クラスのド陰キャで「うさぎ係」の俺は、瀬ヶ崎くんからの告白フラグを折りまくっています。


「陽彩、おはよ」

「お、おはようございます」

 朝一番、登校したばかりの俺の頭に、ほの温かい手のひらの重みがぽん、と落ちてきた。
 瀬ヶ崎くんによる「挨拶代わりの頭撫で」という、特級の顔整いにのみ許された高度なコミュニケーションスキル。
 その直撃を受けた瞬間、俺の脳内は、見たこともない言語が並ぶ謎のエラーメッセージで埋め尽くされた。何か軽口を叩きたいのに、実際は『あひぃ』という、空気が漏れるような情けない音を吐き出すことしかできない。

「俺、今日は週番の仕事があるんだけど。放課後は終わったらすぐ、飼育室に行くようにするから」

「わ、分かりました。じゃあ、先にケージの掃除をして待機していますね。黒丸の健康チェックも万全にしておきます!」

 結局、返せたのは業務連絡のような言葉だけ。
 そんな俺の不器用さも、瀬ヶ崎くんは「分かった」と満足げに、甘く微笑んで受け流していく。
 ……ずるい。朝から表情のレパートリーが豊富かつ、眩しすぎる。

 彼が自分の席へ戻ると、そこには当たり前のように、磁石に吸い寄せられる砂鉄のごとく、一軍男女の輪が形成された。

「なぁ、恭平。週末は俺らと女子、六人でボウリング行かね?」
「カラオケも行こうよ。グルチャ動かすね」

 飛び交うのは、キラキラした休日の予定。自分がその輪に混ざりたいわけじゃない。キラキラした場所に行けば、俺みたいな陰の住人は光で蒸発してしまう。その輪の中に自分がいるイメージなんて、一ミリも、一ミクロンも湧かない。

 ……でも、なんだろう。
 この、喉の奥に何かがつっかえたような、モヤッとした感覚は。

 高校に入った後もなお「ちょっと変わった奴」というレッテルを貼られてからは、俺の定位置はいつだって教室の隅っこだった。 独りでいることにはとっくに慣れたし、自分を守るための心のシェルターの建て方だって、ベテラン棟梁の腕前なはずなのに。

 そっと自分の心の奥を覗き込んでみた瞬間、そこに居座っていたのは、見たこともないほどメラメラと燃える「嫉妬」という名の二文字だった。

(……えっ、俺? いま、嫉妬してるの? 嘘でしょ!?)

 瀬ヶ崎くんに憧れているだけじゃない。
 彼にとっての「特別」かもしれないなんて、浮足立っていた自分の浅ましさが露呈した気分だ。

 瀬ヶ崎くんの瞳が、俺以外の誰かに向くのが嫌だなんて。そんな、少女漫画のヒロインみたいな恥ずかしいことを考えている自分に、猛烈なセルフツッコミを入れる。散々、瀬ヶ崎くんからのアプローチという名の絨毯爆撃(じゅうたんばくげき)から逃げ回ってきたのは、この俺なのに、と。

 ホームルームが始まってからも、思考はまとまらない。意識しないようにすればするほど、引かれるように視線が彼を追ってしまう。

 その時、瀬ヶ崎くんがふっとこちらを振り返った。 視線が、ぶつかる――。

「……っ!」

 心臓が跳ね上がり、俺は反射的に、不自然極まりない速度で顔を正反対の方向へ九十度回転させた。首の骨からグキッという音がしそうだったけれど、そんなのどうでもいい。

 今の俺の顔は、きっと「※嫉妬してます」とデカデカと字幕がついているに違いないのだから。





 こんな時、どんな風に気持ちの折り合いを付けたらいいのか分からない。
 瀬ヶ崎くんは俺を好き、俺はそれから全力で逃げ回る、でも彼がよそ見をするのは嫌……って、俺。これじゃまるで――。

(瀬ヶ崎くんのことを、めちゃくちゃ意識しているみたいじゃないか……!? いやいやいや、恋愛なんて年齢と同じ数だけ無縁の専門外だろ。……ああ、もう。こうなったら、瀬ヶ崎くんが週番の仕事を終えてやって来るまで、黒丸にこのドロドロに溶けそうな悩みを聞いてもらうしかないのかな……)

 そんなことを考えながら階段を駆け下り、放課後のチャイムが長い余韻を引きずる廊下を、逸る足取りで進む。

 ポケットから取り出した鍵が、震える指先でカチリと音を立て、飼育室の重いドアを開けた。

「黒丸ー、今日はお悩み相談したいよ。みっちり三十分コース。お代は特選フレッシュ人参でどうですか! なーんて……」

 期待に胸を膨らませ、壁のスイッチを入れる。蛍光灯がチカチカと瞬き、部屋を青白く照らし出す。

 真っ先にケージの中を覗き込むが、いつもなら鼻を鳴らして手にすり寄ってくるはずの、あの愛らしい気配が微塵もしない。

「黒丸、おーい」

 黒丸は、ケージの隅で背中を丸めたまま動かない。深い眠りの中にいるのだろうか。
 いま起こすのは可哀想かな、と一瞬だけ躊躇する。

 ――けれど、次の瞬間。
 俺の全神経はその「不自然な静止」に釘付けになった。

 何かの見間違いであってほしい。
 ただ深く眠っているだけだ、と自分に言い聞かせるような、祈るような心地で、震える掌をその小さな背中にそっと添える。

 けれど、指先に伝わってきたのは、規則正しく上下するはずの胸の動きでも、命の証であるヒクヒクとした鼻の仕草でもなかった。
 
 数日前まで手のひらを通じて確かに感じたはずの、あの温かくて健気な鼓動が、そこにない。

「黒丸……?」

 呼びかける声が、コンクリートの壁に跳ね返る。

 冷たくなり始めた黒丸の体を撫でるたび、自分を形作っていた大切なものが一つ、また一つと、バラバラに崩れ落ちていく感覚に襲われた。

 くったりと力なく脱力した黒丸をそっと腕の中に抱き寄せ、その場に膝から崩れ落ちる。

 ただ眠っているだけのように穏やかな顔。俺は、まだ僅かな柔らかさを残す毛並みに、熱を失ったその額に、自分の額を押し当てた。

「……っ、待って……待ってよ、なんで……嫌だ、黒丸……!」
 
 とめどなく溢れ出した熱い涙が、次から次へと黒い毛並みに吸い込まれていく。

 視界がぐにゃりと歪んで、肺に酸素が届かない。

 俺は顔を覆っていたマスクを、引き千切るような勢いで剥ぎ取ると、それを指先でぐしゃぐしゃに握りしめてスラックスのポケットに突っ込んだ。

(早く、先生を呼びに行かなきゃ。瀬ヶ崎くんにも……知らせなきゃ……っ)

 頭ではやるべきタスクを叩き出しているのに、心臓には鉛を流し込まれたような重圧がかかり、指一本動かすことができない。

 ただ、腕の中に残された、冷えゆく小さなからだを、千切れるほどの愛惜を込めて抱きしめ続ける。

 どれほどそうして、止まった時間の中にいたのだろう。
 不意に、背後で飼育室のドアがガラリと音を立てて開いた。

「遅くなってごめん。……陽彩?」

 背中に届いたのは、聞き慣れた瀬ヶ崎くんの声。 振り返らなければいけない。けれど、どんな言葉でこの真実を彼に告げればいいのか、今の俺には分からなかった。
 
 言葉を出そうとするたび、喉の奥がひどく腫れ上がったように痛んで、音にならない悲鳴だけが、ずっとしこりのように残り続けている。

「……瀬ヶ崎くん。お誕生日会、できなくなっちゃいました」

 ようやく唇の端から零れ落ちたのは、形を保てないほどに脆い、独り言のような囁き。
 泣いているのに、歪な作り笑いを浮かべて彼を振り返る。

 けれど、たったその一言で、瀬ヶ崎くんはすべてを理解した。

 彼は、座り込む俺と黒丸へ迷いのない仕草で手を伸ばし、その大きな腕のなかに包み込む。
 泣き腫らした目を隠すように俯く俺は、自分の腕の中にある黒丸の命の重みを受け止める。そして、瀬ヶ崎くんは何も言わずにただ抱きしめてくれた。

 もし、今、ここに彼がいなかったら。 俺はきっと、夕闇に沈む飼育室の片隅で、一生消えない冷たさを抱えたまま、ひとりぼっちで震えていたかもしれない。

 瀬ヶ崎くんが、ここにいてくれて良かった――。

 そう確信した瞬間、堰き止めていた感情が、ついに決壊した。

「お、俺……っ、気づけなくて。もっと、早く来ていたら……こんな風に一人で死なせなかったかもしれないですよね。どうして、朝のうちに気づけなかったんだろう。少し前から様子がおかしいって、今思えば思い当たる節が、たくさんあったのに……っ」

「陽彩」

「そんなことないって、信じたくて……瀬ケ崎くんに『見て見ぬフリは嫌だ』なんて言ってたけど、嫌なことから目を逸らしてたんじゃないかって……もっと俺、黒丸のためにしてあげられることが、あったかもしれないですよね?」

 自責の念を吐き出す俺を、瀬ヶ崎くんは否定するような強さで抱き寄せた。 後頭部に回された腕と、背中を包み込む大きな掌。

 陰キャがどうだとか、棲み分けがどうだとか。そんな風に自分を逃がし続けてきた心のバリアは、彼の体温の前では何の役にも立たなかった。

 悲しいはずなのに、触れている場所から伝わってくる熱は、どうしようもなく温かい。

「陽彩、聞いて」

 瀬ヶ崎くんの優しさが、暗い夜道を照らす灯火のように、俺の胸の奥深くに静かに灯されていく。

「……お前、言ったよな。ドーナッツ半分こしたら、幸せが二倍になるって」

 髪の毛の間を、慈しむように指が流れる。その掌が与えてくれる安らぎを、これほどまでに有り難く感じたのは初めてだった。

「だったら、俺にその悲しいのも半分、預けろよ。……その痛みも、やるせなさも。陽彩が抱えきれない分は、全部、俺が持つから」

 俺は彼の胸に顔を埋めたまま、ただひたすらに声を上げて泣いた。

「っ、うぅ……っ、くろまる……黒丸……ごめんね……っ」

 独りで抱えるにはあまりに鋭すぎた痛みが、瀬ヶ崎くんの体温に溶けて、少しずつ穏やかな哀しみに形を変えていく。

 半分になった痛みの代わりに、自分の中に芽生えた静かな感情を。
 この先もずっと手放したくないと、ただ強く、強く願っていた。





 瀬ヶ崎くんは俺の気持ちが落ち着くまで、ずっとそばにいてくれた。
 気の利いた慰めを並べるのではなく、ただ静かに、俺の隣で沈黙を共有してくれる。その適度な距離感と重みが、今の俺には何よりの救いだった。

 そのあと、俺たちは二人で職員室へ向かい、先生に事の次第を伝えた。手配を済ませた先生が戻ってくると、飼育室には小さな段ボールの棺が用意された。

 その中で、ぬいぐるみのように穏やかに眠る黒丸。
 異変に気づいた運動部の生徒や緑化委員の子たちが、どこからか校内に咲いていた色とりどりの野花を摘んできてくれた。

「植草くん。これ、黒丸に」

 差し出された花々を棺の隙間に敷き詰めていくと、艶やかな黒い毛並みが黄色や水色で鮮やかに彩られ、まるで春の陽だまりでお昼寝をしているみたいに見えた。
 俺は最後にその耳元に、クリサンセマムの白と黄色の花を添えると、小さな声で「大好きだよ」と目を閉じた黒丸に向かって呟いた。

「では、よろしくお願いいたします」

 教頭先生が静かに頭を下げ、業者の車のドアが重く閉ざされた。
 ガラス越しに、白いダンボール箱の中で眠る黒丸の顔をじっと見つめる。けれど、視界が滲んで、これまでの記憶が濁流のように溢れ出してきた。

 おやつをねだる時の、あの鼻を動かす小さな音。
 手のひらを添えた時に返ってくる、確かな命の拍動。
 
 俺は人目も憚ることなく、隣に立つ瀬ヶ崎くんの左腕に額を押し付け、現実から逃避するようにきつく瞼を閉じる。
 彼のカーディガンが、涙と熱を吸って冷たくなっていく。それでも、しばらくの間、俺は顔を上げることが出来ないままで居た。たった一匹、光の届かない車の中に、暗い箱の中に。独りぼっちで連れ去られていくのが、あまりにも、あまりにも可哀想で……。

 けれど、瀬ヶ崎くんは俺の肩に手を添えながら、静かに言った。

「陽彩、大丈夫だよ。黒丸の魂はもう、柔らかい花と草でいっぱいの天国に行ってる」

 俺の震える背中を大きな手でゆっくりと、言い聞かせるように撫でてくれる声。

 幼い頃から、生き物は好きだった。
 けれど、自分が自ら進んで「飼い主」という責任ある立場になろうとしなかったのは、いつか必ず、絶対の確率で訪れるこの悲しみ――『死』という名の断絶が、たまらなく怖かったからだ。

 二年生に進級して、飼育委員を真っ先に名乗り出なかったのも、ただの消極性じゃない。
 これ以上、あの小さな命に愛情を傾けてしまったら。日々の世話を通じて深く通じ合ってしまったら。卒業という名の別れであれ、寿命という名の永別であれ、その瞬間に自分の心が粉々に砕け散り、二度と修復できなくなることが、予見できていたからだ。

 これ以上、心の穴を広げないための、俺なりの生存戦略。
 けれど、好きなものから、愛しいものから、結局俺は目を逸らし続けることができなかった。

 あの日、瀬ヶ崎くんと一緒に黒丸を撫で、温もりを分かち合ってしまった時から、俺のバリアはとっくに決壊していたのだ。そしてこれ以上ないほど、俺は彼と一緒に黒丸へ愛情を注ぎ込んでしまった。
 だからこそ、それは俺が予測していた以上の「悲しみ」となって、じわじわと胸を傷ませる。

「……きっと、目を逸らしたら後悔する。だから……今は、一緒にちゃんと見送ろう」

 俺の心を見透かしたかのような言葉に、そっと顔を上げる。
 残ってくれた生徒たちと一緒に、遠ざかっていく車が完全に見えなくなるまで、俺はただじっと、黒丸の旅立ちを見つめ続けた。

 不意に、寒さと喪失感に震える俺の左手を、瀬ヶ崎くんが横からそっと握りしめてくる。
 それは、言葉よりもずっと雄弁な励ましだった。指先から伝わってくる確かな熱だけが、俺の心を、この現実に辛うじて繋ぎ止めてくれている。

 やがて完全下校を告げる放送が、誰もいなくなった夕暮れの校庭に虚しく響き渡った。

 冷たい風に背中を突かれ、俺たちは促されるようにして、重い足取りで校門を後にする。

「……陽彩、大丈夫か」

「明日の朝当番、ケージの清掃はしなくちゃいけないので。いつも通り、来ますね」

「分かった。……じゃあ、また明日な」

 振り返った瀬ヶ崎くんも、どこか苦しげな表情を浮かべていた。きっと、涙が止まって呆然としている俺にどんな言葉をかけたらいいのか、懸命に探してくれているんだろう。
 その優しさが痛いほど伝わってくるからこそ、また涙が零れそうになる。

 「さよなら」の代わりに小さく手を振って、いつも通りの帰り道を歩き出す。

 一人になった途端、隣を歩いていたはずの瀬ヶ崎くんの体温も、腕の中にあった黒丸の重みも、すべてが幻だったかのように消えてしまった。

 夕闇が迫る街角で、俺の心は、もうここにはいない小さな命のこと――黒丸のことばかりを、何度も、何度も追いかけ続けていた。