卒業式の空気は、校舎の外へ流れていった。
花束の匂いも、泣き声も、写真のフラッシュも。
図書室に残ったのは、いつもの紙の匂いと、夕方の光と――遼の沈黙だけだった。
「好きだ」
遼は言った。
言って、私の手を包んだ。
それで終わるはずだったのに、終わらなかった。
遼の手は温かいのに、目がどこか遠い。
私がそれに気づいたのは、遼が本を閉じたときだった。
『同じページの合図』の背表紙が、きゅっと音を立てる。
その音が、別れの音に聞こえた。
「遼?」
私が呼ぶと、遼は頷いた。
頷き方が、“許可”じゃなく“決断”の頷きだった。
「……行く」
たった二文字。
でも、遼が今まで何度も口にしてきた“最後”の言い方。
最後に行く。
巻き込まれなくていい。
外す。
守る。
それらが全部、同じ方向を指している気がした。
「どこへ」
私が聞くと、遼は視線を落とした。
床の光の線を見て、言った。
「……遠く。少しだけ」
少しだけ。
その“少し”が、遼の中ではものすごく長い距離なんだと分かった。
遼は近いものほど怖がる。
近いほど、壊れると思ってしまう。
私は息を吸った。
追いかけて「行かないで」と言いたい。
でも言ったら、遼はまた“外す”で自分を守る。
守るために、いなくなる。
だから私は、遼のやり方で、遼を引き止めることにした。
言葉じゃなく、合図で。
机の上に、243の栞を置く。
さっきまで本に挟まっていた、あの数字。
「遼」
私は栞を指で押さえたまま、遼を見る。
「これ、合図にしよう」
遼の眉がわずかに動く。
“それなら分かる”という動き。
「243で、連絡して」
遼が小さく息を吐く。
笑いたいのに笑えないみたいな息。
「……連絡、って」
「うん。言葉で」
私は言った。
わざと、遼の苦手な方を選ぶ。
でも無理はさせない。
だから、条件をつける。
「短くていい。
『読んだ』でもいい。
『今』でもいい。
ただ、243を見たら、私を思い出して」
遼は少しだけ目を細めた。
その目は、拒絶じゃない。
痛みをこらえる目だ。
痛みの正体は、嬉しさに似ている。
「……遅いよ、俺」
遼が言った。
自分に言い聞かせるみたいに。
「返事も、歩くのも。全部」
「知ってる」
私は即答した。
即答できるのは、もう逃げないと決めたからだ。
「遅くていい。
遅くても届くって、今日証明した」
遼の喉が動いた。
何かを飲み込む音。
たぶん、泣きたい気持ち。
遼はポケットから鉛筆を出した。
図書室の鉛筆じゃない。自分の。短くなった鉛筆。
それで、栞の裏に小さく何かを書いた。
私が覗こうとすると、遼はそれをさっと裏返した。
癖。見せない癖。
でも今日は、その癖の中に“見せたい”が混ざっている。
「……約束」
遼が言った。
その言葉だけで、胸が熱くなった。
約束なんて、遼の辞書には少なかったはずなのに。
「243で」
遼は続ける。
「……戻る。
“戻れた日”に、言う」
「何を?」
私が聞くと、遼は一瞬だけ迷って、でも迷いを捨てるみたいに言った。
「……もう一回。好きだって」
その言い方が、遼らしく遅くて、でもちゃんと届いた。
私は笑ってしまった。
泣きながら笑う、変な顔になった気がする。
「うん。待つ」
遼が本を抱え直す。
机の上の栞を、一度だけ指先で叩く。
トン。
雨の日の179のときみたいに。
それは、合図の確認だった。
遼は図書室の出口へ向かった。
背中が遠い。
でも今日は、遠さが絶望じゃない。
“戻る前提の遠さ”になっている。
扉の前で、遼が一度だけ振り返る。
目が合う。
そして、声にならないくらい小さく口が動いた。
――243。
私は頷いた。
同じ合図で返す。
遼が出ていく。
扉が閉まる。
紙の匂いが、少しだけ濃くなる。
私は机の上の栞を手に取った。
裏側には、鉛筆で小さく一行。
「遅くても、届く」
その文字は、遼の筆圧だった。
強くないのに、残る圧。
消しゴムで消せない残り方。
私は栞をノートに挟んだ。
37から始まった束の、一番上に。
遅いけど届く。
だから、続く。
243を合図に、私たちはまた同じページで会う。
花束の匂いも、泣き声も、写真のフラッシュも。
図書室に残ったのは、いつもの紙の匂いと、夕方の光と――遼の沈黙だけだった。
「好きだ」
遼は言った。
言って、私の手を包んだ。
それで終わるはずだったのに、終わらなかった。
遼の手は温かいのに、目がどこか遠い。
私がそれに気づいたのは、遼が本を閉じたときだった。
『同じページの合図』の背表紙が、きゅっと音を立てる。
その音が、別れの音に聞こえた。
「遼?」
私が呼ぶと、遼は頷いた。
頷き方が、“許可”じゃなく“決断”の頷きだった。
「……行く」
たった二文字。
でも、遼が今まで何度も口にしてきた“最後”の言い方。
最後に行く。
巻き込まれなくていい。
外す。
守る。
それらが全部、同じ方向を指している気がした。
「どこへ」
私が聞くと、遼は視線を落とした。
床の光の線を見て、言った。
「……遠く。少しだけ」
少しだけ。
その“少し”が、遼の中ではものすごく長い距離なんだと分かった。
遼は近いものほど怖がる。
近いほど、壊れると思ってしまう。
私は息を吸った。
追いかけて「行かないで」と言いたい。
でも言ったら、遼はまた“外す”で自分を守る。
守るために、いなくなる。
だから私は、遼のやり方で、遼を引き止めることにした。
言葉じゃなく、合図で。
机の上に、243の栞を置く。
さっきまで本に挟まっていた、あの数字。
「遼」
私は栞を指で押さえたまま、遼を見る。
「これ、合図にしよう」
遼の眉がわずかに動く。
“それなら分かる”という動き。
「243で、連絡して」
遼が小さく息を吐く。
笑いたいのに笑えないみたいな息。
「……連絡、って」
「うん。言葉で」
私は言った。
わざと、遼の苦手な方を選ぶ。
でも無理はさせない。
だから、条件をつける。
「短くていい。
『読んだ』でもいい。
『今』でもいい。
ただ、243を見たら、私を思い出して」
遼は少しだけ目を細めた。
その目は、拒絶じゃない。
痛みをこらえる目だ。
痛みの正体は、嬉しさに似ている。
「……遅いよ、俺」
遼が言った。
自分に言い聞かせるみたいに。
「返事も、歩くのも。全部」
「知ってる」
私は即答した。
即答できるのは、もう逃げないと決めたからだ。
「遅くていい。
遅くても届くって、今日証明した」
遼の喉が動いた。
何かを飲み込む音。
たぶん、泣きたい気持ち。
遼はポケットから鉛筆を出した。
図書室の鉛筆じゃない。自分の。短くなった鉛筆。
それで、栞の裏に小さく何かを書いた。
私が覗こうとすると、遼はそれをさっと裏返した。
癖。見せない癖。
でも今日は、その癖の中に“見せたい”が混ざっている。
「……約束」
遼が言った。
その言葉だけで、胸が熱くなった。
約束なんて、遼の辞書には少なかったはずなのに。
「243で」
遼は続ける。
「……戻る。
“戻れた日”に、言う」
「何を?」
私が聞くと、遼は一瞬だけ迷って、でも迷いを捨てるみたいに言った。
「……もう一回。好きだって」
その言い方が、遼らしく遅くて、でもちゃんと届いた。
私は笑ってしまった。
泣きながら笑う、変な顔になった気がする。
「うん。待つ」
遼が本を抱え直す。
机の上の栞を、一度だけ指先で叩く。
トン。
雨の日の179のときみたいに。
それは、合図の確認だった。
遼は図書室の出口へ向かった。
背中が遠い。
でも今日は、遠さが絶望じゃない。
“戻る前提の遠さ”になっている。
扉の前で、遼が一度だけ振り返る。
目が合う。
そして、声にならないくらい小さく口が動いた。
――243。
私は頷いた。
同じ合図で返す。
遼が出ていく。
扉が閉まる。
紙の匂いが、少しだけ濃くなる。
私は机の上の栞を手に取った。
裏側には、鉛筆で小さく一行。
「遅くても、届く」
その文字は、遼の筆圧だった。
強くないのに、残る圧。
消しゴムで消せない残り方。
私は栞をノートに挟んだ。
37から始まった束の、一番上に。
遅いけど届く。
だから、続く。
243を合図に、私たちはまた同じページで会う。


