廊下に出た瞬間、空気が変わった。
図書室の匂いは紙と糊で、静かで、言葉が吸い込まれる場所だった。
でも廊下は、言葉が跳ね返る。噂がまだ壁に貼り付いている。視線がまだ床に散っている。
カウンターで復元された二文字――「紬」。
それをチャック袋に封じた瞬間、私は“戻る道”じゃなく“入る道”を選んだ気がした。
先生たちは、証拠を持って職員室へ行くと言った。
正しい手順。規則。正式。
でも、手順はいつも遅い。
遅い間に、人は噂で人を殺す。
私は、その遅さに一度やられた。
だから私は、歩く。
“突入”は乱暴な言葉かもしれない。
でも、今の私には必要な勢いだった。
先頭を歩くのは図書担当の先生。
白手袋は外したが、チャック袋の束は胸に抱えている。
その後ろに学年主任。
そして佐伯先輩と沙良。
私は一番最後――でも、視線は一番前に向けた。逃げない。
廊下の途中で、二年の子たちが立ち話していた。
私たちの列を見て、声が止まる。
「……え、なに」
「先生たち、なんで図書室の袋持ってんの」
「紬……?」
私の名前が、また出る。
でも、昨日までと違う出方だ。
噂の針じゃなく、出来事の中心に刺さる呼び方。
私は足を止めない。
止めたら、また貼られる。
歩けば、貼られた紙を剥がしに行ける。
職員室の前に着く。
扉のガラス越しに、先生たちの机が並んでいる。
いつも通りの光景。
でも今日は、ここが裁判所みたいに見えた。
図書担当の先生が、ノックを二回。
返事を待たずに扉を開けた。
“準備ができてない側”に入るための、短いノック。
職員室の空気は、インクとコーヒーと紙の匂いが混ざって重い。
数人の先生が顔を上げた。
驚き、警戒、面倒――いろんな顔が一瞬で浮かぶ。
「お時間いただけますか」
図書担当の先生の声が、普段より硬い。
硬いのに、揺れていない。
この先生は、今日だけは私の味方の“正しい声”をしている。
学年主任が、机の端に立った。
「貸出記録改ざん疑いの件で、証拠の保全と復元ができました。処分の議題に上げる前に共有します」
処分。
その単語が出ても、もう胸は凍らなかった。
凍らない代わりに、怒りが静かに底で燃えた。
“議題”にされる前に、止める。
それが、今日の突入の意味だ。
担任の先生が席から立ち上がり、少し眉を寄せた。
「……復元?」
図書担当の先生が頷き、チャック袋を机の上に置いた。
コト、と小さな音。
その音が、昨日までの噂の音よりずっと重かった。
袋が開かれないように、上から透明な下敷きが置かれる。
証拠は触らずに見せる。
この場でも規則を守る。
規則を守ることで、言い逃れを潰す。
「返却ボックスの底板裏から回収した紙片と粉です。欠落一行の一部が残っていました。復元した結果――欠落は“紬”の名前欄でした」
職員室が、静かになった。
“紬”という二文字が、空気の重さを変える。
同じ名前なのに、今日は刃じゃない。
真実の形をしている。
担任が私を見る。
昨日までの“認めれば軽く済む”の顔じゃない。
“まさか”と“しまった”が混じる顔。
学年主任が続ける。
「控え台帳の借り手名と照合済みです。台帳には紬の名前はありません。つまり『紬が借りた→自分で消した』は成立しません」
図書担当の先生が、最後に台帳の該当箇所のコピー(個人名は伏せたもの)を差し出す。
伏せた黒塗りの線が、逆に“そこに名前がある”ことを示す。
他の先生が、低く言った。
「……じゃあ、誰が」
その問いが出た瞬間、胸が痛んだ。
私は答えを持っている。
遼。
消しゴム粉。
「先に消す」。
でも、ここで遼の名前を差し出したら、遼は“犯人”として消費される。
遼が守ろうとしたのは、私だけじゃない。
“終わらせ方”そのものだ。
学年主任が、先に言った。
「現時点では、断定しません。ですが、校内の書類に手を加える行為なので、学校として調査します。外部には出さない形で」
外部に出さない。
その言い方に、私は小さく安心してしまった。
遼が守られる余地が、まだある。
図書担当の先生が続ける。
「そして、紬への処分や指導は中止。正式に誤解を解く説明を、明日の朝のホームルームで行います。掲示板の告発文についても、作成経緯を含めて整理します」
職員室の中で、誰かが小さく咳をした。
空気が動く。
“結論が変わった”ときの空気だ。
私は、ここで初めて一歩だけ前に出た。
先生たちの机の端に立つ。
声は小さい。でも、逃げない声で言った。
「……私、やってません。最初から」
言い切ると、胸の奥が少しだけ楽になった。
遅すぎる言葉だけど、言わないと私が私じゃなくなる。
担任が視線を落とし、短く言った。
「……すまなかった」
謝罪は、軽い。
でも今は、軽さでもいい。
私が欲しかったのは“正式に戻る”ことだから。
職員室を出ると、廊下の空気がまた刺さった。
でも今度は、刺さり方が違う。
痛いのに、前へ進める痛み。
沙良が小声で言った。
「……突入、ってこういうことなんだね」
私は笑えなかった。
でも頷いた。
突入は、乱暴じゃない。
遅すぎる正しさを、間に合わせるための動きだ。
そして私は、胸の中で遼に言った。
(あなたが消した二文字は、もう“消えない形”になったよ)
雨はまだ降っている。
でも、廊下の先が少しだけ明るく見えた。
図書室の匂いは紙と糊で、静かで、言葉が吸い込まれる場所だった。
でも廊下は、言葉が跳ね返る。噂がまだ壁に貼り付いている。視線がまだ床に散っている。
カウンターで復元された二文字――「紬」。
それをチャック袋に封じた瞬間、私は“戻る道”じゃなく“入る道”を選んだ気がした。
先生たちは、証拠を持って職員室へ行くと言った。
正しい手順。規則。正式。
でも、手順はいつも遅い。
遅い間に、人は噂で人を殺す。
私は、その遅さに一度やられた。
だから私は、歩く。
“突入”は乱暴な言葉かもしれない。
でも、今の私には必要な勢いだった。
先頭を歩くのは図書担当の先生。
白手袋は外したが、チャック袋の束は胸に抱えている。
その後ろに学年主任。
そして佐伯先輩と沙良。
私は一番最後――でも、視線は一番前に向けた。逃げない。
廊下の途中で、二年の子たちが立ち話していた。
私たちの列を見て、声が止まる。
「……え、なに」
「先生たち、なんで図書室の袋持ってんの」
「紬……?」
私の名前が、また出る。
でも、昨日までと違う出方だ。
噂の針じゃなく、出来事の中心に刺さる呼び方。
私は足を止めない。
止めたら、また貼られる。
歩けば、貼られた紙を剥がしに行ける。
職員室の前に着く。
扉のガラス越しに、先生たちの机が並んでいる。
いつも通りの光景。
でも今日は、ここが裁判所みたいに見えた。
図書担当の先生が、ノックを二回。
返事を待たずに扉を開けた。
“準備ができてない側”に入るための、短いノック。
職員室の空気は、インクとコーヒーと紙の匂いが混ざって重い。
数人の先生が顔を上げた。
驚き、警戒、面倒――いろんな顔が一瞬で浮かぶ。
「お時間いただけますか」
図書担当の先生の声が、普段より硬い。
硬いのに、揺れていない。
この先生は、今日だけは私の味方の“正しい声”をしている。
学年主任が、机の端に立った。
「貸出記録改ざん疑いの件で、証拠の保全と復元ができました。処分の議題に上げる前に共有します」
処分。
その単語が出ても、もう胸は凍らなかった。
凍らない代わりに、怒りが静かに底で燃えた。
“議題”にされる前に、止める。
それが、今日の突入の意味だ。
担任の先生が席から立ち上がり、少し眉を寄せた。
「……復元?」
図書担当の先生が頷き、チャック袋を机の上に置いた。
コト、と小さな音。
その音が、昨日までの噂の音よりずっと重かった。
袋が開かれないように、上から透明な下敷きが置かれる。
証拠は触らずに見せる。
この場でも規則を守る。
規則を守ることで、言い逃れを潰す。
「返却ボックスの底板裏から回収した紙片と粉です。欠落一行の一部が残っていました。復元した結果――欠落は“紬”の名前欄でした」
職員室が、静かになった。
“紬”という二文字が、空気の重さを変える。
同じ名前なのに、今日は刃じゃない。
真実の形をしている。
担任が私を見る。
昨日までの“認めれば軽く済む”の顔じゃない。
“まさか”と“しまった”が混じる顔。
学年主任が続ける。
「控え台帳の借り手名と照合済みです。台帳には紬の名前はありません。つまり『紬が借りた→自分で消した』は成立しません」
図書担当の先生が、最後に台帳の該当箇所のコピー(個人名は伏せたもの)を差し出す。
伏せた黒塗りの線が、逆に“そこに名前がある”ことを示す。
他の先生が、低く言った。
「……じゃあ、誰が」
その問いが出た瞬間、胸が痛んだ。
私は答えを持っている。
遼。
消しゴム粉。
「先に消す」。
でも、ここで遼の名前を差し出したら、遼は“犯人”として消費される。
遼が守ろうとしたのは、私だけじゃない。
“終わらせ方”そのものだ。
学年主任が、先に言った。
「現時点では、断定しません。ですが、校内の書類に手を加える行為なので、学校として調査します。外部には出さない形で」
外部に出さない。
その言い方に、私は小さく安心してしまった。
遼が守られる余地が、まだある。
図書担当の先生が続ける。
「そして、紬への処分や指導は中止。正式に誤解を解く説明を、明日の朝のホームルームで行います。掲示板の告発文についても、作成経緯を含めて整理します」
職員室の中で、誰かが小さく咳をした。
空気が動く。
“結論が変わった”ときの空気だ。
私は、ここで初めて一歩だけ前に出た。
先生たちの机の端に立つ。
声は小さい。でも、逃げない声で言った。
「……私、やってません。最初から」
言い切ると、胸の奥が少しだけ楽になった。
遅すぎる言葉だけど、言わないと私が私じゃなくなる。
担任が視線を落とし、短く言った。
「……すまなかった」
謝罪は、軽い。
でも今は、軽さでもいい。
私が欲しかったのは“正式に戻る”ことだから。
職員室を出ると、廊下の空気がまた刺さった。
でも今度は、刺さり方が違う。
痛いのに、前へ進める痛み。
沙良が小声で言った。
「……突入、ってこういうことなんだね」
私は笑えなかった。
でも頷いた。
突入は、乱暴じゃない。
遅すぎる正しさを、間に合わせるための動きだ。
そして私は、胸の中で遼に言った。
(あなたが消した二文字は、もう“消えない形”になったよ)
雨はまだ降っている。
でも、廊下の先が少しだけ明るく見えた。


