栞が繋ぐ一行体験――3冊のページで、告白を完成させる

雨の日の図書室は、音が二重になる。
窓に当たる雨粒の連打と、館内の静けさの中でページをめくる音。
世界が少しだけ遠くなる。噂も、廊下も、貼られた紙も――雨の膜の向こうへ押しやられる。

その日は、先生たちが「処分は止める」と言った翌日だった。
告発文は剥がされた。掲示板にはピン穴だけが残っている。
それでも、私はまだ“元に戻っていない”のを知っている。
戻っていないのは、遼だ。

昼休みの終わり。
図書室の入口に、濡れた靴音がした。
ずぶ濡れの生徒が何人か入ってくる。傘の水滴が床に落ち、誰かが小声で「うわ」と笑う。

私は窓際の席――遼の席の斜め後ろに座っていた。
当番じゃない席。動けない席。
でも、ここからなら入口も棚も見える。

そして――その靴音が、違うリズムで近づいてきた。

遼が入ってきた。

傘は持っていない。
制服の肩が雨で濃い色になっている。髪の先から一滴落ち、床に小さな点を作る。
誰も声をかけない。遼はもともと、声をかけられない種類の静けさをまとっている。

私は喉が動いた。
名前を呼びたいのに、呼んだら壊れそうで、呼べない。
でも遼は、棚へ向かう途中で一度だけ足を止めた。

私の視界の端――窓際の席のあたりを、確かめるように。

目が合った。
一瞬だけ。
それだけで、胸の奥が熱くなる。熱の行き場がなくて、指先が冷える。

遼は何も言わず、カウンター横の鉛筆立ての前へ行った。
そこには、司書委員用の鉛筆と消しゴムが置いてある。利用者が使っていいやつ。
遼は消しゴムを一つ取り、指先で転がす。

その指に、白い粉が付いていた。

消しゴム粉。
細かい、あの白。

私は息が止まった。
返却ボックスの底で見つけた粉。
鉛筆粉と混ざった、あの“削った痕の残骸”。
白いのは、消しゴム。黒いのが、鉛筆の芯。

遼の指先に付いている白は、雨の日の光の中ではっきり見えた。
まるで、証拠が本人に貼り付いて歩いているみたいに。

遼はそのまま棚へ向かった。
文学棚の端。いつもの場所。
本を一冊、引き抜く。
ページを開く。
そして――消しゴム粉の付いた指で、ページの端を軽く払った。

粉が、ふわっと落ちた。

私は立ち上がりそうになって、膝の上で拳を握った。
動いたら、私の世界がまた乱暴に回り始める気がした。
でも、動かないと――遼のまま、消える。

遼は本を抱えたまま、窓際の席へ来た。
遼の席。
私の一つ前の椅子が、静かに引かれる。

ギ、と小さな音。
椅子の脚が床を擦る音が、雨音に負けずに私の胸に届く。

遼が座った。
雨に濡れた制服の袖が、机に触れる。
指先の白い粉が、机の木目に少しだけ残る。

私は、もう逃げられなかった。
椅子を引き、遼の席の隣――一つ空けた位置に座る。
“隣に座る”だけで、噂なら何十倍にも膨らむ。
でも今は、噂より遼の方が大きかった。

「……遼」

私の声は、雨音に溶けそうなくらい小さかった。
遼はページから目を上げない。
上げないまま、低く返した。

「……処分、止まった」

質問じゃない。確認だ。
私の胸の奥が、きゅっと縮んだ。

「うん。台帳で……私じゃないって」

遼の指先が、ページの余白をなぞった。
消しゴム粉が少しだけ落ちる。
白い粉が、雨の日の薄暗い光の中で際立つ。

「……よかった」

遼はそう言った。
よかった、と言ったのに、声が少しだけ苦い。
喜びの声じゃない。
終わったことへの安堵でもない。
“とりあえず今は”という声。

私は、その白い粉から目を離せなかった。
言うべきか、言わないべきか。
言ったら、遼は終わるかもしれない。
言わなかったら、遼は一人で終わる。

「遼、その指……」

私が言うと、遼の手が止まった。
止まった手が、ゆっくり自分の指先を見る。
白い粉。
遼はそれを、軽く指で擦った。
擦っても、消えない。粉は指の皮膚の溝に入り込んでいる。

遼は、ようやく私を見る。
雨の日の光で、瞳が少しだけ濡れて見えた。

「……見た?」

「見えた」

私が言った瞬間、遼の喉が動いた。
飲み込む音は聞こえないのに、飲み込んだのが分かった。

私は続けた。
勢いで言ってしまうと壊れる。だから、言葉を一つずつ置くみたいに。

「返却ボックスの底にも、粉があった。黒いのと、白いの。紙片も」

遼の目が、ほんのわずか細くなる。
否定でも肯定でもなく、“当たった”という目。

「……紬」

遼が私の名前を呼ぶ。
それだけで、胸の奥が痛いくらい熱い。
でもその声は、甘い呼び方じゃない。止める呼び方だ。

「……ここで、言うな」

「じゃあ、どこで言うの」

私の声が少しだけ震えた。
怒りじゃない。怖さだ。
遼が消えてしまう怖さ。

遼は視線を落とし、机の上に小さく、消しゴム粉を払った。
白い粉が、木目の線に沿って散る。

「……最後、行く」

また、その言葉。
“最後に、行く”。
遼の口癖になり始めている“終点”の言い方。

「243?」

私が言うと、遼はほんの少しだけ頷いた。
そして、ページの端を指で叩く。
トン、と小さな音。

「……今日は、これ」

遼は本を閉じ、間に何かを挟んだ。
白い紙――栞。
そして、私の方へ滑らせた。

雨音の中で、紙が机を滑る音はやけに大きい。

私は栞を取った。
鉛筆で数字。

――179。

今までの線と違う位置。
新しい途中。
途中が増える。
遼が言った通りに。

「……読む」

私が言うと、遼はほんの少しだけ肩を落とした。
安心の形。
でもその安心の形が、私の心をさらに乱す。

(守られてる、ってこういうこと?)

嫌われたと思っていた時間。
その時間が、遼の“守り方”だったのかもしれない。
私の名前を消したのも。
ページ番号だけ残したのも。
「巻き込まれなくていい」と言ったのも。

雨が窓を叩く。
その音が、遼の沈黙を支えているみたいだった。

私は栞を握りしめて、最後に一つだけ言った。
言わないと、心が先に崩れる。

「遼、私……あなたを巻き込みたくない。でも、あなたが一人でやるのは、もっと嫌」

遼は答えない。
答えないまま、机の上に自分の指を置く。
白い消しゴム粉が、まだ残っている指。

そして、ほんの小さく言った。

「……じゃあ、追え」

命令でも、お願いでもない。
合図。
ページで答える人の、いちばん短い“許可”。

私は息を吸った。
雨の日の空気が、肺に冷たく入る。
冷たさの中で、胸の奥だけが熱い。

「追う。37から、ちゃんと。最後まで」

遼は、ほんの一瞬だけ口角を上げた気がした。
笑ったのか、雨のせいでそう見えただけなのか分からない。
でもその一瞬で、私の世界はまた反転した。

――嫌われた、じゃない。
守られた。
そして今度は、守る側へ回る。

雨音が強くなる。
図書室は静かで、世界はやっと動き出した。