栞が繋ぐ一行体験――3冊のページで、告白を完成させる

教室に戻るまでの廊下が、いつもより長く感じた。
先生は「確認」とだけ言って職員室へ引き返し、私は「一度荷物を取りに」と促された。逃げ道を与えたつもりなのかもしれない。けれどその一言が、逆に私を教室という“視線の檻”へ戻した。

教室の前で、私は一度深呼吸をした。
息は入ったのに、胸の奥の冷たさは動かない。

引き戸を開ける。
いつもなら「おかえり」とか「おつかれ」とか、誰かの声が飛ぶ。放課後の教室は雑然としていて、笑い声が机に転がっている。
――でも今日は、音が途切れた。

視線が、いっせいにこちらへ向いた。

それは「見られる」というより、「確認される」視線だった。
掲示板の紙が、本当に本物かどうか。名前が本当に私のものかどうか。
人は確かめる時、こんな目をするのだと初めて知った。

「……紬」

呼んだのは、隣の席の真帆だった。
いつもなら軽い調子で「帰ろー」って言う子。今は笑っていない。声が、落ちている。

「大丈夫?」

大丈夫、って何。
心配? それとも確認?
私は答えを探して、唇を開いたのに言葉が出ない。

背後で誰かが小さく言った。

「え、マジなん?」

「でもさ、司書委員って貸出カード触れるじゃん」

「記録って鉛筆だしね。消そうと思えば……」

「いや、でも、紬が? そんなことする?」

「真面目だからこそ、やりそうっていうか……」

真面目だからこそ。
その言い方が、胸の奥をじわじわ汚す。
真面目って、いいことじゃなかったの?
真面目は、信じる理由じゃなく、疑う理由にもなるんだ。

机の間を歩く。
足元が、ふわふわして、床の線が少し遠い。私は自分の席を見失いそうになって、当番表のプリントが挟まっている机を目印にした。紬、と書かれている。今日の丸印も、そのままそこにある。
――それが、急に恥ずかしい。

鞄を開けようとして、手が震えているのに気づく。
私は無理やり指に力を入れてファスナーを下ろした。

「紬、これ……」

沙良が教室の入口に立っていた。
司書委員の腕章を外し忘れていて、今の教室ではそれがやけに目立つ。彼女は腕章を慌てて袖に隠して、私の近くまで来た。

「先生、なんて?」

「……確認するって」

「そっか……」

沙良の声は、私に向けているのに、周りの耳も意識している声だった。
味方でいようとして、でも巻き込まれたくなくて、言葉の端を丸めている。
私は彼女を責められない。
巻き込まれたくないのは、私だって同じだ。

「紬、本当にやってないんだよね?」

真帆がもう一度、今度は少し強く聞いた。
その強さに、私は息が詰まる。
“本当に”って、何。
信じたいけど信じきれない、という響きがある。

私は頷いた。
声にすると、泣きそうだったから。

「……やってない」

頷きだけじゃ足りないのか、教室の空気が一瞬、止まったまま動かない。
誰も私を責める言葉は言わない。
けれど誰も、私の言葉を「当然」として受け取ってもくれない。

その静けさが、一番痛かった。

「でもさ、貸出カードって、誰でも触れるわけじゃないよね」

別の席から、男子の声がした。
笑いを混ぜているのに、目は笑っていない。

「司書委員か、先生くらいじゃん?」

「先生はさすがにないでしょ」

「じゃあ……」

言葉が途中で止まる。
止まるのに、結論だけが教室に落ちる。

じゃあ、紬。

私は背筋が固まるのを感じた。
反論したい。
“できる”と“やった”は違う。
でもこの空気の中で反論すると、言い訳に聞こえる。
告発文に書かれていた通りだ。“当然、本人は否定するでしょう”。

紙一枚に、私の反応まで先回りされている。

鞄の中から、スマホが震えた。
通知。
クラスのグループ。
画面を見なくても分かる。今、この教室で言われていることが、文字になって流れている。

私は画面を伏せた。
見たら、多分、二度と戻れない。
自分の名前が、別の形で貼られていくのを、見たくない。

「……紬、帰る?」

真帆が言った。
その言葉に、優しさと距離が同時に混ざっている。
“帰る?”は、“ここにいていい?”の裏返しだ。

私は首を振った。
帰れない。帰ったら、本当に逃げたことになる。
それに、図書室の鍵はまだ私が預かっている。今日の当番は私だ。
当番を放り出したら、今度こそ“真面目”すら失う。

「……職員室、行く」

私はようやく声を出した。
声が自分のものに聞こえない。教室の誰かが「そっか」と小さく言った。

私は鞄の肩紐を握り、立ち上がる。
席から離れるだけで、周囲の椅子が少し引かれた。
ほんの数センチ。
でも、その数センチが「孤立」の始まりだと、身体が先に理解した。

教室のドアを開ける手が、また震える。
背中に貼り付く視線を感じながら、私は廊下へ出た。

扉が閉まる音が、思ったより大きかった。
それが「区切り」の音に聞こえて、私は息を吸い直す。

胸ポケットの栞が、布越しに硬く当たる。
37。
あの数字だけが、まだ私の味方のように思えた。

(……始まる、ってこういうこと?)

誰かに貼られた名前を剥がすために。
私は、図書室に戻るより先に、職員室へ向かわなければならなかった。