職員室へ向かう廊下は、普段なら「通り道」だ。
先生たちの声が漏れてきて、プリントの紙の匂いがして、少しだけ背筋が伸びる場所。
でも今日は違う。廊下が、一本道の裁判所みたいに感じる。
窓の外はもう夕方に傾きかけていた。
部活の掛け声が、さっきより遠い。
放課後という時間が、いつもなら自由の始まりなのに、今日は締め切りみたいに迫ってくる。
職員室の前には、既に人がいた。
図書担当の先生。学年主任。あと、知らない先生が一人。
私が近づくと、会話が一斉に止まった。
止まるのは、いつも私が「生徒」だからだと思っていた。
今日は、違う理由で止まる。
「紬。来たね」
図書担当の先生が、淡々と私の名前を呼ぶ。
その呼び方が、急に遠い。
教室で呼ばれた“紬”と同じはずなのに、職員室の前だと「案件の名称」みたいに聞こえる。
「……はい」
声が小さくなる。
大人の前では萎縮する。いつもの私だ。
でも、いつもの私でいることが、今日は怖い。
学年主任が、腕時計をちらりと見た。
その動作が、私の心臓を一段早くした。
「手短に確認する。時間がないから」
時間がない。
その言葉が、胸に刺さる。
「今、掲示板の件で何人も来ていてね。放課後のうちに整理しておきたい。君も、当番があるだろう?」
当番。
図書室。鍵。返却本。
私の日常が、先生の口から“処理すべき項目”として並べられる。
「告発文にある“貸出記録の改ざん”について、心当たりはある?」
学年主任が、まっすぐに聞いた。
遠回しじゃない。逃げ道のない質問。
「……ありません」
言った瞬間、先生たちの視線が、ほんのわずか動いた。
“想定内”の動き。
告発文の最後の一行が頭をよぎる。
――当然、本人は否定するでしょう。
私は唇を噛んだ。
否定すら、予告されていた。
図書担当の先生が続ける。
「貸出カードに消し跡があるのは事実だ。君も確認したね?」
私は頷きかけて、止まった。
確認した、と言えば、そこから何かを押し付けられる気がした。
でも黙れば黙るほど、先生の言う“事実”だけが積み上がる。
「……見ました」
「いつ見た?」
「今日の、放課後……図書室で」
学年主任が、また腕時計を見る。
秒針が動くのが見えた気がした。
放課後が、減っていく。
タイムリミットが、目に見える形になっている。
「その時点で、誰が図書室にいた?」
「……私と、えっと……」
遼の顔が浮かぶ。
でも名前を出したくなかった。
理由は分からない。守りたいというより、巻き込ませたくない。
遼が言った「巻き込まれなくていい」が、逆方向から私の口を塞ぐ。
「……利用者が、一人」
私はそう言ってしまった。
嘘ではない。利用者は一人だった。
でもそれが誰かは、言わなかった。
図書担当の先生が目を細めた。
怒っているというより、観察している目。
「君は司書委員だ。貸出カードに触れられる。記録を管理している立場だ。だからこそ、疑われやすい。分かるね?」
分かる。
分かるから、苦しい。
「……分かります」
学年主任が、机の上の書類を示した。
職員室のドアの向こうにある机。そこに白い紙が一枚置かれているのが見えた。
告発文と同じ紙質。コピー用紙。
見ただけで分かる。あの紙だ。
「この件、今日中に“対応”を決める。明日に持ち越すと、噂はもっと広がる。君もつらいだろう?」
つらい、の言い方が優しい。
でもその優しさは、私を守るためというより、早く終わらせるためのものだ。
「だから――もし心当たりがあるなら、今のうちに言った方がいい」
図書担当の先生が、声を落とした。
“今のうち”。
もう一度、タイムリミットが押し付けられる。
私は息を吸った。
胸の奥で、何かが小さく折れそうになる。
言ってしまえば、終わるのかもしれない。
認めれば軽く済む、という言葉が、先ほど教室で予告されていたみたいに浮かぶ。
でも、私はやっていない。
やっていないのに認めたら、それは“私の名前”が本当に汚れる。
私は胸ポケットに触れそうになって、やめた。
そこにある栞。37。
遼の「読めばわかる」。
ページで答える。
――答えがあるなら、今はまだ、折れちゃいけない。
「……私、やっていません」
今度は、さっきよりはっきり言った。
声が震える。
震えるのに、目は逸らさなかった。逸らしたら負ける気がした。
学年主任が、短く頷く。
「分かった。では確認する。君は今日、カードに触れた。消し跡を見た。利用者が一人いた。――鍵は誰が持っている?」
「……私です」
「図書室は、このあとどうする?」
一瞬、言葉が詰まる。
図書室を閉めるべきか。
当番として最後までいるべきか。
どちらを言っても、疑いの材料になりそうだ。
図書担当の先生が、淡々と結論を出す。
「今日は図書室を早めに閉める。鍵は一度こちらに預けて。君は……後で、もう一度話を聞く」
後で。
また、後で。
放課後の時間が、削られていく。
私の中の“いつもの当番”が、どんどん失われる。
先生が職員室のドアに手をかけた。
「今から、まず状況確認をする。君は中に入らず、ここで待っていなさい」
待つ。
この廊下で、時間が減っていくのを見ながら。
私は頷いた。
ドアが開いて、先生たちが中へ入る。
職員室の空気が一瞬だけ外へ漏れる。紙とインクと、疲れた大人の匂い。
すぐにドアが閉まって、私は廊下に一人残った。
時計の秒針が、遠くで進む。
放課後のタイムリミットが、音になって迫る。
私は壁に背をつけ、制服の胸ポケットに触れた。
栞の角が、指先に当たる。
37。
(……ここから始まる)
世界が反転したまま、戻らない。
なら、私が戻すしかない。
ページを開く前に貼られた名前を、ページで剥がすしかない。
職員室のドアの向こうで、紙がめくられる音がした。
私はその音を聞きながら、胸の中で静かに決めた。
――放課後が終わるまでに、答えを見つける。
先生たちの声が漏れてきて、プリントの紙の匂いがして、少しだけ背筋が伸びる場所。
でも今日は違う。廊下が、一本道の裁判所みたいに感じる。
窓の外はもう夕方に傾きかけていた。
部活の掛け声が、さっきより遠い。
放課後という時間が、いつもなら自由の始まりなのに、今日は締め切りみたいに迫ってくる。
職員室の前には、既に人がいた。
図書担当の先生。学年主任。あと、知らない先生が一人。
私が近づくと、会話が一斉に止まった。
止まるのは、いつも私が「生徒」だからだと思っていた。
今日は、違う理由で止まる。
「紬。来たね」
図書担当の先生が、淡々と私の名前を呼ぶ。
その呼び方が、急に遠い。
教室で呼ばれた“紬”と同じはずなのに、職員室の前だと「案件の名称」みたいに聞こえる。
「……はい」
声が小さくなる。
大人の前では萎縮する。いつもの私だ。
でも、いつもの私でいることが、今日は怖い。
学年主任が、腕時計をちらりと見た。
その動作が、私の心臓を一段早くした。
「手短に確認する。時間がないから」
時間がない。
その言葉が、胸に刺さる。
「今、掲示板の件で何人も来ていてね。放課後のうちに整理しておきたい。君も、当番があるだろう?」
当番。
図書室。鍵。返却本。
私の日常が、先生の口から“処理すべき項目”として並べられる。
「告発文にある“貸出記録の改ざん”について、心当たりはある?」
学年主任が、まっすぐに聞いた。
遠回しじゃない。逃げ道のない質問。
「……ありません」
言った瞬間、先生たちの視線が、ほんのわずか動いた。
“想定内”の動き。
告発文の最後の一行が頭をよぎる。
――当然、本人は否定するでしょう。
私は唇を噛んだ。
否定すら、予告されていた。
図書担当の先生が続ける。
「貸出カードに消し跡があるのは事実だ。君も確認したね?」
私は頷きかけて、止まった。
確認した、と言えば、そこから何かを押し付けられる気がした。
でも黙れば黙るほど、先生の言う“事実”だけが積み上がる。
「……見ました」
「いつ見た?」
「今日の、放課後……図書室で」
学年主任が、また腕時計を見る。
秒針が動くのが見えた気がした。
放課後が、減っていく。
タイムリミットが、目に見える形になっている。
「その時点で、誰が図書室にいた?」
「……私と、えっと……」
遼の顔が浮かぶ。
でも名前を出したくなかった。
理由は分からない。守りたいというより、巻き込ませたくない。
遼が言った「巻き込まれなくていい」が、逆方向から私の口を塞ぐ。
「……利用者が、一人」
私はそう言ってしまった。
嘘ではない。利用者は一人だった。
でもそれが誰かは、言わなかった。
図書担当の先生が目を細めた。
怒っているというより、観察している目。
「君は司書委員だ。貸出カードに触れられる。記録を管理している立場だ。だからこそ、疑われやすい。分かるね?」
分かる。
分かるから、苦しい。
「……分かります」
学年主任が、机の上の書類を示した。
職員室のドアの向こうにある机。そこに白い紙が一枚置かれているのが見えた。
告発文と同じ紙質。コピー用紙。
見ただけで分かる。あの紙だ。
「この件、今日中に“対応”を決める。明日に持ち越すと、噂はもっと広がる。君もつらいだろう?」
つらい、の言い方が優しい。
でもその優しさは、私を守るためというより、早く終わらせるためのものだ。
「だから――もし心当たりがあるなら、今のうちに言った方がいい」
図書担当の先生が、声を落とした。
“今のうち”。
もう一度、タイムリミットが押し付けられる。
私は息を吸った。
胸の奥で、何かが小さく折れそうになる。
言ってしまえば、終わるのかもしれない。
認めれば軽く済む、という言葉が、先ほど教室で予告されていたみたいに浮かぶ。
でも、私はやっていない。
やっていないのに認めたら、それは“私の名前”が本当に汚れる。
私は胸ポケットに触れそうになって、やめた。
そこにある栞。37。
遼の「読めばわかる」。
ページで答える。
――答えがあるなら、今はまだ、折れちゃいけない。
「……私、やっていません」
今度は、さっきよりはっきり言った。
声が震える。
震えるのに、目は逸らさなかった。逸らしたら負ける気がした。
学年主任が、短く頷く。
「分かった。では確認する。君は今日、カードに触れた。消し跡を見た。利用者が一人いた。――鍵は誰が持っている?」
「……私です」
「図書室は、このあとどうする?」
一瞬、言葉が詰まる。
図書室を閉めるべきか。
当番として最後までいるべきか。
どちらを言っても、疑いの材料になりそうだ。
図書担当の先生が、淡々と結論を出す。
「今日は図書室を早めに閉める。鍵は一度こちらに預けて。君は……後で、もう一度話を聞く」
後で。
また、後で。
放課後の時間が、削られていく。
私の中の“いつもの当番”が、どんどん失われる。
先生が職員室のドアに手をかけた。
「今から、まず状況確認をする。君は中に入らず、ここで待っていなさい」
待つ。
この廊下で、時間が減っていくのを見ながら。
私は頷いた。
ドアが開いて、先生たちが中へ入る。
職員室の空気が一瞬だけ外へ漏れる。紙とインクと、疲れた大人の匂い。
すぐにドアが閉まって、私は廊下に一人残った。
時計の秒針が、遠くで進む。
放課後のタイムリミットが、音になって迫る。
私は壁に背をつけ、制服の胸ポケットに触れた。
栞の角が、指先に当たる。
37。
(……ここから始まる)
世界が反転したまま、戻らない。
なら、私が戻すしかない。
ページを開く前に貼られた名前を、ページで剥がすしかない。
職員室のドアの向こうで、紙がめくられる音がした。
私はその音を聞きながら、胸の中で静かに決めた。
――放課後が終わるまでに、答えを見つける。


