翌朝の図書室は、いつもより明るいのに、息が詰まった。
窓から入る光が机の角を白く浮かせる。背表紙の列は整っている。返却ボックスも静か。
――全部、見た目だけは「普通」だ。
私だけが普通じゃない。
当番は外されているから、カウンターの内側には入れない。
それでも私は昼休み、図書室に来た。
来ないと、今日“正式に”進む何かに、私は置いていかれる。
窓際の席。遼の席。
そこに近づくのは、もう癖みたいになっていた。
机の上には何もない。
昨日の封筒も、もうない。
あるのは、木目の細い線と、薄い傷と、光の反射だけ。
私はノートを膝に乗せ、深呼吸した。
そして、鞄の中からそっと取り出したものを見た。
返却ボックスで拾った小さな紙片。
ハンカチに包んで、ずっと持っていた。
規則の中で、ぎりぎり“持っていていいのか分からない”もの。
でもこれが、私の手の中に残った唯一の“物”だった。
机の影に隠すように、紙片をそっと出す。
白い繊維。ギザギザの端。
そして――角度を変えると見える、かすかな凹み。
筆圧の残像。
光に当てると、凹みの線が浮く。
文字ではない。読めるほどくっきりじゃない。
けれど「何かを書いた痕」が、確かにある。
私はそれを見つめているうちに、急に喉が渇いた。
(……似てる)
思いたくないのに、思ってしまう。
筆圧の癖。
線の入り方。
強く押す場所と、抜く場所。
私は自分のノートを開いた。
授業のメモ。提出用の下書き。
何でもいい。私の字があるページを探す。
ページの端に、私が無意識に書いた数字があった。
“2”の払い。
“木”の横線の長さ。
“ふ”の丸み。
私は紙片の凹みを、目でなぞる。
凹みの曲がり方が、私の“2”の払いに似ている。
線が迷わず落ちる角度が、私の“つ”の入り方に近い。
背中がぞくっとした。
寒いんじゃない。
自分の中の地面が、少し沈む感覚。
(私の字癖……?)
つまり。
削られた名前は――私の名前だった可能性が高い。
当たり前だ。告発文は私を指している。
でも、当たり前のはずのことが、今は別の意味を持つ。
“書いた人”が私だった可能性ではない。
“書かれていた名前”が私の字だった可能性。
貸出カードの名前欄は、借りた人が書く。
当番が書くんじゃない。
借りた本人が書く。
――その仕組みを、私は知っている。
もし筆圧が私の字癖に近いなら。
その日、その本を借りたのは「私」だったことになる。
でも、私は借りていない。
あの三日――2/13、2/14、2/15。
私は確かに図書室にいた日もあるけれど、あの三冊を借りた覚えはない。
「借りた本人の字で、私の名前が書かれていた」
それを誰かが削った。
……何のために?
私の指先が震えた。
紙片を落としそうになって、慌てて指に力を入れる。
(私の名前が、私の字で書かれていたなら)
それは、告発文の「紬が改ざんした」よりずっと嫌な形だった。
“自作自演”の匂いに変わるから。
誰かがそう言い始めたら、私は終わる。
「ほら、本人の字じゃん」で終わる。
違う。
違うのに、筆圧の残像が私に似ている。
そのとき、図書室の入口でドアが小さく鳴った。
誰かが入ってきた音。
私は反射で紙片をハンカチに包み、ノートを閉じた。
足音が近づく。
沙良だった。腕章をつけていない。今日は当番じゃないらしい。
彼女は私の前で少し迷ってから、声を落とした。
「……紬、ここにいた」
責める声じゃない。
でも、安心する声でもない。
“確認”の声。
「沙良……」
「先生が、午後にもう一回“正式に”話すって。学年主任と……佐伯先輩も来るかもって」
来るかも。
その言い方が、ほぼ決まっている言い方だ。
私は頷いて、喉の奥の痛みを飲み込んだ。
机の下で、ハンカチに包んだ紙片を握りしめる。
(これを見せたら、どうなる)
物的痕跡。筆圧。字癖。
出した瞬間、私を助けるか、私を刺すか、分からない。
でも――黙っていたら確実に刺される。
佐伯先輩の二枚目の告発文は、もう“刺す準備”ができている。
私はゆっくり息を吸って、沙良を見た。
「……私、確認したいことがある」
沙良が目を瞬く。
「台帳で照合してほしい。2/13、2/14、2/15。あの三冊。控え台帳の借り手名。先生に、お願いできる?」
沙良は一瞬ためらって、でも小さく頷いた。
「……言ってみる。先生、紬が“触らない条件”ならって言うかも」
「うん。それでいい」
私は立ち上がった。
窓際の席の木目が、さっきよりはっきり見える。
遼の不在が、今日も刺さる。
でも、刺さる痛みは、決意にも変わる。
ハンカチの中の紙片が、指先でかすかに鳴った。
筆圧の残像が、私の字癖に近い――。
それは怖い。
でも同時に、道でもある。
“誰かが私の字で私の名前を書かせた”のか、
“私の字に似せた”のか。
どちらにせよ、やったのは私じゃない。
そこを、照合で割るしかない。
私はノートを鞄にしまい、沙良に小さく言った。
「今日、終わらせる。正式に、って言うなら――私も正式に、照合で返す」
窓から入る光が机の角を白く浮かせる。背表紙の列は整っている。返却ボックスも静か。
――全部、見た目だけは「普通」だ。
私だけが普通じゃない。
当番は外されているから、カウンターの内側には入れない。
それでも私は昼休み、図書室に来た。
来ないと、今日“正式に”進む何かに、私は置いていかれる。
窓際の席。遼の席。
そこに近づくのは、もう癖みたいになっていた。
机の上には何もない。
昨日の封筒も、もうない。
あるのは、木目の細い線と、薄い傷と、光の反射だけ。
私はノートを膝に乗せ、深呼吸した。
そして、鞄の中からそっと取り出したものを見た。
返却ボックスで拾った小さな紙片。
ハンカチに包んで、ずっと持っていた。
規則の中で、ぎりぎり“持っていていいのか分からない”もの。
でもこれが、私の手の中に残った唯一の“物”だった。
机の影に隠すように、紙片をそっと出す。
白い繊維。ギザギザの端。
そして――角度を変えると見える、かすかな凹み。
筆圧の残像。
光に当てると、凹みの線が浮く。
文字ではない。読めるほどくっきりじゃない。
けれど「何かを書いた痕」が、確かにある。
私はそれを見つめているうちに、急に喉が渇いた。
(……似てる)
思いたくないのに、思ってしまう。
筆圧の癖。
線の入り方。
強く押す場所と、抜く場所。
私は自分のノートを開いた。
授業のメモ。提出用の下書き。
何でもいい。私の字があるページを探す。
ページの端に、私が無意識に書いた数字があった。
“2”の払い。
“木”の横線の長さ。
“ふ”の丸み。
私は紙片の凹みを、目でなぞる。
凹みの曲がり方が、私の“2”の払いに似ている。
線が迷わず落ちる角度が、私の“つ”の入り方に近い。
背中がぞくっとした。
寒いんじゃない。
自分の中の地面が、少し沈む感覚。
(私の字癖……?)
つまり。
削られた名前は――私の名前だった可能性が高い。
当たり前だ。告発文は私を指している。
でも、当たり前のはずのことが、今は別の意味を持つ。
“書いた人”が私だった可能性ではない。
“書かれていた名前”が私の字だった可能性。
貸出カードの名前欄は、借りた人が書く。
当番が書くんじゃない。
借りた本人が書く。
――その仕組みを、私は知っている。
もし筆圧が私の字癖に近いなら。
その日、その本を借りたのは「私」だったことになる。
でも、私は借りていない。
あの三日――2/13、2/14、2/15。
私は確かに図書室にいた日もあるけれど、あの三冊を借りた覚えはない。
「借りた本人の字で、私の名前が書かれていた」
それを誰かが削った。
……何のために?
私の指先が震えた。
紙片を落としそうになって、慌てて指に力を入れる。
(私の名前が、私の字で書かれていたなら)
それは、告発文の「紬が改ざんした」よりずっと嫌な形だった。
“自作自演”の匂いに変わるから。
誰かがそう言い始めたら、私は終わる。
「ほら、本人の字じゃん」で終わる。
違う。
違うのに、筆圧の残像が私に似ている。
そのとき、図書室の入口でドアが小さく鳴った。
誰かが入ってきた音。
私は反射で紙片をハンカチに包み、ノートを閉じた。
足音が近づく。
沙良だった。腕章をつけていない。今日は当番じゃないらしい。
彼女は私の前で少し迷ってから、声を落とした。
「……紬、ここにいた」
責める声じゃない。
でも、安心する声でもない。
“確認”の声。
「沙良……」
「先生が、午後にもう一回“正式に”話すって。学年主任と……佐伯先輩も来るかもって」
来るかも。
その言い方が、ほぼ決まっている言い方だ。
私は頷いて、喉の奥の痛みを飲み込んだ。
机の下で、ハンカチに包んだ紙片を握りしめる。
(これを見せたら、どうなる)
物的痕跡。筆圧。字癖。
出した瞬間、私を助けるか、私を刺すか、分からない。
でも――黙っていたら確実に刺される。
佐伯先輩の二枚目の告発文は、もう“刺す準備”ができている。
私はゆっくり息を吸って、沙良を見た。
「……私、確認したいことがある」
沙良が目を瞬く。
「台帳で照合してほしい。2/13、2/14、2/15。あの三冊。控え台帳の借り手名。先生に、お願いできる?」
沙良は一瞬ためらって、でも小さく頷いた。
「……言ってみる。先生、紬が“触らない条件”ならって言うかも」
「うん。それでいい」
私は立ち上がった。
窓際の席の木目が、さっきよりはっきり見える。
遼の不在が、今日も刺さる。
でも、刺さる痛みは、決意にも変わる。
ハンカチの中の紙片が、指先でかすかに鳴った。
筆圧の残像が、私の字癖に近い――。
それは怖い。
でも同時に、道でもある。
“誰かが私の字で私の名前を書かせた”のか、
“私の字に似せた”のか。
どちらにせよ、やったのは私じゃない。
そこを、照合で割るしかない。
私はノートを鞄にしまい、沙良に小さく言った。
「今日、終わらせる。正式に、って言うなら――私も正式に、照合で返す」


