カウンターの上に、透明のチャック袋が三つ並べられた。
返却ボックスの底板の裏から剥がした紙片。粉。台帳の控え。
どれも“触ってはいけないもの”として、手袋越しに扱われる。
図書担当の先生がカウンターの端に白い紙を敷き、その上に紙片の袋を置いた。
蛍光灯の光が反射して、袋が水面みたいに揺れる。
「復元は、こっちでやる」
先生は私に念を押すように言った。
「君は見ていていい。でも触らない」
私は頷いた。
触れない。触れないからこそ、今から見えるものが“正式になる”。
佐伯先輩が手袋をつけ直し、ピンセットで袋から紙片を一つずつ取り出した。
紙片は細い。毛羽立ちが、削られた紙の痛みをそのまま残している。
粉がこぼれないように、先生が小さな刷毛でそっと払う。白と黒が混ざった粉が、紙の上に淡い影を作る。
沙良が息を呑むのが分かった。
私は息を吐けなかった。
吐いたら、ここにいる自分が揺れそうだった。
「まずは、欠落箇所の“端”を合わせる」
先生が説明しながら、紙片を並べる。
裂け方の繊維が、同じ方向にほどけているもの同士。
テープ跡が残るもの。
カードの台紙の色に近いもの。
一つ、二つ、三つ。
紙片が、少しずつ“長さ”になる。
(……繋がる)
繋がり始めた瞬間、胸の奥で何かが決まった気がした。
まだ文字は見えない。
でも、欠落が“形”になっていく。形になれば、現実になる。
先生が紙片を光にかざした。
凹みの残像が浮く。
筆圧の痕。線の曲がり。
「ここ、文字の中心だな」
佐伯先輩が静かに頷き、別の紙片を重ねる位置に置く。
紙片同士が噛み合った瞬間、凹みの線が一本の流れになる。
私は喉が痛くなった。
読める前から、読んでしまっている。
(私の字癖に近い)
でも今日は、確信を“私の感覚”で終わらせない。
先生の手が、復元を完成させるのを待つ。
「よし」
先生が小さく言った。
紙片が、ほぼ一列に繋がった。
細い帯。
貸出カードの「名前欄」に貼られていたはずの幅。
学年主任が近づき、先生の横で、復元された帯を覗き込んだ。
佐伯先輩も、沙良も、息を止める。
図書室のざわめきが遠い。雨音が、窓の外で一定のリズムを刻むだけ。
先生が、最後の確認のように言った。
「……読めるぞ」
言いながら、先生はその帯を、敷いた白紙の上にそっと置いた。
蛍光灯の光の角度を変える。
影が動く。
凹みの線が、文字の輪郭に変わる。
そこに、二文字が見えた。
――紬。
私は一瞬、息が止まった。
止まった息が、遅れて喉を焼く。
世界が静かに反転する。
嫌われた、と思っていた。
でも欠落していたのは――“私の名前”だった。
私を落とすためじゃない。
私を守るために、削った名前。
学年主任が低く言う。
「欠落一行は……紬の名だ」
先生も頷いた。
「復元できた。これは、欠落した名前欄の一部で間違いない」
佐伯先輩の唇がわずかに震えた。
正しさの人が、正しさのせいで刺したものの“正体”を見た顔。
沙良が小さく呟く。
「……ほんとに、紬の名前……」
私の胸の奥が熱くなる。
泣きたい熱じゃない。
怒りの熱でもない。
もっと厄介な熱――遼を思い出す熱。
(遼、あなたは――)
遼が「先に消す」と言った理由。
先生が「守られた可能性」と言った意味。
全部が、二文字に収束する。
佐伯先輩が、ようやく私を見た。
「……私、間違ってた」
声がかすれている。
謝罪はもう一度言わない。
その代わりに、正しさの人が“撤回”より重いものを背負う目をしている。
先生が、復元された帯をチャック袋に戻しながら、淡々と告げた。
「ここから先は、学校が調べる。だが――君の処分は、完全に取り下げる。正式に、明日の朝、全体で説明する」
全体。
廊下の噂へ。
教室の揺れへ。
貼られた紙の白さへ。
反転した世界を、元に戻すための説明。
私は頷いた。
頷きながら、胸の奥で別の決意が固まっていく。
――欠落が“紬”なら、削ったのは遼だ。
遼の指の消しゴム粉が、それを裏打ちする。
でも、遼を“犯人”として差し出したくない。
守られたなら、今度は私が守る。
守り方を、二人のものにする。
カウンターの上の袋が、一つずつ封をされていく。
証拠が、正式に“残る”形になる。
雨音が強くなる。
図書室の窓の向こうで、世界はまだ濡れている。
でも私は、ようやく息を吐けた。
欠落一行は――紬の名。
それは、私が嫌われた証拠じゃない。
守られた証拠だった。
返却ボックスの底板の裏から剥がした紙片。粉。台帳の控え。
どれも“触ってはいけないもの”として、手袋越しに扱われる。
図書担当の先生がカウンターの端に白い紙を敷き、その上に紙片の袋を置いた。
蛍光灯の光が反射して、袋が水面みたいに揺れる。
「復元は、こっちでやる」
先生は私に念を押すように言った。
「君は見ていていい。でも触らない」
私は頷いた。
触れない。触れないからこそ、今から見えるものが“正式になる”。
佐伯先輩が手袋をつけ直し、ピンセットで袋から紙片を一つずつ取り出した。
紙片は細い。毛羽立ちが、削られた紙の痛みをそのまま残している。
粉がこぼれないように、先生が小さな刷毛でそっと払う。白と黒が混ざった粉が、紙の上に淡い影を作る。
沙良が息を呑むのが分かった。
私は息を吐けなかった。
吐いたら、ここにいる自分が揺れそうだった。
「まずは、欠落箇所の“端”を合わせる」
先生が説明しながら、紙片を並べる。
裂け方の繊維が、同じ方向にほどけているもの同士。
テープ跡が残るもの。
カードの台紙の色に近いもの。
一つ、二つ、三つ。
紙片が、少しずつ“長さ”になる。
(……繋がる)
繋がり始めた瞬間、胸の奥で何かが決まった気がした。
まだ文字は見えない。
でも、欠落が“形”になっていく。形になれば、現実になる。
先生が紙片を光にかざした。
凹みの残像が浮く。
筆圧の痕。線の曲がり。
「ここ、文字の中心だな」
佐伯先輩が静かに頷き、別の紙片を重ねる位置に置く。
紙片同士が噛み合った瞬間、凹みの線が一本の流れになる。
私は喉が痛くなった。
読める前から、読んでしまっている。
(私の字癖に近い)
でも今日は、確信を“私の感覚”で終わらせない。
先生の手が、復元を完成させるのを待つ。
「よし」
先生が小さく言った。
紙片が、ほぼ一列に繋がった。
細い帯。
貸出カードの「名前欄」に貼られていたはずの幅。
学年主任が近づき、先生の横で、復元された帯を覗き込んだ。
佐伯先輩も、沙良も、息を止める。
図書室のざわめきが遠い。雨音が、窓の外で一定のリズムを刻むだけ。
先生が、最後の確認のように言った。
「……読めるぞ」
言いながら、先生はその帯を、敷いた白紙の上にそっと置いた。
蛍光灯の光の角度を変える。
影が動く。
凹みの線が、文字の輪郭に変わる。
そこに、二文字が見えた。
――紬。
私は一瞬、息が止まった。
止まった息が、遅れて喉を焼く。
世界が静かに反転する。
嫌われた、と思っていた。
でも欠落していたのは――“私の名前”だった。
私を落とすためじゃない。
私を守るために、削った名前。
学年主任が低く言う。
「欠落一行は……紬の名だ」
先生も頷いた。
「復元できた。これは、欠落した名前欄の一部で間違いない」
佐伯先輩の唇がわずかに震えた。
正しさの人が、正しさのせいで刺したものの“正体”を見た顔。
沙良が小さく呟く。
「……ほんとに、紬の名前……」
私の胸の奥が熱くなる。
泣きたい熱じゃない。
怒りの熱でもない。
もっと厄介な熱――遼を思い出す熱。
(遼、あなたは――)
遼が「先に消す」と言った理由。
先生が「守られた可能性」と言った意味。
全部が、二文字に収束する。
佐伯先輩が、ようやく私を見た。
「……私、間違ってた」
声がかすれている。
謝罪はもう一度言わない。
その代わりに、正しさの人が“撤回”より重いものを背負う目をしている。
先生が、復元された帯をチャック袋に戻しながら、淡々と告げた。
「ここから先は、学校が調べる。だが――君の処分は、完全に取り下げる。正式に、明日の朝、全体で説明する」
全体。
廊下の噂へ。
教室の揺れへ。
貼られた紙の白さへ。
反転した世界を、元に戻すための説明。
私は頷いた。
頷きながら、胸の奥で別の決意が固まっていく。
――欠落が“紬”なら、削ったのは遼だ。
遼の指の消しゴム粉が、それを裏打ちする。
でも、遼を“犯人”として差し出したくない。
守られたなら、今度は私が守る。
守り方を、二人のものにする。
カウンターの上の袋が、一つずつ封をされていく。
証拠が、正式に“残る”形になる。
雨音が強くなる。
図書室の窓の向こうで、世界はまだ濡れている。
でも私は、ようやく息を吐けた。
欠落一行は――紬の名。
それは、私が嫌われた証拠じゃない。
守られた証拠だった。


