翌朝、図書室の入口は、いつもより遠かった。
扉の前に立つだけで、廊下の空気が変わる。
誰かが息を止め、誰かが視線を外し、誰かが笑う。
「……来た」
小さな声が、背中に刺さる。
その声には名前が入っていないのに、私だと分かる。
私は扉の取っ手に手をかけた。
冷たい金属。
冷たさが、昨日の紙片の凹みを思い出させる。
(嫌われた)
そう思うのは簡単だった。
告発文の二枚目。
廊下の噂。
味方だったはずの真帆の揺れた目。
沙良の硬い声。
全部が「私はここにいてはいけない」に見える。
私は取っ手を引いた。
扉が静かに開く。
紙の匂いが、少しだけ息を楽にする。
……でも、今日の図書室は、違った。
カウンターの前に、先生が立っている。
図書担当の先生と、学年主任。
そして、佐伯先輩。腕章をつけて、背筋を伸ばしている。
まるで、私を待っていたみたいに。
(終わりだ)
心臓が縮む。
“明日正式に”の匂いが、もう目の前だ。
私は一歩入って、すぐに止まった。
先生たちの視線が集まる。
図書室の静けさが、私を中央に立たせる。
「紬」
図書担当の先生が言った。
その声は昨日よりも、少しだけ柔らかい。
「沙良から聞いた。台帳で照合したいって」
私は喉を鳴らして頷く。
言葉にする前に、学年主任が続けた。
「君が“触らない条件”で、こちらが確認した」
私は目を瞬いた。
触らない条件。
確認した。
――つまり、もう照合した。
鼓膜の内側が、ざわっとする。
結果が出た。
出たのに、先生はすぐに言わない。
それがいちばん怖い。
佐伯先輩が口を開いた。
「……あの紙は、撤回する」
撤回。
その単語が、私の耳に入るまでに時間がかかった。
撤回って、何を。
二枚目? 私の名前? 遼の影?
佐伯先輩は続ける。
いつもの“正しさ”の声じゃない。少し、硬さが崩れている。
「控え台帳の借り手名は……紬じゃなかった」
私の胸の奥で、何かがパキ、と割れた。
氷みたいなものが割れる音。
「だから、カードの欠落が『紬』だとしても、それは台帳と矛盾する。矛盾は、改ざんの証拠になる」
佐伯先輩がそう言う。
“証拠”。
その言葉が、初めて私の味方の形で出てきた。
学年主任が、短く補足する。
「台帳では、借り手は別名だ。君の名前は記録に残っていない。つまり、少なくとも『紬が借りた→自分で消した』は成立しない」
成立しない。
その断言が、喉に詰まっていた何かを少しだけ溶かした。
私は息を吸った。
白い息が出るほどではないけれど、胸の奥が軽くなる。
(嫌われた、じゃない?)
でもまだ、安心できなかった。
矛盾が証拠なら、誰かの意図が確定する。
その意図は、私を守る意図なのか、私を落とす意図なのか。
図書担当の先生が、机の上の紙を私に見せた。
コピーではない。先生の手書きのメモ。
日付と書名、そして台帳の借り手名が伏せて書かれている。
「これは正式な書類じゃない。個人名は出せない。でも、結論だけ言う」
先生は私を見る。
「カードの欠落行は、“君の名前を削った痕”の可能性が高い。君の筆圧に近い残像があったという話も、辻褄が合う」
私は喉が震えた。
辻褄が合う。
――つまり、私の名前は最初から“そこにあった”。
あったものを、誰かが消した。
学年主任が、いつもより低い声で言った。
「君は、守られた可能性がある」
守られた。
その言葉は、遼のページの一文と同じ匂いがした。
守ることは、黙ることに似ている。
昨日まで私は、嫌われたと思っていた。
告発文は私を刺した。
噂は私を削った。
でも今、先生の口から出たのは「守られた可能性」。
それは、世界の反転だった。
(私の名前が消されたのは、私を落とすためじゃなくて――)
私の視線が、入口の方へ滑る。
遼が一瞬だけ現れて消えた、あの扉。
遼の歩幅。
遼の封筒。
遼の栞。
守るために消した?
守るために黙った?
巻き込まれなくていい――あれは私に向けた言葉じゃなく、彼自身への命令だったのかもしれない。
心臓が、少しだけ柔らかく跳ねた。
柔らかい跳ね方が、怖い。
恋の形に似ているから。
佐伯先輩が私の方へ一歩近づき、頭を下げた。
深くはない。けれど、確かに下げた。
「……ごめん。私は、図書室を守るつもりで……君を刺した」
謝罪の言葉が、痛いほど真っ直ぐだった。
正しさの人が、正しさで暴走した自分を認めている。
私は首を振った。
許すとか許さないとか、今は言えない。
でも一つだけは言える。
「……先輩、紙、剥がしてください」
佐伯先輩が頷いた。
それは撤回の始まりだ。
貼られたままの世界を、戻す最初の動き。
図書担当の先生が、私に向けて最後に言った。
「今日、正式に話す。君の処分の話は止める。その代わり――この件は、学校として“誰がどうやったか”を調べる」
止める。
処分を止める。
その一言が、校庭で嗅いだ匂いを消した。
私の肩から、見えない荷物がひとつ落ちた気がした。
落ちても、まだ残っている。
遼の不在。
削った手。
残った筆圧。
そして、守られたという反転の意味。
入口の扉が、背後でわずかに鳴った。
誰かが外を通っただけの音。
それなのに、私は一瞬、遼だと思ってしまった。
嫌われた、と思っていた。
でも違う。
嫌われたんじゃなく――守られるために、嫌われたふりをさせられたのかもしれない。
私は扉の方を見て、心の中で小さく言った。
(遼、あなたはどこまで一人で背負ってるの)
そして、机の上の栞の束を、鞄の中でそっと握り直した。
守られたなら、次は私が守る番だ。
“残り方”を、私が選び直す番だ。
扉の前に立つだけで、廊下の空気が変わる。
誰かが息を止め、誰かが視線を外し、誰かが笑う。
「……来た」
小さな声が、背中に刺さる。
その声には名前が入っていないのに、私だと分かる。
私は扉の取っ手に手をかけた。
冷たい金属。
冷たさが、昨日の紙片の凹みを思い出させる。
(嫌われた)
そう思うのは簡単だった。
告発文の二枚目。
廊下の噂。
味方だったはずの真帆の揺れた目。
沙良の硬い声。
全部が「私はここにいてはいけない」に見える。
私は取っ手を引いた。
扉が静かに開く。
紙の匂いが、少しだけ息を楽にする。
……でも、今日の図書室は、違った。
カウンターの前に、先生が立っている。
図書担当の先生と、学年主任。
そして、佐伯先輩。腕章をつけて、背筋を伸ばしている。
まるで、私を待っていたみたいに。
(終わりだ)
心臓が縮む。
“明日正式に”の匂いが、もう目の前だ。
私は一歩入って、すぐに止まった。
先生たちの視線が集まる。
図書室の静けさが、私を中央に立たせる。
「紬」
図書担当の先生が言った。
その声は昨日よりも、少しだけ柔らかい。
「沙良から聞いた。台帳で照合したいって」
私は喉を鳴らして頷く。
言葉にする前に、学年主任が続けた。
「君が“触らない条件”で、こちらが確認した」
私は目を瞬いた。
触らない条件。
確認した。
――つまり、もう照合した。
鼓膜の内側が、ざわっとする。
結果が出た。
出たのに、先生はすぐに言わない。
それがいちばん怖い。
佐伯先輩が口を開いた。
「……あの紙は、撤回する」
撤回。
その単語が、私の耳に入るまでに時間がかかった。
撤回って、何を。
二枚目? 私の名前? 遼の影?
佐伯先輩は続ける。
いつもの“正しさ”の声じゃない。少し、硬さが崩れている。
「控え台帳の借り手名は……紬じゃなかった」
私の胸の奥で、何かがパキ、と割れた。
氷みたいなものが割れる音。
「だから、カードの欠落が『紬』だとしても、それは台帳と矛盾する。矛盾は、改ざんの証拠になる」
佐伯先輩がそう言う。
“証拠”。
その言葉が、初めて私の味方の形で出てきた。
学年主任が、短く補足する。
「台帳では、借り手は別名だ。君の名前は記録に残っていない。つまり、少なくとも『紬が借りた→自分で消した』は成立しない」
成立しない。
その断言が、喉に詰まっていた何かを少しだけ溶かした。
私は息を吸った。
白い息が出るほどではないけれど、胸の奥が軽くなる。
(嫌われた、じゃない?)
でもまだ、安心できなかった。
矛盾が証拠なら、誰かの意図が確定する。
その意図は、私を守る意図なのか、私を落とす意図なのか。
図書担当の先生が、机の上の紙を私に見せた。
コピーではない。先生の手書きのメモ。
日付と書名、そして台帳の借り手名が伏せて書かれている。
「これは正式な書類じゃない。個人名は出せない。でも、結論だけ言う」
先生は私を見る。
「カードの欠落行は、“君の名前を削った痕”の可能性が高い。君の筆圧に近い残像があったという話も、辻褄が合う」
私は喉が震えた。
辻褄が合う。
――つまり、私の名前は最初から“そこにあった”。
あったものを、誰かが消した。
学年主任が、いつもより低い声で言った。
「君は、守られた可能性がある」
守られた。
その言葉は、遼のページの一文と同じ匂いがした。
守ることは、黙ることに似ている。
昨日まで私は、嫌われたと思っていた。
告発文は私を刺した。
噂は私を削った。
でも今、先生の口から出たのは「守られた可能性」。
それは、世界の反転だった。
(私の名前が消されたのは、私を落とすためじゃなくて――)
私の視線が、入口の方へ滑る。
遼が一瞬だけ現れて消えた、あの扉。
遼の歩幅。
遼の封筒。
遼の栞。
守るために消した?
守るために黙った?
巻き込まれなくていい――あれは私に向けた言葉じゃなく、彼自身への命令だったのかもしれない。
心臓が、少しだけ柔らかく跳ねた。
柔らかい跳ね方が、怖い。
恋の形に似ているから。
佐伯先輩が私の方へ一歩近づき、頭を下げた。
深くはない。けれど、確かに下げた。
「……ごめん。私は、図書室を守るつもりで……君を刺した」
謝罪の言葉が、痛いほど真っ直ぐだった。
正しさの人が、正しさで暴走した自分を認めている。
私は首を振った。
許すとか許さないとか、今は言えない。
でも一つだけは言える。
「……先輩、紙、剥がしてください」
佐伯先輩が頷いた。
それは撤回の始まりだ。
貼られたままの世界を、戻す最初の動き。
図書担当の先生が、私に向けて最後に言った。
「今日、正式に話す。君の処分の話は止める。その代わり――この件は、学校として“誰がどうやったか”を調べる」
止める。
処分を止める。
その一言が、校庭で嗅いだ匂いを消した。
私の肩から、見えない荷物がひとつ落ちた気がした。
落ちても、まだ残っている。
遼の不在。
削った手。
残った筆圧。
そして、守られたという反転の意味。
入口の扉が、背後でわずかに鳴った。
誰かが外を通っただけの音。
それなのに、私は一瞬、遼だと思ってしまった。
嫌われた、と思っていた。
でも違う。
嫌われたんじゃなく――守られるために、嫌われたふりをさせられたのかもしれない。
私は扉の方を見て、心の中で小さく言った。
(遼、あなたはどこまで一人で背負ってるの)
そして、机の上の栞の束を、鞄の中でそっと握り直した。
守られたなら、次は私が守る番だ。
“残り方”を、私が選び直す番だ。


