クラスのド陰キャで「うさぎ係」の俺は、瀬ヶ崎くんからの告白フラグを折りまくっています。

 瀬ヶ崎くんと「デート」なる未知のイベントに臨む当日。約束の三十分前。

(瀬ヶ崎くんを待たせるなど、万死に値する……!)

 そんな武士のような覚悟で待ち合わせ場所へと駆けつけると、あろうことか瀬ヶ崎くんは、すでにそこにいた。
 柵にふわりと凭れ掛かり、スマホを片手に佇むその姿――。

 休日の人混みの中でも、そこだけスポットライトが当たっているかのように眩しい。同じ高校生とは思えないほど大人びた、洗練された私服を着こなす彼。
 それに比べて俺は、中学生の頃からデザインの進化が完全に停止している安定のチェックシャツに、安心と信頼の黒パンツ。

(これが陰キャ界に太古より伝わる「休日の標準装備」だ、胸を張れ、植草陽彩!)

 心の中で虚勢を張ってみるものの、いざ隣に並ぶ自分の姿を想像しただけで、あまりの格差にたまらなく恥ずかしくなってきた。

「瀬ヶ崎くん、おはようございま……」

 声をかけようとした瞬間、俺の喉はヒュッと鳴って止まった。
 彼の正面に二人組の女性が立ち、そわそわと声をかけている。二人とも髪の毛先をくるりと巻いて、いかにも女性らしい淡いピンクの装い。一言発するたびにぴょこ、ぴょこと動く仕草は、まるで餌をねだる小鳥たちみたいだ。
 一方で瀬ヶ崎くんはスマホをポケットにしまい、困ったような苦笑いで何かを答えている。

(もしかして、道を聞かれている? あるいは、街頭募金のお願いでもされてるのかな……?)

 少しの間話し込んだ後、女性たちは目に見えて肩を落として去っていった。今日の目標金額に届かなかったのだろうか。俺は柱の陰からそっと出て、瀬ヶ崎くんの横から恐るおそる声をかけた。

「あの、お待たせしました……!」

 振り返った瀬ヶ崎くんは、俺の顔を見るなり石像のように固まった。
 それどころか、頭のてっぺんからつま先まで、精密機械のスキャンでもするかのように視線を激しく往復させている。 ……あ、分かった。俺の服がダサすぎて、ついに彼の審美眼がエラーを起こしたんだ。どうだ、これが陰キャの放つ私服の禍々(まがまが)しさだぞ、と胸を張ってみたものの、何故かみるみるうちに瀬ヶ崎くんの頬が赤らんでいく。

「え、ちょ……待って。陽彩、マスクは……?」

「瀬ヶ崎くん、人に向かって指を差してはいけないと、幼稚園で習いませんでしたか?」

「あ、ごめん。……じゃなくて! なんで今日に限ってマスクしてねーんだよ!」

 なぜか必死な形相で詰め寄られ、俺は眉を寄せた。

「三十分前行動を徹底しようと思って軽く走ったら、日ごろの運動不足が祟って猛烈に息切れしまして。……このままマスクをしていたら、酸欠で倒れるというご迷惑を提供してしまうところだったんです」

 苦笑いしながら、リュックのサイドポケットからさっきまでつけていたマスクを取り出し、証拠品のように提示する。 けれど、瀬ヶ崎くんは俺のフル装備を解いた素顔をガン見しながら、しぼり出すような声で言った。

「……あー、心臓に悪い。……もういい。今日、お前そのままマスク着けんなよ」

「いや、それは流石に無理です。俺の顔面を公共の場に晒し続けるのは、無差別の視覚的テロ行為に近いものがありますので」

「……あー、いや、まあ。ぶっちゃけ学校では着けてて欲しい、気もする……騒ぎになる、絶対」

 お前の作り物の笑顔には興味がないからマスクを外せと言ったかと思えば、今度は着けておけと言う。さらには、学校では晒すな――。

 なるほど。瀬ヶ崎くんは、俺が思っていたよりもかなり気分屋で、掴みどころのない猫のような性格らしい。俺の脳内に蓄積された「瀬ヶ崎恭平・生態図鑑」に、また一つ予測不能な行動パターンという謎の項目が書き加えられた。

「あの、さっきの募金の方たち……どこの団体でしたか?」

「え、なに?」

「アフリカの動物たちを守る基金とかだったら、俺も一食分くらい我慢して、微力ながらお役に立ちたかったなと思いまして」

 俺が真剣に首を傾げると、瀬ヶ崎くんは『あぁ……』と天を仰ぎ、面倒くさそうに鼻の頭を掻いた。

「さっきの、逆ナン。DMでやりとりしたいって言われて、断ってただけ。……つーか、見てたのかよ! だったら、さっさと声かけろって」

「ぎゃっ!? ちょっ、瀬ヶ崎くん、脳が揺れます! 脳震盪ですっ!」

 ガシガシと、まるで大型犬をあやすかのような力強さで頭を撫で回される。
 募金ではなく「逆ナン」なる、俺の人生には一生実装されないであろう高度なリア充コミュニケーションだったと判明したところで、俺たちは階段を下りてバスプールへと向かった。


 ◇


 バスに揺られること四十分。市街地を抜け、山の上に現れた今日の目的地――動物園の正門が見えてきた。

  俺たちは受付でチケットを買い、脇目も振らずに園内中央にある「ふれあい広場」へと直行した。そこは、俺にとってのエデン。
 あるいは、理性を試される試練の場だ。

「ううっ……なんて罪深い! こんなに可愛いウサギさん達と密会してしまうなんて、学校で俺の帰りを待っている黒丸への明らかな不貞行為……浮気ですよ……! 来週、浮気相手の匂いがするとか言われて黒丸に嫌われたらどうすれば……?」

「黒丸はオスだけどな」

 サークルの中で縦横無尽に駆け回る、白・茶・グレーの色とりどりのウサギたち。ネザーランドドワーフたちの、あの短いお耳と、ぴくぴく動く愛らしい鼻。
 家族連れやカップルに混じって、俺と瀬ヶ崎くんは一匹ずつ膝に乗せさせてもらい、黒丸よりひと回り小さなそのモフモフのぬくもりを噛みしめた。
 俺が選んだ茶色のウサギさんは、まるで『美味しいもの持ってる?』と言いたげに俺の胸元に前足をかけ、鼻先を押し付けてくる。

「わあ、懐いてる……! もしかして俺の体臭がニンジンに近いのかな!? 良いですよ、いくらでも探検してください!」

「陽彩、さすがにその思考回路は極端すぎると思うぞ」

 悶絶しながら撫でくりまわしている俺の隣で、瀬ヶ崎くんも驚くほど慣れた手つきで白いうさぎの体を優しくストロークしている。初めて出会った時は抱き方すら知らなかった彼が、今や立派なウサギ使いだ。その成長に感動しつつ、俺が『可愛い、可愛い』と連呼していると、隣から何やら重苦しいオーラが漂ってきた。

「……お前、さっきからずーっと、ウサギばっか見すぎ。今日のデートの相手、そいつじゃなくて俺なんですけど」

 あ、出た。「絶賛・拗ねてますよモード」の瀬ヶ崎くんだ。端正な顔立ちをこれでもかと不服そうに歪め、膝の上のうさぎを愛でながらも、その瞳は鋭く俺を射抜いている。うさぎ相手に謎の対抗意識を燃やすその姿があまりにおかしくて、つい『ぐふっ』と変な笑いが漏れてしまった。……が、それを瀬ヶ崎くんが聞き逃すはずもなかった。

「むぐっ……!?」

 瀬ヶ崎くんの手が伸びてきて、俺の両頬を肉まんのようにムギュッと掴んだ。

「せ、せげぜき(瀬ケ崎)くん、はな、はなじで(離して)……!」

「今日はうさぎの世話じゃなくて、俺とのデート。俺だけ見てる日なの。分かった?」

 至近距離でその瞳に貫かれるたび、俺の中の臆病な防衛システムが一つずつ音を立てて外れていく。

 代わりに溢れ出すのは、心臓の奥がキュウッと鳴るような、説明のつかない熱い何か。叫んで逃げ出したいのに、掴まれた頬から全身に広がるドキドキを、ただの動揺として処理することは、もう不可能な領域に達していた。

「……ちょうど昼だし、メシ食いに行こう。ほら、行くぞ」

 名残惜しさのあまり、魂の半分をうさぎ広場に残してきた俺を、瀬ヶ崎くんが強引に回収する。

 手洗いを済ませて外へ出ると、目の前ではヤギとヒツジのふれあいエリアが広がっていた。けれど、立派な角を振り回して大暴れしているオスのヤギさんを見て、来園者たちは『あ、今はやめとこうね……』と苦笑いで素通りしていく。

「えーっと……この坂を下ったところだな」

 そんなサバイバルな光景を横目に、瀬ヶ崎くんはスマホのデジタルマップを見ながら、俺の手首をガシッと掴んでレストランまで連行し続けた。





 たどり着いたのは「グーグーテラス」という、名前からして食欲をそそるお店だ。 窓際の明るい席に向かい合って座ると、瀬ヶ崎くんはメニューを俺の方へ恭しく向けてくれた。

「陽彩は何が良い?」

 メニューの筆頭には「オススメ!うま味たっぷりハンバーグのしろくまプレート」という、キラキラした宣材写真が鎮座している。他にもお洒落なパスタやグラタンが並んでいたけれど、俺は「リストの最上段にあるものが最も期待値が高い」というシンプルなロジックに基づき、即決した。瀬ヶ崎くんも『じゃあ俺も』と、迷うことなく同じものを注文する。

 料理を待つ間、二人で一つのスマホを覗き込んで、今日のカメラロールを鑑賞した。そこには、愛くるしいウサギの写真と、そのウサギに必死に話しかけている俺の写真が、交互に保存されている。瀬ヶ崎くんはそれを満足げに眺めては、『あ、この陽彩かわいい』などと、正気を疑うような供述を繰り返している。

「瀬ヶ崎くん、やはり疲れてるんですよ。重度の眼精疲労からくる幻覚の可能性があります。今すぐ救急外来の受診をお勧めしますよ」

「陽彩って、ホント自分の外側のスペックには無頓着だよな。お前、自覚がないだけで、相当整った顔してるぞ。女子が見たら騒ぐって」

「いやいや……そんな、瀬ケ崎くんに『お前の顔面は合格点だ』と太鼓判を押されても、こちらとしては『判定ミス』というエラーログしか吐き出せませんって」

 実際、これまでの人生で異性から「カッコいい」などと面と向かって言われた試しがない。バレンタインにチョコをもらうという稀有なイベントも、基本的には差出人不明。朝、靴箱を開ければ雪崩のように崩れ落ち、机の奥底に無造作にねじ込まれている。きっと、慈愛の精神に満ちたマリア様的な女子が、ぼっちの俺を憐れんで施してくれたのだろう。

 その証拠に、中学時代なんて――俺が勇気を出してグループワークや週番の仕事で女子に話しかければ、みんな一様に顔を真っ赤にして俯いてしまう。
 俺の喋り方が気持ち悪いせいで、女性を極限まで困惑させているんだと確信している。それでもなお「整っている」と言い張るなら、もはや瀬ヶ崎くんの視神経に重大なバグが生じているとしか思えない。
 全力で精密検査を勧めていると、ついに二つのしろくまプレートが運ばれてきた。

「あ、今日は証拠写真、撮らなくていいんですか?」

「いや、撮るけどさ。俺は事件現場の証拠品を押収してる鑑識じゃねーよ」

 瀬ヶ崎くんは笑いながら、俺の姿を含めたプレートを写真にパシャリとおさめた。しかし、いざ食事を始めようとしたところで、瀬ヶ崎くんがナイフを手にフリーズした。

「……切りづらいな、これ。どこから行けばいいのか分かんねぇ」

「そうですか? 面積の大きい中央から行くのが定石(じょうせき)ですよ」

 悩める王子を横目に、俺は迷いなくナイフを手に取った。そして、愛らしいしろくまさんの眉間から、ど真ん中で真っ二つに一刀両断した。

「うわ、陽彩マジかよお前!!」

 瀬ヶ崎くんが膝を叩いて、今日一番の爆笑を漏らし始めた。

「もっとこう、『可愛すぎてナイフ入れられないですぅ』みたいなピュアでメルヘンな反応はねーのかよ! 躊躇ゼロか!」

「いや、ただのメシですし……。何より中心部までしっかり熱が通っているか確認しないと。瀬ヶ崎くんも女子みたいなこと言ってないで、早く食べましょう。断面から肉汁が逃げるのを黙って見てるなんて、勿体ないですよ!」

 そう言ってハンバーグの切片を迷いなく口へ放り込む俺を、瀬ヶ崎くんは呆れたように、けれどとろけるような甘い眼差しで見て笑う。

「マジで、顔と内面のギャップがエグいよな。いや、そこがまぁいいんだけど」

 メインディッシュがなかなかのボリュームだったにも関わらず、俺の中の甘味専用胃袋(べつばら)が、まだいけるぞ、と騒ぎ出す。勢いで追加注文したのは、これまたファンシーな「うさぎちゃんベリーパフェ」だ。 俺も瀬ヶ崎くんの真似……というわけではないけれど、目の前に現れた可愛いの暴力のような造形美を記録に残そうと、スマホのカメラを構えてみた。

「瀬ヶ崎くん、ついでなので一緒に画面に入って笑ってください。画角の調整にちょうどいいので」

「おい、ついで扱いは人生で初めてされたわ。しかも、画角の調整用って」

 そう言いながらも、瀬ヶ崎くんはテーブルに両腕をのせて、軽く首を傾けて微笑んでくれた

(……なんだこれ。モデルの撮影現場か? 某有名ファッション誌の表紙か?)

 背景のファミレスっぽい内装が、一瞬でパリのカフェか何かに書き換えられたような錯覚に陥る。撮れてしまったのは、あまりにも写真集みのあるカットだった。

(やばい。こんな写真をスマホに入れていることがバレたら、校内に潜伏している「瀬ヶ崎くんファンクラブ」の隠密(おんみつ)部隊に背後から狙撃されるかもしれない……!)

 多分、会員番号は余裕で百ケタを超えている。うさぎ係の仕事をしに向かうために歩いているだけで、廊下にいる女子達がきゃいきゃいと騒いで視線をぶつけている光景は、この短期間で何度も見てきているから、間違いない。

「おーい、陽彩。どうした? 一人で百面相して、今度は脳内で何と戦ってんだよ」

「い、いえ。ちょっと自分の命の灯火(ともしび)が、ファンクラブの皆様に吹き消される未来を予知したもので……。あ、瀬ヶ崎くんも食べてください。どうぞ、お裾分けです」

 俺は未使用のスプーンにたっぷりとアイスをのせると、無造作に瀬ヶ崎くんの口元へ差し出した。 すると瀬ヶ崎くんは、一瞬だけ「えっ」と驚いた顔をした後、観念したようにゆっくりと口を開いた。

「……こういうのは、抵抗ないわけ?」

「ええと、弟によくやっているので……その、なんで抵抗を感じるのかがイマイチ分からないのですが」

「え、俺の扱い、陽彩の弟と同レベなの?」

「そんな訳ないじゃないですか! どちらかというと、やたらと顔の整った希少な野生動物に、ドキドキしながら餌付け体験をしている時のような緊張感ですよ」

 『美味しいですか?』と聞くと、瀬ケ崎くんは耳まで真っ赤にして、コクコクと頷くだけで精一杯のようだ。
 
 パフェを完食し、幸せな重みを感じるお腹を抱えて、俺たちはテラスを後にした。





 午後もたっぷりと時間をかけて、園内を端から端まで見て回った。
 どこか教室内のスクールカーストを彷彿とさせるサル山一族の泥沼な勢力争いを、手に汗握る思いで観察したり。
 突然始まった野生の交尾に、周囲のカップル共々、なんとも言えない気まずい沈黙に包まれたり。

「うわー、マジで悩む……」

 瀬ヶ崎くんはレッサーパンダのあざといまでの可愛さに足を止め、商売上手にもほどがあるその横で売られていた「三九〇円のフォトストラップ」を買うべきか、本気で頭を抱えていた。俺はその、学校の王子様らしからぬ庶民的な迷走ぶりを見て、思わず喉の奥で笑った。

「瀬ヶ崎くん。そのキーホルダー、ポップに『園内限定』と明記されています。つまり、今この場所を離れれば手に入らないということです。自販機での水分補給を二回ほど我慢すれば、予算は捻出できますよ。ほら、在庫もあと二つしかない。完売へのカウントダウンは、もう始まっています……!」

「陽彩……お前、さては俺に買わせようとしてるだろ」

「ええっ、そんな。俺はただ、入手難易度と費用対効果を客観的にプレゼンしただけです。動物園の回し者じゃないですよ?」

 結局、瀬ヶ崎くんは「冷静に考えたら、つける場所がない」という至極真っ当な理由で、購入を断念した。

 一方の俺はと言えば、レッサーパンダの華やかさには目もくれず、その隣で土を掘り返すことだけに全生命を賭しているプレーリードッグの勇姿に心を打たれていた。

「な、なんでしょう……すごく同族意識を感じます」

「まぁ、可愛さは共通してるかもな」

 無心で泥を撥ね飛ばすその泥臭い生き様。俺は、スマホのストレージが限界の悲鳴を上げるまで、その健気な背中を連写し続けていた。

「瀬ヶ崎くん、あっちも見に行きましょう! カンガルーが本気で殴り合いの喧嘩をしてます! 躍動感がすごいですよ!」

 早く、と急かすように彼の腕を引いた瞬間、瀬ヶ崎くんが小さく声を漏らして表情を強張らせた。

(あ。さすがに、ボクシング顔負けの乱闘を野次馬しに行くのは嫌だったのかな……?)

 そう思って不安げに顔を見上げた、その時だった。

「はしゃぎすぎ。……そういうところも、すげー可愛くて好きだけど」

 俺が引いていた彼の腕から、するりと手が滑り落ち――代わりに、俺の指を割り込むようにして、瀬ヶ崎くんの大きな掌が重なった。

「……っ」

 はっとして視線を落とすと、彼は逃がさないとばかりにぎゅっと力を込め、手と手の隙間を埋めるように深く握り直してきた。

(えっ、待って。これ、いわゆる「恋人繋ぎ」の一歩手前……いや、友達という概念の境界線をマッハで踏み越えていく、最高難易度のスキンシップじゃ……!)

 俺の頼りない細い指を、丸ごと包み込むその掌は驚くほど大きくて。瀬ヶ崎くんの親指が、まるでこちらの緊張を確かめるように、ゆっくりと俺の手の甲を撫でていく。その一撫でごとに、脳内の電気信号がバチバチと火花を散らす。

「あ、あの。瀬ヶ崎くん……?」

「……行こう。見たいんだろ? カンガルーの喧嘩」

「は、はい……」

 瀬ヶ崎くんは一度も俺と目を合わせないまま、前を向いて歩き出した。

 これが迷子になりそうな俺を導くための、彼の慈愛に満ちた福祉サービスだと思い込みたい。けれど、そうじゃないことは、繋がれた手のひらから伝わってくる、熱い体温のせいで嫌でも分かってしまう。

 俺の横を歩く彼の視線は不自然に足元を彷徨っているし、なにより、その耳や頬が夕焼けの空よりも鮮やかな赤に染まっている。
 あの瀬ケ崎くんが、どう見たって「照れている」と分かりすぎて、俺の心臓はカンガルーのステップよりも激しく、暴力的なリズムで跳ね始めた。

 手を解くべきか、それともこの温もりを享受し続けるべきか。そんな贅沢な悩みを脳内でこねくり回しているうちに、カンガルーたちが華麗なドロップキックを繰り出している人だかりまで辿り着いてしまい、やんわりとその手は離れた。

「おお、すげー激しいファイトだな。初めて見た」

「で、ですよね……オス同士の縄張り争いでしょうか……」

 離れた瞬間の指先が、隙間風にさらされたように急に冷え切って感じる。
 俺は目の前で繰り広げられる野生の激しい乱闘を見つめながらも、頭の中は瀬ケ崎くんの掌の感触と、彼の手のひらの熱さだけで、完全に埋め尽くされていた。





 動物園の閉園時間が近づき、俺と瀬ヶ崎くんは出口のゲートをくぐった。 お土産コーナーで黒丸にそっくりなぬいぐるみを見つけ、買うかどうかを散々悩んだけれど、値段もそれなりにする。後ろ髪を引かれる思いで諦めて歩き出すと、バス停の手前で瀬ヶ崎くんが不意に足を止めた。

「陽彩」

 振り返った彼の顔があまりに真剣で、こちらも思わず呼吸を忘れる。瀬ヶ崎くんは一度だけ視線を彷徨わせてから、射抜くような瞳で俺をまっすぐに見つめた。

「まだ、時間ある? ……そこの坂を上った先に、夜景が見える展望デッキがあるらしくて」

「えっ、知らなかったです。時間は、まだ大丈夫ですよ!」

 そういうロマンチックな極上スポットまで網羅(もうら)しているとは、さすがデキる男・瀬ヶ崎恭平。

(その徹底したリサーチ能力、もはや県の広報担当としてスカウトされるべきレベルなのでは。いや、これだけ整っているのであれば、数年後には観光大使に選ばれている可能性もなくはない……)

 それを俺のような陰キャに惜しげもなく披露するのはいささか可笑(おか)しな話だけれど、俺は小さい頃から高所が大好きだ。
   
 高い場所に行けば行くほど、世界を構成する幾何学的(いかがくてき)な構造がパノラマで展開される。視界を拡張するあの感覚は、俺にとっては最高にエキサイティングなことの一つなのだ。
 期待と、そして抑えきれない高揚を込めた瞳で見つめ返すと、彼は俺の反応をどう読み取ったのか、さらに一歩、逃げ場をなくすように距離を詰めてきた。

「そこで……話したいこと、あるから」

 いつもの余裕たっぷりな笑顔が消え、まるで重大な任務を帯びたエージェントのような顔をしている。
 その重苦しい空気に、俺の脳内予測変換がトンデモない妄想を次々に弾き出すのを抑えながら、二人でぽつぽつと感想を交わしながら坂を上る。

「……ハァ、ハァ……瀬ヶ崎くん。この勾配は、なかなかに……過酷ですね……」

「そう? ごめん。俺、わりと心肺機能のトレーニングとか好きな方だから、乳酸が溜まる感覚、嫌いじゃないんだ」

「も、ものすごいカロリーの消費です……恒常的な運動不足の俺には、生存の危機を感じるレベルで……」

 今すぐ両手にトレッキングポールが欲しい。絶景という視覚報酬を得る前に、ダウンしてしまいそうだ。
 そんな俺の「激よわ体力」を目の当たりにして、瀬ヶ崎くんが大きな手を差し出す。

 その光景が映った瞬間、初めて会話したあの日――「行こう」と職員室へ手を引いてくれた時の、瀬ケ崎くんの眩しすぎる笑顔が鮮やかに思い出された。

「……陽彩? どうした?」

「あ、いえ……何でもないです……」

「もう少し続きそうだし、掴まっていいよ。登りきるまで、俺が牽引してやるから」

 返事をするより先に、彼の逞しい二の腕へと手を誘導され、俺は戸惑いつつもその提案を享受した。
 羞恥心よりも、己の体力を維持し、活動限界を回避することを優先してしまった結果である。

「……陽彩、お前ほんと細いよな。摂取カロリーは高いはずなのに、どこに消えてんだよ」

「お、俺もそれがずっと謎で……。代謝効率が異常なのか、筋繊維が肥大しにくい体質のようです」

 瀬ヶ崎くんは俺の棒切れのような手首を掴むと、親指と中指が容易に重なる事実に驚愕したように目を見開いていた。
 そのまま、俺の鈍重な歩調に合わせて、彼は一歩ずつ地面を踏みしめてくれる。

 そこから数分、ふくらはぎに感じる乳酸との闘いの末に。
 視界が急激にひらけた頂上へと辿り着くと、そこには瞬く光の粒が無限に広がる、まるで宝石箱をひっくり返したような、市街地の夜景が広がっていた。

「うわ……すごい、綺麗……っ」

 息を呑むほどの絶景に見惚れていた、その時。
 背後から温かい体温がぴったりと重なり、しなやかな腕が俺の体をギュッと包み込んだ。肩に回された腕の、がっしりとした太さ。俺の両肩をすっぽりと覆ってしまう、その体格差。

「えっ……瀬ヶ崎くん?」

 不意打ちの密着に心臓が跳ね、瀬ヶ崎くんってこんなに雄々しい体躯をしていたっけ、と意識が遠のきそうになる。背中越しに感じる彼の筋肉の張りや、規則正しい呼吸の熱が、俺の思考回路を激しく撹乱していく。

「捕獲……じゃなくて、物理的な捕縛ですか?」

「いいから、黙って聞いて」

 目を白黒させている俺の耳元に、低く、けれど熱を帯びた声が溶け落ちてきた。
 吐息が肌をかすめ、香水の香りが夜風にのってふわりと届く。

「……俺、陽彩のことが恋愛的な意味で好き。恋人になって欲しいって、思ってる」

 その言葉が、静かな湖面に投げ込まれた小石のように、俺の頭の中で波紋となって広がっていった。
 瀬ヶ崎くんの腕に力がこもり、服越しに彼の心臓の音が、まるで自分のものであるかのように激しく響いてくる。

 それが冗談でも、ドッキリでもない。俺の全身を震わせる、痛いほどの切実さで伝わってきて、俺の胸の中は制御不能の暴走を始めた。
 腕の中でなんとか体を反転させ、至近距離にある瀬ヶ崎くんの、余裕のかけらもない真剣な顔を見上げると、パニックのままに捲し立てた。

「だ、だめです瀬ヶ崎くん! それは絶対に、間違ってると思います」

「……何でだよ」

「よく見てください! おっ、俺はクラスの隅っこが似合うような、地味で暗い人間なんです! 瀬ヶ崎くんが好きになるのは、食パンを咥えて角から飛び出してくるような、やたらと瞳の大きな可愛いヒロインであって、俺みたいなエキストラの『通行人A』じゃないはずです! 好きになる対象を、異次元レベルで間違えています!」

 俺の必死の抵抗を、瀬ヶ崎くんは否定しない。ただ、逃がす気などさらさらない強い瞳で、俺の言葉を全部受け止めていた。

「今ならまだ、聞き間違いだったことにできます!」

「絶対に嫌だ。お前、自分のこと暗いと思ってんの? こんなに喋るとうるさくて、面白いのに?」

 バタバタと振り切ろうと暴れると、再び腕の中に閉じ込められる。観念しろと言わんばかりの、男らしい、有無を言わせぬ口調。

「俺、陽彩みたいな面白くて可愛い生き物、人生で初めて見たよ。……でも、そんなに否定するんなら、お前から言わせる」

「えっ、な、何をですか……?」

 瀬ヶ崎くんは俺の両頬を熱い手で包み込み、逃げ場を塞いで宣言した。

「俺のこと。陽彩に『好き』って言わせるから」

 耳元で響いたのは、命令のようでもあり、切実な祈りのようでもある、ひどく甘い宣告だった。

 ポカーンという間の抜けた擬音が、夜景の綺麗な展望デッキに木霊しそうなほど、俺は呆然と立ち尽くした。こんなにも不釣り合いで、映画のクライマックスでも見かけないようなシチュエーションが、自分の人生のどこかに用意されていたなんて。

「せ、瀬ヶ崎くん……! それってつまり、俺の平穏な心を不法占拠するっていう再度の宣戦布告ですか!? 今、俺の心の中で『一生日陰で目立たず静かに暮らすための平和維持計画書』が、ものすごい音を立ててシュレッダーにかけられたのですが!? 脳内で未曾有(みぞう)のパニックが起きてるんですが!」

 必死の抵抗を試みる俺の言葉を、瀬ヶ崎くんは力強く、かつどこか慈しむように腕の力だけで封じ込めてしまう。

「うん。それでいいよ」

 瀬ヶ崎くんは、ようやくその張り詰めていた表情を緩め、少しだけ不敵に、そして魅惑的な男らしい顔で笑った。

「……陽彩が好き。だから、めげずにアプローチし続けるし、お前がなんと言おうと、俺は諦めないから」

 逃げ場なんてどこにもなかった。 背中に感じる彼の体温と、鼓動の早さ。頬を包む熱い手のひら。

 不法占拠だなんて喚いているけれど、俺は真っ赤な顔のまま、あまりに強引で、あまりに優しい侵略者の腕の中で、ただ翻弄されることしかできなかった。