栞が繋ぐ一行体験――3冊のページで、告白を完成させる

図書室の鍵を預けたのに、私は図書室の前に立っていた。
正確には、図書室の“前”まで戻されていた。

「状況確認のために、カードを見せてほしい」

図書担当の先生がそう言って、私を連れてきた。
廊下を歩く間、先生は何も言わなかった。
言葉が少ないのは、優しさなのか、面倒を増やしたくないからなのか分からない。分からないから、怖い。

鍵束が、先生の手の中で鳴る。
金属音が、図書室の静けさに刺さった。
ドアが開くと、いつもの匂いが流れてくる。紙と、埃と、少しだけ木の甘さ。
胸の奥がほんの少し緩んだ――のに、その緩みがすぐに恥ずかしくなる。ここが居場所だと思ってしまった自分が、今日の私は許せない。

「入って」

先生が短く言う。
私は頷いて、カウンターの内側へ回った。いつも通りに動こうとするほど、動きが不自然になる。肩が硬い。目線が定まらない。

「貸出カード、見せて」

先生は私の向かい側に立ち、カウンター越しに手を出した。
その手が“借りる手”じゃないことに、胸が痛む。
本を借りるときの手は、少しだけ期待が混じる。
今の手には、期待じゃなく“確認”がある。

私は文学棚の端に置いた透明ケースを取りに行った。
ケースの蓋に指をかけた瞬間、指先が汗ばんでいるのが分かる。
こんなに緊張するのは、悪いことをしているからじゃない。
していないのに、しているみたいに扱われているからだ。

蓋を開ける音が、やけに大きい。
カードの束を机に置くと、薄い紙が擦れて小さく鳴った。

先生が一枚目を手に取る。
『透明な余白』。
視線が、カードの下の方へ滑っていくのが見える。

「……ここだね」

先生の指が、空白の行の上で止まった。

――2/13(木)___

私は息を止めた。
紙の上の空白が、現実の空白みたいに冷たい。

先生はカードを角度を変えて、光に当てた。
蛍光灯の白い光が、カードの繊維を浮かび上がらせる。
そして、空白の部分だけが違うことが、はっきり分かった。

そこだけ、紙が薄い。
表面が毛羽立っている。
消しゴムで消したときの、ふわっとした粉っぽさではなく、もっと乱暴に擦った跡。
いや、擦ったというより――剥がした。

先生の爪が、空白の端をそっとなぞる。
紙の縁が、ほんのわずかめくれかけている。

「……消したんじゃない。剥がしてる」

先生が、独り言みたいに言った。
その言葉が、私の背中を冷たく撫でた。

剥がす。
鉛筆で書いたものを、消しゴムで消すなら分かる。
でも、剥がす?
紙を、削る?
そんなこと、誰がする。なんのために。

「これ、いつからこうなってた?」

先生が私を見る。
私は首を振った。

「……今日、気づきました。さっき……放課後の……」

「君が気づく前に、誰かが触ってる可能性は?」

「……分かりません」

分かりません、しか言えないのが悔しい。
図書室のことなら分かるはずなのに。
貸出カードは本の中に入っている。勝手に抜き取って眺める人はいない。
――はずなのに。

先生は次のカードを抜いた。
『規則と告発』。
また、空白。

――2/14(金)___

先生の指が、空白を押さえる。
指先が沈むように見えた。紙が薄いからだ。
空白の端に、淡い黒ずみがある。
鉛筆粉が、繊維の奥に押し込まれているみたいに。

「同じ手口だね」

同じ。
手口。
“手口”という単語が、事件を現実にする。
告発文が紙一枚だったのに、今は指先の質感で“誰かの行為”が存在してしまう。

先生は私の方へカードを差し出した。

「触ってみて」

私は躊躇した。触ったら、私の指紋が付く。
でも先生の目は、試す目だった。逃げると、疑いが濃くなる。

私は指先で空白の部分を撫でた。
ざら、とした。
紙の毛羽が指に引っかかる。
そして――ほんのわずか、指先に黒が付いた。

「……鉛筆」

私が呟くと、先生が頷いた。

「消し跡じゃない。削り跡だ。鉛筆粉が残ってる」

削る。剥がす。
誰かが、そこに書かれていた名前を、わざわざ紙ごと薄くしてまで消した。
“名前”だけを。

私は胸ポケットの栞を思い出した。37。
遼はページで答えると言った。
でも今、答えはページじゃなく、空白にある。

「この空白、誰の名前があったと思う?」

先生が、何でもないことみたいに聞いた。
その聞き方が、怖い。
“誰”と聞かれた瞬間、私の中で候補が勝手に絞られる。
司書委員。先生。図書室に来る常連。――そして遼。

私は言葉を飲み込んだ。
遼の名前を口に出したくなかった。
なぜか分からない。
けれど、口に出した瞬間に彼が“疑いの枠”に入ってしまうのが分かったからだ。

「……分かりません」

先生は私の返事に何も言わず、カードを机に戻した。
そして最後に、『同じページの合図』のカードを抜いた。

――2/15(土)___

告発文の前日。
そこだけが、ぽっかりと抜けている。

先生が、カードの下の方にある別の行に目を留めた。
私の名前。

――2/05(水)紬

その次の行。

――2/11(火)遼

遼の名前が、私の名前の上にある。
その並びが、なぜか胸を締めつける。
近い。
ただの記録なのに、近い。

先生はカードを戻し、ケースの蓋を閉めた。
パチン、と音がした。
それが、図書室の空気を一段固くした。

「……これは、放課後にやった跡じゃない。もう少し前から触られている」

先生が言う。
私は息を吸った。
空白が、今日の問題じゃないことが確定していく。
でも告発文は今日貼られた。
空白と告発文の距離が、縮まっていく。

「紬、今は一旦、ここまで。カードは預かる」

先生がケースごと持ち上げた。
その動きに、私は思わず手を伸ばしそうになる。
返して、と言いたい。
返してほしいのはカードじゃない。
図書室の“いつも”を返してほしい。

「……先生」

声が出た。自分でも驚くほど小さい声。

「私、やってません」

先生は一瞬だけ私を見た。
表情は変わらない。
変わらないのに、その視線に“困ったな”が混じるのが分かる。

「分かってる、とは言えない。まだ」

その一言が、私の膝を軽く折った。

まだ。
まだ、の間に、噂は広がる。
まだ、の間に、私の名前は貼られたままになる。

先生が図書室を出ていく。
ケースの中でカードが擦れて、かすかな音がした。
まるで空白が笑っているみたいだった。

ドアが閉まった瞬間、図書室に静けさが戻る。
でもそれは、いつもの静けさじゃない。
確認され、奪われ、残された静けさだ。

私はカウンターに手をつき、深く息を吐いた。
胸ポケットの栞の角が、まだ心臓の位置に触れている。
37。

(……ページで、答える)

だったら、私が開く。
空白の理由を、誰の名前が剥がされたのかを。
放課後が終わるまでに――。