卒業式の日の校舎は、いつもより音が少ない。
体育館から漏れてくる拍手と、廊下のワックスの匂いだけが、やけに現実的だった。
私は二年だから、式の中心にはいない。
でも今日だけは、中心にいないのに、心臓がずっと中心に引っ張られていた。
――時間がない。
それは「卒業生が帰るから」だけじゃない。
先生たちの説明で、私の“処分”は消えた。告発文も剥がされた。
けれど、遼の中に残ったものは、まだ剥がれていない。
「俺が消えてもいい」
あの言葉が、昨日から耳の奥に刺さったままだ。
式の途中、私は何度もスマホを見た。
遼からは何も来ていない。
来るわけがない。あの人は、言葉を“送る”より、ページに挟む。
私の鞄には、栞がある。
37、112、58、201、179。
そして最後の数字――243。
最後まで行ったら、言う。
遼はそう言った。
なのに、遼がいない。
式が終わって、卒業生が体育館から吐き出される。
廊下が一瞬だけ華やぐ。花束の匂い。笑い声。泣き声。
「写真撮ろ」
「最後に寄ろう」
その“最後”が、遼の口癖と重なって、私はぞわっとした。
私は人の流れを避けるように、壁際を走った。
走ると、靴底がワックスの床を掠れて、キュッと音が鳴る。
誰かが振り返る。
でも構わない。今日は、視線より遼の方が大事だ。
(図書室)
理由は説明できた。
粉も、紙片も、台帳も。
でも遼の“守り方”だけは、まだ私の中で整理できていない。
図書室へ向かう途中、掲示板の前を通った。
ピン穴だけが残っている。
あの穴を見た瞬間、足が一度止まりかけた。
嫌われた、と思った時間。
守られた、と反転した時間。
そのどっちも、今日で終わらせたい。
私は息を吸って、もう一度走り出す。
階段の踊り場。
雨の日に遼が「巻き込まれなくていい」と言った場所。
今日は晴れていて、窓の外がまぶしい。
まぶしさが、逆に怖い。
明るいまま、人は簡単に別れられるから。
図書室の前の廊下に着くと、空気が少し冷えた。
閉館の匂いじゃない。
“誰かが先に来て、先に置いていった”匂い。
扉のガラス越しに、カウンターが見える。
委員も先生もいない。
静かすぎる。
私は取っ手に手をかけた。
金属がひんやりして、心臓の熱と対照的だった。
(遼、お願い。まだ、いて)
扉を開ける。
紙の匂い。
静けさ。
そして、棚の奥――遼の“棚の癖”の場所に、影が一つ。
遼が立っていた。制服の胸に式章。
手には一冊の本。
背表紙の色を見ただけで分かる。『同じページの合図』。
遼は私に気づいていないふりをしたまま、本を少しだけ引き抜いて、あるページを開いた。
開いたページの端に、白い栞が挟まっている。
遼の指先が、ページの余白を一度だけなぞる。
それから、栞を抜いて、机の上に置いた。
その動きが、合図だった。
“追え”の続き。
“最後”の入口。
私は呼吸が追いつかないまま、遼の方へ歩いた。
走ってきたのに、最後の数メートルだけ、走れなかった。
走ったら、壊れる気がしたから。
遼が、ようやく顔を上げる。
目が合う。
逃げない目。
「……間に合った」
遼が小さく言った。
それが、卒業の言葉みたいで、胸が痛くなる。
私は机の上の栞を見る。
鉛筆の数字が、はっきり見えた。
――243。
時間がない。
でも、時間がないからこそ、今しかない。
私は栞をそっと取って、遼を見た。
「最後、行く」
声が震えた。
でも、言えた。
遼の喉が動く。
息を吸う音が、図書室の静けさに落ちる。
そして遼は、本を私の方へ滑らせた。
ページは開いたまま。243。
余白に、何かが挟まっている。
紙片じゃない。
もっと薄い、折り畳まれた一枚。
――読む前に分かった。
これが、ラストの証拠で、ラストの言葉だ。
私の指先が、その一枚に触れた瞬間。
背後で、体育館の外の歓声が遠く鳴った。
卒業生が校門へ向かっていく音がする。
本当に、時間がない。
私は紙を開く。
開いた先で、遼の声が低く落ちた。
「……紬。ここからは、ページじゃなくて――俺が言う」
体育館から漏れてくる拍手と、廊下のワックスの匂いだけが、やけに現実的だった。
私は二年だから、式の中心にはいない。
でも今日だけは、中心にいないのに、心臓がずっと中心に引っ張られていた。
――時間がない。
それは「卒業生が帰るから」だけじゃない。
先生たちの説明で、私の“処分”は消えた。告発文も剥がされた。
けれど、遼の中に残ったものは、まだ剥がれていない。
「俺が消えてもいい」
あの言葉が、昨日から耳の奥に刺さったままだ。
式の途中、私は何度もスマホを見た。
遼からは何も来ていない。
来るわけがない。あの人は、言葉を“送る”より、ページに挟む。
私の鞄には、栞がある。
37、112、58、201、179。
そして最後の数字――243。
最後まで行ったら、言う。
遼はそう言った。
なのに、遼がいない。
式が終わって、卒業生が体育館から吐き出される。
廊下が一瞬だけ華やぐ。花束の匂い。笑い声。泣き声。
「写真撮ろ」
「最後に寄ろう」
その“最後”が、遼の口癖と重なって、私はぞわっとした。
私は人の流れを避けるように、壁際を走った。
走ると、靴底がワックスの床を掠れて、キュッと音が鳴る。
誰かが振り返る。
でも構わない。今日は、視線より遼の方が大事だ。
(図書室)
理由は説明できた。
粉も、紙片も、台帳も。
でも遼の“守り方”だけは、まだ私の中で整理できていない。
図書室へ向かう途中、掲示板の前を通った。
ピン穴だけが残っている。
あの穴を見た瞬間、足が一度止まりかけた。
嫌われた、と思った時間。
守られた、と反転した時間。
そのどっちも、今日で終わらせたい。
私は息を吸って、もう一度走り出す。
階段の踊り場。
雨の日に遼が「巻き込まれなくていい」と言った場所。
今日は晴れていて、窓の外がまぶしい。
まぶしさが、逆に怖い。
明るいまま、人は簡単に別れられるから。
図書室の前の廊下に着くと、空気が少し冷えた。
閉館の匂いじゃない。
“誰かが先に来て、先に置いていった”匂い。
扉のガラス越しに、カウンターが見える。
委員も先生もいない。
静かすぎる。
私は取っ手に手をかけた。
金属がひんやりして、心臓の熱と対照的だった。
(遼、お願い。まだ、いて)
扉を開ける。
紙の匂い。
静けさ。
そして、棚の奥――遼の“棚の癖”の場所に、影が一つ。
遼が立っていた。制服の胸に式章。
手には一冊の本。
背表紙の色を見ただけで分かる。『同じページの合図』。
遼は私に気づいていないふりをしたまま、本を少しだけ引き抜いて、あるページを開いた。
開いたページの端に、白い栞が挟まっている。
遼の指先が、ページの余白を一度だけなぞる。
それから、栞を抜いて、机の上に置いた。
その動きが、合図だった。
“追え”の続き。
“最後”の入口。
私は呼吸が追いつかないまま、遼の方へ歩いた。
走ってきたのに、最後の数メートルだけ、走れなかった。
走ったら、壊れる気がしたから。
遼が、ようやく顔を上げる。
目が合う。
逃げない目。
「……間に合った」
遼が小さく言った。
それが、卒業の言葉みたいで、胸が痛くなる。
私は机の上の栞を見る。
鉛筆の数字が、はっきり見えた。
――243。
時間がない。
でも、時間がないからこそ、今しかない。
私は栞をそっと取って、遼を見た。
「最後、行く」
声が震えた。
でも、言えた。
遼の喉が動く。
息を吸う音が、図書室の静けさに落ちる。
そして遼は、本を私の方へ滑らせた。
ページは開いたまま。243。
余白に、何かが挟まっている。
紙片じゃない。
もっと薄い、折り畳まれた一枚。
――読む前に分かった。
これが、ラストの証拠で、ラストの言葉だ。
私の指先が、その一枚に触れた瞬間。
背後で、体育館の外の歓声が遠く鳴った。
卒業生が校門へ向かっていく音がする。
本当に、時間がない。
私は紙を開く。
開いた先で、遼の声が低く落ちた。
「……紬。ここからは、ページじゃなくて――俺が言う」


