栞が繋ぐ一行体験――3冊のページで、告白を完成させる

翌朝の図書室は、いつもより明るいのに、息が詰まった。
窓から入る光が机の角を白く浮かせる。背表紙の列は整っている。返却ボックスも静か。
――全部、見た目だけは「普通」だ。

私だけが普通じゃない。

当番は外されているから、カウンターの内側には入れない。
それでも私は昼休み、図書室に来た。
来ないと、今日“正式に”進む何かに、私は置いていかれる。

窓際の席。遼の席。
そこに近づくのは、もう癖みたいになっていた。

机の上には何もない。
昨日の封筒も、もうない。
あるのは、木目の細い線と、薄い傷と、光の反射だけ。

私はノートを膝に乗せ、深呼吸した。
そして、鞄の中からそっと取り出したものを見た。

返却ボックスで拾った小さな紙片。
ハンカチに包んで、ずっと持っていた。
規則の中で、ぎりぎり“持っていていいのか分からない”もの。
でもこれが、私の手の中に残った唯一の“物”だった。

机の影に隠すように、紙片をそっと出す。
白い繊維。ギザギザの端。
そして――角度を変えると見える、かすかな凹み。

筆圧の残像。

光に当てると、凹みの線が浮く。
文字ではない。読めるほどくっきりじゃない。
けれど「何かを書いた痕」が、確かにある。

私はそれを見つめているうちに、急に喉が渇いた。

(……似てる)

思いたくないのに、思ってしまう。
筆圧の癖。
線の入り方。
強く押す場所と、抜く場所。

私は自分のノートを開いた。
授業のメモ。提出用の下書き。
何でもいい。私の字があるページを探す。

ページの端に、私が無意識に書いた数字があった。
“2”の払い。
“木”の横線の長さ。
“ふ”の丸み。

私は紙片の凹みを、目でなぞる。
凹みの曲がり方が、私の“2”の払いに似ている。
線が迷わず落ちる角度が、私の“つ”の入り方に近い。

背中がぞくっとした。
寒いんじゃない。
自分の中の地面が、少し沈む感覚。

(私の字癖……?)

つまり。
削られた名前は――私の名前だった可能性が高い。
当たり前だ。告発文は私を指している。
でも、当たり前のはずのことが、今は別の意味を持つ。

“書いた人”が私だった可能性ではない。
“書かれていた名前”が私の字だった可能性。

貸出カードの名前欄は、借りた人が書く。
当番が書くんじゃない。
借りた本人が書く。
――その仕組みを、私は知っている。

もし筆圧が私の字癖に近いなら。
その日、その本を借りたのは「私」だったことになる。

でも、私は借りていない。
あの三日――2/13、2/14、2/15。
私は確かに図書室にいた日もあるけれど、あの三冊を借りた覚えはない。

「借りた本人の字で、私の名前が書かれていた」
それを誰かが削った。

……何のために?

私の指先が震えた。
紙片を落としそうになって、慌てて指に力を入れる。

(私の名前が、私の字で書かれていたなら)

それは、告発文の「紬が改ざんした」よりずっと嫌な形だった。
“自作自演”の匂いに変わるから。
誰かがそう言い始めたら、私は終わる。
「ほら、本人の字じゃん」で終わる。

違う。
違うのに、筆圧の残像が私に似ている。

そのとき、図書室の入口でドアが小さく鳴った。
誰かが入ってきた音。
私は反射で紙片をハンカチに包み、ノートを閉じた。

足音が近づく。
沙良だった。腕章をつけていない。今日は当番じゃないらしい。
彼女は私の前で少し迷ってから、声を落とした。

「……紬、ここにいた」

責める声じゃない。
でも、安心する声でもない。
“確認”の声。

「沙良……」

「先生が、午後にもう一回“正式に”話すって。学年主任と……佐伯先輩も来るかもって」

来るかも。
その言い方が、ほぼ決まっている言い方だ。

私は頷いて、喉の奥の痛みを飲み込んだ。
机の下で、ハンカチに包んだ紙片を握りしめる。

(これを見せたら、どうなる)

物的痕跡。筆圧。字癖。
出した瞬間、私を助けるか、私を刺すか、分からない。
でも――黙っていたら確実に刺される。
佐伯先輩の二枚目の告発文は、もう“刺す準備”ができている。

私はゆっくり息を吸って、沙良を見た。

「……私、確認したいことがある」

沙良が目を瞬く。

「台帳で照合してほしい。2/13、2/14、2/15。あの三冊。控え台帳の借り手名。先生に、お願いできる?」

沙良は一瞬ためらって、でも小さく頷いた。

「……言ってみる。先生、紬が“触らない条件”ならって言うかも」

「うん。それでいい」

私は立ち上がった。
窓際の席の木目が、さっきよりはっきり見える。
遼の不在が、今日も刺さる。
でも、刺さる痛みは、決意にも変わる。

ハンカチの中の紙片が、指先でかすかに鳴った。
筆圧の残像が、私の字癖に近い――。

それは怖い。
でも同時に、道でもある。

“誰かが私の字で私の名前を書かせた”のか、
“私の字に似せた”のか。
どちらにせよ、やったのは私じゃない。
そこを、照合で割るしかない。

私はノートを鞄にしまい、沙良に小さく言った。

「今日、終わらせる。正式に、って言うなら――私も正式に、照合で返す」