“恭平くん”と俺が晴れて結ばれてから、しばらくの日が経った頃。
放課後の教室では文化祭のクラス発表に向けたダンス練習が行われていた。
もれなく史上最強の運動音痴である俺もまた、拒否権という名の防波堤をあっさり決壊させられ、強制参加の荒波に揉まれる日々。
やたらと「可愛いだけじゃダメなのか」とあざとく問いかけてくる歌詞に、殺人的な早口とアップテンポが重なる最新のJ-POP。
クラスの女子たちが「ひい君、そこはもっと首を傾けて!」「腰を入れて!」と並々ならぬ気合で指導してくれるのだが、俺のニューロンは完全にキャパオーバーを起こしていた。
俺の動作は常に三歩も四歩も遅れ、もはや宇宙ステーションと地球を結ぶ衛星電話くらいのタイムラグが発生している。女子たちの重力を感じさせないキレのある動きに対し、俺の動きは泥沼でもがく不審者、あるいは故障した旧型ロボットのそれだ。
そんな惨状の隣で、瀬ヶ崎くんはといえば、天賦の運動神経と暴力的なまでのビジュアルを遺憾なく発揮し、もはや男性アイドルさながらの神クオリティを叩き出していた。
彼が完璧なリズムを刻めば刻むほど、その隣でワンテンポ遅れて奇妙な角度に裏返ったポーズをとる俺の、生物学的欠陥とも言える惨めさが浮き彫りになる。
(……だめだ。可愛いだけじゃダメなのか、と問われる以前に、俺という個体の仕様がこの空間のエンターテインメント性を著しく損なわせている……)
絶望に打ちひしがれる俺のすぐ傍らで、完璧なステップを刻んでいたはずの瀬ヶ崎くんが、ふっと口角を上げた。その瞳には、必死すぎる俺を愛おしむような、熱を持った光が宿っている。
「あとで教えるから。……ふたりきりで練習しよ」
その囁きは、喧騒の中で俺の鼓膜だけに届く特別な声だった。
なんとかなる、と俺の肩に置かれた手のひらの体温は、先ほどまでパニックを起こしていた俺の神経系を瞬時に鎮めていく。彼が微笑むだけで、本番までの上達さえもが可能であるかのような、全能感に近い淡い期待が胸に満ちてくる。
きっとそれは、恭平くんがただのクラスメイトではなく、俺の『恋人』という唯一無二の存在だからだ。
「じゃー、ダンス練はここまで。今日は衣装合わせもするから。はい、これ。ひい君のスカートね」
無造作に手渡されたのは、女子たちがお揃いで新調したという、鮮やかな水色のチェック柄のスカートだった。
そう。この文化祭に向けて、俺はとんでもない不可抗力……もとい、女子の圧力によって、「女装」という名の公開処刑)に巻き込まれている。
事の起こりは、先日のLHR。
ダンスのペア構成案が、クラスの女子たちの間で凄まじい内戦を巻き起こしたのだ。
だがそれは、王子の隣を奪い合う熱望ではない。「完璧すぎる瀬ヶ崎くんの隣に並ぶなんて畏れ多い」という、もはや信仰に近い敬遠の集団心理。
結果、立候補者がゼロという異常事態に陥り、不本意にも浮いてしまった恭平くん。そこへ、クラスの生態系を牛耳る一軍女子が、ひとつの爆弾を投げつけた。
「ていうか、ひい君が女の子役すればいいんじゃない? その方が瀬ヶ崎も喜ぶでしょ。……彼氏だし」
心臓が肋骨を突き破るかと思うほど跳ねた。俺のしどろもどろな拒否反応なんて、祭りの喧騒を前にした羽虫の羽音にも等しい。
何より、当の恭平くんが「……まあ、別にいいけど」と、短くも重い一言で快諾してしまったのだ。
こうして俺は、女子と同じ柔らかな布を纏い、瀬ヶ崎くんのエスコートを受ける「女役」を演じる羽目になった。
ちなみに、このクラスにおいて、俺と恭平くんが恋人同士であるのは、公認の事実だ。
『俺は、何も恥ずかしくない。悪いこともしてないんだから、隠さなくていいだろ』
そう言って、恐ろしいほど男前な覚悟を口にした彼に押し切られる形で、友人たちにカミングアウトしたのはつい先日のこと。
絶句する友人たちを前に、パニックを起こした俺は床に額を擦りつける勢いで「交際を……認めてください!」と懇願し、恭平くんに「親への挨拶じゃねぇんだから落ち着け」と物理的に回収されたのは言うまでもない。
隠匿のコストがゼロになったのは、確かに精神衛生上は好ましい。けれど、そのせいでこんな特殊な役職まで回ってくるとは、人生という名の不確定要素は何が起こるか予測不可能だ。
(……俺のスカート姿なんか見て、恭平くんは幻滅しないだろうか……)
教室の隅。背徳感に苛まれながら、スラックスの上から強引にスカートを重ねる。女子たちは「リボンはこっちの方が映える!」と、もはや俺を等身大の着せ替え人形扱いだ。
「ひい君、ちょっと腕上げて。丈直すから」
「えっ? あ、はい……」
女子たちの熟練した手捌きで、腰回りの布地がぐいとたくし上げられる。
なるほど、彼女たちはこうして既製品の膝丈スカートをカスタマイズしているのか。そんな場違いな感心を抱いている間にも、布面積の減少に伴う致命的な心もとなさが、冷たい空気となって俺の剥き出しの脚を撫でていく。
……ちなみに『ひい君』という呼称は、クラスの女子たちが呼び始めた俺のあだ名だ。
「本番はさ、ちゃんとヘアアレして、リップとチークでメイクして……もっと可愛くしようね」
「てか、ひい君がこんな顔きゃわなの知らなかったー、マスク外した時マジで心臓止まるかと思ったし」
「あ、待って。瀬ヶ崎ビビらせたいからさ、最高に可愛いポーズ決めようよ」
ヘアアレンジに、粘膜と皮膚への色彩補正。メイクという、もはや俺の理解の範疇を超えた未知の専門用語が飛び交う。
女子たちのクスクスという含み笑いに背中を押され、俺は観念した囚人のような、あるいはまな板の上の鯉のような気持ちで、恭平くんの前へと突き出された。
「瀬ヶ崎ぃ〜、ウチらに感謝しなよ。JK仕様の『ひい君』、爆誕でーす!」
その祭囃子のような宣言に振り返った恭平くんは――。
俺の、頼りないほど細い生脚のラインを凝視したまま、完全にフリーズしていた。
クラスメイトたちの全方位から浴びせられる、感嘆と好奇心が混ざった視線の散弾銃。
その中央で、俺はスカートの裾を震える指先で掴み、おずおずと彼を見上げた。
(……恭平くん、瞬きしてないけど大丈夫かな? やっぱり、変……だよね?)
沈黙が痛い。だが、その数秒後。
恭平くんの喉仏が大きく上下し、その瞳がゆっくりと俺の顔の方まで視線を移していくのが分かる。
「あ……あの。これで、整合性は取れているでしょうか……。もし不審者と間違われて通報されるリスクがあるなら、即刻パージしたいのですが……」
「ちょ、ひい君! そこは決めポーズ取るところ! パニックになって宇宙語喋んないで!」
一軍女子の鋭いツッコミが飛ぶ。
「あっ、ごっ、ごめんなさい。……こう、でしたっけ?」
反射的に、顔の前でハートを作る。だって怖いのだ。女子たちのプロデューサー目線の圧が。
周囲の連中に「恭平の顔、茹でダコかよ!」「限界オタクみたいな顔してるぞ!」と肩を小突かれ、彼は耐えきれないといった様子で、震える手で口元を覆った。
「……無理。ぶっちぎりで優勝。可愛い。今ここで、もう一回告って付き合いたい」
「いや、俺たち、もう付き合ってるじゃないですか?」
俺の至極真っ当なツッコミに、教室中がドッと沸き、手を叩いて笑う声が響く。
恭平くんは「いや、そうなんだけど」と、照れを誤魔化すように笑いながら歩み寄ると、髪を耳にかけた俺の耳たぶに、指先でそっと触れた。
「髪、耳にかけてんの似合う。普段もこっちがいいかも」
恭平くんの長い指先が、俺の耳朶をかすめて髪を整える。その微かな接触だけで、俺の体温は一気に沸点を超えた。
それくらいの、物理的に何のコストもかからない要望なら、いつでも、何度でも叶えてあげたい。俺の全細胞がそう叫んでいる。
心拍数の異常な上昇を隠せないまま、コク、と小さく頷く。それを見た恭平くんは、目を細めて笑みを深めた。
「陽彩。このあとの練習が終わったら……放課後、デートしような」
彼の「デートの誘い」という名の精神攻撃は、何度受けても心臓に悪い。だってあろうことか、クラスメイトの視線が集中するド真ん中でも、なんの恥じらいも迷いもない軽やかさでそれを口にするから。俺の脳内避難警報は、全方位最大音量で鳴り響き、もはや故障寸前だ。
「うわー、瀬ヶ崎が見せつけてるわ! またデートかよ、ごちそうさまでーす!」
「えー、ひい君も混ぜてラウワン行きたかったのに。瀬ヶ崎の独占欲、まじでベルリンの壁より厚すぎ」
俺は再び教室の隅でスカートを脱ぎ、プリーツが崩れないよう丁寧に畳んで鞄の奥へとしまい込んだ。スラックスという、いつもの装備を取り戻した安心感に包まれながら恭平くんの隣へ戻ると、待っていましたと言わんばかりにクラスメイトたちがわらわらと集まってくる。
「なぁ、ひい君だって俺らと色んなとこ行きたくない? 大人数超楽しいよなぁ?」
「あ……はい、勿論! 皆さんと過ごす時間は、俺にとって未知の事象に触れられる貴重な機会ですし、毎回、予想を遥かに超える楽しさを体験できています。……でも、今日は」
俺は隣に立つ恭平くんの、少しだけ不機嫌そうに歪められた口角を盗み見た。
「今日は、恭平くんと二人で、という先約がありますので。群れでの活動は、また次回にお願いします」
友人たちが「うわー、安定のラブラブかよ!」「群れでの活動ってなんだよ!」と野次を飛ばされる。
そう。俺は畏れ多くも「光の民」という高気圧の輪の中に、恭平くんのオプションパーツのような扱いで、いつの間にか巻き込まれるようになっていた。
焼肉やらボウリングやらに連行されては、俺の素っ頓狂なパニック発言や、もはや芸術の域に達した「絶望的な運動神経」を惜しみなく披露し、クラスメイトを爆笑の渦に叩き込む日々。
この前などは、スポッチャで自信満々にスキップを繰り出したところ、「#捻挫したヤギの歩き」というあまりに不名誉なハッシュタグと共に、SNSへショート動画なるものを放出されてしまった。
最初こそコミュ障で挙動不審の限界を突破していた俺だけれど、最近では「まあ、ひい君だもんな」という、全肯定に近い諦めの境地に救われている。
おかげで、教室内での俺の人権は、着実かつ強固に確保されつつあった。
「今日はマジで無理だから。俺ら記念日だし」
「出たよ、マメな男。どこ行くん? ゲーセン? え、遂に家?」
「言うわけねーだろ」と肘打ちをかわして笑う恭平くんを横目に、俺の頭は「記念日」というワードに支配されていた。
(記念日って、一体何の……?)
考えあぐねたけれど、答えは出ない。
思わずスマホを取り出し、【恋人 記念日 何する】と震える指で打ち込む。
けれど検索結果を見るより先に、恭平くんが俺の手首を掴んで立たせた。
「ほら、行くぞ。今日は陽彩の門限ギリまで一緒にいたいんだから」
「は、はひ……っ」
クラスの皆に「いってらー」と手を振られ、ぎこちなく振り返す。
二人で電車に揺られて辿り着いたのは、駅前にあるファミレスだった。
ドリンクバーとがっつり系の肉メニューを注文し、向かい合って課題を済ませる……という、付き合ってからはほぼ日常の風景。
(記念日って、ただ一緒にいられれば良いものなのかな……)
俺が図書館で借りてきた『交際ノすゝめ』や『良好なパートナーシップの構築法』には、記念日なんてハイカラな項目はなかったはずだ。
……いや、そもそもあの本、発行が明治とか大正だった気がする。
現代の恋人事情を、鹿鳴館時代の知識で補おうとしたのが間違いだったのかもしれない。
「なぁ、陽彩。今日さ、家まで送っていってもいい?」
「えっ? でも、恭平くんの家、真逆じゃないですか。往復したら相当遅くなっちゃいますよ?」
俺が至極真っ当な心配を口にすると、恭平くんは『いや、そのほうがいい』と、なぜか頬を赤らめて視線を泳がせた。
本当に、どうしたのだろうか。彼ほどのスマートな男が、わざわざ非効率的な遠回りをしたがるなんて。
(もしや……特別に帰りたくない理由があるとか? 近所にクマでも出たのかな……いや、でもそれなら瀬ケ崎パパが捕縛部隊を投入しているはず……)
必死に理由を推測する俺だったけれど、恭平くんはそれ以上聞くなとばかりにそっぽを向き、メロンソーダをぐいっと飲み干してファミレスを後にした。
◇
すっかり日の暮れた住宅街。門限までは残り三十分を切っている。
そのわずかな時間すら惜しむように、恭平くんは「公園に寄りたい」と言い出し、俺は繋いだ手に引かれるまま、街灯の下のベンチに腰を下ろした。
ふとした沈黙。けれど、以前のように無理に言葉で埋める必要はもうない。
俺は恭平くんが何かを言いたげに、唇を戦わせているのをチラチラと横目で伺いながら、密かに予測システムを稼働させていた。
「あのさ。……陽彩とその……したいことがあって」
「はい、何でしょう?」」
首を傾げる俺に対し、恭平くんは膝の上で繋いだ手にぎゅっと力を込めて言い切った。
「キスしてもいい?」
あまりにも潔く、あまりにもストレートな一撃。
俺の脳内は、瞬時に未曾有の大パニックを引き起こした。
(エマージェンシー! 総員退避! なんかよく分からないけど、記念日爆撃の急襲! キス!? キスって、あの、あの、えええええ!?)
一人で脳内会議を招集している俺の動揺を見透かすように、恭平くんがふわりと距離を詰めてくる。
「……だめ?」
上目遣いでそんな風に聞かれるのは反則だ。
「えっ、ダメじゃないです、むしろ良……いや、良いわけではないかもしれないのですが……」
支離滅裂になった俺は、反射的にリュックのファスナーを全開にし、一冊の古びたA5サイズの本を突き出した。
「恭平くん、見てください! こ、この参考文献『交際ノ指針』によればっ……口吸いは、嫁入り前は公然のものではなく、貞操を汚す破廉恥な行為であり、極めて隠密になされるべきものだと明記されています!」
「なっ……お前、この土壇場で何出してきてんの!? つーか、そのバイブル古すぎんだろ! いつの時代の人間だよ!」
瀬ヶ崎くんは顔を真っ赤にして俺の聖書を奪い取ると、乱暴にページを捲った。
よりによって江戸時代の『口吸い』の作法が描かれた、生々しい浮世絵のページに行き当たり、彼はこの世の終わりを見たような顔で項垂れた。
「だ、だって! そういうのは夜の寝室で、十全にムードを高めてから吸うべしと……作法として書いてありますから!」
「だあぁぁ~……もう、ふざけんなって。お前、俺の部屋に泊まりに来た後の展開とか考えたことあんの!?」
「後の展開……? あ、はい。その、作法に則った口吸いをして、健やかに『おやすみなさい』をする、と……」
やっぱり微塵も分かってねぇ、と瀬ヶ崎くんは眉間に皺をよせ、更に「そういう方面の解説は載ってないのかよ」と毒づきながら、俺の本をパタンと閉じた。一体、どういう方面だろう。
「お前の履歴書の特技欄には『ムードの完全破壊』って書いとけ! マジで俺、彼氏として格好つかねーじゃん……」
「いえ、俺も恭平くんの『彼氏』なので、一方的にリードされるという前提には語弊が……むぐっ」
言い返そうとした口を、彼の大きな手に塞がれた。
ガシガシと乱暴に頭を掻き、瀬ヶ崎くんは今日一番の深く、重い溜息を吐き出す。
けれど、前屈みのまま俺の顔を至近距離で覗き込むその瞳には、隠しきれない、熱が宿っていた。
「……陽彩。俺はな、仮に俺の部屋にお前が来てキスした後も『おやすみなさい』だけで終わらせる気ねーんだよ。お前のその……教科書には載ってないようなことまで、全部教えたくて仕方ねーの。ぶっちゃけ……いつそうなってもいいように、準備もしてるし」
「えっ、『おやすみなさい』の後は、参考文献が存在しない何かがあるということですか?」
「いや、保健体育の教科書……あー、もういい。何でもない。とりあえず、あとは俺が直接教えるっつーか……」
「ええと、はい……あの、教えて頂けると、調べる手間が省けるので。俺もすごくありがたいのですが」
俺の返事に「それはまぁ、追々」と恭平くんは低く、震える声で目を逸らして言った。
「――で、どうするよ。陽彩がキス、今したくないならしねぇけど」
その、捨てられた子犬のような、あるいは拗ねた小学生のような言い方が、あんまりにも可愛すぎた。俺は思わず、ふっと吹き出してしまう。
「だって、そういうのって本当に大切なことじゃないですか。いくら、俺が恭平くんのトクベチュとはいえ……」
大事なシーンで、盛大に噛んだ。
(うわぁぁ、今すぐ地面に穴を掘ってマントル付近まで潜り込みたい……!)
恭平くんは一瞬きょとんとした後、腹を抱えて大笑いし、目尻に涙を浮かべて俺を振り返った。
「うん。陽彩は、俺の『特別』だよ」
不意に、くい、と顎を持ち上げられる。悪戯っぽく笑っていた彼の瞳から色が消え、致死量を超えた「好き」が混じった熱い眼差しを向けられる。
「だからキスしたいんだけど」
「…………は、はい……」
俺は逃げるのをやめ、覚悟を決めて、そっと瞼を閉じた。
恭平くんが顔を傾ける気配。
彼が愛用している香水の、甘く爽やかな香りが鼻先をかすめる。
強張る体で縋るように、彼の片腕を指先でぎゅっと掴むと、耳元を包み込むように熱い手が添えられた。
唇に触れる、柔らかい感触。
あ、と思った瞬間には一度離れ、すぐにまた、さっきより長く重なって。
触れている場所から溶けてしまいそうな、ゆっくりとした余韻を残して、唇が離れていった。
「……陽彩?」
神妙な顔をして固まっている俺に、恭平くんが不安そうに声をかける。けれど俺は、あまりの事態に「研究結果」を口にせずにはいられなかった。
「ファーストキスはレモン味って、古の定説で聞いてたんですけど。……あれ、なんでだろう」
「なに、味がしなかったってこと?」
「はい。というか、緊張しすぎて五感が死んでたのかもしれません。二回目以降の味っていうのは、一体何なのか、恭平くんはご存知で――」
「……さぁ? もう一回、自分で確認してみれば?」
「えっ」と声を漏らす暇もなかった。
恭平くんは俺の背中を片手でがっしりと引き寄せ、逃げ腰になる俺の後頭部に迷わずもう片方の手を回す。
さっきと同じ、羽が触れるような軽いキス。
それが確認目的ではなく、恭平くんがしたいだけだと分かった途端に唇を固く結んで真っ赤になっている俺を見て、彼は『かわいすぎ罪だわ……』と、もはや語彙力を喪失したような謎のツッコミを零した。
「……ほら、家の前まで送るから。行くぞ」
ぼそりと呟き、彼は俺の手を引いて歩き出す。
俺が読んできた『男子タルモノノ心得』には、「相手の意図を汲み、自ら進んで行為を遂行せよ」なんて書いてあったのに。
これでは何から何まで、恭平くんに主導権を奪われっぱなしだ。
後少し歩いたら、うちの家の屋根が見えてくる。
繋がれた手にも、触れた唇にも、痺れるような熱がまだ消えずに残ったままなのに。
(……全然、足りない)
本に書いてある正解なんてどうでもいい。
俺自身の心が、もっと恭平くんの温度を、彼の声を、この世でたった一人の特別な存在を、もっと深く確認したいと叫んでいた。
もう一回、キスして、なんて。
そんな甘すぎる言葉は言えないけれど。
「恭平くん」
俺は繋いでいた手を一度離すと、彼の体に縋るように、精一杯の背伸びをした。
それでも届かない距離に、もどかしさが募る。もっと近くに、もっと俺のところまで降りてきてほしい。
そんな願いを込めて、彼の腕をぐいっと自分の方へ引き寄せる。
恭平くんは俺の勢いに釣られるように、上体を前屈みにした。目を閉じる間際、彼の驚きに満ちた顔が見える。
けれど俺はそのまま、自ら恭平くんの形のよい唇に、そっと自分の唇を重ねた。
離して両目で彼の動揺しきった瞳を見つめると、つま先立ちを終えるより先に、もう一度後頭部を手のひらで支えられる。
「……えっ、あの、きょう――」
名前を呼ぶより先に、もう一度塞がれて――ちょっとだけ、唇そのものを食むようなキスを繰り返される。
(え、えっ……これ、どうしたらいいのっ――……?)
完全にペースに呑まれ、されるがまま。
恭平くんの熱を剥きだしにしたような、こっちまで火照りそうなほどの角度を変えて重なるキスを受け止める。
やがて、電柱の陰に隠れるようにして、彼は俺を正面から包み込んだ。
力強いハグ。耳の裏まで真っ赤に染めた恭平くんが、俺の肩口に顔を埋め、震える声で囁いた。
「……あー、もう……カッコわる。いつまで我慢できるか分かんねぇよ、俺」
「ええと、な、何を我慢してるんですか……?」
その言葉の真意は分からない。けれど、恭平くんはじっと俺の顔を見たあと、蚊の鳴くような声で「がっついてごめん」と謝った。
ふるふると首を左右に振り、大丈夫だと伝えたくて、同じように背中に手を回す。
「陽彩のことが好きすぎて……ほんと、一生、俺が幸せにしてやりたい」
ぎゅっと、体が軋むほどの力を込めて抱きしめられる。その切実なまでの愛しさに応えるように、俺も彼の広い背中をそっと撫でた。
「嬉しいです。だって僕には、生涯をかけて恭平くんを笑わせるっていうミッションがありますから。おじいちゃんになっても、たとえ入れ歯を飛ばしてでも、這ってでも、絶対に恭平くんのことを笑わせてあげます! 覚悟しておいてくださいね」
「……っ、はは! なんだよそれ。最高かよ」
お互いに顔を見合わせて、笑い合う。
かつては頑なに俺の顔を覆っていたあの白いマスクは、もうどこにもない。
秋の夜風が、俺の頬を、唇を、そしてさらけ出したままの笑顔を、優しく撫でて吹き抜けていく。
黒丸との別れに涙を流し、恭平くんという光に触れたあの日から、俺は「隠す」ことをやめた。
嬉しいことも、悲しいことも。どんな出来事も、恭平くんとならこの先ずっと、二人で分け合っていける。
「あの……恭平くん、ダイクストラ法の解が、必ずしも幸福度を最大化するとは限らないということを証明したいので、非効率なこっちのルートを一緒に検証して貰えませんか?」
「……甘えたい時は、ちゃんとハッキリ言えってこの前も言ったじゃん」
頬を撫でる、大きな手。
そっと顔を見上げて、俺は小さく息を吐いてから目を見つめて願いを打ち明けた。
「……まだ、帰りたくないので……こっちに、回り道して帰りませんか?」
ぎゅ、とその左手に指先を絡めて、彼の「俺もそう言おうと思ってた」という言葉に目を細める。
大好きな恭平くんと手を繋いで歩く星空の下、俺はこれまでになく満たされた気持ちで、最高に幸せな未来を確信していた。
<END>




