廊下に出た瞬間、空気が「違う」と分かった。
いつもなら放課後の廊下は、部活へ向かう足音と、帰り支度の笑い声でゆるく膨らむ。けれどその日は、音が薄い。代わりに、言葉にならないざわめきが壁に張り付いていた。
誰かが小声で言う。
「……貼ってある」
「え、マジで?」
「名前、出てるって……」
掲示板の前に、人が固まっている。
二年のフロアなのに、三年の制服も混じっていた。人の輪は、中心を見せない。覗き込もうとする頭が、同じ方向へ傾いて、揺れる。
私はその輪の外側で立ち止まった。
足が一歩、遅れた。胸の奥が冷える。――さっき見た空白が、脳裏をよぎる。
(まさか)
まさか、と思うのに、身体は勝手に前へ行く。
司書委員だから。掲示板のトラブルは、図書室とは無関係。そう言い訳しながら、私は人の隙間をすり抜けた。
「紬……?」
呼ばれた気がして振り向くと、沙良がいた。
同じ司書委員。今日、昼休みに貸出当番を一緒にやった子。彼女の目が、私の顔と掲示板を行き来している。言いたいことがあるのに、言えない目。
「何、これ……」
沙良が呟いた声の先で、紙が一枚、掲示板のコルクにピンで留まっていた。
コピー用紙。白。文字は黒。手書き。
必要以上に整った字。線が細くて、几帳面で、句読点が多い。
紙の上部に、タイトルみたいに大きな文字がある。
――【告発】図書室貸出記録改ざんについて。
その瞬間、世界が反転した。
床が少しだけ傾いたみたいに、私の視界が揺れる。
本文は短い。だけど、一行一行が「断定」になっている。
図書室の貸出記録に不自然な点が見受けられます。
借り手の記録が、消されています。
これは、偶然ではありません。
規則に反する行為です。
当該行為に関与した者は、処分されるべきです。
改ざんに関与したのは、二年二組 司書委員 紬 です。
当然、本人は否定するでしょう。
しかし、記録は残ります。
図書室を汚してよい者など、いません。
最後の一行に、妙な締めがあった。
これは「事実」です。
目を逸らさないでください。
――私の名前が、太字みたいに濃く見えた。
文字そのものは太くないのに、そこだけ視界が痛い。
「……嘘でしょ」
声が出たのか出てないのか、自分でも分からない。
唇だけが動いた気がした。
背中に視線が刺さる。
人の輪の中で、私の肩越しに紙を読んだ誰かが、息を吸う音が聞こえた。
その吸い込まれた空気が、次の瞬間、別の誰かの囁きになって漏れる。
「……司書委員って、カード触れるもんね」
「消せるよね、鉛筆だし」
「前から怪しいって思ってたんだよね。あの子、真面目ぶってるし」
真面目ぶってる。
その言葉が、胸のどこかに突き刺さって、抜けない。
私は紙から目を離せなかった。
句読点が多い。短文が続く。
“当然”“規則”“処分”。
言葉が硬い。まるで本の中の文章みたいに、息継ぎの位置が決まっている。
(……この書き方)
さっき、貸出カードで見た「整いすぎた日付」が、頭の中で繋がりかける。
整いすぎる、という違和感。
ここにもある。
感情の熱ではなく、整った正しさで、人を追い詰める文章。
「紬……これ、誰が……」
沙良の声が震える。
私は答えられない。答えがない。
ただ、自分の名前が、紙の上で切り取られている現実だけがある。
そのとき、輪の外側で誰かが言った。
「先生呼ぶ?」
「もう呼んだって。職員室の方に行った子いたし」
「でも、本人ここにいるし……」
“本人”という言葉が、私の身体を他人のものにした。
私は私なのに、掲示板の前に立っているだけで、「事件の中心」になってしまう。
この瞬間まで、私は“図書室の当番”で、ただの“二年二組の紬”だったはずなのに。
視界の端で、遼の顔が浮かんだ。
図書室の窓際。ページをめくる音。
「37。そこから、始まる」
胸ポケットの栞が、心臓を叩く。
(私、改ざんなんて――)
言いかけて、言葉が喉に詰まった。
否定は簡単だ。私はやっていない。
でもこの場で否定したところで、誰が信じる?
“司書委員だからできる”というだけで、疑いは完成してしまう。
掲示板の紙は、私の説明を待っていない。
紙は断定している。
“当然、本人は否定するでしょう”
――否定すら先回りされている。
私は無意識に、指先を握りしめた。
さっき拭ったはずの鉛筆粉が、爪の間に残っている気がする。
黒い粉の記憶が、罪みたいに手にこびりつく。
「……紬、職員室、来れる?」
背後から低い声がした。
図書担当の先生だ。人の輪が割れて、先生が私を見下ろしている。
顔色は変わっていない。大人の顔だ。収束を急ぐ顔。
私は頷こうとして、首がうまく動かない。
代わりに、喉の奥から小さな音が漏れる。
「……わたし、やってません」
言えた。
でもその瞬間、輪のどこかで小さな笑いが起きた。笑い、というより「予想通り」という空気。
先生は私を見つめたまま、淡々と続ける。
「否定するかどうかは、後で聞きます。まず、状況を確認します」
“後で”。
“まず”。
言葉の順番が、もう決まっている。
私はもう一度、掲示板の紙に目を向けた。
自分の名前が、そこにある。
たった五文字の名前が、学校という世界の中で、こんなにも簡単に「罪」になる。
世界が反転した。
私の居場所だったはずの学校の廊下が、知らない場所に見える。
背中の視線が、私を押し出す。
先生が歩き出し、私はその後ろに続いた。
一歩目が、重い。
二歩目で、胸ポケットの栞がまた心臓を叩く。
(37……)
答えはページにある、と遼は言った。
でも今は、ページを開く前に、私の名前が“貼られて”いる。
――貼られた名前を剥がすには、何を開けばいいんだろう。
いつもなら放課後の廊下は、部活へ向かう足音と、帰り支度の笑い声でゆるく膨らむ。けれどその日は、音が薄い。代わりに、言葉にならないざわめきが壁に張り付いていた。
誰かが小声で言う。
「……貼ってある」
「え、マジで?」
「名前、出てるって……」
掲示板の前に、人が固まっている。
二年のフロアなのに、三年の制服も混じっていた。人の輪は、中心を見せない。覗き込もうとする頭が、同じ方向へ傾いて、揺れる。
私はその輪の外側で立ち止まった。
足が一歩、遅れた。胸の奥が冷える。――さっき見た空白が、脳裏をよぎる。
(まさか)
まさか、と思うのに、身体は勝手に前へ行く。
司書委員だから。掲示板のトラブルは、図書室とは無関係。そう言い訳しながら、私は人の隙間をすり抜けた。
「紬……?」
呼ばれた気がして振り向くと、沙良がいた。
同じ司書委員。今日、昼休みに貸出当番を一緒にやった子。彼女の目が、私の顔と掲示板を行き来している。言いたいことがあるのに、言えない目。
「何、これ……」
沙良が呟いた声の先で、紙が一枚、掲示板のコルクにピンで留まっていた。
コピー用紙。白。文字は黒。手書き。
必要以上に整った字。線が細くて、几帳面で、句読点が多い。
紙の上部に、タイトルみたいに大きな文字がある。
――【告発】図書室貸出記録改ざんについて。
その瞬間、世界が反転した。
床が少しだけ傾いたみたいに、私の視界が揺れる。
本文は短い。だけど、一行一行が「断定」になっている。
図書室の貸出記録に不自然な点が見受けられます。
借り手の記録が、消されています。
これは、偶然ではありません。
規則に反する行為です。
当該行為に関与した者は、処分されるべきです。
改ざんに関与したのは、二年二組 司書委員 紬 です。
当然、本人は否定するでしょう。
しかし、記録は残ります。
図書室を汚してよい者など、いません。
最後の一行に、妙な締めがあった。
これは「事実」です。
目を逸らさないでください。
――私の名前が、太字みたいに濃く見えた。
文字そのものは太くないのに、そこだけ視界が痛い。
「……嘘でしょ」
声が出たのか出てないのか、自分でも分からない。
唇だけが動いた気がした。
背中に視線が刺さる。
人の輪の中で、私の肩越しに紙を読んだ誰かが、息を吸う音が聞こえた。
その吸い込まれた空気が、次の瞬間、別の誰かの囁きになって漏れる。
「……司書委員って、カード触れるもんね」
「消せるよね、鉛筆だし」
「前から怪しいって思ってたんだよね。あの子、真面目ぶってるし」
真面目ぶってる。
その言葉が、胸のどこかに突き刺さって、抜けない。
私は紙から目を離せなかった。
句読点が多い。短文が続く。
“当然”“規則”“処分”。
言葉が硬い。まるで本の中の文章みたいに、息継ぎの位置が決まっている。
(……この書き方)
さっき、貸出カードで見た「整いすぎた日付」が、頭の中で繋がりかける。
整いすぎる、という違和感。
ここにもある。
感情の熱ではなく、整った正しさで、人を追い詰める文章。
「紬……これ、誰が……」
沙良の声が震える。
私は答えられない。答えがない。
ただ、自分の名前が、紙の上で切り取られている現実だけがある。
そのとき、輪の外側で誰かが言った。
「先生呼ぶ?」
「もう呼んだって。職員室の方に行った子いたし」
「でも、本人ここにいるし……」
“本人”という言葉が、私の身体を他人のものにした。
私は私なのに、掲示板の前に立っているだけで、「事件の中心」になってしまう。
この瞬間まで、私は“図書室の当番”で、ただの“二年二組の紬”だったはずなのに。
視界の端で、遼の顔が浮かんだ。
図書室の窓際。ページをめくる音。
「37。そこから、始まる」
胸ポケットの栞が、心臓を叩く。
(私、改ざんなんて――)
言いかけて、言葉が喉に詰まった。
否定は簡単だ。私はやっていない。
でもこの場で否定したところで、誰が信じる?
“司書委員だからできる”というだけで、疑いは完成してしまう。
掲示板の紙は、私の説明を待っていない。
紙は断定している。
“当然、本人は否定するでしょう”
――否定すら先回りされている。
私は無意識に、指先を握りしめた。
さっき拭ったはずの鉛筆粉が、爪の間に残っている気がする。
黒い粉の記憶が、罪みたいに手にこびりつく。
「……紬、職員室、来れる?」
背後から低い声がした。
図書担当の先生だ。人の輪が割れて、先生が私を見下ろしている。
顔色は変わっていない。大人の顔だ。収束を急ぐ顔。
私は頷こうとして、首がうまく動かない。
代わりに、喉の奥から小さな音が漏れる。
「……わたし、やってません」
言えた。
でもその瞬間、輪のどこかで小さな笑いが起きた。笑い、というより「予想通り」という空気。
先生は私を見つめたまま、淡々と続ける。
「否定するかどうかは、後で聞きます。まず、状況を確認します」
“後で”。
“まず”。
言葉の順番が、もう決まっている。
私はもう一度、掲示板の紙に目を向けた。
自分の名前が、そこにある。
たった五文字の名前が、学校という世界の中で、こんなにも簡単に「罪」になる。
世界が反転した。
私の居場所だったはずの学校の廊下が、知らない場所に見える。
背中の視線が、私を押し出す。
先生が歩き出し、私はその後ろに続いた。
一歩目が、重い。
二歩目で、胸ポケットの栞がまた心臓を叩く。
(37……)
答えはページにある、と遼は言った。
でも今は、ページを開く前に、私の名前が“貼られて”いる。
――貼られた名前を剥がすには、何を開けばいいんだろう。


