栞が繋ぐ一行体験――3冊のページで、告白を完成させる

栞の数字は、たった三つの線で書かれているのに。
それを見ただけで、胸の奥が「今しかない」に傾いた。

243。

遼が滑らせてきた本は、開いたまま止まっている。
ページの余白に挟まっていた薄い一枚――さっき開いた紙は、短い文で終わっていた。

「最後の一行は、君が持ってる。
それを渡して。
渡されたら、俺は言う。
逃げない」

遼が言った通り、今日はページじゃなくて、遼が言う番だ。
そして、私が“渡す”番だ。

私は鞄の中を探る。
紙が擦れる音が、図書室ではやけに大きい。
透明のチャック袋――先生が「持ち出し禁止」と言ったあの実物はもちろんない。
でも、私は一つだけ“許可された形”で持っていた。

先生が、明日の全体説明用に作った「復元結果の記録」。
欠落一行の復元写真と、台帳照合の要点を伏せた紙。
個人名の扱いも、先生が「渡していい」と言った範囲に収まっている。

私はそれを、封筒に入れて、封をしていた。
封筒の表には、何も書いていない。
遼にだけ届けばいいから。

机の上に封筒を置くと、遼の視線がそこへ落ちた。
指先が、封筒の端で止まる。
白い粉は、もう付いていない。
でも、その指が“消した指”であることは、私の中で消えない。

「……これ」

私が言うと、遼は封筒を見つめたまま、低く返した。

「……最後の一行?」

「うん」

私は息を吸って、言葉を続ける。

「欠落の復元。……『紬』って、出た」

遼の喉が動いた。
飲み込む音は聞こえないのに、飲み込んだのが分かる。
彼は封筒に触れたまま、しばらく動かなかった。

「遼」

私は名前を呼ぶ。
止めるためじゃなく、届かせるために。

「これは、あなたを罰するための紙じゃない。
“私が消されてた”って事実。
それだけを、あなたに渡したい」

遼がゆっくり封筒を開けた。
中の紙を取り出し、写真部分に視線を落とす。
復元された細い帯の写真。
凹みの残像が、二文字の輪郭を作っている。

――紬。

遼の手が、ほんの少し震えた。
紙が、かすかに鳴る。

「……ごめん」

遼が言った。
図書室で言った謝罪より、もっと小さい声。
小さいのに、重い。

私は首を振った。
許したいとか、許したくないとかじゃない。
今欲しいのは、遼が“消えない”ことだけ。

「謝らないで、って言うつもりはない。
でも、謝って終わりにはしない」

遼が顔を上げる。
目が合う。
逃げない目。
雨の日の踊り場でも見た、“逃げないのに苦しい目”。

「……君を外した」

遼が、もう一度言った。
今度は、逃げない声で。

「噂が先に動く。先生が先に動く。処分が先に動く。
その順番の中で、君の名前が残ってたら、君が先に壊れると思った」

「うん」

「だから……消した。
返却ボックスの影で。
誰にも見えないところで。
“守ったふり”の一番卑怯なやり方で」

卑怯、という言葉に、私は胸が痛んだ。
遼が自分をそう呼ぶのが、いちばん辛い。

私は机の上で、指先をぎゅっと握ってから開いた。
自分の声を整えるために。

「遼、それは卑怯じゃない。
ただ、ひとりでやるから苦しくなる」

遼の眉が、ほんの少し動く。

「……巻き込まれなくていい」

また、その言葉。
でも今日は、抵抗の言葉だ。
遠ざけるための最後の壁。

私はその壁に、封筒より薄いものを差し出した。
たった一行の言葉を。

「外さない」

遼が固まる。

「私、あなたを外さない。
名前は出さない。
でも、あなたがした“守り方”を、私が一緒に引き受ける。
罰に変えない。終わらせ方に変える」

遼の目が揺れた。
揺れて、でも逃げない。

「……紬は、優しすぎる」

「違う」

私は即答した。

「優しいんじゃない。
あなたに守られたまま、何も返さないのが一番嫌だから」

遼が、息を吸った。
その吸い方が、決意みたいに深い。
ページをめくる音じゃない。
言葉を出す前の、音。

そして遼は、ようやく言った。
ページじゃなく、数字じゃなく、余白じゃなく。
私の目を見たまま。

「……好きだ」

たった三文字。
でも、私の中で何かがほどける音がした。
ほどけたのに、崩れない。
崩れないのは、遼が逃げなかったからだ。

遼は続ける。
言葉が、遅れて追いつくみたいに。

「守るとか、外すとか、そういう言い方しかできなかった。
君の名前を消したときも……本当は、残したかった。
残したかったのに、残したら壊れるって思って……」

遼の声がかすれる。
かすれた声が、逆に本物だった。

「でも、今は……残したい。
君の隣に、残りたい」

その“残る”が、私の胸に届いた。
記録の残り方じゃない。
人としての残り方。

私は、息を吐いた。
泣きそうになるのを、もう止めなかった。
止めたら、また“外す”が増える気がしたから。

「……届いた」

小さく言う。
それだけで十分だった。
でも、もう一つだけ言いたくなった。

私は鞄から、栞の束を取り出す。
37から始まった、私たちの会話。
ページでしか言えなかった時間。

その束の一番上に、243を置く。
机の上で、指で揃える。

「これ、全部……あなたの言葉だったんだね」

遼が、ほんの少しだけ笑った。
雨の日に見えたあの一瞬の口角じゃなく、ちゃんとした笑い。

「……うん。
でも、最後だけは……君の一行が必要だった」

私は封筒の上に、指をそっと置いた。
“最後の一行”を渡す、ということは。
私が私の名前を、私の手で取り戻すということだった。

「渡したよ」

私が言うと、遼は頷いた。
頷いて、少しだけ間を置き、静かに言った。

「……受け取った」

その言葉が、告白よりも深く届いた。
受け取るって、逃げないってことだ。

体育館の方から、遠く拍手がもう一度聞こえた。
誰かの卒業が、今まさに終わっていく音。
でも私たちの“終わり”は、終わりじゃなくて――ここからの始まりに変わった。

私は最後に、遼の前に小さく手を出した。
握って、とは言わない。
でも、触れられる距離にだけ置いた。

遼は迷わず、指先で私の手を包んだ。
消しゴム粉のない、温かい手だった。

「……巻き込まれなくていい」

遼が、最後にもう一度言いかける。

私は笑って、遮った。

「巻き込むんじゃない。
一緒に、残るの」