栞が繋ぐ一行体験――3冊のページで、告白を完成させる

先生がケースを持って出ていっても、私は図書室から動けなかった。
鍵は預けた。カードも預けた。
それでも、ここにいる理由が残ってしまったみたいに、足が床に縫い付けられている。

カウンターの向こう側、返却ボックスが目に入る。
昼間は何度も開ける箱。
今は、ただの箱じゃない。
“誰かが触ったかもしれない場所”になっている。

私は息を整えてから、返却ボックスの前にしゃがんだ。
蓋の金具に指をかける。
いつもなら慣れた動きで開けるのに、今日は手が慎重になりすぎて、金属音がやけに大きく響いた。

カタン。

蓋を持ち上げると、紙の匂いがまた上がってくる。
返却された本たちが、積み重なって眠っている。背表紙の列が、暗い箱の中で斜めになっている。

私は一冊ずつ取り出し、机の上に並べた。
ここまでは、いつも通り。
――でも、いつも通りにするほど、違うところが目に入る。

箱の底。
いつもなら見ない場所に、目が吸い寄せられた。

底の隅が、わずかに黒い。
埃の黒じゃない。
もっと粒が細かくて、指で擦ると伸びるタイプの黒。

私は指先でそっと触れた。
ざらり。
指に、灰みたいな粉が付く。

……鉛筆粉。

さっきカードで見た黒ずみと同じ種類の黒。
私は指を広げ、光に当てて確認した。
黒は、指の線に入り込んでいる。
消しゴムの粉なら白っぽくなる。
これは、鉛筆の芯を削ったときの、あの色だ。

(ここで、やった?)

胸の奥が冷たくなる。
返却ボックスは、人目につかない。
閉館後なら、なおさら。
誰かが本を返すふりをして、箱の中に手を入れ、カードを抜いた――そんなことができてしまう。

私は息を飲み込み、箱の底をもう少し探った。
指先で、角をなぞる。
すると、粉の中に、違う感触が混じった。

――紙。

ほんの小さな、紙片。
米粒より少し大きいくらい。白い繊維がほつれている。
私は慎重に摘まみ上げた。

薄い。軽い。
そして……端が、ギザギザだ。
ちぎったというより、削った紙が裂けたみたいな断面。

私は紙片を掌に乗せ、しばらく見つめた。
何か書いてある?
目を凝らす。けれど、文字はない。
ただ、紙の繊維が偏っている。
圧がかかった痕跡。
鉛筆で強く書いたときに、裏に残る“筆圧”みたいな、微かな凹み。

(……名前の跡?)

考えた瞬間、背中がぞくりとした。
さっき先生が言った。消したんじゃない、剥がしてる。
剥がすときに、削れた紙がここに落ちたのだとしたら――。

私は返却ボックスの内側の縁を見た。
指がよく当たる場所。
そこに、うっすらと白い擦れ跡がある。
粉と混ざった、消しゴムのカスみたいなものも、ほんの少し。

(削って、こすって、剥がして……)

作業が、目の前で再現されてしまう。
誰かがここで、貸出カードを抜いて。
紙を削って薄くして。
名前の部分だけ、消すために。

私は急に、胸ポケットの栞を思い出した。
37。
あの数字を書いた鉛筆。
遼が使っていたペンと、同じ種類の芯の色。
違う。今はそれを結びつけちゃいけない。
結びつけた瞬間に、彼が“犯人候補”になる。
私は、まだ何も知らない。

……でも、この粉は現実だ。
紙片は現実だ。
告発文より、ずっと現実的だ。

私は紙片を、ハンカチの内側にそっと包んだ。
証拠、なんて言葉にしたくない。
でも、持っていないと、私はまた「何も言えない」になる。

箱の底の粉を指で拭ってしまいそうになって、慌てて手を止めた。
触った時点で、もう遅いかもしれない。
それでも、私はやめた。
これ以上、ここを“私の痕跡”で塗り替えたくなかった。

返却ボックスの中を片付け、蓋を閉める。
カタン。
音が、思ったより軽い。

私は立ち上がり、手を洗うために水道へ向かった。
手のひらの黒は、石鹸を付けてもすぐには落ちなかった。
鉛筆粉が指の線に入り込んで、まるで「消せない印」みたいに残る。

洗いながら、私は思った。
名前は消されるのに、粉は残る。
残るべきじゃないものが残り、残るべきものが削られる。

……この違和感を、私は見逃したくない。

水道の蛇口を閉めたとき、ふと、図書室の窓際が目に入った。
遼の席。
今は空だ。
けれど、そこに彼がいた時間だけが、まだ図書室の空気に残っている気がした。

私はハンカチの中の紙片を、指で確かめる。
薄い繊維。小さな凹み。
この欠片が、誰かの“消したかった名前”の一部だとしたら――。

(……私、見つける)

口に出さずに、心の中で言った。
放課後のタイムリミットは、まだ動いている。
でも、動いているなら、私も動くしかない。

返却ボックスの蓋に手を置いて、私はもう一度、静かに息を吸った。