栞が繋ぐ一行体験――3冊のページで、告白を完成させる

図書室は、雨上がりの匂いがした。
床に残った湿り気と、紙の乾いた匂いが混ざって、どこか落ち着かない。

昼休みの終わり。
人はいるのに、私の周りだけ薄く膜が張っている。
昨日まで刺してきた視線は、今日もある。でも刺さり方が違う。
「誤解だったらしい」
「先生が説明するって」
噂は手のひらを返したみたいに形を変えて、今度は“私を中心に回る”匂いを出す。
それが、嫌だった。

私は窓際へ向かった。
遼の席。
遼が来るときだけ世界が静かになる場所。

来ないかもしれない。
来たとしても、また一瞬で消えるかもしれない。
そう思いながら、机に手を置いた。

……椅子が引かれる音がした。

後ろじゃない。
斜め前。
遼が、いつもの席に座っていた。

今日は濡れていない。
でも、指先だけが妙に白い。
消しゴム粉じゃない。乾いた紙の粉みたいな、薄い白。

遼は私を見ない。
本を開いてもいない。
ただ、机の上を見ている。
そこにある木目の線を、いつもみたいに追っている。

私は息を吸って、遼の席の一つ後ろに立った。
立ったままだと逃げ道が残る。
でも今日は逃げ道を残したくない。

「遼」

遼の肩が、ほんの少し揺れた。
振り向かない。
でも聞いている。

「職員室で……カード側の改ざん、確定した」

遼の指が机の端を押した。
押した指先が白くなる。

「……うん」

小さな返事。
分かっていた人の返事。

私は椅子を引き、遼の隣――一つ空けた席に座った。
“噂が膨らむ距離”だ。
でも、もう噂のために離れたくなかった。

「欠落、一行……復元できた」

遼が初めて、ほんの少しだけ私の方へ顔を向けた。
目は合わない。
でも、逃げない。

「……見た?」

「見た」

私は頷く。
喉が乾いているのに、声は出た。

「『紬』って」

その二文字を言った瞬間、遼の喉が動いた。
飲み込んだ。
言葉じゃなく、痛みを。

遼は視線を落とし、机の上で自分の親指を擦った。
擦っても、白い粉は完全に消えない。

「……紬」

遼が私の名前を呼ぶ。
雨の日の踊り場の呼び方と同じ。
止めるための呼び方。
でも今日は、逃がすためじゃない気がした。

「……言うなって言ったのに」

「言わないと、私が消える」

私は言った。
声が震えた。
怒りじゃない。
遼がまた一人で消える怖さ。

遼はしばらく黙った。
図書室の音が戻る。
遠くでページをめくる音。椅子の脚の音。小さな笑い声。
その全部が、私たちの沈黙を逆に浮かせる。

遼が、息を吐いた。
吐いた息が、机の上の白い粉をほんの少しだけ散らした。

「……消した」

あまりに短くて、最初、意味が入ってこなかった。

「……何を」

私が聞くと、遼はようやく、私を見る。
一瞬じゃない。
ちゃんと見る。
そこに、逃げる場所がない目。

「……カードの。君の名前」

胸の奥が、ずん、と重くなる。
重いのに、驚きはなかった。
私の中で、ずっと同じ答えが回っていたから。

遼は続ける。
言葉を選んでいるのに、選んだ言葉が全部痛いみたいな声で。

「……君を、外した」

外した。
“巻き込まれないように”外した。
その言い方が、遼らしい。
守るという言葉を使わない。
代わりに、外す。ずらす。消す。

「どうして……そんなこと」

問いは分かってるのに、口から出た。
出したら、遼を責めるみたいになる。
でも出さないと、遼が“正しい”まま固まってしまう。

遼は視線を落として、机の木目を指でなぞった。
木目は曲がりながら、途切れずに続く。
遼の言葉も、そうだったらいいのに。

「……先に、動くから」

「噂?」

遼は小さく頷く。

「先生も。先輩も。台帳があるって分かった時点で、君は……」

遼はそこで言葉を止めた。
“終わる”と言いそうになって、飲み込んだ。

「……君が、先に壊れる」

踊り場で言った言葉。
その繰り返しが、今は痛いほど優しい。

私は、息を吸った。
胸が熱い。
熱いのに、涙は出ない。
出たら、遼がまた「巻き込まれなくていい」に戻ってしまいそうだから。

「遼、それ、守ったつもりなんだよね」

遼が、ほんのわずかに眉を動かす。
否定も肯定もできない顔。

「……つもりじゃない」

遼が言った。
声が掠れている。

「……守った。外した。君だけは」

“守った”と言った。
遼が自分の口で、その言葉を出したのが初めてで、私は胸の奥がきゅっと締まった。

でも同時に、怒りが小さく立ち上がる。
遼を責める怒りじゃない。
遼が一人で背負う世界への怒り。

「……私だけ、守ってどうするの」

私は言った。
声は低い。
低いのは、泣かないため。

遼が顔を上げた。
目が揺れる。
揺れて、でも逃げない。

「……君が残れば」

遼は言った。
言いながら、自分でその言葉に傷つくみたいに唇を噛む。

「……俺が消えても、いい」

その言い方が、あまりに遼で、私は息が止まりそうになった。

「良くない」

私は即答した。
即答できた自分に驚くくらい、言葉が早く出た。

「遼、あなたが消えたら、私も残れない。残り方が違うだけで、同じことになる」

遼の目が、少しだけ見開かれる。
“言われたことがなかった”顔。

私は続けた。
勢いで崩れないように、言葉を置く。

「外してくれて、ありがとうって言いたい。……でも、ありがとうだけで終わりたくない。
あなたが“消した”なら、私が“戻す”。二人で戻す」

遼の喉が動く。
泣きそうなのか、怒りそうなのか分からない動き。

「……戻せない」

遼が言った。
それは拒絶じゃなく、恐れだった。

「戻すと、君がまた……」

「戻すよ」

私は遮った。
怖さを越えるための遮り方。
乱暴じゃない、決意の遮り。

「明日、先生が全体に説明する。私が話す。
“紬はやってない”だけじゃなくて、“紬の名前が消されていた”ってことも。
それで、あなたが一人で悪者になる流れを止める」

遼が、ふっと笑いそうになる。
でも笑えない。
笑うと壊れるから。

「……俺のことは、言うな」

まだ言う。
“巻き込まれなくていい”の続きの言葉。

私は首を振った。

「言わない。名前は出さない。
でも、“守るために消した人がいる”って事実は、残す。
あなたを罰に変えるんじゃなくて、終わらせ方に変える」

遼の指先が、机の上で小さく震えた。
白い粉が、また少し落ちる。

「……紬」

遼が私の名前を呼ぶ。
今度は止める呼び方じゃない。
確かめる呼び方。

「……怖くないの」

私は少し笑ってしまった。
怖いに決まってる。
でも怖いって言うと、遼はまた一人で背負う。

「怖いよ」

正直に言う。
その上で、言い切る。

「でも、あなたに守られて、嫌われたふりをしたまま終わる方がもっと怖い」

遼は黙った。
黙って、消しゴム粉の残る指を握りしめた。
握りしめた拳が白くなる。

そして、小さく言った。

「……ごめん」

謝罪は一言。
でも遼にとっては、たぶん一番重い一言だった。

私は頷いた。
許す許さないじゃない。
“ここから一緒にする”の合図として。

「ねえ、遼。179、読んだ。……次、言うって言ったよね」

遼の目が揺れる。
揺れて、覚悟みたいに静まる。

「……まだ」

遼は言った。
告白未満の、逃げない“まだ”。

「……でも、最後まで行ったら」

遼はそこで息を吸って、私を見た。

「……ちゃんと、言う」

雨上がりの図書室で、言葉がようやく“ページ”から離れた。
まだ告白じゃない。
でも、遼は初めて、自分のやったことを私の前で認めた。

「消した。君を外した」

その言葉は、罪の告白じゃなく、守りの告白だった。
だから私は、静かに返した。

「外されたなら、今度は私が――あなたを外さない」