栞を制服の胸ポケットにしまうと、紙の角が心臓の位置に触れた。
たったそれだけで、背筋が少し伸びる。私は咳払いをひとつして、いつもの作業に戻ったふりをした。
返却本の山は、まだ半分残っている。
バーコードをスキャンして、返却処理をして、棚へ戻す。
単純なはずの作業が、今日は妙に指先に引っかかる。
遼が席に戻った方を見ると、彼はもうページをめくっている。
「37」から始まる何か。
――私は、その“始まり”の正体をまだ知らない。
棚戻しの途中で、私は文学棚の端に置かれた貸出カードの束に目を留めた。
返却が多い日は、棚別にまとめておく。
カードは本の裏表紙に差し込むものだけど、点検や修理が必要な本は一度抜いて、まとめて確認する。
透明の小さなケースに、薄いカードが揃って入っている。
束になったカードは、背表紙の並びみたいに整って見えて、私はその整いが好きだった。
……好き、のはずだった。
一枚、手に取る。
『透明な余白』の貸出カード。さっき遼が借りた本だ。
貸出カードは、名前と日付が並ぶだけの簡素な紙だ。
でも私は、そこに「人の気配」が残ると思っている。
同じ本でも、借りる人が違えば、読み終えた後の重さが違う。
カードは、その重さの跡みたいなものだ。
遼の名前が、今日の日付と一緒に一番下にある。
筆圧の強さが目立つ。線が細いのに、迷いがない。
その上の行に視線を移す。
――2/17(月)遼
――2/13(木)……(空白)
――2/10(月)沙良
――2/06(木)遼
私は指先で、日付の列をなぞった。
月曜、木曜、月曜、木曜。
綺麗すぎる。
こんなふうに“曜日が揃う”ことは、確かにある。
でもこの本に限って、しかも短い間隔で、まるで誰かが意図して並べたみたいに揃っている。
(……偶然?)
そう思いながら、もう一冊、同じ棚の近い位置にある本のカードを抜いた。
『規則と告発』。タイトルがやけに今の状況に刺さって、私は一瞬だけ顔をしかめる。
――2/18(火)図書担当
――2/14(金)……(空白)
――2/12(水)遼
――2/07(金)佐伯
今度は、金曜、水曜、金曜。
中心に、空白がある。
空白が、ちゃんと“日付の列”の中に座っているように見えた。
胸の奥が、冷たくなる。
私は空白の部分に親指を当てて、紙の表面をそっと撫でた。
そこだけ、質感が違う。
紙が毛羽立っている。薄くなっている。
消した……?
いや、消しゴムの消し跡とは違う。
もっと、剥がしたみたいな、擦り切れた跡。
(なんで、ここだけ)
指先に、ほんのわずかな黒い粉が付いた。
鉛筆の粉。
私は慌ててハンカチで拭ったけれど、粉はすぐには取れず、指の線に入り込んだ。
一呼吸置いて、もう一枚。
今度は、棚のさらに奥の本。『同じページの合図』。
――2/19(水)遼
――2/15(土)……(空白)
――2/11(火)遼
――2/05(水)紬
私は思わず、息を止めた。
自分の名前が、そこにあった。
紙の上に、私の字で。
それだけで、カードが急に重く感じられる。
そして、そのすぐ上――2/15(土)の行が、空白。
空白の位置が、嫌に正確だ。
日付だけが残って、肝心の名前が、すっぽり抜け落ちている。
(2/15……)
告発文が貼られたのは、今日。
日付は、2/16。
――その前日が、2/15。
空白が、告発文の“手前”にある。
私の背中を、音もなく冷たいものが撫でた。
私はカウンターを見上げる。遼は窓際で本を読んでいる。
顔は見えない。視線も合わない。
けれど、私の手の中で、貸出カードの束だけが、何かを訴えている気がした。
曜日が、整いすぎている。
空白が、整いすぎている。
これは偶然じゃない。
誰かが、並べた。
誰かが、抜いた。
そして――その“誰か”は、図書室のことをよく知っている。
私はカードを元に戻そうとして、ふと手を止めた。
胸ポケットの栞が、また心臓を突く。
37。
遼は、ページで答えると言った。
ページで、始まると言った。
私の指先には、鉛筆の粉がまだ残っている。
その黒が、今日だけは、やけに目立つ。
(……この空白、私のこと?)
問いを飲み込んだ瞬間、遠くの廊下でチャイムが鳴った。
放課後の終わりを告げる音。
図書室の静けさが、一段深くなる。
私は貸出カードの束をケースに戻し、蓋を閉めた。
――閉めたはずなのに、空白だけが、瞼の裏で開いたままだった。
たったそれだけで、背筋が少し伸びる。私は咳払いをひとつして、いつもの作業に戻ったふりをした。
返却本の山は、まだ半分残っている。
バーコードをスキャンして、返却処理をして、棚へ戻す。
単純なはずの作業が、今日は妙に指先に引っかかる。
遼が席に戻った方を見ると、彼はもうページをめくっている。
「37」から始まる何か。
――私は、その“始まり”の正体をまだ知らない。
棚戻しの途中で、私は文学棚の端に置かれた貸出カードの束に目を留めた。
返却が多い日は、棚別にまとめておく。
カードは本の裏表紙に差し込むものだけど、点検や修理が必要な本は一度抜いて、まとめて確認する。
透明の小さなケースに、薄いカードが揃って入っている。
束になったカードは、背表紙の並びみたいに整って見えて、私はその整いが好きだった。
……好き、のはずだった。
一枚、手に取る。
『透明な余白』の貸出カード。さっき遼が借りた本だ。
貸出カードは、名前と日付が並ぶだけの簡素な紙だ。
でも私は、そこに「人の気配」が残ると思っている。
同じ本でも、借りる人が違えば、読み終えた後の重さが違う。
カードは、その重さの跡みたいなものだ。
遼の名前が、今日の日付と一緒に一番下にある。
筆圧の強さが目立つ。線が細いのに、迷いがない。
その上の行に視線を移す。
――2/17(月)遼
――2/13(木)……(空白)
――2/10(月)沙良
――2/06(木)遼
私は指先で、日付の列をなぞった。
月曜、木曜、月曜、木曜。
綺麗すぎる。
こんなふうに“曜日が揃う”ことは、確かにある。
でもこの本に限って、しかも短い間隔で、まるで誰かが意図して並べたみたいに揃っている。
(……偶然?)
そう思いながら、もう一冊、同じ棚の近い位置にある本のカードを抜いた。
『規則と告発』。タイトルがやけに今の状況に刺さって、私は一瞬だけ顔をしかめる。
――2/18(火)図書担当
――2/14(金)……(空白)
――2/12(水)遼
――2/07(金)佐伯
今度は、金曜、水曜、金曜。
中心に、空白がある。
空白が、ちゃんと“日付の列”の中に座っているように見えた。
胸の奥が、冷たくなる。
私は空白の部分に親指を当てて、紙の表面をそっと撫でた。
そこだけ、質感が違う。
紙が毛羽立っている。薄くなっている。
消した……?
いや、消しゴムの消し跡とは違う。
もっと、剥がしたみたいな、擦り切れた跡。
(なんで、ここだけ)
指先に、ほんのわずかな黒い粉が付いた。
鉛筆の粉。
私は慌ててハンカチで拭ったけれど、粉はすぐには取れず、指の線に入り込んだ。
一呼吸置いて、もう一枚。
今度は、棚のさらに奥の本。『同じページの合図』。
――2/19(水)遼
――2/15(土)……(空白)
――2/11(火)遼
――2/05(水)紬
私は思わず、息を止めた。
自分の名前が、そこにあった。
紙の上に、私の字で。
それだけで、カードが急に重く感じられる。
そして、そのすぐ上――2/15(土)の行が、空白。
空白の位置が、嫌に正確だ。
日付だけが残って、肝心の名前が、すっぽり抜け落ちている。
(2/15……)
告発文が貼られたのは、今日。
日付は、2/16。
――その前日が、2/15。
空白が、告発文の“手前”にある。
私の背中を、音もなく冷たいものが撫でた。
私はカウンターを見上げる。遼は窓際で本を読んでいる。
顔は見えない。視線も合わない。
けれど、私の手の中で、貸出カードの束だけが、何かを訴えている気がした。
曜日が、整いすぎている。
空白が、整いすぎている。
これは偶然じゃない。
誰かが、並べた。
誰かが、抜いた。
そして――その“誰か”は、図書室のことをよく知っている。
私はカードを元に戻そうとして、ふと手を止めた。
胸ポケットの栞が、また心臓を突く。
37。
遼は、ページで答えると言った。
ページで、始まると言った。
私の指先には、鉛筆の粉がまだ残っている。
その黒が、今日だけは、やけに目立つ。
(……この空白、私のこと?)
問いを飲み込んだ瞬間、遠くの廊下でチャイムが鳴った。
放課後の終わりを告げる音。
図書室の静けさが、一段深くなる。
私は貸出カードの束をケースに戻し、蓋を閉めた。
――閉めたはずなのに、空白だけが、瞼の裏で開いたままだった。


