……ねえ、瀬ヶ崎くん。やっぱり僕、ここで失礼した方がいいと思うんだ。一般市民が不用意に足を踏み入れていい聖域じゃない気がする。セキュリティシステムが作動して、僕、レーザーで消し炭にされたりしないかな?」

 門の前でガチガチに固まり、持参した手土産を命の綱のように抱きしめて訴える。

「するわけねーだろ。ほら、入れよ。親父も楽しみにしてたし、姉貴は何故かバイト休んでまで楽しみにして、リビングで待機してるから」

「お姉様まで待機!? 余計に帰りたい……っ。包囲網が完璧すぎる!」

 俺の必死の抵抗も虚しく、瀬ヶ崎くんの大きな手に背中をぐいぐいと押され、ついに重厚な玄関のドアが開かれた。  途端、高級ホテルのロビーかと思うほど磨き抜かれた空間に、ふわりと上品な出汁の香りが漂ってくる。

「おっ、来たな。待ってたよ、陽彩くん」

 廊下の先から現れたのは、あの日と同じく、はちゃめちゃにスタイリッシュなエプロン姿の瀬ヶ崎パパだった。
 今日は公安という鎧を脱ぎ捨て、一人の「息子の友達を歓迎するパパ」の顔をしている……はずなのだが、放たれるイケオジオーラが強すぎて、黄金の後光が見える。

「ご、ご招待いただき、光栄です。改めまして、植草陽彩です……あの、つまらないものですが、これをどうぞ」

 必死に直角のお辞儀をしていると、その視線の先にモデルのような美貌で微笑む女性がいた。

「初めまして、瀬ヶ崎明良(あきら)です」

 こういう女性をクールビューティーというのだろうか。形容するなんて失礼なのかもしれないけれど、とにかくはちゃめちゃにお美しい。
 この前、瀬ケ崎くんがお姉さんをハタチと言っていたけれど、その佇まいはすでに完成されており、大人の余裕が漂っている。
 俺が挙動不審に視線を泳がせていると、お姉様は突如としてその仮面を脱ぎ捨てた。

「ぷっ……あはは! やだー、恭平。すっごいカワイイんだけど、この子!」

 先ほどまでの優雅な挨拶はどこへやら、お姉様は吹き出すなり、瀬ヶ崎くんの背中を「骨が折れるのでは?」と思うほどの強さでバシバシ叩きながら笑い転げた。

「面食いの遺伝子は間違いなく恭平にも流れてるわね。お肌ツヤピカ、髪さらさら。おめめパッチリで、いかにも恭平が好きそうなタイプ!」

「……マジで黙ってくんない?」

 最強の一軍男子である瀬ヶ崎くんも、実の姉には形無しらしい。恥ずかしさを誤魔化すように悪態をついてはいるものの、背中への無慈悲な殴打を受け流すだけで精一杯のようだ。

「しかも、これ駅前のケーキ屋さんのじゃん! 私ここの大ファンなの、センス最高。ありがとう、陽彩くん!」

「そ、そんな! 喜んでいただけて、光栄の至り、であります……っ」

 『恭平じゃなくて陽彩くんを弟にしたーい!』と叫ぶお姉様から、至近距離で美貌の暴力を浴びせられ、俺はされるがままに頭を撫で繰り回される。女性への免疫が皆無な俺の脳内には『システムエラー:過負荷により処理を中断します』という警告灯が激しく点滅し、一歩も動けず石のように固まってしまった。

 そんな俺の窮地を見かねてか、瀬ヶ崎くんがその手をパシッと叩き落とし、姉を鋭く睨みつけた。

「……気安く触んな。陽彩が壊れんだろ」

「こら、恭平、明良。姉弟喧嘩はやめなさい。陽彩くんの前でみっともないぞ」

 瀬ヶ崎パパの重厚な一喝。二人は火花を散らしながらも、一瞬で喧嘩を鎮火させた。
 そこへキッチンから、後光が差すほど優雅な瀬ヶ崎ママが登場し、俺はついに「華麗なる食卓」という名の、あまりにも眩しすぎる異空間へと着席することになった。

 俺の隣に座っている瀬ヶ崎くんは、心なしか不機嫌そうに口を尖らせている。けれど、俺はそれどころじゃない。
 だって目の前には、四人の華麗なる一族みたいな「美し過ぎるつよつよ顔面ファミリー」が鎮座しているのだ。この食卓、画面密度が高すぎて、俺みたいなエキストラは背景に溶けて消失してしまいそうである。

「陽彩くん、今日は来てくれてありがとうね。恭平のお友達に会えるなんて嬉しいわ」

 うふふ、と笑う瀬ヶ崎くんのお母さん。その目元は瀬ヶ崎くんにそっくりで、なんなら泣きホクロの位置まで同じだ。遺伝子強すぎませんか、瀬ヶ崎家。

 俺は目の前に並んだ料亭のようなメニューの中から、緊張で震える箸を使い、なんとか数口を運んだ。

「いえ、いつもお世話になっているのは自分のほうでして。瀬ヶ崎くんには飼育委員の仕事にも自ら立候補して貰って、本当に、すごく助かっているんです」

 にこ、と本日最大級の誠実な笑顔で答えると、瀬ヶ崎ママ・パパ・お姉さんは、なぜかポカンとした顔を浮かべた。

 ……あれ。語彙力が足りなかっただろうか。慌てた俺は、心臓のバックバクを隠しながら、胸にある想いを一生懸命に紡ぎだす。

「瀬ヶ崎くんが飼育委員に立候補してくれた時、最初は驚きました。でも、一緒に過ごすなかで見つけた素敵な部分もあって……決して退屈そうな顔をせず、僕の話をいつも真っ直ぐに聞いてくれるんです」

 お箸を握りしめたまま、柔らかく、けれど自分でも驚くほど真っ直ぐなトーンで言い切ってしまった。
 ふと隣を見ると、瀬ヶ崎くんが水を飲もうとした姿勢のまま、ピタリと動きを止めている。その瞳がわずかに揺れて俺を射抜いた気がした。

「自分が自分であっていいんだって、肯定されているような安心感をもらえて。皆の前で見せる完璧な姿も素敵ですけど、誰も見ていない場所で、誰かのために一生懸命になれる瀬ケ崎くんと仕事が出来るのは、僕の方が嬉しくて」

 そう答えた、次の瞬間。目の前の一家は同時に、深すぎる溜息をついて項垂れたのだ。

「恭平……あんた、ホントいい子見つけたわね。何この子? 天使の生まれ変わりか何か? 汚れた心が浄化されて、今なら私、全人類を許せる気がするわ……」

 お姉様が目元をナプキンで押さえ、パパさんも重々しく頷く。

「……ああ。本部長として多くの人間を見てきたが、息子の本質をここまで正確に、かつ愛を持って言語化してくれる人間に会えるとは」

 家族全員から絶滅危惧種を見るような目で見つめられ、俺は首を傾げながら、絶品の筑前煮を口に運ぶしかなかった。
 隣で瀬ヶ崎くんが、顔を真っ赤にして茹で上がったタコのように俯いている。

「陽彩くん。君のこと、すごく気に入ったよ。もうここは君の第二の家だから、いつでも遠慮せずに遊びに来なさい」

 お父様が感極まって俺の手をがっしりと握り、お姉様は『今日から私のこと『お義姉さん』って呼んでいいからね』なんて冗談を飛ばし、お母様は優しくおかわりを勧めてくれる。

 猛烈な歓迎ムードで会話は弾み続け、気づけば俺も「瀬ヶ崎くんが普段、教室でどのように過ごしているか」という追加情報を次々と提出している途中、急に瀬ヶ崎くんがガタッと椅子を引いて言った。

「……もういいだろ」

 そのまま、俺の返事も待たずに手首をがっしりと掴み上げる。

「ちょっと、恭平! これからデザートのメロンをカットするところ……」

「いらない。部屋行くぞ、陽彩」

 強引に俺を引き寄せる瀬ヶ崎くんの、その余裕のない横顔を見たお姉様が、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべた。

「やだー、恭平。独占欲全開?  アンタ相手のことを好きになりすぎて、いかにも重い彼氏になりそうだなとは思ってたけれど。陽彩くん、逃げるなら今だよ?」

「えっ!? い、いえ、あの、まだ彼氏ではなくてですね、まだ『好きにさせる宣言』からの執行猶予中で……!」

 必死に誤解を解こうと否定を試みたけれど、瀬ヶ崎くんの握力はさらに強まった。

「……姉貴は絶対に部屋来るなよ。近づいたら、お前が武道の有段者で握力60kgオーバーのゴリラ並みの筋力だってこと、彼氏にバラすからな」

「ひっ、目がマジだわ。怖い怖い!」

 お姉様の笑い声を背中に浴びながら、俺はドナドナされる子牛のような心境で、リビングから連れ出された。
 階段を上りながらも、俺の視線は止まらない。きょろきょろと不審者のように首を動かし、高級そうな調度品や、美術館のような廊下の照明に「ひぇっ……」と小声を漏らす。

「陽彩……こっち」

 廊下の突き当たり。瀬ヶ崎くんがドアを開け、俺を中へと促した。
 整理整頓された本棚、機能美に満ちたデスク。そして、ふわりと鼻先をくすぐる、いつもの瀬ヶ崎くんと同じ、清潔な香水の香り。
 窓際に飾られた表彰状やトロフィーの数々を、やっぱりこの人は全方位無敵のスペックホルダーなんだな……と見つめていると、背後で瀬ヶ崎くんが、重くて熱いため息を吐いた。

「お前、さっきの。……あんなの、親父たちの前で言うことかよ」

 振り返ると、彼はドアを背にしたまま、片手で顔を覆っていた。指の間から微かに見える頬が、いまだに真っ赤なままだ。

「えっと、その、喋り過ぎましたでしょうか」

「……うん。大分な。俺のライフはもうゼロだよ」

 それは申し訳ないことをした。おろおろと狼狽した俺は、謝罪の方式を土下座にするか、あるいは何らかの献上物を用意すべきかと悩み始める。
 けれど、瀬ヶ崎くんは俺の肩に、少しだけ震える指先で力を込めると、そのままローテーブルの前へと座らせた。
 逃げ場を塞ぐように、そのすぐ隣に彼もまた、重い腰を下ろす。

 さっきまでの賑やかさが嘘のような、密室の静寂。
 触れ合っている肩から、彼の高い体温が伝わってきて、俺は急に自分の心臓がうるさく鳴り始めたことに気づいた。

「……あの、瀬ヶ崎くん。本当にすみませんでした。僕、つい筑前煮の美味しさと皆さんの美貌に気圧されて、情報公開レベルの設定を間違えてしまって……」

 おろおろと謝罪の言葉を並べる俺の隣で、瀬ヶ崎くんは深く、深いため息を吐いた。けれど、その吐息は呆れているというより、何かを必死に堪えているような、重く熱い響きを含んでいて。

「別に、謝らなくていい。怒ってないから」

 彼は顔を覆っていた手をゆっくりと下ろし、視線を床の一点に落としたまま、ぽつりと呟いた。

「ただ、びっくりしただけ。尊敬してる陽彩が、俺のことそう思ってくれてたなんて思ってなかったし、すげー嬉しい。……正直、舞い上がってる」

 ――瀬ヶ崎くんが俺を、尊敬している?

 あまりに現実味を欠いたその言葉に、俺は思考がフリーズし、彼をにわかに信じがたい気持ちで見つめることしかできなかった。一軍の頂点に立つ彼が、何故、背景に溶けるようなエキストラに過ぎない俺などに。

 俺の戸惑いを余所に、瀬ヶ崎くんは静かに、けれど確かな熱を持って言葉を紡いだ。

「……陽彩さ。俺、ずっと怖かったんだ」

 絞り出された声は、低く、微かに震えていた。

「何をやっても、人並み以上にできちゃうんだよ。でも、それが鼻につくって嫉妬されるのも分かってるから、いつも無意識に『そこそこ』で調整して、皆が望むような『瀬ヶ崎恭平』を演じてきた。一軍とか、リーダーとか……そんなレッテルに自分を無理やり当てはめて、空っぽのまま笑うのが、俺の日常で。なんでもカバーできる円みたいな自分なのに、ずっと真ん中には何にも熱くなれない『穴』があいてて」

 瀬ケ崎くんはそう言って、自嘲気味に口角を上げたけれど、その瞳には光がない。

「だから、お前の『ドーナッツの穴』の話に共感して。自分が誰かに言ってほしかった言葉を、ぶつけただけだったんじゃないかって思ってる。初めてお前を助けたのだって、最初はただの義務感だったのかもしれない。『正しい瀬ヶ崎恭平』ならここで動くべきだっていう、薄っぺらなエゴ。……なのに」

 瀬ケ崎くんが、ゆっくりとこちらを振り向いた。

「……お前の方が、俺なんかよりずっと強かった。不格好でも自分の『好き』を貫いて、一人で立っているお前のメンタリティが、眩しくて、羨ましくて……俺は、憧れてたんだ。誰かの視線を気にして『そこそこ』を演じてる俺より、お前の方が、ずっとカッコいいって思った」

「そ、そんな……。俺なんて、ただの、逃げ回るのが得意なだで……」

「逃げてねーよ、お前は。……黒丸のことだって、誰に褒められるわけでもないのに、ずっと真剣に向き合ってきただろ」

 熱を孕んだ告白。彼が俺に惹かれたのは、俺が特別だからじゃない。彼が「完璧」というイメージの中で息を殺して生きてきたからこそ、俺のしょうもない生き方が、何かの希望に見えてしまっただけなのに。

 ――だとしたら計算式は、あまりにも簡単だった。

「……瀬ヶ崎くんは、計算間違いをしています」

 俺の声が、静かな部屋に響いた。恭平くんが、驚いたように目を見開く。

「瀬ケ崎くんが『そこそこ』で調整してきたのも、周囲に期待される自分を演じてきたのも……それは、君が誰よりも優しくて、繊細な人だからです。自分を殺してでも周囲との調和を選べるその力は、決して空っぽなんかじゃありません。……それは、僕には逆立ちしても真似できない、あなたの立派な『才能』ですよ」

 俺は少しだけ勇気を出して、彼の隣、そのわずかな隙間に手を置いた。

「俺を助けたのがエゴだったとしても、そのおかげで僕の絶望的な学校生活が、少しだけマシになったのは事実です。……だから、自分を貶めないでください。瀬ケ崎くんの差し出した手の温かさまで偽物だったなんて、俺が決めつけさせません」

「陽彩……」

 瀬ケ崎くんの喉が、微かに揺れた。迷うように手を伸ばし、俺のシャツの袖口を、縋るようにぎゅっと握りしめる。
 棚に並んだ金色のトロフィーを持つ瀬ケ崎くんも素敵だけれど、今、俺の隣で少しだけ泣きそうな顔をしている彼の方が、俺にとっては何万倍も価値があって、人間らしくて、愛おしいと思った。

「……完璧な瀬ケ崎くんじゃなくて、ありのままの瀬ヶ崎くんでいいと思います」

 俺がそう言い切ると、部屋の空気の密度が、一気に跳ね上がったような気がした。

 瀬ケ崎くんは、俺のシャツの袖を掴んだまま動こうとしない。長い睫毛が細かく震え、その隙間から覗く瞳が、強い感情に突き動かされたように揺れている。

 あれ。俺、また何かミスをしただろうか。何か失礼だったか、あるいは言い回しが情緒に欠けていただろうか。

「あの、瀬ヶ崎くん……? 今のは、あくまで論理的帰結に基づく、客観的な意見でありまして。決してその気持ちを侵害する意図は――」

「……陽彩のこと」

 低く掠れた声が、謝罪を遮った。瀬ケ崎くんは、掴んでいた俺の袖を離すと、今度はその大きな手で、俺の両頬を包み込むように覆う。
 触れた手のひらから、彼の熱が、動悸が、全部流れ込んでくるような気がして動けない。

「もっと、好きになった。……参ったな、もう、どうしようもない」

 そう言って泣きそうに笑った彼の顔は、どんな正解よりも美しくて、俺は自分の胸がはじけ飛んでしまうかと思った。

「……っ、あの! せ、瀬ヶ崎くん! つまり、その、俺の解析結果によれば、現在の状況は非常に心臓に負担がかかるフェーズに突入しておりまして! このままでは血管がオーバーヒートで破裂する可能性が……!」

 俺が真っ赤な顔をして、壊れたスピーカーのようにまくし立てると、瀬ヶ崎くんは包み込んでいた手を少しだけ緩め、ふっと柔らかく笑った。

「はは……お前、本当に台無し」

 彼は名残惜しそうに指先を離すと、すとんと元の位置に座り直した。触れられていた頬に残った熱がじりじりと主張を続け、俺の思考回路は完全停止したまま、復旧の目処すら立たない。

 逃げ場のない沈黙にそわそわしながら部屋を見渡すと、棚のトロフィーに寄り添うようにして、いくつかの写真立てが飾られていた。俺は膝立ちでそれらを覗き込む。

「これ、中学の時の瀬ヶ崎くんですか?」

「いや、それは五年生。ミニバスの大会で優勝した時のやつ」

 チームメイトと肩を並べ、眩しい笑顔でピースを向ける少年。顔立ちはすでに整っていて大人びているし、何より周囲より頭一つ分は背が高い。これでまだ小学生だなんて、同じ人類の進化過程とは思えない。俺なんて、五年生の時は道端の石拾いに全生命力を注いでいたというのに。

「で、こっちが中学の時。……まあ、今とそんなに変わんないと思うけど」

「学ラン、だったんですね」

「うん。……なんか、そんなジロジロ見られると、ちょっと恥ずかしいんだけど」

 今の瀬ヶ崎くんと、写真の中で友達と肩を組む学ラン姿の彼を見比べる。そこには、俺の知らない過去が息づいていた。
 同じ高校に入らなければ。クラスが同じで、なおかつ飼育委員という奇跡のような役回りに選ばれなければ、決して交わることのなかった人生。けれど、「もしも」という妄想が加速していく。もし中学時代に出会っていたら、もし同じ教室で過ごしていたら。

「陽彩は何部だったの? 中学の時」

「ずーっと帰宅部です。運動も苦手ですし、どちらかというと幼少期から活字を追ったり、静かな場所で観察したりするほうが性に合っていて」

「……陽彩のその、独特の喋り方と感性ってさ。やっぱ小さい頃からなの? ご両親は何してる人?」

「えっと、母は至って普通の専業主婦ですよ。父は高校で生物の教師をしています」

 絵本も、生き物も、この世界の仕組みも、幼い頃から大好きだった。
 たとえ周りの子と歩幅がズレていても、母は公園で「砂場の底がどうなっているのか知りたい」と一心不乱に砂を掘り続ける俺を止めることはなかったし、水族館で「クラゲの生態を観察したい」と言えば、何時間でも隣で付き合ってくれる寛大な人だった。俺の理系に偏った知的探究心の基礎は、間違いなく父の教えからきている。

 「そのままの自分でいていい」と肯定し続けてくれた両親。そして今、瀬ヶ崎くんもまた――その特別な一人に加わろうとしている。

「俺、もっと早く瀬ヶ崎くんと出会いたかったです」

「え?」

「きっと、同じ中学でも、俺からは声をかけられなかったとは思いますけど。……それでも遠くから君に憧れて、何かの拍子に言葉を交わして。そうして、今と同じように『瀬ヶ崎くんは素敵な人だ』って、何度も確信したでしょうから」

 にこ、と照れ笑いを見せると、瀬ヶ崎くんはそのまま深い沈黙に落ちてしまった。

 窓際のレースカーテン越しに柔らかな午後の陽光が透け、フローリングの上で繊細な影がゆらゆらと揺れている。それを見つめながら、俺はそれ以上、言葉を重ねることはしなかった。
 かつての俺なら耐えられなかったはずの沈黙が、今は少しも怖くない。

 語らずとも、隣にいる瀬ヶ崎くんの体温や呼吸が、波のように穏やかに伝わってくる。
 背伸びをする必要も、自分を律する必要もない。ただそこにいるだけで許されるような、そんな居心地の良さに、俺は心の底から身を委ねていた。





 その後、這うような心地でリビングに降りると、そこには「捕獲完了」と言わんばかりの笑顔を浮かべた瀬ヶ崎ファミリーが待ち構えていた。

「陽彩くん、もう帰っちゃうの? 寂しいわぁ、次は泊まりがけで来なさいね」

「陽彩くーん、次は二人でパフェ食べに行こうね! 恭平には内緒で!」

 お母様とお父様の暖かな握手、そしてお姉様のウインク。国賓待遇レベルの熱烈な見送りに「は、はいっ!」と裏返った声で応え、俺はようやく瀬ヶ崎家の巨大な門を後にした。

「……送るよ。駅まで」

 隣を歩く瀬ヶ崎くんは、さっきまでの熱を帯びた表情をどうにか抑え込んでいるようだったけれど、その横顔には隠しきれない慈しみが滲んでいた。

 街灯がまばらに照らす、夜の歩道。俺たちの歩幅が重なるたびに、静寂の中に靴音だけが反響する。
 ふとした拍子に、俺の左手と、彼の右手の甲が、微かに触れた。

「……あ、すみません」

 それは「接触」と呼ぶのも躊躇われるほどの、わずかな摩擦。なのに、そこから高電圧の電流が流れたかのように肩が跳ねる。

 不自然にならない程度に距離を置かなければ。そう思うのに、なぜか足元がおぼつかなくて距離感が狂う。動物園の時みたいに、彼が強引に手を引いてくれることはない。ただ、歩調が合うたびに、吸い寄せられるように甲と甲が、トントン、と密やかなリズムを刻むように触れ合う。

(――どうして、あの時みたいに、ぎゅっと繋いだりしないんだろう)

 そんな願望に似た疑問が心の隅っこに芽吹いていることを認めたくなくて、俺の全意識は左手のリソース管理に割かれてしまう。もはや呼吸の仕方を忘れた魚のように、口を微かに開けては閉じることしかできない。

 瀬ヶ崎くんの方は、一点を見据えたまま平然を装っている。けれど、横から覗き見える彼の頬が、赤く染まっているのを、俺は見逃さなかった。

 やがて、駅の改札が視界に入ってくる。
 まだ、離れたくない。もう少し、話していたかった。そう叫びたがっている左手を必死にポケットに隠して、瀬ケ崎くんと別れの挨拶を交わした。

「……じゃあ。また、月曜日」

「は、はい。今日は、ありがとうございました」

 結局、最後までまともに目を合わせられないまま、俺は逃げるように改札へと駆け込んだ。
 背中で瀬ケ崎くんが、いつまでも俺を見送っている気配を感じながら、俺は熱を持ったままの自分の手の甲を、反対の手でそっと押さえた。

(憧れてた、なんて。……「俺のことが好き」なんて。そんなの、きっとバグ以外の何物でもないのに)

 ふと窓に映り込んだ自分の顔は、人生で一度も見たことがないほど情けなく、それでいて幸福そうに緩んでいた。

 脳内では、この異常な多幸感を脳内物質の過剰分泌だと冷静に分析しようとする自分もいる。
 けれど、胸の奥で激しく打ち鳴らされる鼓動だけは、家に着くまでずっと、最大音量の非常事態サイレンのように鳴り続けていた。