クラスのド陰キャで「うさぎ係」の俺は、瀬ヶ崎くんからの告白フラグを折りまくっています。


 数日後の放課後、俺は来週の「幼稚園ふれあい体験」に向けて、極秘のプロジェクトを遂行していた。 飼育室の長机の上には、色とりどりの折り紙。俺は相棒の黒丸に話しかけながら、一心不乱に指先を動かす。

「でも、正直助かったなぁって思うよ。みんなの手前、自分一人でもできるって言っちゃったけど。掃除、エサやり、黒丸のお手入れ……ってしてたら、あっという間に下校時間になっちゃうし。黒丸も、早く瀬ケ崎くんと仲良くなれると良いね」

 瀬ヶ崎くんが「うさぎ係」のもう一人になったことは、クラスメイトの誰も知らない。 けれど、昼休みになれば彼は(にぎ)やかな一軍の輪から抜け、放課後も友人たちとの談笑を切り上げて、必ず飼育室へやってくるようになった。

「……ねぇ、黒丸。俺が顔を描くと、どうしてウサギじゃなくて未確認生命体(UMA)になっちゃうのかなぁ。目が……目の位置が絶望的に可愛く描けないんだけど、どう思う?」

 黒丸はさっき献上したばかりの葉っぱに夢中で、ふわふわのお尻を向けて知らんぷりだ。つれない。
 机の上に、また一匹「虚無を見つめるウサギ」の折り紙が爆誕した頃、飼育室のドアがガラリと開いた。

「植草、遅くなってごめん!」

 瀬ヶ崎くんが少し息を切らして駆け込んできて、まるでそこが指定席であるかのように、当然の顔をして俺の隣に腰を下ろした。
 机に並んだカラフルなウサギの折り紙を手に取り、『なにしてんの?』と無防備に身を乗り出して覗き込んでくる。視界の端に彼の整った横顔が入り込み、そのあまりの近さに、俺の心臓は瞬時に危機を告げる警報を鳴らし始めた。

「え、えっと、あのっ」

 椅子をガタンッ!と盛大に音を立てて引きずり、物理的な防衛ラインを確保すべく距離を空けた。
 ――が、その直後。瀬ケ崎くんは『え、なに?』と不思議そうに笑いながら、空いたスペースを流れるような動作で詰めてきた。
 結果、俺が必死に構築したパーソナルスペースはプラスマイナスゼロ。いや、むしろ勢いづいた彼との距離は、先ほどよりも一層、密接なものへと更新されてしまった。

「あ、来週のふれあい体験用に、ウサギの折り紙を……。園児たちの思い出になればいいなと思って、作っています」

「え、これ仕事? 先生に言われたっけ?」

「いえ、俺が勝手にやり始めたことです。あった方が喜んでもらえるかな、って」

 机の上に並んだ新種の生命体軍団を見て、瀬ヶ崎くんは目を丸くした。

「……頑張りすぎじゃね? お前」

 その言葉に、俺はさっと目を逸らし、新しい折り紙に手を伸ばす。瀬ヶ崎くんは出来上がったウサギ(仮)をさりげなく色別に整列させると、頬杖をついて俺の横顔をじっと見つめているのが、視線を落としていても視界の端でぼんやりと分かる。

「何で作ろうって思ったの?」

 ……瀬ヶ崎くんは、今まさに「なぜなぜ期」の真っ只中にいる二歳児なのだろうか。
 子供が母親に世界の森羅万象を問い質すかのように、彼は俺のやる事なす事すべてに興味を抱き、質問せずにはいられないらしい。
 向けられる視線に悪意はなく、決して不快ではないのだけれど、彼がなぜ日陰者の手仕事にそこまで執着するのか、俺の演算能力ではさっぱり解析不能だ。

 けれど、一度冷静になって客観的な視点から現状をシミュレーションしてみる。
 放課後の静かな飼育室で、大の男子高校生が独り、狂ったようにカラフルなウサギを量産している図。
 客観的に見て、これはかなりホラー、あるいは何らかの呪いの儀式にしか見えない。俺は瀬ヶ崎くんに自分は決して危険人物ではないという弁解を込めて、その行動原理を説明することにした。

「何かを頑張る時に、後悔を残したくないんです。アイディアが浮かんだ後で、『あの時やっておけばよかった』という未処理のタスクを抱えるのが、人生で一番嫌いなんです」

「……やっぱ、植草って真面目すぎ。初めて会った時も思ったけどさ、なんで誰も気づかないようなことを、そこまで丁寧にできるわけ?」

「それは……」

 俺は折り紙の角をきっちり合わせながら、ポツリと漏らした。

「毎日、小さいことを真面目に頑張っていれば、いつか報われる気がするからです。頑張ってる姿って、きっと誰かが見てくれていて……何よりも『自分自身の目』が、それを見ていると思うから」

 俺は、その他大勢のモブキャラだ。後ろを通り過ぎれば、家族にすら『いたの!?』と幽霊扱いされるほど存在感がない。 だからこそ「誰かが見てくれている」と信じないと、自分の努力が消えてしまいそうで怖かった。

「……努力は必ず報われる、なんて言うけどさ。俺、そう感じたことってあんまないわ。だから植草みたいな生き方、マジでスゲーなって思う」

 瀬ヶ崎くんは机の上の折り紙を手に取り、俺の手元をカンニングしながら折り始めた。

「ああ、その言葉。報われる派と報われない派で、論争が起きるくらい分かれますよね。でも俺は――『努力は時々報われる』派なんです」

 マスクの下で、自分でも気づかないうちに笑みがこぼれていた。瀬ヶ崎くんの手が止まり、俺の顔を凝視している。

「何で?」

 俺は黒いマジックを手に取り、ウサギにトドメの目を書き込みながら答えた。

「今、瀬ヶ崎くんが俺の努力に気付いてくれたじゃないですか」

 俺にとって、自分の頑張りを見ていてくれる「誰か」とは、現実味を欠いた空の上の神様みたいな概念だった。
 けれど、その「誰か」というあやふやな存在が、よりによってクラスの太陽――瀬ヶ崎くんだったことは、計算外にもほどがある。

 一番見つかりたくなかった、一番遠い銀河の住人に、俺の必死で泥臭い生き方を見つけられてしまった。
 本来なら恥ずかしくて、光速で穴を掘って埋まりたいはずなのに。どうしてだろう。胸の奥に、理屈では説明できない、ほわほわとした熱が充満していくのを感じる。

 ふと見れば、瀬ヶ崎くんは完全なフリーズ状態に陥っていた。
 システムダウンというよりは、その瞳は見たこともないほどキラキラと輝き、まるで未知の真理に触れてしまったかのような、隠しきれないときめきを宿している。

 俺が不思議に思って首を傾げ、不器用ながらも「ん?」と精一杯の笑みを向けると、彼の頬が夕焼けよりも鮮やかな赤色に染まるのが見えた。

「植草の世界観、マジで面白いわ。……お前のそういう話、もっと聞きたい」

 そう言って、瀬ヶ崎くんもウサギに目を描き込み、俺の作ったウサギ(仮)の隣にそっと並べた。 そのクオリティを見た瞬間、俺は思わず立ち上がった。

「せ、瀬ヶ崎くん! どうしたらそんな命の宿った可愛いらしい顔に仕上げられるんですか!?」

「あはは! いやー、植草のウサギの顔、いつツッコもうかずっと迷ってたんだよ」

 目を細めて、真っ白な歯を見せて笑う瀬ヶ崎くん。うわ、眩しい。清潔感の暴力だ。制汗剤か歯磨き粉のCMオファーが今すぐ来てもおかしくない。

「俺も手伝うよ。あと何匹?」

「ええと……年少さん一クラス分なので、予備を含めて三十匹です」

「やば。それ全部一人でやろうとしてたのかよ。言ってくれれば、普通に手伝うのに」

「俺が勝手に始めたことに、瀬ヶ崎くんを巻き込むわけには――」

 反論を組み立てていると、ふっと頭に重みを感じた。そのまま、髪をわしゃわしゃと大きな手で撫でられる。

「えっ、あ、ちょっ……」

「俺は報われて欲しいなって思うし、その時、植草がどんな顔すんのか見てみたい。一番近くで」

 ……なんてマニアックな人なんだろう。
 俺の中で、頭を撫でる対象は子供か動物に限られる。 ということは、俺は今、彼の中でそれらと同列のカテゴリーにランクインしたということだろうか。

「あの、瀬ヶ崎くん……俺、もうすぐ十七歳になる人間なんですけど」

「知ってるよ。いいから、ほら、続き折るぞ」

 楽しげに鼻歌を歌い始めた瀬ヶ崎くん。俺は赤くなった耳を隠すように、また新しい折り紙を手に取った。どうやら今年の飼育委員は、俺のメンタルにとっても、かなりの過酷な任務になりそうな予感がした。


 ◇


 結局、俺が生み出した「虚無を見つめるクリーチャーうさぎ」は、園児への配布物としては不適格(カウント無効)という残酷な審判を下された。それらは魔除けとして飼育室の隅に飾ることになり、代わりに瀬ヶ崎くんと二人で、追加で十匹の正規うさぎを産み出した。残りの二十匹は、十匹ずつ分担して家で内職だ。

 飼育室の鍵を職員室に返し、昇降口でローファーに履き替える。 ふと外を見ると、そこには絶望の光景が広がっていた。満開の桜をむしり取るような、暴力的なまでの土砂降りの飴。

「う、嘘だ……」

 完全に予報を見くびっていた。折り畳み傘は、玄関の傘立てすこやかに眠っている。 俺が昇降口で石像のように固まっていると、濃紺の大きな傘を手にした瀬ヶ崎くんが、隣でひょいと首を傾げた。

「植草、傘ないの? 一緒に入ればいいじゃん」

「い、いえ! クラスの恒星である瀬ヶ崎くんと、冥王星より遠い暗がりに住む俺が同じ傘に入ったら、重力バランスが狂って異常気象が起きるというか、とにかく磁場が乱れるので……!」

「何言ってんのか分かんないけど、大げさすぎ。ほら、遠慮すんなって」

 俺の鞄についている定期を一瞥(いちべつ)すると、返事も待たずに瀬ヶ崎くんがバサッ!と勢いよく傘を開いた。

「い、いいんでしょうか。瀬ヶ崎くんと同じ傘の下に入るなんて、おこがましすぎて、天罰が下って俺の頭上にだけピンポイントで落雷が落ちる予感がするんですが」

「んなわけねーだろ。いいから、ほら。濡れるぞ」

 抵抗する間もなく、子猫が母猫に首根っこを掴まれて強制連行されるように、俺はリュックの持ち手をグイッと引かれ、瀬ヶ崎くんの傘の下へと収容された。
 ……またしても、心臓に悪いほど距離が近い。瀬ヶ崎くんのパーソナルスペースの設定は、一体どうなっているんだ。

 教室での彼の姿を思い返してみるけれど、いつも一番後ろの席で、ポケットに手を突っ込んだまま静かに佇んでいたはずだ。輪の真ん中で騒ぐというより、少し外側から世界を俯瞰しているような――。
 そんな遠い存在だったはずの人が、今、俺の肩が触れそうな場所にいる。

 校門までのわずかな距離が、まるで宇宙の果てまで続く光年単位の遠征のように感じられた。一歩進むごとに、俺の心拍数はマッハの壁を突破し、未知の領域へと加速していく。
 叩きつける雨音が沈黙を遮ってくれているとはいえ、無言で隣を歩く気まずさは、とうに限界値を突破。早く。一秒でも早く、何でもいいからアウトプットしないと、俺のシステムが内側から爆発しかねない。

「……せ、瀬ヶ崎くん! 雨の中で聞く声って、普段より綺麗に聞こえるって知っていますか!?」

「え、そうなの?」

「はい! 雨粒が空気中の雑音を吸収し、傘という閉鎖空間の中で音波の共鳴効果が生まれ、さらに湿度が上がると空気密度が変化して、音が伝わりやすくなるんです! つまり、瀬ヶ崎くんの声が異常に鼓膜へ直撃してくるという、科学的根拠があるわけでして……!」

「ふーん、そうなんだ。植草ってやっぱ頭良いよな」

「へっ?!」

「お前、いっつも学年テスト上位じゃん」

 知識を総動員し、厭味っぽくならない「そんなことないですよ」の言い方を考えていた、その時――。
 歩調の揺れで、瀬ヶ崎くんの逞しい腕に俺の肩が不意に衝突した。
 やばい、不敬罪だ。申し訳なさすぎて即座に適切な距離まで後退しようとした、その瞬間。

「どう? ――綺麗に聞こえる?」

 瀬ヶ崎くんの手が俺の肩をグイッと引き寄せ、耳元でとろけるようなテノールを甘く響かせた。

「ひぎっ……!?」

 鼓膜を震わせ、脳髄まで直接流し込まれるような熱い吐息。その一撃で、俺の脳内にいた科学分析班は全員即死した。
 たった二文字の『どう?』が、衝撃波となり、俺が長年築き上げてきた心の防壁を一瞬で粉砕する。全身の毛穴から蒸気が吹き出しそうなくらい、顔が熱い。
 肩を抱く指先にわずかな力が込められ、俺は唇を真一文字に結んだまま、斜め上に位置する瀬ヶ崎くんの顔を上目遣いに見上げた。
 そこでようやく、気づいてしまった。

 彼の肩が、雨に濡れている。
 差し出された大きな手は、最初からずっと、俺の方へと傘を傾け続けてくれていたのだ。
 その献身的な傾きに、喉の奥がキュッと締め付けられるような感覚を覚える。

 視線をゆっくりと、自分の足元を叩く雨粒へと戻しながら、俺は絞り出すような声で言った。

「せ、瀬ヶ崎くんの声に、俺の聴覚神経が異常反応を起こしています……そ、そんなことより、その……傘を、傘をもう少しご自分の方に傾けて頂いても構わないので……」

「いや、別に平気。植草が濡れちゃう方が、俺は嫌だし」

 アワアワという擬音がこれほど似合う状況があるだろうか。もはや自分が何を言っているのかも分からず、酸素不足で口をパクパクしている俺を見て、瀬ヶ崎くんはふっと眉尻を下げて笑った。

「……面白いとこ見つけたわ。植草って、恥ずかしい時はめちゃくちゃ早口で喋るのな」

 覗き込まれたその瞳には、お気に入りを見つけた子供のような光が宿っている。言い返そうにも、また早口を指摘されたら「照れている」と露呈してしまいそうで恐ろしい。
 

「……うわ、マジか」

 相合傘という、俺の全細胞が未曾有の緊急事態(エマージェンシー)を告げるなか、隣を歩く瀬ヶ崎くんが小さく声を漏らした。

 視線の先、校門の前に一台の車が止まっている。漆黒のボディを雨に濡らしたその車は、俺たちを見つけるやいなや、滑らかにこちらへ横付けされた。
 キュルル、と小気味よい音を立てて助手席の窓が開く。窓から顔を出したのは、高級時計か外車のCMからそのまま抜け出してきたような、はちゃめちゃにイケてる中年男性だった。整った髭、余裕のある微笑み。軽く左手を上げ、その人は茶目っ気たっぷりにこう言った。

「恭平~! 迎えに来ちゃった♡」

「いや、言い方。……この雨だし、駅まで送ってやってくんない?」

 瀬ヶ崎くんは、相変わらず俺を傘の中にがっちりホールドしたまま、窓越しにその男性と交渉を始めている。

(ちょっと待ってほしい。駅まで送る? 誰を? 俺を!?)

 駅まで全力ダッシュすれば、有酸素運動のノルマも達成できるとか、何か理由をつけて遠慮という名の防衛本能を炸裂させようとタイミングを見計らう。けれどそれより先に、俺の頭上に浮かぶクエスチョンマークが臨界点に達した。
 この、存在自体がハリウッド映画のポスターみたいなイケオジは一体誰なんだ。

「あ、あの、瀬ヶ崎くん。こちらの方は……お知り合いでしょうか」

「え? 俺の親父だけど」

 瀬ヶ崎くんは、まるで「空は青いし、数学の答えは一つだろ?」くらいの当然すぎるトーンで言い放った。

「へっ……あっ、お、お父様ですか!?」

「そうそう、恭平のパパでーす。よろしくね、可愛いお友達くん」

 あはは、と効果音が聞こえそうな爽やかさで笑う瀬ヶ崎パパ。
 
(パパ。パパだと。つまり、この国宝級イケメン・瀬ヶ崎恭平という奇跡を生み出した、瀬ケ崎家の最高責任者……!)

 俺は思考がショートし、地面に頭がめり込む勢いで、直角九十度のお辞儀を繰り出した。

「もっ、申し遅れました! 瀬ヶ崎くんの傘に一時的に寄生させていただいております、クラスメイトの植草陽彩と申します! 決して怪しい者では御座いません!」

「おぉ、なかなかに面白い子だね。……気に入ったよ」

 瀬ケ崎パパが快活に笑う。その横で瀬ヶ崎くんが「ほら、いいから乗れって」と、手際よく後部座席のドアを開けてくれた。
 俺はと言えば、もはや自分の意思で動く筋肉を喪失し、借りてきた猫……いや、雨に濡れた子うさぎのような心境で、高級そうなシートの端っこにちょこんと座り込むしかなかった。

「今日は非番じゃなくて公休でな。さっき明良(あきら)の大学にも迎えに行ったんだが、『マジで無理、有り得ないんだけど!』ってブチギレられながら彼氏とデートに行っちゃったから、次は恭平を迎えに来たって訳だ」

「いや、マジでやめてやれよ。姉貴、もう二十歳(ハタチ)超えてんだぞ。この前も『パパが目立つから死ぬほど恥ずかしい』って泣かれたばっかじゃん」

 そのやりとりから、瀬ヶ崎くんにはアキラさんという、お姉様まで存在していることを知る。
 俺の脳内キャンバスには、今、まばゆい光を放つ「華麗なる瀬ヶ崎ファミリー」の家族写真が爆誕していた。
 けれど、そんな俺の妄想を遮るように、バックミラー越しに瀬ヶ崎パパのどこか鋭い、けれど温かい視線が突き刺さった。

「陽彩くんって言ったかな? 君の得意科目は? 部活は何部に入っているんだい?」

「えっと……! 瀬ヶ崎くんと同じクラスでして、理数系全般を主食としております! 一番好きなのは生物で、部活動は帰宅部という名の『自宅警備』に勤しんでおりましたが、この四月から瀬ヶ崎くんと共に、飼育委員という尊い任務に就かせていただいております!」

 瀬ヶ崎パパは『そうなのか?』と、意外なものを見る目で瀬ヶ崎くんを振り返る。
 けれど、問いかけられた本人は、窓の外を見つめたまま、『……まあ、うん』と短く返事をするばかりだ。

「ははは! 独創的な答えだ。陽彩くん、今度私が休みの日に、ぜひうちに遊びにおいで。妻も私も人を呼ぶのが好きでね。君と恭平が学校でどんな風に過ごしているのか、じっくりお話がしたい」

(ひえええ、瀬ヶ崎家に俺、ご招待されてる……!?)
 
 あまりの衝撃に、シートの背もたれにめり込んで同化してしまいそうだ。とりあえず肯定せねば、失礼のないように何か喋らねば。
 そして、パニックになった俺の口から飛び出したのは、あまりに無難な質問だった。

「ぜ、ぜひ、お伺いさせていただきます! え、えっと。今日はお休みとのことですが……瀬ヶ崎くんのお父様は、普段どんなお仕事をされているのでしょうか……!?」

「私の仕事、か。……恭平、言っていいのか?」

 瀬ケ崎パパがバックミラー越しに、いたずらっぽく息子へ視線を送った。瀬ヶ崎くんは、窓の外を流れる雨景色を眺めたまま、観念したように小さくため息をつく。

「……ああ、うん。いいけど。植草、クラスの奴らにはあんまし、言いふらさないで欲しい。まぁ、そういうこと、お前はしないとは思うけど」

「わ、分かりましたっ」

 俺はシートの上で背筋をピンと伸ばし、口にチャックをするジェスチャーを見せた。
 瀬ヶ崎くんが「信頼」という名の、あまりにも重いパスを俺に投げてくれたことが嬉しくて、胸が高鳴る。
 一体、どんな機密事項に関わるお仕事なのだろうか。

(俺が知らないだけで、やっぱり海外ブランドのモデルさん? それともどこかの会社のCEOとか……?)

 瀬ケ崎パパはハンドルを握る手に少しだけ力を込めると、世間話と同じトーンで、さらりと言った。

「実は、私の仕事は管区警察局長でね。近隣数県の治安維持に関わる全組織を監督する、まあ、責任者を務めているんだ。普段はね、各県警から上がってくる重大案件の決裁を下したり、広域災害時の計画を練ったり……。あとは、そうだな。国賓が来日した際の警護の確認や、国際会議に向けた防犯シミュレーションの総指揮も私の役目だよ」

「………………はい?」

 俺の思考回路が、ピシッという音を立ててフリーズした。
 管区警察局長。それは単一の県を超え、この地方一帯に住むすべての警察官を束ねる、広域支配者。交通違反の取り締まりから、国家を揺るがす凶悪犯罪の鎮圧までを統括する、実質的なラスボスではないか。

「え、あ……つまり、その……もし俺が何か不手際をしでかしたら、即座に特殊部隊(SAT)が突入してくるレベルの……お方、ですか?」

「ははは! まさか。そこまで過激なことはしないよ」

 爽やかな笑顔。だけど、その背後に透けて見えるのは、数千人の部下を従える絶対的な統率者の影だ。
 俺が後部座席でガタガタと震えながら縮こまっていると、隣で瀬ヶ崎くんが堪えきれずに吹き出した。

「植草、落ち着け。動揺しすぎ」

「笑い事じゃないですよ、瀬ヶ崎くん! 俺のプライバシーが、国家レベルで監視され始めたような気持ちですよ……!」

 パニックに陥る俺を見て、瀬ヶ崎パパは「やっぱり面白いな、君は」と愉快そうに笑い、車をさらに加速させた。

 最寄り駅のロータリーで降ろしてもらった俺は、瀬ヶ崎くんに傘までお借りして、ペコペコと頭を下げ続ける。
 漆黒の車が見えなくなるまで深々とお辞儀をし、青信号で曲がっていくのを見届けた。

(……やっぱり、とんでもない嵐だった)

 物理的な大雨もそうだけれど、瀬ヶ崎くんのプライベートという名の巨大な渦に、一気に飲み込まれてしまったような感覚だ。

 手に残る、借りた傘のグリップの温かさ。傘の中で見上げた、瀬ヶ崎くんの少しだけ照れたような横顔が、まぶたの裏に焼き付いている。
 しかも、国家権力の頂点に君臨するお父様という重い秘密を共有してしまったという事実に、心拍数はいつまでも平熱に戻ってくれそうにない。

 駅のホームへと向かう自分の足取りは、まるで雲の上を歩いているようにふわふわとしていた。