雨の図書室を出たあと、校舎の匂いが少し変わっていた。
濡れた制服のまま廊下を歩くと、床がわずかに滑る。誰かが拭いた跡の線が、光に薄く残っている。
遼は、早足でも遅足でもない歩幅で、階段へ向かった。
私が追うのを前提にした歩幅。
振り向かないのに、背中が「来い」と言っている。
階段の踊り場。
窓が一枚あって、雨Pの外の雨がガラスに筋を作って流れている。
下の階の足音は遠く、上の階の声も届かない。
ここだけ、雨音が近い。
遼が立ち止まった。
窓の枠に指先を軽く置く。
その指に、まだ白い粉が残っている。
私は一段下で止まった。
近づきすぎると、息が絡まる気がした。
遠すぎると、遼がまた消える気がした。
「……179、読め」
遼が先に言った。
命令みたいな短さ。
でも声は、図書室より少しだけ柔らかい。
「読む」
私が答えると、遼は小さく息を吐いた。
窓ガラスが曇るほどの息。
その曇りが、すぐ雨に消される。
「……紬」
遼が私の名前を呼んだ。
その呼び方だけで、胸が勝手に反応する。
怖いのに、嬉しい。
そういう矛盾が、私の中で育ってしまっている。
「何」
私の声は、思ったより近かった。
雨音に負けない距離に、私たちはいる。
遼は指先を見て、白い粉を親指で擦った。
擦っても、粉は完全には消えない。
皮膚の溝に残って、しつこい。
「……巻き込まれなくていい」
また、その言葉。
図書室で言いかけた、止める言葉。
でも今の「巻き込まれなくていい」は、少し違った。
拒絶じゃなく、祈りに近い。
「もう、巻き込まれてる」
私が言うと、遼の肩がほんの少しだけ沈んだ。
責められたからじゃない。
その事実を、自分が一番分かっている沈み方。
「……だから」
遼は窓の外を見た。
雨の筋。流れて、途切れて、また流れる。
言葉も、同じみたいに途切れる。
「……紬は、こっちじゃない」
こっち。
遼のいる側。
粉の残る側。
削る側。
黙る側。
私は一段上って、遼と同じ高さに立った。
その一歩で、心臓の音が大きくなる。
でも下がりたくなかった。
「遼、私の名前――」
言いかけた瞬間、遼が手を伸ばして、私の袖口を掴んだ。
強くない。引き止めるだけの力。
でも、その触れ方が、言葉よりずっと直接だった。
「……言うな」
低い声。
怒っていない。
必死な声。
「どうして?」
私が問うと、遼は掴んだ袖を離した。
離した瞬間、空気が冷える。
触れたところだけ、熱が残る。
遼はポケットから小さな消しゴムを出した。
図書室の鉛筆立てにあったやつと同じ、角が少し丸い白。
それを掌で握って、指で潰すみたいに圧をかける。
ぽろ、と粉が落ちる。
白い粉が、踊り場の床に小さな点になる。
「……癖、つく」
遼が言った。
消しゴムを握り潰す癖。
粉を払う癖。
罪を隠す癖。
それが、遼の口から出た瞬間、私の胸が痛くなった。
責めたい痛みじゃない。
遼が自分を削っている痛み。
「私の名前を消したの、遼なの?」
私は、言ってしまった。
言わないと先へ行けない。
遼が「追え」と言ったなら、問いは避けられない。
雨音が、少し強くなる。
窓ガラスに、太い筋が増える。
遼はすぐ答えなかった。
答えない時間が、答えの形だった。
「……紬が、壊れるのが先」
遼がやっと言った。
肯定でも否定でもない。
でも“理由”だった。
「壊れる?」
「……処分、先に動く。噂、先に動く。先生、先に動く」
遼は一つずつ言葉を置く。
まるでページ番号みたいに。
順番に、逃げ道を塞ぐように。
「先に動くものを、止めるには……」
遼の声が少しだけ震えた。
震えたのに、目は逸らさない。
雨の窓を見ているふりをしない。
「……先に消す」
先に消す。
私の名前を。
貸出カードから。
“記録”から。
それは守り方であり、罪の作り方でもある。
守ることは、黙ることに似ている。
遼は守るために、罪を引き受ける側に立った。
私の喉が詰まった。
怒りたいのに、怒れない。
止めたいのに、止める言葉が見つからない。
「じゃあ、遼が壊れる」
私が言うと、遼の口元がほんの少しだけ動いた。
笑いじゃない。
“当たり前だろ”の形。
「……いい」
小さな声。
“いい”なんて言葉で済ませていい話じゃないのに。
私は一歩踏み込んだ。
距離が縮まる。
遼の指先の粉が、よりはっきり見える。
「良くない」
私の声は、雨音より確かだった。
「遼、私、あなたに守られた。分かった。……でも、守られたまま終わりたくない」
遼は私を見た。
ちゃんと見た。
一瞬じゃなく、ちゃんと。
その目に、言葉にならないものが詰まっている。
謝りたいのか、止めたいのか、触れたいのか。
全部混ざって、どれにもならない。
「……紬」
遼がもう一度、名前を呼ぶ。
呼び方が、さっきより少しだけ柔らかい。
それだけで、私の胸の奥の恋が勝手に前に出る。
でも遼は、告白はしなかった。
代わりに、指先を私のノートが入っている鞄へ向ける。
「……ページ、外すな」
外すな。
順番を。
導線を。
遼が残した“最後”への道を。
「179、読んだら……次、言う」
次。
言葉で。
今までページでしか言えなかったことを。
私は頷いた。
頷いた瞬間、涙が出そうになって、奥歯を噛んだ。
「分かった。読む。……最後まで行く」
遼は消しゴムをポケットに戻した。
指先の粉を、もう一度だけ軽く払う。
払っても残る粉みたいに、遼の沈黙も簡単には消えない。
踊り場の窓に、雨が線を引き続ける。
その線は途切れても、また繋がる。
遼が背を向ける前に、ほんの小さく言った。
「……ほんとに、巻き込まれなくていいんだ」
それは最後の抵抗みたいな言葉だった。
だから私は、言い返した。
「巻き込まれなくていい、じゃない。――一緒に終わらせる」
遼の肩が、ほんの少しだけ上がって下がった。
息を吸ったのか、堪えたのか分からない。
そして遼は、階段を下りていった。
雨音だけが残る踊り場で、私は鞄の中の栞の束を、そっと握り直した。
告白はまだ。
でも、もう引き返せない。
濡れた制服のまま廊下を歩くと、床がわずかに滑る。誰かが拭いた跡の線が、光に薄く残っている。
遼は、早足でも遅足でもない歩幅で、階段へ向かった。
私が追うのを前提にした歩幅。
振り向かないのに、背中が「来い」と言っている。
階段の踊り場。
窓が一枚あって、雨Pの外の雨がガラスに筋を作って流れている。
下の階の足音は遠く、上の階の声も届かない。
ここだけ、雨音が近い。
遼が立ち止まった。
窓の枠に指先を軽く置く。
その指に、まだ白い粉が残っている。
私は一段下で止まった。
近づきすぎると、息が絡まる気がした。
遠すぎると、遼がまた消える気がした。
「……179、読め」
遼が先に言った。
命令みたいな短さ。
でも声は、図書室より少しだけ柔らかい。
「読む」
私が答えると、遼は小さく息を吐いた。
窓ガラスが曇るほどの息。
その曇りが、すぐ雨に消される。
「……紬」
遼が私の名前を呼んだ。
その呼び方だけで、胸が勝手に反応する。
怖いのに、嬉しい。
そういう矛盾が、私の中で育ってしまっている。
「何」
私の声は、思ったより近かった。
雨音に負けない距離に、私たちはいる。
遼は指先を見て、白い粉を親指で擦った。
擦っても、粉は完全には消えない。
皮膚の溝に残って、しつこい。
「……巻き込まれなくていい」
また、その言葉。
図書室で言いかけた、止める言葉。
でも今の「巻き込まれなくていい」は、少し違った。
拒絶じゃなく、祈りに近い。
「もう、巻き込まれてる」
私が言うと、遼の肩がほんの少しだけ沈んだ。
責められたからじゃない。
その事実を、自分が一番分かっている沈み方。
「……だから」
遼は窓の外を見た。
雨の筋。流れて、途切れて、また流れる。
言葉も、同じみたいに途切れる。
「……紬は、こっちじゃない」
こっち。
遼のいる側。
粉の残る側。
削る側。
黙る側。
私は一段上って、遼と同じ高さに立った。
その一歩で、心臓の音が大きくなる。
でも下がりたくなかった。
「遼、私の名前――」
言いかけた瞬間、遼が手を伸ばして、私の袖口を掴んだ。
強くない。引き止めるだけの力。
でも、その触れ方が、言葉よりずっと直接だった。
「……言うな」
低い声。
怒っていない。
必死な声。
「どうして?」
私が問うと、遼は掴んだ袖を離した。
離した瞬間、空気が冷える。
触れたところだけ、熱が残る。
遼はポケットから小さな消しゴムを出した。
図書室の鉛筆立てにあったやつと同じ、角が少し丸い白。
それを掌で握って、指で潰すみたいに圧をかける。
ぽろ、と粉が落ちる。
白い粉が、踊り場の床に小さな点になる。
「……癖、つく」
遼が言った。
消しゴムを握り潰す癖。
粉を払う癖。
罪を隠す癖。
それが、遼の口から出た瞬間、私の胸が痛くなった。
責めたい痛みじゃない。
遼が自分を削っている痛み。
「私の名前を消したの、遼なの?」
私は、言ってしまった。
言わないと先へ行けない。
遼が「追え」と言ったなら、問いは避けられない。
雨音が、少し強くなる。
窓ガラスに、太い筋が増える。
遼はすぐ答えなかった。
答えない時間が、答えの形だった。
「……紬が、壊れるのが先」
遼がやっと言った。
肯定でも否定でもない。
でも“理由”だった。
「壊れる?」
「……処分、先に動く。噂、先に動く。先生、先に動く」
遼は一つずつ言葉を置く。
まるでページ番号みたいに。
順番に、逃げ道を塞ぐように。
「先に動くものを、止めるには……」
遼の声が少しだけ震えた。
震えたのに、目は逸らさない。
雨の窓を見ているふりをしない。
「……先に消す」
先に消す。
私の名前を。
貸出カードから。
“記録”から。
それは守り方であり、罪の作り方でもある。
守ることは、黙ることに似ている。
遼は守るために、罪を引き受ける側に立った。
私の喉が詰まった。
怒りたいのに、怒れない。
止めたいのに、止める言葉が見つからない。
「じゃあ、遼が壊れる」
私が言うと、遼の口元がほんの少しだけ動いた。
笑いじゃない。
“当たり前だろ”の形。
「……いい」
小さな声。
“いい”なんて言葉で済ませていい話じゃないのに。
私は一歩踏み込んだ。
距離が縮まる。
遼の指先の粉が、よりはっきり見える。
「良くない」
私の声は、雨音より確かだった。
「遼、私、あなたに守られた。分かった。……でも、守られたまま終わりたくない」
遼は私を見た。
ちゃんと見た。
一瞬じゃなく、ちゃんと。
その目に、言葉にならないものが詰まっている。
謝りたいのか、止めたいのか、触れたいのか。
全部混ざって、どれにもならない。
「……紬」
遼がもう一度、名前を呼ぶ。
呼び方が、さっきより少しだけ柔らかい。
それだけで、私の胸の奥の恋が勝手に前に出る。
でも遼は、告白はしなかった。
代わりに、指先を私のノートが入っている鞄へ向ける。
「……ページ、外すな」
外すな。
順番を。
導線を。
遼が残した“最後”への道を。
「179、読んだら……次、言う」
次。
言葉で。
今までページでしか言えなかったことを。
私は頷いた。
頷いた瞬間、涙が出そうになって、奥歯を噛んだ。
「分かった。読む。……最後まで行く」
遼は消しゴムをポケットに戻した。
指先の粉を、もう一度だけ軽く払う。
払っても残る粉みたいに、遼の沈黙も簡単には消えない。
踊り場の窓に、雨が線を引き続ける。
その線は途切れても、また繋がる。
遼が背を向ける前に、ほんの小さく言った。
「……ほんとに、巻き込まれなくていいんだ」
それは最後の抵抗みたいな言葉だった。
だから私は、言い返した。
「巻き込まれなくていい、じゃない。――一緒に終わらせる」
遼の肩が、ほんの少しだけ上がって下がった。
息を吸ったのか、堪えたのか分からない。
そして遼は、階段を下りていった。
雨音だけが残る踊り場で、私は鞄の中の栞の束を、そっと握り直した。
告白はまだ。
でも、もう引き返せない。


