図書室は、雨上がりの匂いがした。
床に残った湿り気と、紙の乾いた匂いが混ざって、どこか落ち着かない。
昼休みの終わり。
人はいるのに、私の周りだけ薄く膜が張っている。
昨日まで刺してきた視線は、今日もある。でも刺さり方が違う。
「誤解だったらしい」
「先生が説明するって」
噂は手のひらを返したみたいに形を変えて、今度は“私を中心に回る”匂いを出す。
それが、嫌だった。
私は窓際へ向かった。
遼の席。
遼が来るときだけ世界が静かになる場所。
来ないかもしれない。
来たとしても、また一瞬で消えるかもしれない。
そう思いながら、机に手を置いた。
……椅子が引かれる音がした。
後ろじゃない。
斜め前。
遼が、いつもの席に座っていた。
今日は濡れていない。
でも、指先だけが妙に白い。
消しゴム粉じゃない。乾いた紙の粉みたいな、薄い白。
遼は私を見ない。
本を開いてもいない。
ただ、机の上を見ている。
そこにある木目の線を、いつもみたいに追っている。
私は息を吸って、遼の席の一つ後ろに立った。
立ったままだと逃げ道が残る。
でも今日は逃げ道を残したくない。
「遼」
遼の肩が、ほんの少し揺れた。
振り向かない。
でも聞いている。
「職員室で……カード側の改ざん、確定した」
遼の指が机の端を押した。
押した指先が白くなる。
「……うん」
小さな返事。
分かっていた人の返事。
私は椅子を引き、遼の隣――一つ空けた席に座った。
“噂が膨らむ距離”だ。
でも、もう噂のために離れたくなかった。
「欠落、一行……復元できた」
遼が初めて、ほんの少しだけ私の方へ顔を向けた。
目は合わない。
でも、逃げない。
「……見た?」
「見た」
私は頷く。
喉が乾いているのに、声は出た。
「『紬』って」
その二文字を言った瞬間、遼の喉が動いた。
飲み込んだ。
言葉じゃなく、痛みを。
遼は視線を落とし、机の上で自分の親指を擦った。
擦っても、白い粉は完全に消えない。
「……紬」
遼が私の名前を呼ぶ。
雨の日の踊り場の呼び方と同じ。
止めるための呼び方。
でも今日は、逃がすためじゃない気がした。
「……言うなって言ったのに」
「言わないと、私が消える」
私は言った。
声が震えた。
怒りじゃない。
遼がまた一人で消える怖さ。
遼はしばらく黙った。
図書室の音が戻る。
遠くでページをめくる音。椅子の脚の音。小さな笑い声。
その全部が、私たちの沈黙を逆に浮かせる。
遼が、息を吐いた。
吐いた息が、机の上の白い粉をほんの少しだけ散らした。
「……消した」
あまりに短くて、最初、意味が入ってこなかった。
「……何を」
私が聞くと、遼はようやく、私を見る。
一瞬じゃない。
ちゃんと見る。
そこに、逃げる場所がない目。
「……カードの。君の名前」
胸の奥が、ずん、と重くなる。
重いのに、驚きはなかった。
私の中で、ずっと同じ答えが回っていたから。
遼は続ける。
言葉を選んでいるのに、選んだ言葉が全部痛いみたいな声で。
「……君を、外した」
外した。
“巻き込まれないように”外した。
その言い方が、遼らしい。
守るという言葉を使わない。
代わりに、外す。ずらす。消す。
「どうして……そんなこと」
問いは分かってるのに、口から出た。
出したら、遼を責めるみたいになる。
でも出さないと、遼が“正しい”まま固まってしまう。
遼は視線を落として、机の木目を指でなぞった。
木目は曲がりながら、途切れずに続く。
遼の言葉も、そうだったらいいのに。
「……先に、動くから」
「噂?」
遼は小さく頷く。
「先生も。先輩も。台帳があるって分かった時点で、君は……」
遼はそこで言葉を止めた。
“終わる”と言いそうになって、飲み込んだ。
「……君が、先に壊れる」
踊り場で言った言葉。
その繰り返しが、今は痛いほど優しい。
私は、息を吸った。
胸が熱い。
熱いのに、涙は出ない。
出たら、遼がまた「巻き込まれなくていい」に戻ってしまいそうだから。
「遼、それ、守ったつもりなんだよね」
遼が、ほんのわずかに眉を動かす。
否定も肯定もできない顔。
「……つもりじゃない」
遼が言った。
声が掠れている。
「……守った。外した。君だけは」
“守った”と言った。
遼が自分の口で、その言葉を出したのが初めてで、私は胸の奥がきゅっと締まった。
でも同時に、怒りが小さく立ち上がる。
遼を責める怒りじゃない。
遼が一人で背負う世界への怒り。
「……私だけ、守ってどうするの」
私は言った。
声は低い。
低いのは、泣かないため。
遼が顔を上げた。
目が揺れる。
揺れて、でも逃げない。
「……君が残れば」
遼は言った。
言いながら、自分でその言葉に傷つくみたいに唇を噛む。
「……俺が消えても、いい」
その言い方が、あまりに遼で、私は息が止まりそうになった。
「良くない」
私は即答した。
即答できた自分に驚くくらい、言葉が早く出た。
「遼、あなたが消えたら、私も残れない。残り方が違うだけで、同じことになる」
遼の目が、少しだけ見開かれる。
“言われたことがなかった”顔。
私は続けた。
勢いで崩れないように、言葉を置く。
「外してくれて、ありがとうって言いたい。……でも、ありがとうだけで終わりたくない。
あなたが“消した”なら、私が“戻す”。二人で戻す」
遼の喉が動く。
泣きそうなのか、怒りそうなのか分からない動き。
「……戻せない」
遼が言った。
それは拒絶じゃなく、恐れだった。
「戻すと、君がまた……」
「戻すよ」
私は遮った。
怖さを越えるための遮り方。
乱暴じゃない、決意の遮り。
「明日、先生が全体に説明する。私が話す。
“紬はやってない”だけじゃなくて、“紬の名前が消されていた”ってことも。
それで、あなたが一人で悪者になる流れを止める」
遼が、ふっと笑いそうになる。
でも笑えない。
笑うと壊れるから。
「……俺のことは、言うな」
まだ言う。
“巻き込まれなくていい”の続きの言葉。
私は首を振った。
「言わない。名前は出さない。
でも、“守るために消した人がいる”って事実は、残す。
あなたを罰に変えるんじゃなくて、終わらせ方に変える」
遼の指先が、机の上で小さく震えた。
白い粉が、また少し落ちる。
「……紬」
遼が私の名前を呼ぶ。
今度は止める呼び方じゃない。
確かめる呼び方。
「……怖くないの」
私は少し笑ってしまった。
怖いに決まってる。
でも怖いって言うと、遼はまた一人で背負う。
「怖いよ」
正直に言う。
その上で、言い切る。
「でも、あなたに守られて、嫌われたふりをしたまま終わる方がもっと怖い」
遼は黙った。
黙って、消しゴム粉の残る指を握りしめた。
握りしめた拳が白くなる。
そして、小さく言った。
「……ごめん」
謝罪は一言。
でも遼にとっては、たぶん一番重い一言だった。
私は頷いた。
許す許さないじゃない。
“ここから一緒にする”の合図として。
「ねえ、遼。179、読んだ。……次、言うって言ったよね」
遼の目が揺れる。
揺れて、覚悟みたいに静まる。
「……まだ」
遼は言った。
告白未満の、逃げない“まだ”。
「……でも、最後まで行ったら」
遼はそこで息を吸って、私を見た。
「……ちゃんと、言う」
雨上がりの図書室で、言葉がようやく“ページ”から離れた。
まだ告白じゃない。
でも、遼は初めて、自分のやったことを私の前で認めた。
「消した。君を外した」
その言葉は、罪の告白じゃなく、守りの告白だった。
だから私は、静かに返した。
「外されたなら、今度は私が――あなたを外さない」
床に残った湿り気と、紙の乾いた匂いが混ざって、どこか落ち着かない。
昼休みの終わり。
人はいるのに、私の周りだけ薄く膜が張っている。
昨日まで刺してきた視線は、今日もある。でも刺さり方が違う。
「誤解だったらしい」
「先生が説明するって」
噂は手のひらを返したみたいに形を変えて、今度は“私を中心に回る”匂いを出す。
それが、嫌だった。
私は窓際へ向かった。
遼の席。
遼が来るときだけ世界が静かになる場所。
来ないかもしれない。
来たとしても、また一瞬で消えるかもしれない。
そう思いながら、机に手を置いた。
……椅子が引かれる音がした。
後ろじゃない。
斜め前。
遼が、いつもの席に座っていた。
今日は濡れていない。
でも、指先だけが妙に白い。
消しゴム粉じゃない。乾いた紙の粉みたいな、薄い白。
遼は私を見ない。
本を開いてもいない。
ただ、机の上を見ている。
そこにある木目の線を、いつもみたいに追っている。
私は息を吸って、遼の席の一つ後ろに立った。
立ったままだと逃げ道が残る。
でも今日は逃げ道を残したくない。
「遼」
遼の肩が、ほんの少し揺れた。
振り向かない。
でも聞いている。
「職員室で……カード側の改ざん、確定した」
遼の指が机の端を押した。
押した指先が白くなる。
「……うん」
小さな返事。
分かっていた人の返事。
私は椅子を引き、遼の隣――一つ空けた席に座った。
“噂が膨らむ距離”だ。
でも、もう噂のために離れたくなかった。
「欠落、一行……復元できた」
遼が初めて、ほんの少しだけ私の方へ顔を向けた。
目は合わない。
でも、逃げない。
「……見た?」
「見た」
私は頷く。
喉が乾いているのに、声は出た。
「『紬』って」
その二文字を言った瞬間、遼の喉が動いた。
飲み込んだ。
言葉じゃなく、痛みを。
遼は視線を落とし、机の上で自分の親指を擦った。
擦っても、白い粉は完全に消えない。
「……紬」
遼が私の名前を呼ぶ。
雨の日の踊り場の呼び方と同じ。
止めるための呼び方。
でも今日は、逃がすためじゃない気がした。
「……言うなって言ったのに」
「言わないと、私が消える」
私は言った。
声が震えた。
怒りじゃない。
遼がまた一人で消える怖さ。
遼はしばらく黙った。
図書室の音が戻る。
遠くでページをめくる音。椅子の脚の音。小さな笑い声。
その全部が、私たちの沈黙を逆に浮かせる。
遼が、息を吐いた。
吐いた息が、机の上の白い粉をほんの少しだけ散らした。
「……消した」
あまりに短くて、最初、意味が入ってこなかった。
「……何を」
私が聞くと、遼はようやく、私を見る。
一瞬じゃない。
ちゃんと見る。
そこに、逃げる場所がない目。
「……カードの。君の名前」
胸の奥が、ずん、と重くなる。
重いのに、驚きはなかった。
私の中で、ずっと同じ答えが回っていたから。
遼は続ける。
言葉を選んでいるのに、選んだ言葉が全部痛いみたいな声で。
「……君を、外した」
外した。
“巻き込まれないように”外した。
その言い方が、遼らしい。
守るという言葉を使わない。
代わりに、外す。ずらす。消す。
「どうして……そんなこと」
問いは分かってるのに、口から出た。
出したら、遼を責めるみたいになる。
でも出さないと、遼が“正しい”まま固まってしまう。
遼は視線を落として、机の木目を指でなぞった。
木目は曲がりながら、途切れずに続く。
遼の言葉も、そうだったらいいのに。
「……先に、動くから」
「噂?」
遼は小さく頷く。
「先生も。先輩も。台帳があるって分かった時点で、君は……」
遼はそこで言葉を止めた。
“終わる”と言いそうになって、飲み込んだ。
「……君が、先に壊れる」
踊り場で言った言葉。
その繰り返しが、今は痛いほど優しい。
私は、息を吸った。
胸が熱い。
熱いのに、涙は出ない。
出たら、遼がまた「巻き込まれなくていい」に戻ってしまいそうだから。
「遼、それ、守ったつもりなんだよね」
遼が、ほんのわずかに眉を動かす。
否定も肯定もできない顔。
「……つもりじゃない」
遼が言った。
声が掠れている。
「……守った。外した。君だけは」
“守った”と言った。
遼が自分の口で、その言葉を出したのが初めてで、私は胸の奥がきゅっと締まった。
でも同時に、怒りが小さく立ち上がる。
遼を責める怒りじゃない。
遼が一人で背負う世界への怒り。
「……私だけ、守ってどうするの」
私は言った。
声は低い。
低いのは、泣かないため。
遼が顔を上げた。
目が揺れる。
揺れて、でも逃げない。
「……君が残れば」
遼は言った。
言いながら、自分でその言葉に傷つくみたいに唇を噛む。
「……俺が消えても、いい」
その言い方が、あまりに遼で、私は息が止まりそうになった。
「良くない」
私は即答した。
即答できた自分に驚くくらい、言葉が早く出た。
「遼、あなたが消えたら、私も残れない。残り方が違うだけで、同じことになる」
遼の目が、少しだけ見開かれる。
“言われたことがなかった”顔。
私は続けた。
勢いで崩れないように、言葉を置く。
「外してくれて、ありがとうって言いたい。……でも、ありがとうだけで終わりたくない。
あなたが“消した”なら、私が“戻す”。二人で戻す」
遼の喉が動く。
泣きそうなのか、怒りそうなのか分からない動き。
「……戻せない」
遼が言った。
それは拒絶じゃなく、恐れだった。
「戻すと、君がまた……」
「戻すよ」
私は遮った。
怖さを越えるための遮り方。
乱暴じゃない、決意の遮り。
「明日、先生が全体に説明する。私が話す。
“紬はやってない”だけじゃなくて、“紬の名前が消されていた”ってことも。
それで、あなたが一人で悪者になる流れを止める」
遼が、ふっと笑いそうになる。
でも笑えない。
笑うと壊れるから。
「……俺のことは、言うな」
まだ言う。
“巻き込まれなくていい”の続きの言葉。
私は首を振った。
「言わない。名前は出さない。
でも、“守るために消した人がいる”って事実は、残す。
あなたを罰に変えるんじゃなくて、終わらせ方に変える」
遼の指先が、机の上で小さく震えた。
白い粉が、また少し落ちる。
「……紬」
遼が私の名前を呼ぶ。
今度は止める呼び方じゃない。
確かめる呼び方。
「……怖くないの」
私は少し笑ってしまった。
怖いに決まってる。
でも怖いって言うと、遼はまた一人で背負う。
「怖いよ」
正直に言う。
その上で、言い切る。
「でも、あなたに守られて、嫌われたふりをしたまま終わる方がもっと怖い」
遼は黙った。
黙って、消しゴム粉の残る指を握りしめた。
握りしめた拳が白くなる。
そして、小さく言った。
「……ごめん」
謝罪は一言。
でも遼にとっては、たぶん一番重い一言だった。
私は頷いた。
許す許さないじゃない。
“ここから一緒にする”の合図として。
「ねえ、遼。179、読んだ。……次、言うって言ったよね」
遼の目が揺れる。
揺れて、覚悟みたいに静まる。
「……まだ」
遼は言った。
告白未満の、逃げない“まだ”。
「……でも、最後まで行ったら」
遼はそこで息を吸って、私を見た。
「……ちゃんと、言う」
雨上がりの図書室で、言葉がようやく“ページ”から離れた。
まだ告白じゃない。
でも、遼は初めて、自分のやったことを私の前で認めた。
「消した。君を外した」
その言葉は、罪の告白じゃなく、守りの告白だった。
だから私は、静かに返した。
「外されたなら、今度は私が――あなたを外さない」


