栞が繋ぐ一行体験――3冊のページで、告白を完成させる

翌朝、図書室の入口は、いつもより遠かった。
扉の前に立つだけで、廊下の空気が変わる。
誰かが息を止め、誰かが視線を外し、誰かが笑う。

「……来た」

小さな声が、背中に刺さる。
その声には名前が入っていないのに、私だと分かる。

私は扉の取っ手に手をかけた。
冷たい金属。
冷たさが、昨日の紙片の凹みを思い出させる。

(嫌われた)

そう思うのは簡単だった。
告発文の二枚目。
廊下の噂。
味方だったはずの真帆の揺れた目。
沙良の硬い声。
全部が「私はここにいてはいけない」に見える。

私は取っ手を引いた。
扉が静かに開く。
紙の匂いが、少しだけ息を楽にする。

……でも、今日の図書室は、違った。

カウンターの前に、先生が立っている。
図書担当の先生と、学年主任。
そして、佐伯先輩。腕章をつけて、背筋を伸ばしている。

まるで、私を待っていたみたいに。

(終わりだ)

心臓が縮む。
“明日正式に”の匂いが、もう目の前だ。

私は一歩入って、すぐに止まった。
先生たちの視線が集まる。
図書室の静けさが、私を中央に立たせる。

「紬」

図書担当の先生が言った。
その声は昨日よりも、少しだけ柔らかい。

「沙良から聞いた。台帳で照合したいって」

私は喉を鳴らして頷く。
言葉にする前に、学年主任が続けた。

「君が“触らない条件”で、こちらが確認した」

私は目を瞬いた。
触らない条件。
確認した。
――つまり、もう照合した。

鼓膜の内側が、ざわっとする。
結果が出た。
出たのに、先生はすぐに言わない。
それがいちばん怖い。

佐伯先輩が口を開いた。

「……あの紙は、撤回する」

撤回。
その単語が、私の耳に入るまでに時間がかかった。
撤回って、何を。
二枚目? 私の名前? 遼の影?

佐伯先輩は続ける。
いつもの“正しさ”の声じゃない。少し、硬さが崩れている。

「控え台帳の借り手名は……紬じゃなかった」

私の胸の奥で、何かがパキ、と割れた。
氷みたいなものが割れる音。

「だから、カードの欠落が『紬』だとしても、それは台帳と矛盾する。矛盾は、改ざんの証拠になる」

佐伯先輩がそう言う。
“証拠”。
その言葉が、初めて私の味方の形で出てきた。

学年主任が、短く補足する。

「台帳では、借り手は別名だ。君の名前は記録に残っていない。つまり、少なくとも『紬が借りた→自分で消した』は成立しない」

成立しない。
その断言が、喉に詰まっていた何かを少しだけ溶かした。

私は息を吸った。
白い息が出るほどではないけれど、胸の奥が軽くなる。

(嫌われた、じゃない?)

でもまだ、安心できなかった。
矛盾が証拠なら、誰かの意図が確定する。
その意図は、私を守る意図なのか、私を落とす意図なのか。

図書担当の先生が、机の上の紙を私に見せた。
コピーではない。先生の手書きのメモ。
日付と書名、そして台帳の借り手名が伏せて書かれている。

「これは正式な書類じゃない。個人名は出せない。でも、結論だけ言う」

先生は私を見る。

「カードの欠落行は、“君の名前を削った痕”の可能性が高い。君の筆圧に近い残像があったという話も、辻褄が合う」

私は喉が震えた。
辻褄が合う。
――つまり、私の名前は最初から“そこにあった”。
あったものを、誰かが消した。

学年主任が、いつもより低い声で言った。

「君は、守られた可能性がある」

守られた。
その言葉は、遼のページの一文と同じ匂いがした。

守ることは、黙ることに似ている。

昨日まで私は、嫌われたと思っていた。
告発文は私を刺した。
噂は私を削った。
でも今、先生の口から出たのは「守られた可能性」。

それは、世界の反転だった。

(私の名前が消されたのは、私を落とすためじゃなくて――)

私の視線が、入口の方へ滑る。
遼が一瞬だけ現れて消えた、あの扉。
遼の歩幅。
遼の封筒。
遼の栞。

守るために消した?
守るために黙った?
巻き込まれなくていい――あれは私に向けた言葉じゃなく、彼自身への命令だったのかもしれない。

心臓が、少しだけ柔らかく跳ねた。
柔らかい跳ね方が、怖い。
恋の形に似ているから。

佐伯先輩が私の方へ一歩近づき、頭を下げた。
深くはない。けれど、確かに下げた。

「……ごめん。私は、図書室を守るつもりで……君を刺した」

謝罪の言葉が、痛いほど真っ直ぐだった。
正しさの人が、正しさで暴走した自分を認めている。

私は首を振った。
許すとか許さないとか、今は言えない。
でも一つだけは言える。

「……先輩、紙、剥がしてください」

佐伯先輩が頷いた。
それは撤回の始まりだ。
貼られたままの世界を、戻す最初の動き。

図書担当の先生が、私に向けて最後に言った。

「今日、正式に話す。君の処分の話は止める。その代わり――この件は、学校として“誰がどうやったか”を調べる」

止める。
処分を止める。
その一言が、校庭で嗅いだ匂いを消した。

私の肩から、見えない荷物がひとつ落ちた気がした。
落ちても、まだ残っている。
遼の不在。
削った手。
残った筆圧。
そして、守られたという反転の意味。

入口の扉が、背後でわずかに鳴った。
誰かが外を通っただけの音。
それなのに、私は一瞬、遼だと思ってしまった。

嫌われた、と思っていた。
でも違う。
嫌われたんじゃなく――守られるために、嫌われたふりをさせられたのかもしれない。

私は扉の方を見て、心の中で小さく言った。

(遼、あなたはどこまで一人で背負ってるの)

そして、机の上の栞の束を、鞄の中でそっと握り直した。
守られたなら、次は私が守る番だ。
“残り方”を、私が選び直す番だ。