返却ボックスの前で立ち尽くしているわけにはいかなかった。
粉と紙片を見つけた瞬間から、図書室は“居場所”であると同時に“現場”になってしまった。
現場を見て、何もしないのは――自分の名前を貼られたままにするのと同じだ。
私は棚の間を歩いた。
文学棚、社会、理科、文庫。
放課後の図書室は、人がいない分、棚の背表紙が目立つ。背表紙の並びが、呼吸をしているみたいに見える。
遼がいつも立ち止まる場所――文学棚の端。
私はそこへ向かう。
“棚の癖”。
それがただの好みじゃなくて、何かの合図みたいに思えてくる。
棚の前に立つと、さっきまで遼がここにいたのが嘘みたいだった。
でも、痕跡はある。
彼が引いた本の位置だけ、微妙に隙間が広い。
取り出して戻した跡。指で背をなぞった跡。
人の気配は残る。
私は視線を滑らせ、目的の背表紙を探した。
『透明な余白』。
遼が借りた本。棚の端から数えて三冊目。そこに――あるはずの隙間がない。
(……え?)
私は一度、目を瞬いた。
間違えた?
いや、私が今日棚に戻した位置は確かだ。
新刊の帯の色。背表紙の擦れ。
ここに『透明な余白』があった。
でも、今は――戻っている。
背表紙が、棚に刺さっている。
返却印の押された、今日借りたばかりの本が。
私は思わず、本を引き抜いた。
中を確認する。貸出シールは貼られている。返却期限のスタンプも、うっすらと残っている。
――そして、貸出カード。
裏表紙を開き、カードのポケットに指を入れる。
カードはある。
でも、先生が持っていったケースの中に入っているはずのカードが、ここにあるわけがない。
私は慌ててカードを抜こうとして、手が止まった。
違う。これは“別の本”だ。似ているだけ。
背表紙の色が近い。厚みも近い。
遼がいつも選ぶ系統の本は、似た顔をしている。
私は、混乱している。
でも、“戻っている”という感覚だけが、消えない。
私は『透明な余白』を慎重に棚へ戻し、隣の列を見た。
同じ棚で、もう一冊。『規則と告発』。
さっきカードで空白を確認した本。
そこにも――あるはずのない背表紙がある。
(……おかしい)
私は本を引き抜き、ページをめくった。
挟まっている。
白い紙片。細長い。角が少し丸い。
栞。
私は栞を取り出し、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
白い紙に、鉛筆で数字。
――58。
さっきの栞は37。
今度は58。
(誰が、挟んだの……)
答えは、ほとんど一つしかない。
でも私は、その名前をまだ口の中に入れたくなかった。
図書室を利用した人は少ない。
この棚を選ぶ人はもっと少ない。
そして、ページで答えるなんてことをする人は――。
遼。
胸の奥で名前が浮かび上がって、すぐに沈む。
沈めても、泡みたいにまた上がってくる。
私は栞を握りしめ、窓際の席を見た。
遼が座っていた席。
椅子は引かれ、机の上は空だ。
遼はもういない。
(来ない。来なくなる)
その予兆が、なぜか確信に近い形で胸に落ちる。
遼は、今日もいつも通り図書室に来た。
栞も渡した。
その上で、突然いなくなる。
――普通じゃない。
私は棚の列をもう少し追った。
『同じページの合図』。
これもカードに欠落があった本。
棚の奥、少し暗い場所にある。
背表紙を探す。
ある。
本が、ある。
返却されたばかりみたいに、背が真っ直ぐ立っている。
私は息を止めて、本を引き抜いた。
そして、裏表紙を開く前に、嫌な予感がした。
紙の匂いが、強い。
ページが、まだ少し温かい気がする。
挟まっていた。
栞。白い紙。鉛筆の数字。
――243。
私は、指が痺れるのを感じた。
243。
はっきり書いてある。迷いのない筆圧。
数字の形が、遼のノートの字に似ている――気がする。
似ている、気がする、なんて曖昧にしようとしても、目の前の現実は曖昧にならない。
37、58、243。
三つの数字が、私の手の中で揃った。
その瞬間、棚の背表紙が、一斉にこちらを見ているように感じた。
静かな本たちが、「見ろ」と言っているみたいに。
遼が来ない予兆は、遼の“不在”ではなく、遼の“置いていったもの”だった。
人がいなくなる代わりに、本だけが戻る。
言葉の代わりに、ページだけが残る。
私は栞を三枚、重ねて握りしめた。
紙が薄いのに、やけに重い。
この重さは、告発文の紙よりずっと重い。
誰かが私の名前を貼った紙より、ずっと。
(遼……)
呼びたいのに、呼べない。
呼んだら、この図書室の静けさが壊れる気がした。
でも静けさはもう、壊れている。空白がある。粉がある。紙片がある。
私は棚に『同じページの合図』を戻し、窓際の席へ歩いた。
遼が座っていた椅子に手を置く。冷たい。
そこに座っていた時間は、もう過去だ。
机の端に、鉛筆の削りカスが一粒、落ちていた。
私はそれを見つめて、喉の奥が締まる。
遼は、ここで何かをした。
ページを選び、栞を挟み、そして――消した。
消したのは、名前。
残したのは、ページ。
(……読めば、わかる)
遼の声が、さっきより遠くで響いた。
私は栞の数字をもう一度確かめ、心の中で静かに決める。
――開く。
37から。
告発文より先に、遼のページを。
粉と紙片を見つけた瞬間から、図書室は“居場所”であると同時に“現場”になってしまった。
現場を見て、何もしないのは――自分の名前を貼られたままにするのと同じだ。
私は棚の間を歩いた。
文学棚、社会、理科、文庫。
放課後の図書室は、人がいない分、棚の背表紙が目立つ。背表紙の並びが、呼吸をしているみたいに見える。
遼がいつも立ち止まる場所――文学棚の端。
私はそこへ向かう。
“棚の癖”。
それがただの好みじゃなくて、何かの合図みたいに思えてくる。
棚の前に立つと、さっきまで遼がここにいたのが嘘みたいだった。
でも、痕跡はある。
彼が引いた本の位置だけ、微妙に隙間が広い。
取り出して戻した跡。指で背をなぞった跡。
人の気配は残る。
私は視線を滑らせ、目的の背表紙を探した。
『透明な余白』。
遼が借りた本。棚の端から数えて三冊目。そこに――あるはずの隙間がない。
(……え?)
私は一度、目を瞬いた。
間違えた?
いや、私が今日棚に戻した位置は確かだ。
新刊の帯の色。背表紙の擦れ。
ここに『透明な余白』があった。
でも、今は――戻っている。
背表紙が、棚に刺さっている。
返却印の押された、今日借りたばかりの本が。
私は思わず、本を引き抜いた。
中を確認する。貸出シールは貼られている。返却期限のスタンプも、うっすらと残っている。
――そして、貸出カード。
裏表紙を開き、カードのポケットに指を入れる。
カードはある。
でも、先生が持っていったケースの中に入っているはずのカードが、ここにあるわけがない。
私は慌ててカードを抜こうとして、手が止まった。
違う。これは“別の本”だ。似ているだけ。
背表紙の色が近い。厚みも近い。
遼がいつも選ぶ系統の本は、似た顔をしている。
私は、混乱している。
でも、“戻っている”という感覚だけが、消えない。
私は『透明な余白』を慎重に棚へ戻し、隣の列を見た。
同じ棚で、もう一冊。『規則と告発』。
さっきカードで空白を確認した本。
そこにも――あるはずのない背表紙がある。
(……おかしい)
私は本を引き抜き、ページをめくった。
挟まっている。
白い紙片。細長い。角が少し丸い。
栞。
私は栞を取り出し、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
白い紙に、鉛筆で数字。
――58。
さっきの栞は37。
今度は58。
(誰が、挟んだの……)
答えは、ほとんど一つしかない。
でも私は、その名前をまだ口の中に入れたくなかった。
図書室を利用した人は少ない。
この棚を選ぶ人はもっと少ない。
そして、ページで答えるなんてことをする人は――。
遼。
胸の奥で名前が浮かび上がって、すぐに沈む。
沈めても、泡みたいにまた上がってくる。
私は栞を握りしめ、窓際の席を見た。
遼が座っていた席。
椅子は引かれ、机の上は空だ。
遼はもういない。
(来ない。来なくなる)
その予兆が、なぜか確信に近い形で胸に落ちる。
遼は、今日もいつも通り図書室に来た。
栞も渡した。
その上で、突然いなくなる。
――普通じゃない。
私は棚の列をもう少し追った。
『同じページの合図』。
これもカードに欠落があった本。
棚の奥、少し暗い場所にある。
背表紙を探す。
ある。
本が、ある。
返却されたばかりみたいに、背が真っ直ぐ立っている。
私は息を止めて、本を引き抜いた。
そして、裏表紙を開く前に、嫌な予感がした。
紙の匂いが、強い。
ページが、まだ少し温かい気がする。
挟まっていた。
栞。白い紙。鉛筆の数字。
――243。
私は、指が痺れるのを感じた。
243。
はっきり書いてある。迷いのない筆圧。
数字の形が、遼のノートの字に似ている――気がする。
似ている、気がする、なんて曖昧にしようとしても、目の前の現実は曖昧にならない。
37、58、243。
三つの数字が、私の手の中で揃った。
その瞬間、棚の背表紙が、一斉にこちらを見ているように感じた。
静かな本たちが、「見ろ」と言っているみたいに。
遼が来ない予兆は、遼の“不在”ではなく、遼の“置いていったもの”だった。
人がいなくなる代わりに、本だけが戻る。
言葉の代わりに、ページだけが残る。
私は栞を三枚、重ねて握りしめた。
紙が薄いのに、やけに重い。
この重さは、告発文の紙よりずっと重い。
誰かが私の名前を貼った紙より、ずっと。
(遼……)
呼びたいのに、呼べない。
呼んだら、この図書室の静けさが壊れる気がした。
でも静けさはもう、壊れている。空白がある。粉がある。紙片がある。
私は棚に『同じページの合図』を戻し、窓際の席へ歩いた。
遼が座っていた椅子に手を置く。冷たい。
そこに座っていた時間は、もう過去だ。
机の端に、鉛筆の削りカスが一粒、落ちていた。
私はそれを見つめて、喉の奥が締まる。
遼は、ここで何かをした。
ページを選び、栞を挟み、そして――消した。
消したのは、名前。
残したのは、ページ。
(……読めば、わかる)
遼の声が、さっきより遠くで響いた。
私は栞の数字をもう一度確かめ、心の中で静かに決める。
――開く。
37から。
告発文より先に、遼のページを。


