栞が繋ぐ一行体験――3冊のページで、告白を完成させる

職員室へ向かう廊下は、普段なら「通り道」だ。
先生たちの声が漏れてきて、プリントの紙の匂いがして、少しだけ背筋が伸びる場所。
でも今日は違う。廊下が、一本道の裁判所みたいに感じる。

窓の外はもう夕方に傾きかけていた。
部活の掛け声が、さっきより遠い。
放課後という時間が、いつもなら自由の始まりなのに、今日は締め切りみたいに迫ってくる。

職員室の前には、既に人がいた。
図書担当の先生。学年主任。あと、知らない先生が一人。
私が近づくと、会話が一斉に止まった。
止まるのは、いつも私が「生徒」だからだと思っていた。
今日は、違う理由で止まる。

「紬。来たね」

図書担当の先生が、淡々と私の名前を呼ぶ。
その呼び方が、急に遠い。
教室で呼ばれた“紬”と同じはずなのに、職員室の前だと「案件の名称」みたいに聞こえる。

「……はい」

声が小さくなる。
大人の前では萎縮する。いつもの私だ。
でも、いつもの私でいることが、今日は怖い。

学年主任が、腕時計をちらりと見た。
その動作が、私の心臓を一段早くした。

「手短に確認する。時間がないから」

時間がない。
その言葉が、胸に刺さる。

「今、掲示板の件で何人も来ていてね。放課後のうちに整理しておきたい。君も、当番があるだろう?」

当番。
図書室。鍵。返却本。
私の日常が、先生の口から“処理すべき項目”として並べられる。

「告発文にある“貸出記録の改ざん”について、心当たりはある?」

学年主任が、まっすぐに聞いた。
遠回しじゃない。逃げ道のない質問。

「……ありません」

言った瞬間、先生たちの視線が、ほんのわずか動いた。
“想定内”の動き。
告発文の最後の一行が頭をよぎる。
――当然、本人は否定するでしょう。

私は唇を噛んだ。
否定すら、予告されていた。

図書担当の先生が続ける。

「貸出カードに消し跡があるのは事実だ。君も確認したね?」

私は頷きかけて、止まった。
確認した、と言えば、そこから何かを押し付けられる気がした。
でも黙れば黙るほど、先生の言う“事実”だけが積み上がる。

「……見ました」

「いつ見た?」

「今日の、放課後……図書室で」

学年主任が、また腕時計を見る。
秒針が動くのが見えた気がした。
放課後が、減っていく。
タイムリミットが、目に見える形になっている。

「その時点で、誰が図書室にいた?」

「……私と、えっと……」

遼の顔が浮かぶ。
でも名前を出したくなかった。
理由は分からない。守りたいというより、巻き込ませたくない。
遼が言った「巻き込まれなくていい」が、逆方向から私の口を塞ぐ。

「……利用者が、一人」

私はそう言ってしまった。
嘘ではない。利用者は一人だった。
でもそれが誰かは、言わなかった。

図書担当の先生が目を細めた。
怒っているというより、観察している目。

「君は司書委員だ。貸出カードに触れられる。記録を管理している立場だ。だからこそ、疑われやすい。分かるね?」

分かる。
分かるから、苦しい。

「……分かります」

学年主任が、机の上の書類を示した。
職員室のドアの向こうにある机。そこに白い紙が一枚置かれているのが見えた。
告発文と同じ紙質。コピー用紙。
見ただけで分かる。あの紙だ。

「この件、今日中に“対応”を決める。明日に持ち越すと、噂はもっと広がる。君もつらいだろう?」

つらい、の言い方が優しい。
でもその優しさは、私を守るためというより、早く終わらせるためのものだ。

「だから――もし心当たりがあるなら、今のうちに言った方がいい」

図書担当の先生が、声を落とした。
“今のうち”。
もう一度、タイムリミットが押し付けられる。

私は息を吸った。
胸の奥で、何かが小さく折れそうになる。
言ってしまえば、終わるのかもしれない。
認めれば軽く済む、という言葉が、先ほど教室で予告されていたみたいに浮かぶ。

でも、私はやっていない。
やっていないのに認めたら、それは“私の名前”が本当に汚れる。

私は胸ポケットに触れそうになって、やめた。
そこにある栞。37。
遼の「読めばわかる」。
ページで答える。
――答えがあるなら、今はまだ、折れちゃいけない。

「……私、やっていません」

今度は、さっきよりはっきり言った。
声が震える。
震えるのに、目は逸らさなかった。逸らしたら負ける気がした。

学年主任が、短く頷く。

「分かった。では確認する。君は今日、カードに触れた。消し跡を見た。利用者が一人いた。――鍵は誰が持っている?」

「……私です」

「図書室は、このあとどうする?」

一瞬、言葉が詰まる。
図書室を閉めるべきか。
当番として最後までいるべきか。
どちらを言っても、疑いの材料になりそうだ。

図書担当の先生が、淡々と結論を出す。

「今日は図書室を早めに閉める。鍵は一度こちらに預けて。君は……後で、もう一度話を聞く」

後で。
また、後で。
放課後の時間が、削られていく。
私の中の“いつもの当番”が、どんどん失われる。

先生が職員室のドアに手をかけた。

「今から、まず状況確認をする。君は中に入らず、ここで待っていなさい」

待つ。
この廊下で、時間が減っていくのを見ながら。
私は頷いた。

ドアが開いて、先生たちが中へ入る。
職員室の空気が一瞬だけ外へ漏れる。紙とインクと、疲れた大人の匂い。
すぐにドアが閉まって、私は廊下に一人残った。

時計の秒針が、遠くで進む。
放課後のタイムリミットが、音になって迫る。

私は壁に背をつけ、制服の胸ポケットに触れた。
栞の角が、指先に当たる。
37。

(……ここから始まる)

世界が反転したまま、戻らない。
なら、私が戻すしかない。
ページを開く前に貼られた名前を、ページで剥がすしかない。

職員室のドアの向こうで、紙がめくられる音がした。
私はその音を聞きながら、胸の中で静かに決めた。

――放課後が終わるまでに、答えを見つける。