家に帰るまで、ハンカチの中の紙片がずっと熱かった。
熱いはずがないのに。
指先に触れるたび、あの凹み――筆圧の残像が、私の神経を起こした。
机に鞄を置いて、真っ先にノートを開く。
ページの隙間から、栞の白がのぞく。
37、112、58、201、243。
遼の導線が、紙の束の形でそこにある。
でも今日、私が追うのは“ページ”じゃない。
欠落。
削られた一行。
その一行が、何だったのか。
私はハンカチをほどき、小さな紙片を机に置いた。
明かりはスタンドライトだけにする。
窓の外の暗さが、机の上の白を際立たせた。
紙片の凹みを、角度を変えながら見る。
光が斜めに当たると、線が浮き上がる。
読めない。読めないのに、“形”だけは見える。
(……字だ)
線の曲がり方。止まり方。
書き始めの迷いのなさ。
そして、途中で一度だけ強く沈む点。
私は自分のノートの端に、鉛筆で「紬」と書いた。
普段と同じ癖で。考えないで。
書き終えたとき、自分の字をじっと見て、少しだけ嫌になる。
今日だけは、味方にも敵にも見えるから。
次に、同じ「紬」をもう一度書く。
今度は少し意識して、筆圧を変えてみる。
軽く。強く。速く。遅く。
紙片の凹みと、机の上の「紬」を見比べる。
一致するところが、増えていく。
特に――「紬」の“つ”の最初。
私の“つ”は、入りが少し尖る。
丸く入らない。
そして線が短く、すぐに丸く閉じずに、わずかに引っ張る癖がある。
紙片の凹みも、同じだ。
尖って入って、少しだけ引っ張っている。
喉の奥が冷たくなった。
(……私の字だ)
違う。違う。
“私が書いた”とは限らない。
でも、“私の名前の形”が、そこにあった可能性が跳ね上がる。
私は机の引き出しから、薄い紙――トレーシングペーパーの代わりになる半透明のメモを取り出した。
紙片の上に重ね、指先でそっとなぞる。
凹みの線を、写し取るように。
鉛筆は使わない。
鉛筆で線をなぞったら、私の筆圧が上書きされる。
今日は、上書きが怖い。
なぞっていくうちに、凹みの輪郭が私の指先に伝わる。
直線じゃない。曲線。
途中に小さな跳ねがある。
そして最後に、横へ流れる線。
「つ」「む」「ぎ」……。
私は手を止めた。
指先が痺れている。
今、私は“読めないもの”を読んでしまいそうになっている。
(冷静に)
そう言い聞かせて、私は別の角度から攻めた。
“欠落が紬の名だった可能性”を確信へ寄せるには、形だけじゃ弱い。
必要なのは、欠落が「名前欄」で起きたという事実と、その欄が誰の字で埋まる仕組み。
貸出カードの名前欄は、借りた本人が書く。
当番が書くんじゃない。
だから――もしそこに私の字で「紬」があったなら、理屈は二つしかない。
私が借りた(=私は嘘をついている)
誰かが私の字で「紬」と書いた(=なりすまし/誘導)
私はペンを持つ手が震えるのを押さえながら、ノートに二つを書いた。
そしてその下に、大きく三つ目を書いた。
私の字に“似せた”(=偽装)
三つ目を書いた瞬間、胸の奥に薄い痛みが走った。
似せた、という可能性が現実味を帯びるのが怖い。
でも、考えないと進まない。
私は栞の束を見た。
欠落日と本が揃っている。
そして台帳(控え)が存在する。
(照合すれば、借り手は確定する)
台帳の借り手が「紬」だったら?
私の字の「紬」が書かれていた可能性は、ほぼ確定する。
ただし、その時点で私が疑われる材料にもなる。
でも逆に言えば、台帳の借り手が「紬」じゃなかったら?
――カードの欠落が「紬」だったとしても、台帳と矛盾する。
矛盾は、偽装の証拠になる。
私はノートの端に、遼の言葉を思い出すように書いた。
記録は真実ではない。
だが、真実は記録に残る。
残り方は、選ばれる。
紙片の凹みは、残り方の“失敗”だ。
消したつもりでも、圧は残る。
残った圧が、私の字癖に近い。
その事実が、もう一段深い意味を帯びた。
(削った人は、“名前”が私である必要があった)
告発文が私を指すのは、噂の都合だ。
でもカードから削ったのは、“記録”の都合だ。
記録の都合で私の名前が必要だったなら――誰かは最初から、私に罪を背負わせるつもりだった。
ここで、息が止まった。
怖いのは、推理が当たることじゃない。
当たった推理が、私の世界を変えてしまうことだ。
私は紙片をそっとハンカチに戻した。
強く握りしめるのはやめた。
握りしめたら、私の指の圧がまた残像を塗り替える気がした。
そしてスマホのメモを開き、短く、決定だけを書いた。
「欠落=紬」可能性:高(筆圧残像が字癖に近い)
ただし証明は形ではなく台帳照合で
台帳借り手が紬なら:なりすまし/誘導の線で反撃
台帳借り手が別名なら:カード欠落の偽装確定
書き終えた瞬間、胸の奥のざわめきが少しだけ整理された。
怖さが消えたわけじゃない。
でも怖さが「形」になった。
私は椅子に深く座り直し、机の上の栞の束を、もう一度順番に重ねた。
37から、ちゃんと。
最後に、行く。
その途中に、私の名前があるなら――私は逃げない。
欠落は紬の名だった可能性。
それは、疑いじゃなく、もう確信に近い仮説になった。
残るのは、照合。
消せない線で、終わらせる。
熱いはずがないのに。
指先に触れるたび、あの凹み――筆圧の残像が、私の神経を起こした。
机に鞄を置いて、真っ先にノートを開く。
ページの隙間から、栞の白がのぞく。
37、112、58、201、243。
遼の導線が、紙の束の形でそこにある。
でも今日、私が追うのは“ページ”じゃない。
欠落。
削られた一行。
その一行が、何だったのか。
私はハンカチをほどき、小さな紙片を机に置いた。
明かりはスタンドライトだけにする。
窓の外の暗さが、机の上の白を際立たせた。
紙片の凹みを、角度を変えながら見る。
光が斜めに当たると、線が浮き上がる。
読めない。読めないのに、“形”だけは見える。
(……字だ)
線の曲がり方。止まり方。
書き始めの迷いのなさ。
そして、途中で一度だけ強く沈む点。
私は自分のノートの端に、鉛筆で「紬」と書いた。
普段と同じ癖で。考えないで。
書き終えたとき、自分の字をじっと見て、少しだけ嫌になる。
今日だけは、味方にも敵にも見えるから。
次に、同じ「紬」をもう一度書く。
今度は少し意識して、筆圧を変えてみる。
軽く。強く。速く。遅く。
紙片の凹みと、机の上の「紬」を見比べる。
一致するところが、増えていく。
特に――「紬」の“つ”の最初。
私の“つ”は、入りが少し尖る。
丸く入らない。
そして線が短く、すぐに丸く閉じずに、わずかに引っ張る癖がある。
紙片の凹みも、同じだ。
尖って入って、少しだけ引っ張っている。
喉の奥が冷たくなった。
(……私の字だ)
違う。違う。
“私が書いた”とは限らない。
でも、“私の名前の形”が、そこにあった可能性が跳ね上がる。
私は机の引き出しから、薄い紙――トレーシングペーパーの代わりになる半透明のメモを取り出した。
紙片の上に重ね、指先でそっとなぞる。
凹みの線を、写し取るように。
鉛筆は使わない。
鉛筆で線をなぞったら、私の筆圧が上書きされる。
今日は、上書きが怖い。
なぞっていくうちに、凹みの輪郭が私の指先に伝わる。
直線じゃない。曲線。
途中に小さな跳ねがある。
そして最後に、横へ流れる線。
「つ」「む」「ぎ」……。
私は手を止めた。
指先が痺れている。
今、私は“読めないもの”を読んでしまいそうになっている。
(冷静に)
そう言い聞かせて、私は別の角度から攻めた。
“欠落が紬の名だった可能性”を確信へ寄せるには、形だけじゃ弱い。
必要なのは、欠落が「名前欄」で起きたという事実と、その欄が誰の字で埋まる仕組み。
貸出カードの名前欄は、借りた本人が書く。
当番が書くんじゃない。
だから――もしそこに私の字で「紬」があったなら、理屈は二つしかない。
私が借りた(=私は嘘をついている)
誰かが私の字で「紬」と書いた(=なりすまし/誘導)
私はペンを持つ手が震えるのを押さえながら、ノートに二つを書いた。
そしてその下に、大きく三つ目を書いた。
私の字に“似せた”(=偽装)
三つ目を書いた瞬間、胸の奥に薄い痛みが走った。
似せた、という可能性が現実味を帯びるのが怖い。
でも、考えないと進まない。
私は栞の束を見た。
欠落日と本が揃っている。
そして台帳(控え)が存在する。
(照合すれば、借り手は確定する)
台帳の借り手が「紬」だったら?
私の字の「紬」が書かれていた可能性は、ほぼ確定する。
ただし、その時点で私が疑われる材料にもなる。
でも逆に言えば、台帳の借り手が「紬」じゃなかったら?
――カードの欠落が「紬」だったとしても、台帳と矛盾する。
矛盾は、偽装の証拠になる。
私はノートの端に、遼の言葉を思い出すように書いた。
記録は真実ではない。
だが、真実は記録に残る。
残り方は、選ばれる。
紙片の凹みは、残り方の“失敗”だ。
消したつもりでも、圧は残る。
残った圧が、私の字癖に近い。
その事実が、もう一段深い意味を帯びた。
(削った人は、“名前”が私である必要があった)
告発文が私を指すのは、噂の都合だ。
でもカードから削ったのは、“記録”の都合だ。
記録の都合で私の名前が必要だったなら――誰かは最初から、私に罪を背負わせるつもりだった。
ここで、息が止まった。
怖いのは、推理が当たることじゃない。
当たった推理が、私の世界を変えてしまうことだ。
私は紙片をそっとハンカチに戻した。
強く握りしめるのはやめた。
握りしめたら、私の指の圧がまた残像を塗り替える気がした。
そしてスマホのメモを開き、短く、決定だけを書いた。
「欠落=紬」可能性:高(筆圧残像が字癖に近い)
ただし証明は形ではなく台帳照合で
台帳借り手が紬なら:なりすまし/誘導の線で反撃
台帳借り手が別名なら:カード欠落の偽装確定
書き終えた瞬間、胸の奥のざわめきが少しだけ整理された。
怖さが消えたわけじゃない。
でも怖さが「形」になった。
私は椅子に深く座り直し、机の上の栞の束を、もう一度順番に重ねた。
37から、ちゃんと。
最後に、行く。
その途中に、私の名前があるなら――私は逃げない。
欠落は紬の名だった可能性。
それは、疑いじゃなく、もう確信に近い仮説になった。
残るのは、照合。
消せない線で、終わらせる。


