クラスのド陰キャで「うさぎ係」の俺は、瀬ヶ崎くんからの告白フラグを折りまくっています。


 家に帰っても、夕飯を食べる気力さえ湧かなかった。
 普段なら真っ先に着替えを済ませる俺が、制服のまま部屋から出てこないのを察したのだろう。心配した母さんは、勉強机の上にラップに包まれたおにぎりを三つ、黙ってそっと置いていった。

 部屋の電気は点けないまま。カーテンの隙間から差し込む街灯の明かりだけで薄明るいベッドの中で、俺はスマホのカメラロールを遡っていた。
 一年生の頃から撮り溜めてきた、黒丸の写真。その一枚一枚に宿る温もりを指先でなぞるように、画面をゆっくりと滑らせる。

 部屋の静寂は、俺の心に開いた穴の輪郭を、より一層冷たく、深く、鮮明に浮き彫りにした。

 昨日まで、俺と瀬ヶ崎くんの真ん中には、いつも黒丸がいた。黒丸という愛らしい存在を介して、俺たちは言葉を交わし、視線を合わせ、少しずつ不器用な距離を縮めてきたのだ。
 その中心にいた温かな命が、まるでドーナッツの真ん中のように、ぽっかりとなくなってしまった。

 埋めようのない、空白。
 この穴を別の何かで塞ぐことなんてできない。
 そして、失われた鼓動が戻ることもない。

 きっと、時間の経過とともにこの痛みが「日常」という景色に馴染んでいくのを、ただ静かに待つしかないのだと思う。
 いつも通りの自分に戻れるのは、一週間後か、それとももっと先か――。
 
 天井を見つめながら、出口のない思考を繰り返していた、その時。ポコン、という通知音が静寂を破った。

【瀬ヶ崎恭平がアルバムを作成しました】

 その通知は何件も続き、画面の右上に赤い数字が積み上がっていく。
 驚いて開いてみると、そこには俺が持っていない角度からの、たくさんの俺と黒丸の写真が並んでいた。 アルバム名は、シンプルに『黒丸と陽彩の思い出』。

 居眠りした黒丸を膝に乗せて笑う俺の写真や、俺が「美味しい?」と尋ねながら黒丸が人参を食べるのを見つめている動画。
 瀬ヶ崎くんが撮った写真の一枚一枚が、彼もまた同じ景色を見つめ、同じ温もりを愛おしんでいたことを証明していた。

「……瀬ヶ崎くん……。」

 その瞬間、俺の心の奥底から、理屈を全部飛び越えた「本当の願い」が溢れ出した。

 潤む視界を指先で擦り、メッセージを入力する。迷わず送信ボタンを押すと、刹那の速さで既読がつく。

【瀬ヶ崎くんを困らせるかもしれないことを、言ってもいいですか?】

 入力中の吹き出しが揺れたあと、彼からの返信は、あまりにも短く、力強いものだった。

【いいよ】

 分かっている。これは甘えだ。
 けれど、もう、気持ちを止められなかった。

【瀬ヶ崎くんの声が聴きたいです】

 既読がついた直後、画面は着信を知らせる表示に切り替わった。 暗い室内でスマホの光がライトのように、俺の顔を白く照らし出す。
 その光に導かれるように、震える指先で通話ボタンをタップした。

「……陽彩? 大丈夫か」

 スピーカーから漏れたのは、いつもより少し低くて、胸の奥を直接撫でるような瀬ヶ崎くんの声。

「あ、あの……俺……っ」

 大丈夫なわけがない。そんな情けない気持ちを乗せて鼻を啜り、彼の名前を呼ぶ。
 以前の俺なら、電話の沈黙を恐れて必死に話題を探しただろう。けれど瀬ヶ崎くんは急かすことなく、ただ静かな呼吸だけを繰り返し、俺が喋りだすのを待っていてくれた。

「ご、ごめんなさい。……何かを話したいとか、そういうわけじゃないんですけど……」

「分かってる。無理して喋らなくていいよ」

 瀬ヶ崎くんは、俺の言葉の隙間を埋めるように、ぽつり、ぽつりと黒丸の思い出話を始めた。

 それは無理に切なくさせるトーンではなく、あの子がどれだけ傍若無人だったかや、どれだけ俺たちを笑わせてくれたかという、柔らかな記憶。

 時折、俺が鼻声で小さく笑うと、受話器越しの気配が変わる。声色ひとつ、吐息ひとつで、瀬ヶ崎くんが安堵し、俺を安心させるように穏やかに笑っているのが手に取るように分かった。

 黒丸がいなくなったこの「穴」を、無理に何かで埋めてほしいわけじゃない。ただ、その淵に吹き抜ける冷たい風に凍えそうな今、隣に瀬ヶ崎くんがいてほしい。

 このやるせなさも、止まらない涙も、全部まるごと彼に受け止めてほしい。そして、その相手は――世界中の誰でもない、瀬ヶ崎くんじゃなきゃダメなんだ。

 スマホを通して繋がっている今の俺の心は、まるで彼の隣に座っているみたいに、静かで温かい光に満たされていた。

 電話口で泣きながら、俺は確信した。このぽっかりと空いた穴を、いつか瀬ヶ崎くんと一緒に、少しずつ「二人の思い出」という名前に変えていきたい。

 この、眩しすぎるほどにまっすぐな光のそばで。

 自分がどれだけ不器用でも、これから起きるどんな出来事に傷つきながらでも――俺はこの人を想い続けていきたい、と。





 黒丸との別れを終えた、週明けの月曜日。

 飼育する動物はいなくなったけれど、飼育室の清掃だけは継続するようにと通知があり、放課後の掃除だけが俺たちの仕事になった。

 学校だよりの裏のページに載った、小さな『お別れのおしらせ』という数行。何度見ても、繰り返し文字を目で追っても、まだ実感が湧かなかった。
 けれど俺は、黒丸が愛されて生きたという証を残したくて、先生にお願いして廊下に小さなお別れのメッセージボードを貼り出した。
 誰か書いてくれるだろうかという不安は、すぐに杞憂(きゆう)に終わった。
 名前も知らない生徒たちが寄せてくれた数十通のメモがボードを埋め、黒丸がどれほど多くの人に愛されていたかを、実感することが出来たから。

 けれど、主のいないケージと、水滴が乾ききって逆さまに置かれた給水ボトルを目の前にすると、まだどうしても胸の奥がちりりと痛む。

 何気なくケージの網に手を添え、空っぽの空間を見つめていた、その時。
 清掃日誌を書き終えた瀬ヶ崎くんが、椅子を引く音を立てて立ち上がった。

「陽彩に……受け取ってほしいんだけど」

 差し出されたのは、あの日一緒に行った動物園のロゴが入った紙袋だった。
 驚いて固まる俺に「開けてみて」と促す瀬ケ崎くんの声はどこか恥ずかしそうで、けれどひどく優しかった。

「……瀬ケ崎くん、これ……っ」

 袋の中から顔を出したのは、あの日、俺が買うのを泣くなく諦めた黒いウサギのぬいぐるみだった。
 柔らかい毛並み。そっと撫でると、黒丸のあの温かな重みまでが鮮明に蘇る。

「俺に今すぐに出来ることは、これしか思いつかなかったから」

 瀬ヶ崎くんは、少しだけ照れくさそうに視線を外して続けた。

「好きな人が落ち込んでるのは、やっぱり辛いよ。……だから、お前に伝えたかった。お前が黒丸を可愛がった日々も、あいつがここで一生懸命生きてたことも、俺がずっと隣で見てたから。絶対、黒丸は幸せだったって、俺が保証する」

 俺が、心に開いた穴を一人で見つめないように。
 瀬ヶ崎くんが注いでくれるその真っ直ぐな光に、俺の胸の奥は、強く、激しく揺さぶられた。

「……じゃあ、仕事終わったし。そろそろ出るか」

 瀬ヶ崎くんがリュックを担ぎ、飼育室のドアに手をかけた瞬間だった。

「待ってください……っ!」

 自分でも驚くほど、大きな声が出た。
 驚いて足を止めた彼に駆け寄り、俺は貰ったぬいぐるみをそっと抱きしめたまま、必死に言葉を紡ぐ。

「今まで瀬ヶ崎くんと、お世話ができて……あの日、一緒にお見送りができてよかったです。……たくさん支えてくれて、本当にありがとう」

 震える手で、彼のブレザーの端をぎゅっと掴む。
 それが単なる話ではなく、心からの叫びだと気づいたのだろう。瀬ヶ崎くんはふっと目元を緩め、慈しむように微笑んだ。

「……ありがとう、なんて言われて。こんなに切ない気持ちになんのは初めてかも」

 瀬ヶ崎くんが向き直り、俺を真っ直ぐに見下ろす。
 廊下を歩く誰かの話し声や足音が、遠くへ消えていく。

 世界から音が消えたような静寂のなかで、俺は――ずっと自分を隠し続けていた、マスクの紐に指をかけた。

 耳から紐を外し、顔を露わにする。晒した素顔は、きっと熱を帯びて真っ赤だっただろうけれど、もう逃げたくなかった。

「……俺には十分すぎるほど思い出が足りてるって、瀬ケ崎くんがアルバムの写真を通じて、教えてくれたから。だから俺は、もう泣かないです」

 瀬ヶ崎くんは、驚いたように目を見開いている。
 けれど、彼の唇が開くより先に、俺は自分の中に溜め込んでいた、爆発しそうな想いをぶつけた。

「瀬ケ崎くんと一緒にいると、楽しいことは二倍になって、悲しいことは半分になりました」

 こんなにも温かい記憶を共有して、一番深い悲しみを半分にしてくれた人を、もう「友達」だなんて言葉で誤魔化したくない。

 頬を流れる熱い涙も、激しく波打つ鼓動も、全部が、俺の「恋」を証明する何よりの証だった。

 俺の視界には、世界で一番眩しくて、世界で一番愛おしい、瀬ヶ崎くんの顔だけが映っている。
 それを、逃げも隠れもしない真っ直ぐな瞳で見つめる。
 そして、喉の奥にずっと閉じ込めていた、たったひとつの答えを解き放った。

「瀬ヶ崎恭平くん、君のことが大好きです」

 空っぽになったケージの向こう側。
 静まり返った放課後の教室に、俺の告白だけが凛と響いた。

 穴を無理に埋める必要なんてない。冷たい風が吹き抜けるその空虚ささえも、瀬ヶ崎くんとなら「そのままの自分」として愛していける。
 そう確信したからこそ出た、静かな言葉だった。

 瀬ヶ崎くんは、弾かれたように肩を震わせると、俺の素顔を食い入るように見つめた。
 その瞳に、ゆっくりと熱い色が灯っていく。

「……俺も、陽彩のことが好きだよ。お前が泣きそうな時は、絶対一人にしないって約束する。その代り、陽彩は死ぬまで俺のこと笑わしてよ」

 一歩、踏み出してきた瀬ヶ崎くんの腕が、俺の体を折れそうなほどきつく抱きしめる。
 彼の心臓が、耳元で早鐘を打っていて、俺と同じように余裕をなくして震えているのだと伝わって来た。

「必ず幸せにする。ずっと陽彩の笑顔が見ていたいから、俺の恋人になって下さい」

 視界が再び熱い涙で滲み、瀬ケ崎くんのシャツを、指先が白くなるほど強く握りしめる。

 自分がこれほどまでに――誰かを求めてしまうなんて、思ってもみなかった。
 けれど、きっと、これはただの恋なんかじゃない。一時のときめきも、燃え上がるような情熱も、今の俺にはひとつも必要なかった。

 ただ、瀬ケ崎くんという存在そのものが、ひたすらに愛おしい。
 隣にある穏やかさ、触れ合う指先の安らぎ、積み重ねてきた確かな信頼。
 不器用な彼も、ずるい彼も、すべてを受け入れられる。そして俺も、情けない自分を余さず曝け出せる。そんな静かな絆を、お互いの間で生涯をかけて育てていきたい。

 人を愛するということの正解が、今、目の前にある温もりで分かった気がした。

「……返事、聞かせて?」

 促すような穏やかな声に、喉の奥から絞り出すように答えた「はい」という言葉。
 その瞬間、俺たちの間に流れる空気が、世界で一番優しい色に染め上げられていく気がした。