栞が繋ぐ一行体験――3冊のページで、告白を完成させる

佐伯先輩は、謝るときの姿勢だけは完璧だった。
背筋を伸ばして、目を逸らさず、言い訳をしない――いつもの“正しさ”の型。
でもその日は、その型が少しだけ壊れて見えた。
声が、ほんのわずか掠れていたから。

放課後の図書室。
掲示板のピン穴はまだ残っている。紙は剥がされたのに、穴だけが“やったこと”を覚えているみたいに。

カウンターの横で、佐伯先輩が言った。

「……紬。少し、時間いい?」

周りには沙良だけ。
先生たちはもう準備室に引っ込んで、紙袋と台帳の整理をしている。
図書室の奥は静かで、雨上がりの匂いがまだ残っている。

私は頷いた。
正直、先輩と二人きりになるのは怖い。
でも、怖いまま終わると、ピン穴みたいに後に残る。

佐伯先輩は深く息を吸って、吐いた。
その吐き方が、少しだけ震えていた。

「私ね、前に……同じことを見たの」

同じこと。
貸出記録の改ざん。
私がされかけたこと。

「中学のとき。図書室で、貸出カードが何枚も抜かれてた。返却の時期もズレて、責任の押し付け合いになって……最後、委員の子が一人で辞めた」

先輩の指が、カウンターの縁を掴む。
掴む指に、白い跡が残る。
力が入っている。

「その子は、ほんとにやってなかったのに」

先輩の声が少しだけ高くなる。
怒りじゃない。悔しさだ。

「でも、周りは“やったことにした”。理由は簡単で……“誰か”が必要だったから。私、そのとき、何もできなかった」

私は息を止めた。
遼が言っていた“先に動く”って、こういうことだ。
誰かが必要で、先に決まって、先に壊れる。

佐伯先輩は続けた。

「だから、今回……最初の告発文を見た瞬間、頭の中で全部戻ってきた。あのときの空気、視線、沈黙。
“同じことを繰り返したくない”って思ったのに……私が、繰り返した」

繰り返した。
先輩の口から出たその言葉が、胸に重く落ちた。
先輩は“図書室を守る”と言っていた。
でも守りたかったのは、図書室じゃなく、自分の過去の後悔だったのかもしれない。

「私、紬を守るつもりだったの」

先輩の目が、揺れる。
揺れて、でも逸らさない。

「……でも、守り方を間違えた。焦って、“正しい手順”をすっ飛ばした。
あの紙、貼った瞬間に分かったの。――私、また誰かを一人にしたって」

私は喉が詰まった。
先輩が私を守るつもりだったと言うのは、皮肉みたいで。
でも、その皮肉の中に“本当に怖がっていたもの”が見えるのが、嫌じゃなかった。

沙良が少し離れた場所で、黙って本を並べている。
聞かないふりをしてくれている。
その気遣いが、図書室を少しだけ温かくした。

佐伯先輩が、頭を下げた。
いつもより深く。
型じゃない深さ。

「ごめん。私は、紬のことを見てなかった。
“犯人像”に当てはめて、安心したかっただけ。
自分が怖いものから目を逸らすために、紬を使った」

その言葉は、痛いくらい正直だった。
謝罪って、こういうことなんだと思った。
許してほしいためじゃなく、責任を引き受けるための言葉。

私は、ゆっくり息を吐いた。
後味を整えるなら、ここで私が“裁く側”になったらだめだ。
裁いたら、また誰かが一人になる。
それは、先輩が一番怖がっている形だ。

「先輩」

私は言った。
声を柔らかくしようとして、うまくできない。
でも、柔らかくする必要はない。
大事なのは、終わらせ方だ。

「……謝ってくれて、ありがとうございます。
私、許すとか許さないとか、今すぐ決められません」

正直に言う。
その上で、続ける。

「でも、先輩が“自分の怖さ”を言ってくれたのは、助かりました。
私、怖いって言うことすら、昨日までできなかったから」

佐伯先輩の目が、ほんの少し赤くなる。
泣くのを堪えている赤さ。

「だから、お願いがあります」

私は先輩を見た。

「明日、説明があるなら……先輩も、言ってください。
『私は焦って、勝手に告発文を貼った。あれは正しくなかった』って。
私のためじゃなくて、図書室のために。次に誰かが同じ目に遭わないために」

先輩は少し驚いた顔をして、すぐに頷いた。
頷き方が、遼の“追え”に似ていた。短い許可。

「言う。……逃げない」

先輩がそう言った瞬間、掲示板のピン穴がただの穴に戻った気がした。
“やったこと”が消えたわけじゃない。
でも“やったこと”の扱い方が変わった。

私は最後に、一つだけ言葉を足した。
後味を整えるための、でも甘やかさない言葉。

「先輩、図書室を守りたいなら、まず“人”を守ってください。
記録も大事だけど、記録より先に壊れるのは人だから」

佐伯先輩は唇を噛んで、ゆっくり頷いた。

「……うん。分かった。ほんとに、ごめん」

謝罪が二回目になった。
でも二回目は、最初の型の謝罪じゃなくて、ちゃんと紬に向いた謝罪だった。

雨上がりの窓が、夕方の光を少しだけ反射する。
光が、床に淡い線を落とす。
線は曲がっても、途切れずに続く。

私はその線を見て思った。
後味って、全部を綺麗にすることじゃない。
穴も傷も残る。
でも、残り方を選び直せる。

それが、私たちの「終わらせ方」だ。