クラスのド陰キャで「うさぎ係」の俺は、瀬ヶ崎くんからの告白フラグを折りまくっています。

 
 瀬ヶ崎くんに言われるがまま、されるがまま。
 なす術もなく手を引かれて連れて来られたのは、あの有名すぎるドーナツチェーン店だった。

 一歩店内に足を踏み入れた瞬間、直撃してきたのは、キラキラと輝く女子高生や華やかなオーラを纏った学生、そして洗練されたOLたちの群れ。
 お洒落でスタイリッシュな海外風の内装が、重度の「オシャレ・アレルギー」を抱える俺のメンタルを容赦なくヒリつかせる。

 ここのドーナツを食べたことは、確かにある。けれど、それはあくまで母がテイクアウトしてきたものを、自宅で食べるだけの話だ。
 出先でこの店の看板を見かけても、一人でレジに並んだこともない。ましてやこの眩しすぎる空間でイートインするなんて、考えたことも無かった。

「一緒に頼もうぜ。植草、どれが食べたい?」

 瀬ヶ崎くんと並んでショーケースを覗き込む。
 色とりどりのドーナツたちが誘惑してくるけれど、俺は値段とカロリー、そして「食べやすさ(幼児のようにこぼさないか)」という三重苦の計算に明け暮れ、ショーケースと激しい睨み合いを繰り広げた。

 結局、二人で三個ずつ選ぶと、瀬ヶ崎くんは二人分の白い丸皿を軽々と持ち上げ、迷わず一番奥のテーブル席へと向かった。
 ……さすが瀬ヶ崎くん、分かっている。すみっこの(たみ)を自認する俺にとって、この死角の多い席は、リア充砂漠におけるオアシス。最高にありがたい選択だ。

 俺が壁側の席に滑り込み、食べるためにマスクを外した、その時だった。向かい合わせに座った瀬ヶ崎くんが、ほんの一拍、フリーズする。

「……瀬ヶ崎くん? 注文、間違ってましたか?」

 俺が首を傾けると、彼は『や、なんでもない』と視線を泳がせ、コーラの入ったグラスにストローを突き刺した。
 瀬ヶ崎くんは気を取り直したようにスマホを取り出すと、並んだドーナツを丁寧に写真に収め始める。イケメンが真剣な顔つきでドーナツを撮る姿、それだけで映画の一場面みたいで俺は思わず彼を凝視した。

「え、何? やっぱ、こっち食べたくなった?」

「いや……どうしてドーナツの写真なんて撮っているのかな、と思いまして。……証拠写真か何かですか?」

「証拠って何のだよ。ただ、SNSに載せる用だけど」

 俺の至極真面目な問いに、瀬ヶ崎くんは呆れたように目元を緩め、スマホの画面をこちらに向けてくれた。

 そこには、今しがた撮影されたばかりのドーナツの写真。その上に、「#すきぴと放課後デート中」という、お洒落なフォントの白い文字が浮いている。
 画面の端には、アイコンらしき丸い窓や、カメラ、紙飛行機のマークが並んでいる。SNS界隈の文化については、自分とは異なる世界の出来事として処理してきた俺にはさっぱり分からないけれど、多分こうして不特定多数の第三者に私生活を公開するためのアプリケーションなのだろう。
 瀬ヶ崎くんの指は滑らかな動作で画面をタップし、その「証拠画像」をインターネットの大海原へと放流していった。

 それにしても「すきぴ」とは一体何のことだろう。好みのピーナッツの略だろうか。でも俺、ピーナッツではないよな。

 すきぴ。SUKIPI。すき……ぴ?

 完全に思考がストップした脳内では、未知のワードを警戒して各部署の担当官が机を叩いて怒鳴り散らす、地獄のような脳内会議が勃発していた。

(待て待て、落ち着け。まずは冷静な解析が必要だ)

 俺の脳内辞書が、猛スピードでその未知の単語をスキャンし始める。
「すきぴ」……この、どこか可愛らしくも破壊的な響きの暗号。これはきっと、自分のような人間を定義するための「高度な隠語の頭文字」違いない。
 脳内の言語解析班が、必死に「す」「き」「ぴ」から始まる単語を繋ぎ合わせ、最悪のパズルを完成させていく。

「す」……スッゲー
「き」……キワモノ
「ぴ」……

 ――出た。演算の結果、導き出された唯一の「正解」。
 俺は、震える声でその絶望的な結論を口にした。

「瀬ケ崎くん、すきぴというのは、す……『スッゲー・キワモノ・ピープル』……の略、で合っていますよね?」

 俺の正解を見つけたと言わんばかりのドヤ顔に、瀬ヶ崎くんは「ぶはっ!」とコーラを噴き出しそうになりながら、絶望したように額を押さえた。

「……あー、把握。いいよ、もう。もはや一生、植草にはそのままで居てほしい」

 瀬ヶ崎くんは、呆れたような、でもどこか愛おしそうな顔でドーナツにかじりついた。
 俺はと言えば、自分が「スッゲー・キワモノ・ピープル(=スキピ)」として全世界に発信されたことに戦慄しながら、震える手でドーナツを手にする。

 手元のチョコファッションにぽっかりと開いた穴と、テーブルを挟んだ向こう側でドーナツを食べている瀬ヶ崎くんのまばゆい顔面を交互に見つめて、ふと呟いた。

「瀬ヶ崎くんは……どうしてドーナツに穴が開いているか、知っていますか?」

 突拍子もない俺の問いかけに、瀬ヶ崎くんは虚を突かれたような顔をした。
 彼は手元のドーナツを少し不思議そうに、けれど真剣に眺め、一緒に思考の海に潜ってくれる。

「いや……考えたことも、気にしたこともなかったわ」

「これ、中心部まで均一に熱を通すための、先人の知恵なんですよ。生地に厚みがあると、真ん中がどうしても熱伝導の限界を迎えて、生焼けになってしまうから」

 俺は沈黙という名の空白を埋めるために、必死で蓄積された無駄知識を披露した。
 一口かじり、皿の上に置く。未だに、自分がクラスメイトと放課後に「寄り道」というリア充高校生特有のイベントを完遂している事実に、気持ちが追いついていない。

「……俺って、自分とドーナツは構造が似ているなぁって、思う時があるんです」

「え、何? ちょっと待って。急にディープな哲学でも始まった? どういうこと?」

 瀬ヶ崎くんが苦笑いを浮かべながら、俺をまっすぐに見つめ返す。その瞳の温度があまりに優しくて、俺はつい、心の深淵にある誰にも見せたことのない「すみっこ」をさらけ出してしまった。

「……ドーナツの穴みたいに、自分の心には、どうしても埋まらない空白があるんです。ずっと空っぽで、そこだけ冬の隙間風がスースーと吹き抜けていくような感覚で。……やっぱり自分は、根本的に人と内面の設計図が違うのかなって。この穴さえ埋まれば、俺も『普通』に混ざって、笑えるようになるのかなって、ずっと……ずっと考えていて」

 小学生の頃は「少し変わった子」で済んでいた個性が、中学に入ると「不思議ちゃんすぎて、話が合わない」という拒絶の理由に変わった。

 周りが芸能人の噂や流行りのゲーム、SNSに夢中になる中で、俺だけがどうしてもその熱狂の仕組みを理解できなかった。
 可愛いとか格好いい、それを見てキャーキャー騒ぐ心理が、理解できない。
 ただひたすらに画面の中のアルゴリズムに従って出てくるものに夢中になって、時間を溶かした先に何が得られるのか、わからない。
 「自分はこんなにも満たされている」ということを、毎日顔を突き合わせているはずの友人や、はたまた一度も会ったことのない人に、幸せを示すことの目的に共感を示せない。
 無理に合わせようと背伸びをしたこともあったけれど、結局、心の底から楽しむための「何か」を俺は持ち合わせていなかったのだ。

 一時は人と話した先で否定されるのが怖くなって、学校というシステムそのものを拒絶しそうになったこともある。
 なんとか、両親の「行くだけで偉いよ」「いつか陽彩を理解してくれる人に出逢えるから」という祈りのような励ましを羅針盤にして、俺は三年間を文字通り「ぼっち」として過ごしてきた。

 けれど、高校に入っても、その景色は変わらない。陰キャ、コミュ障、理系に偏りすぎた思考回路。みんなが当たり前に持っている「何か」が、自分には決定的に欠けている。その欠落を、俺はドーナツの穴になぞらえずにはいられなかった。

 心のどこかで救いを求めるように俯くと、瀬ヶ崎くんは手元のドーナツにもコーラにも目もくれず、俺の目を真っ直ぐ射抜いて言った。

「その穴が埋まっちゃったら、それはもう『植草陽彩(うえくさひいろ)』じゃないと思うけどな」

「え……?」

「穴があるから、お前は他の奴が気づかない小さなことに気づけるし、そんなに優しくなれるんだろ。欠陥じゃなくて、それがお前の形なんだよ」

 瀬ヶ崎くんは、少しだけテーブル越しに身を乗り出して、祈るような静かな声で言葉を続けた。

「俺は……植草が人と違ってるところが、すげぇ好きだよ。人として、魅力的だと思う。だから『欠陥(けっかん)』じゃなくて、ただそこに『穴がある』って思えばいいんじゃねーの?  ……それでも、どうしても心の穴を埋めたいって言うなら。そのスペースに、俺を入れて欲しいかな」

 瀬ヶ崎くんはふっと口角を上げると、いつものように頬杖をついて、俺の瞳の奥をじっと射抜いたまま視線を逸らさない。

「植草、さすがに今の……ちゃんと伝わってる? 『俺のこともっと意識して』って言ったんだけど」

 じっ、と至近距離でその目力のある瞳に見つめられて、俺の防衛省がアラートを鳴らした。思わず後ずさりしようとしたが、背中は椅子の背もたれに阻まれている。逃げ場がない。頭が真っ白な煙を上げた俺は、早口で両手をぶんぶん振り回しながら叫んだ。

「い、今さらっと俺の『心の空き地』に、不法建築の予約を入れました!?  土地代も確認せず、勝手に地鎮祭(じちんさい)まで済ませようとしてるんですか、何なんですか瀬ヶ崎くん!」

「いやいや、不法建築って……植草、マジで何でそんな俺のアプローチを全力回避すんの? 俺のこと、苦手っていうか……嫌い?」

 瀬ヶ崎くんは呆れたように肩をすくめつつも、その瞳には隠しきれない真剣さが滲んでいる。

 俺はと言えば、心の中の「空き地」が、瀬ヶ崎くんという超豪華な建築計画に強制的に買い叩かれそうになっている事実に、ただただ口をパクパクさせることしかできなかった。嫌いだなんて、思ったことはない。ただ、俺のキャパを超えるコミュニケーションに困惑しているだけだ。

「俺は、植草のこと友達以上に……特別視してるんだけど」

 瀬ヶ崎くんはそう言うと、少しだけ耳の付け根を赤くして、拗ねたようにそっぽを向いた。

(えっ。今の、俺の聞き間違いじゃないよね……?)

 瀬ヶ崎くんは今、俺のことを「友達」だと言った。
 ……待て待て待て。そもそもスタートラインの設定からしておかしい。
 俺の中の認識は、あくまで「クラスの隅っこの住人」と「クラスの太陽」という、住む世界の違う者同士。瀬ヶ崎くんを友達なんて、恐れ多くて思ったことは一度も――。

「ま、待ってください。瀬ヶ崎くん、俺たちって、いつの間に友達になったんですか……?」

「はぁっ!?」

 瀬ヶ崎くんが、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で俺を見た。

「君に友達になろうなんて言われてませんし、そもそも俺みたいなのと瀬ヶ崎くんが友達になれるなんて、天地がひっくり返っても思ってなかったというか……」

 俺の歯切れの悪い言葉に、瀬ヶ崎くんはついに両方のこめかみを片手で押さえながら唸り始めた。

「いやいや……。俺は飼育室の前で会った時から、なりたいと思ってたし、もうなってるつもりだったよ。植草の中では何? 友達になるのに、実印(じついん)と印鑑証明が必要な取り交わしでも要るわけ?」

「えっと……うーん。そうですね……あ、ドーナツを半分こしたら、友達かなって思います」

 俺の真剣に悩んで答えた「友達の成立条件」に瀬ヶ崎くんが呆気に取られている隙に、俺はいちごチョコとカラースプレーがたっぷり乗った、一番派手なドーナツを口に運んだ。

 ……と、その次の瞬間。
 瀬ヶ崎くんがスッと身を乗り出したかと思うと、俺の口元にあるドーナツの半分を、齧って奪い取った。
 そして、そのまま迷いなく自分の口に指先で押しこむ。

「はい、友達成立。植草のことも、もう『陽彩(ひいろ)』って呼ぶから。……で? なんで『半分こ』が友達の条件なわけ?」

 もぐもぐと幸せそうに食べながら、さも当然といった顔でこちらを見る瀬ヶ崎くん。ぺろ、と指先に付いたチョコを無造作に舌で舐めとる姿は、もしクラスの女子が見ていたら、悲鳴をあげてスマホを連写するような絵になる光景なのだろう。

 けれど今の俺には、彼と半分こにするために引きちぎられたチョコの断面を、ぱちぱちと瞬きしながら見つめることしかできない。

「……半分こしたら、太る分は半分になって……その相手と過ごす時間の中で感じる幸せは、二倍になるって、思うからです」

 消え入りそうな声で、持論を語る。すると、瀬ヶ崎くんはふいに対話を止めた。
 そして、堪えきれないといった様子で目尻を下げ、これまでに見たことがないほど柔らかく笑っている。

「俺、陽彩のそういう考え方が好きなんだよね。……すげー独特だけど、惹かれるものがある」

 目の前にあるのは、食べているドーナツより何倍も甘い、瀬ヶ崎くんの笑顔。

 太る分が半分になるのは助かるけれど、心臓の鼓動がさっきから二倍速でうるさく鳴り響いているのは、一体どういう現象なんだろう。

 友達という「契約」をもう済ませてしまった、後戻りできないその事実に、俺の頭からは熱い湯気が今にも噴き出しそうになっていた。





 ドーナツをすべて胃袋に収めた俺が、逃げるようにマスクへ手を伸ばすと、瀬ヶ崎くんがそれを見逃さずに口を開いた。

「陽彩って、食う時以外、ずっとマスクしてんのな。……何で?」

「じ、自分に自信がないというか……。俺、会話にすごい苦手意識があるから、顔が隠れてないと、全裸で往来(おうらい)に立ってるみたいな気持ちになるんです」

 だからマスクには、俺にとっての「心の防波堤」としての役割がある。

「こうして目元だけ細めておけば、とりあえず笑ってるように見えるじゃないですか。波風立たないというか……相手の会話を聴いて、何が面白いのか分からなくても、ヘラヘラしていれば、誰も嫌な思いをしないですし。俺も傷つかなくて済むっていうか」

「……何それ。心で違うこと思ってるのを悟られるのが怖いってこと?」

「そうですね。俺、放っておくとだいぶズレたこと言っちゃうし……。それならニコニコして黙ってた方が、相手と自分のためになるって気づいたんです。いわゆる『普通の人のフリ』……環境への同化、みたいな感じです」

 俺なりの処世術を必死に説明すると、瀬ヶ崎くんは自分の口元を指差しながら、静かに、でも拒絶を許さないトーンで言った。

「俺の前では、マスク外せよ。陽彩の作り物の笑顔なんて、一ミリも興味ないから」

 心臓が、一際大きく跳ねた。
 図星を突かれて固まる俺に、瀬ケ崎くんはとどめを刺すように、マスク越しに俺の口角のあたりをトントン、と人差し指の先で二度叩いた。

「俺はさっきみたいに、ここに片方だけエクボを作って笑ってる陽彩の方が、ずっと好き。てか、相当可愛いけどあんま自覚ない感じ?」

「なっ……! その……その『全人類への慈愛』を詰め込んだような声で、俺の名前を呼ぶのはやめてください! 浄化の光が強すぎて、俺のジメジメしたアイデンティティが消滅しちゃうじゃないですか……」

 不意打ちの名前呼びに、俺の脳内はパニック映画のクライマックスさながらの修羅場と化した。
 それに、店内の女性客たちが俺たちのやり取り――というか、瀬ヶ崎くんの近すぎる距離感と、俺の顔に指が触れている光景を見て、クスクスと楽しげに囁き合っている。

 そりゃあそうだ。客観的に見て、イケメンと「スッゲー・キワモノ・ピープル」が二人きりで密着しているのは、もはや何かのバグか、新手の見せ物としか思えない。
 俺は羞恥心で破裂しそうになりながら、それでも触れられた場所に残る熱を、必死に振り払うこともできずにいた。

「せ、瀬ヶ崎くん! こんな面倒な防衛線を張り巡らせている俺のことなんて、さっさと放っておいてください! 早く、キラキラした光の住人が集う、いつもの世界にお帰りください!」

 マスク越しでも、自分の顔が真っ赤に染まっているのがはっきりと分かる。顔面が、それこそ火を吹くのではないかと思うほど熱い。けれど、俺の必死の抗議も虚しく、瀬ヶ崎くんは「やだ」とか「無理」とか、短すぎる拒否権を発動してくるばかりだ。

 学校で見せるスマートでクールなイメージとは裏腹に、彼は意外にも、人をイジって楽しむような一面があるらしい。意地悪と言うほどではないけれど、まるで気になる相手をからかう小学生男子のような、そんな幼さ。
 その激しいギャップに、俺の処理能力は未だ追いつかないでいる。けれど同時に、誰も知らない瀬ヶ崎くんの素顔を、自分だけが一つずつめくっているような不思議な感覚が、胸の奥を落ち着かなくさせていた。

「食い終わったし、駅まで送るよ」

 その言葉に、俺は弾かれたように鞄から財布を取り出した。

(そうだ、ドーナツの代金……まだ、瀬ケ崎くんに返してない!)

 キャッシュレス派の瀬ヶ崎くんがスマートに済ませてしまった俺の負債(※代金)を、一刻も早く清算しなければならない。

「あ、あの……さっき払ってもらった分、現金で返してもいいですか? 俺、スマホをかざして決済するとか、そういう時代の最先端にはどうしてもアップデートできなくて」

 小銭をジャラジャラと、まるでお賽銭でも捧げるかのような必死さで取り出そうとする俺。そんな俺をよそに、瀬ヶ崎くんは空になったトレーを手に、さらりと席を立った。

「陽彩って、いろんな奴に優しくするけどさ。……陽彩のことは、誰が優しくしてくれんの?」

「えっ……。それは、俺自身が自分を律していれば、十分に社会が回っていく『単独完結型の循環システム』といいますか」

 自分を甘やかすだなんて、そんな無駄な工程、これまでの人生で一度も考えたことがなかった。けれど、瀬ヶ崎くんは俺の斜め上の答えを笑い飛ばすこともなく、ただ穏やかな瞳で俺を見つめている。……というか、今は支払いの話をしていたはずだ。

 話の筋が見えずに困惑する俺を置いて、瀬ヶ崎くんは歩き出し、ふと振り返って言った。

「人に優しくした後は、自分にも優しくするんだよ。……これは、俺からの『ご褒美』」

「そ、そんな、ご褒美をもらえるような大層なことは……」

「誰もいないところでケージを磨いて、(わら)を替えてさ。子供たちに、優しく大事なこと教えて。……そんなのずっと目の前で見てたら『報われてほしいな』って思うだろ、普通」

 これまで、俺が解いてきた人生の計算式の中に、誰かに何かをしてもらうという変数は存在しなかった。
 地味に誰かの役に立ち、その自己満足だけで自分の機嫌を取る。それが俺にとって、一番安全で効率的な生存戦略だったはずなのに。
 瀬ヶ崎くんが放った「ご褒美」という、俺の質素な人生には似つかわしくないキラキラした言葉が、今、胸の奥で何度も、何度も反響している。

「……あ、ありがとうございます……」

「いいよ。俺がカッコつけたいだけだし」

 嬉しい、なんて。そんな単純な言葉で片付けてはいけないような、心臓の奥がむず痒くなる熱さが、喉の元までせり上がってくる。

 俺なんかのために、瀬ヶ崎くんが大切なお金と、俺を喜ばせようとするための貴重な時間を割いてくれているという事実。その現実を正面から食らって、全細胞がこれまでにないほど激しく、狂おしいほどに照れまくっていた。

 ふと見ると、瀬ヶ崎くんは可燃ゴミと不燃ゴミを迷いなく分別し、返却台にトレーを戻していた。

 そういう地味な作業を面倒くさがって、一箇所にまとめて流してしまう人が多いのを知っている。だからこそ、当たり前のルールを当たり前に守る彼の背中は、自分と価値観が近い気がした。なにより、生活の端々に宿る誠実さが、素直に素敵だと思った。

「じゃあ、行こうぜ」

「は、はいっ」

 「当たり前」を、日常の中でこぼさず積み重ねる。
 そんな小さな、けれど俺にとっては一番重要なポイントを、彼は何気なくクリアしていく。そのたびに、俺の心にある「瀬ヶ崎恭平」というフォルダの解像度が、どんどん上がっていくのを感じてしまう。

 店を出ると、街は柔らかな夕暮れに染まっていた。
 並んで歩く帰り道、アスファルトに伸びる彼の影が、俺の影に少しだけ重なる。

 さっき食べたドーナツより何倍も甘く、名前も知らない熱い何かが、胸の奥で静かに、けれど確かにとろけ始めていた。