栞が繋ぐ一行体験――3冊のページで、告白を完成させる

廊下に出た瞬間、空気が変わった。
図書室の匂いは紙と糊で、静かで、言葉が吸い込まれる場所だった。
でも廊下は、言葉が跳ね返る。噂がまだ壁に貼り付いている。視線がまだ床に散っている。

カウンターで復元された二文字――「紬」。
それをチャック袋に封じた瞬間、私は“戻る道”じゃなく“入る道”を選んだ気がした。

先生たちは、証拠を持って職員室へ行くと言った。
正しい手順。規則。正式。
でも、手順はいつも遅い。
遅い間に、人は噂で人を殺す。
私は、その遅さに一度やられた。

だから私は、歩く。
“突入”は乱暴な言葉かもしれない。
でも、今の私には必要な勢いだった。

先頭を歩くのは図書担当の先生。
白手袋は外したが、チャック袋の束は胸に抱えている。
その後ろに学年主任。
そして佐伯先輩と沙良。
私は一番最後――でも、視線は一番前に向けた。逃げない。

廊下の途中で、二年の子たちが立ち話していた。
私たちの列を見て、声が止まる。

「……え、なに」

「先生たち、なんで図書室の袋持ってんの」

「紬……?」

私の名前が、また出る。
でも、昨日までと違う出方だ。
噂の針じゃなく、出来事の中心に刺さる呼び方。

私は足を止めない。
止めたら、また貼られる。
歩けば、貼られた紙を剥がしに行ける。

職員室の前に着く。
扉のガラス越しに、先生たちの机が並んでいる。
いつも通りの光景。
でも今日は、ここが裁判所みたいに見えた。

図書担当の先生が、ノックを二回。
返事を待たずに扉を開けた。
“準備ができてない側”に入るための、短いノック。

職員室の空気は、インクとコーヒーと紙の匂いが混ざって重い。
数人の先生が顔を上げた。
驚き、警戒、面倒――いろんな顔が一瞬で浮かぶ。

「お時間いただけますか」

図書担当の先生の声が、普段より硬い。
硬いのに、揺れていない。
この先生は、今日だけは私の味方の“正しい声”をしている。

学年主任が、机の端に立った。

「貸出記録改ざん疑いの件で、証拠の保全と復元ができました。処分の議題に上げる前に共有します」

処分。
その単語が出ても、もう胸は凍らなかった。
凍らない代わりに、怒りが静かに底で燃えた。
“議題”にされる前に、止める。
それが、今日の突入の意味だ。

担任の先生が席から立ち上がり、少し眉を寄せた。

「……復元?」

図書担当の先生が頷き、チャック袋を机の上に置いた。
コト、と小さな音。
その音が、昨日までの噂の音よりずっと重かった。

袋が開かれないように、上から透明な下敷きが置かれる。
証拠は触らずに見せる。
この場でも規則を守る。
規則を守ることで、言い逃れを潰す。

「返却ボックスの底板裏から回収した紙片と粉です。欠落一行の一部が残っていました。復元した結果――欠落は“紬”の名前欄でした」

職員室が、静かになった。
“紬”という二文字が、空気の重さを変える。
同じ名前なのに、今日は刃じゃない。
真実の形をしている。

担任が私を見る。
昨日までの“認めれば軽く済む”の顔じゃない。
“まさか”と“しまった”が混じる顔。

学年主任が続ける。

「控え台帳の借り手名と照合済みです。台帳には紬の名前はありません。つまり『紬が借りた→自分で消した』は成立しません」

図書担当の先生が、最後に台帳の該当箇所のコピー(個人名は伏せたもの)を差し出す。
伏せた黒塗りの線が、逆に“そこに名前がある”ことを示す。

他の先生が、低く言った。

「……じゃあ、誰が」

その問いが出た瞬間、胸が痛んだ。
私は答えを持っている。
遼。
消しゴム粉。
「先に消す」。
でも、ここで遼の名前を差し出したら、遼は“犯人”として消費される。
遼が守ろうとしたのは、私だけじゃない。
“終わらせ方”そのものだ。

学年主任が、先に言った。

「現時点では、断定しません。ですが、校内の書類に手を加える行為なので、学校として調査します。外部には出さない形で」

外部に出さない。
その言い方に、私は小さく安心してしまった。
遼が守られる余地が、まだある。

図書担当の先生が続ける。

「そして、紬への処分や指導は中止。正式に誤解を解く説明を、明日の朝のホームルームで行います。掲示板の告発文についても、作成経緯を含めて整理します」

職員室の中で、誰かが小さく咳をした。
空気が動く。
“結論が変わった”ときの空気だ。

私は、ここで初めて一歩だけ前に出た。
先生たちの机の端に立つ。
声は小さい。でも、逃げない声で言った。

「……私、やってません。最初から」

言い切ると、胸の奥が少しだけ楽になった。
遅すぎる言葉だけど、言わないと私が私じゃなくなる。

担任が視線を落とし、短く言った。

「……すまなかった」

謝罪は、軽い。
でも今は、軽さでもいい。
私が欲しかったのは“正式に戻る”ことだから。

職員室を出ると、廊下の空気がまた刺さった。
でも今度は、刺さり方が違う。
痛いのに、前へ進める痛み。

沙良が小声で言った。

「……突入、ってこういうことなんだね」

私は笑えなかった。
でも頷いた。
突入は、乱暴じゃない。
遅すぎる正しさを、間に合わせるための動きだ。

そして私は、胸の中で遼に言った。

(あなたが消した二文字は、もう“消えない形”になったよ)

雨はまだ降っている。
でも、廊下の先が少しだけ明るく見えた。