瀬ヶ崎くんと折り紙仕事を分担した、数日後の夜。
俺はベッドに寝転がり、至福の時間を過ごしていた。動画サイトで動物園のアシカの赤ちゃんライブ配信をぼーっと眺める。平和だ。文明の利器は、こうして精神の安寧のために使われるべきなのだ。全身の筋肉をふにゃふにゃに弛緩させていた、その時。
「んなっ!? んなな……っ、ななななっ!?」
無人の自室で、奇声が響いた。
スマホの画面に踊る『着信:瀬ヶ崎恭平』の文字。
しかもこれ、普通の通話じゃない。ビデオ通話だ。
これは国家存亡レベルの緊急事態だと、マッハの速度で飛び起きて通話ボタンを押し、耳に全力で押し当てる。
『もしもし?』
「は、はいっ! 大変お待たせ致しました、植草陽彩です! どのようなご用件でしょうか!?」
『植草……画面、真っ暗なんだけど。電話じゃねーぞ。ビデオ通話だぞ』
ビ、ビデオ通話って何。俺、文明についていけてない。 スマホを恐る恐る離すと、画面の隅っこには、魂が半分抜けて口を半開きにした俺のポカン顔。 そして画面いっぱいに映し出されていたのは、瀬ヶ崎くんの、あまりにも爽やかな顔面だった。
「はっ、はっ……はひぃっ!?」
画面から放たれたあまりの顔面偏差値の高さに、俺の指先は制御を失ってスマホを床にリリースし、自分でも「人間としてどうなんだ」と思うほど奇怪な動きで、空中でスマホを執念のキャッチ。
そのまま、ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、信じがたいものを見るような思いで、液晶という名の四角い板に収まった瀬ヶ崎くんをじっと見つめた。
解像度の限界すら置き去りにするような、その整いすぎた造形。ただの画質の荒い通話画面のはずなのに、そこから発せられるイケメンの覇気がWi-Fiの電波に乗って俺の心臓を直接揺さぶってくる。
(……おかしい。デジタルデータに変換されたはずなのに、どうしてこんなに破壊力が高いんだ。もしかして瀬ヶ崎くん、存在自体が一種の光学兵器か何かなのか……?)
あまりの衝撃波に、俺の表情筋は制御を失い、ひとりでに不審極まりない百面相を開始する。この「美の暴力」を回避しようと焦るあまり、インカメを外側に向ける切り替え方法すら脳内から消失。あろうことか画面を誤タップした瞬間、今度は液晶いっぱいに自分の間抜けな驚き顔が超至近距離で拡大され、「ふぎゃっ」と、およそ現役高校生とは思えない奇声が漏れた。
「テンパりすぎ。あんま通話とかしないタイプだとは思ったけど」
瀬ヶ崎くんが画面の向こうで笑っている。 いかん。俺は慌てて学習机の椅子に座り直し、デスクライトを点けた。すると、寝癖のアホ毛が光を反射してアンテナのように主張している。顔も、緊張感ゼロだったせいで、ふにゃふにゃだ。そこまで気づいて、俺は戦慄して口元を両手で覆った。
――マスク、してない。
俺のその不審すぎる挙動を、瀬ヶ崎くんは画面越しに、まるで希少生物を観察するような瞳で見つめて言った。
「……マスクしてないとこ、初めて見た。え……いや、マジか」
「せ、瀬ケ崎くん?」
「いや、植草……ゴメン。言っていいのか分かんないけど、めちゃくちゃ綺麗な顔してるから、ビックリした」
その低く、どこか笑みを含んだ声が鼓膜を揺らした瞬間、俺の自己防衛本能が最大出力で起動した。
スウェットの袖で口元を物理的に死守しながら、空いた方の手で必死に机の上をブラインド・サーチ。ようやく発見した使い捨てマスクを、コンマ一秒の遅滞もなく装着するという電光石火の早業を披露する。
よし。これでようやく、いつものフル装備――「不透過率100%の植草陽彩」の完成だ。
「あっ。何で着けてんだよ。コラ、外せ」
「ご、ごめんなさい……! でも、これがないと顔面の治安維持が崩壊するといいますか、そもそも脳内がサーバーダウンして、まともに言語の出力ができないので……!」
何故怒られているのかという理由は不明だけれど、人に詰め寄られると、俺の思考回路は謝罪一択のループに陥ってしまう。俺の心の中では、ネットミームでお馴染みの泣き顔の猫が、顔をぐしゃぐしゃにして「ウェーン!」と絶叫中だ。
だけど、瀬ヶ崎くんは俺の致命的な精神的ダメージを完全に無視して、さらなる容赦ない追撃を放ってきた。
「てか、それ部屋着? ……可愛いじゃん」
「かっ……かわ……っ!? な、何がですか!?」
思考回路が火花を散らしてショートする。 どういう意図を持って、そんな殺傷能力の高い台詞を吐いているのか。 俺は動揺を隠すため、マシンガンのように言葉をぶちまけてしまった。
「瀬ヶ崎くん、眼精疲労が末期症状なのでは!? これ、近所のスーパーのワゴンセールで発掘した二千円のスウェットですよ! そんなイケメン専用の超高性能誘導ミサイルみたいな台詞、俺みたいな陰キャに放たないでください! 俺みたいなのは『お前、何そのダル着』って罵られるくらいが健康上ちょうどいいんです! 褒められすぎて、スウェットの繊維どころか鳥肌まで逆立ってるんですけど!」
言わなくてもいいようなことまでを一気に言い切ると、瀬ヶ崎くんは吹き出し、顔を伏せて大笑いし始めた。
「あー……植草って、マジで沼だわ。照れ隠しが面白すぎる」
「沼」って何だろう?と疑問に思いつつも、俺は真っ赤な顔で聞き返した。
「あ、あの……そもそも、なんでビデオ通話なんですか?」
「いや、うさぎの折り方忘れて。もう一回教えてくんない?」
瀬ヶ崎くんが、画面の横で青い折り紙をひらつかせた。 その背景には、まるでお洒落な家具カタログから切り抜いたような、洗練された自室が映っている。 そして何より、視覚情報が多すぎる。
ヘアセットしていない、無防備に下ろされた髪。普段、教室で遠巻きに見かける姿より少し大人っぽく見えるし、制服とは違うざっくりとした黒のパーカー。なんだか男性的な色気という、俺の知らない概念が画面から溢れ出していて、直視できない。
「えっと……あ、そこです。耳のところを折るのは、まだで……そうそう、上手です」
瀬ヶ崎くんがスマホを何かに立てかけ、手元を映すのを見て指摘する。 すると、彼は突如として、作りかけのうさぎの上に腕を乗せて机に突っ伏した。
「瀬ヶ崎くん?」
「……いや。植草の声、なんか落ち着くなと思って」
「ああ、なるほど。分かります。俺の声、周波数的に『睡眠用BGM』として非常に優秀ですからね。一年生の時、授業で古文の教科書を音読した時は、クラスの約50%を安眠の淵へと誘うという、ある種のテロを完遂した実績がありますし……」
「そうじゃなくて。……もっと聴いてたい、って意味なんだけど」
瀬ヶ崎くんが吐息を漏らすようにそう告げ、それきり黙り込んでしまった。
もっと聴いていたい。その要求に含まれる真意とは一体何か。俺は頭をフル稼働させて最適解を検索した。
「……では、睡眠導入用の『読み聞かせボイスメッセージ』を録音して、送信しましょうか?」
「いや、なんでそうなるんだよ。俺が言いたいのは、これから、たまにこうして――」
「申し訳ないんですけど、俺の手元にある蔵書は今『ごんぎつね』くらいしかなくて。結末がハッピーエンドではない上に、火縄銃で撃たれるという飼育委員にあるまじき人道的配慮に欠ける題材なので、逆に瀬ケ崎くんの交感神経を刺激して眠れなくなる恐れがあります。今すぐ弟の部屋へ急行して、より平和的な絵本、捜索してきましょうか!?」
「あの、だから……そういう意味じゃなくて……」
画面の向こうで、瀬ヶ崎くんが頭を抱えて盛大な溜め息をつく。やはり的外れだっただろうか。ならばこの案は破棄しよう、と俺が思い直したその時だった。
「……いや、やっぱ要る。送れ。絶対送れよ」
瀬ヶ崎くんは念を押すようにそう言うと、どこか照れたように笑って、ブツンと通話を切ってしまった。
静まり返った部屋で、俺は熱を持ったスマホを握りしめ、しばらく完全なフリーズ状態に陥っている。
(瀬ヶ崎くん、眼精疲労だけでなく、深刻な睡眠障害まで抱えているんだろうか……)
俺は彼のQOLの低下を真剣に案じ、弟の部屋へ「入眠を妨げない絵本」を捜索しに向かったのだった。



