閉館の五分前。
図書室の蛍光灯が、いつもより白く冷たく見えた。
人はもうほとんどいない。
放課後のざわめきは校舎の外へ流れて、残っているのは返却ボックスの蓋が揺れる小さな音と、時計の秒針だけ。
「調査中」のせいで閉館が早まってから、図書室は夜に近づくのが早い。
私はカウンターの外側――“当番じゃない席”に座っていた。
当番を外されているから、私は片付けにも触れられない。
触れられないのに、見届けることしかできないのが、逆にきつい。
沙良が返却本の山を整えながら、何度もこちらを振り返る。
心配、というより監視に近い視線。
彼女を責められない。私が“疑われている”という状況そのものが、周りを変えてしまう。
そのとき、図書室のドアが開いた。
――遼じゃない。
入ってきたのは、三年の佐伯先輩だった。
司書委員長。腕章はきっちり。手には薄いファイル。
歩き方も、視線の置き方も、“規則”みたいに迷いがない。
「佐伯先輩?」
沙良が声を上げる。
先輩は小さく頷くだけで、カウンターも私も見ないまま、掲示板の方へ直進した。
図書室の奥、入り口付近にある小さな掲示板。
新刊案内、当番表、返却の注意。
“図書室は清潔に”――そういう正しさが貼られている場所。
佐伯先輩の手が、掲示板のコルクに触れた。
カチ、という音。
ピンを刺す音。
私は背筋が凍った。
この時間に、掲示板に何か貼る理由がない。
閉館間際。人のいない時間。
一番、紙が刺さる時間。
「先輩、それ……」
沙良が近づこうとして、止まる。
止まるのは、先輩の背中が“触るな”と言っているからだ。
佐伯先輩は貼り終えると、ようやくこちらを向いた。
目が、乾いている。
正しさに熱がない。熱がないのに、怖い。
「見て」
先輩は短く言った。
命令に近い。
私は立ち上がり、数歩だけ近づいた。
心臓が音を立てる。
嫌な予感が、確信になっていく。
掲示板に貼られた紙は、二枚。
一枚目は、見覚えのある形式――【告発】の見出し。
二枚目は、表みたいなもの。日付と書名と、空白の欄。
“控え台帳の記録”と書かれている。
私は一枚目の本文を読んだ。
【追加告発】
先日の貸出記録改ざんについて、状況証拠が揃いました。
貸出カードの欠落行は、2/13(木)・2/14(金)・2/15(土)。
該当日、該当書籍を借りた記録が「控え台帳」に残っています。
しかし、貸出カードには借り手が存在しません。
これは意図的な改ざんです。
また、複数の書籍に同一手口の剥がし跡が確認されました。
図書室の信用を守るため、関係者は速やかに名乗り出るべきです。
改ざんに関与した可能性が高いのは
司書委員であり、当番として貸出カードに触れられる 二年二組 紬。
さらに、紬が特定の利用者と密接に行動していることも確認されています。
関係者の調査を求めます。
二枚目の紙に、表がある。
2/13(木)『透明な余白』 (借り手:__)
2/14(金)『規則と告発』 (借り手:__)
2/15(土)『同じページの合図』 (借り手:__)
借り手欄は空白じゃない。
空白の上に、薄い横線が引かれている。
“伏せた”みたいな線。
まるで「本当は名前が書ける」と示すための線。
私は紙の端を握りしめそうになって、手を抑えた。
触ったら、また“触った”が増える。
私は立ったまま、呼吸だけを整えた。
「……先輩、これ……誰が」
言いかけたところで、佐伯先輩が私を見た。
視線がまっすぐ刺さる。
「私」
さらりと言った。
“私が書いた”と。
隠さない。
隠さないことが、正しさだと信じている人の目。
「先生に言われたわけじゃない。規則を守るために、必要だと思った」
沙良が震える声で言った。
「先輩、これ……勝手に……」
「勝手じゃない」
佐伯先輩は即答した。
その即答が、怖い。
「規則は、守るためにある。図書室の信用が落ちたら、困るのは利用者全員。委員の役目は、信用を守ること」
“信用”。
その言葉が、昨日からずっと私を殴っている。
「先輩……」
私の声が掠れた。
目の前の紙は、私を告発している。
しかも“追加”。
一枚目が反転させた世界に、二枚目が釘を打つ。
「控え台帳の記録、見たの?」
私が言うと、佐伯先輩の眉がほんのわずか動いた。
「見た。先生の許可のもとで」
“許可”。
その言葉が、私を一段下に落とす。
私には触るなと言ったのに。
先輩には許可が出る。
先輩の正しさは、学校に都合がいい。
「だから――揃った」
先輩は淡々と続ける。
「欠落日と、控え台帳の記録。貸出カードの剥がし跡。あなたの当番。偶然の範囲ではない」
偶然じゃない。
それは、私も分かっている。
でも“結論”を私に貼るのは違う。
「私、やってません」
私は言った。
何度目か分からない。
言うたびに薄くなるはずの言葉が、今日は逆に刃になっていた。
薄いままじゃ刺さらないから、私は刃を立てるしかない。
「……だから証明するって言ってるのに」
佐伯先輩が、少しだけ目を細めた。
「証明? どうやって?」
その問いは、私の道を奪う問いだ。
カードに触るな。台帳に触るな。
その状態で、どう証明するのか。
――私は答えを持っている。ページ。
「ページで」
私は言った。
先輩が一瞬、理解できない顔をする。
「栞がある。ページ番号で……」
言いかけた瞬間、佐伯先輩の視線が冷たくなった。
「噂の“密接な利用者”って、それ?」
その言葉で、私は凍った。
遼の名前は出していないのに、先輩の中で線が引かれた。
“密接”。
“特定の利用者”。
その枠に、遼が押し込まれ始めている。
沙良が息を呑む。
図書室の静けさが、一段深くなる。
閉館間際の静けさが、告発文の文字を大きくする。
「先輩、お願い」
私は声を低くした。
必死さを見せたら負ける。だから低く。
「遼を巻き込まないで」
言ってしまった。
遼の名前。
口から出た瞬間、遅かったと分かった。
でももう戻せない。名前は出た。
佐伯先輩は、わずかに口角を引いた。笑いじゃない。
“確信”の形。
「やっぱり」
その一言で、私の喉が詰まった。
「関係者の調査が必要だって、書いた」
先輩は掲示板の紙を指で叩く。
「あなたが一人で抱えてるなら、出しなさい。正直に言えば軽く済む。先生もそう言ってるでしょ」
“認めれば軽く済む”。
先生の言葉が、先輩の口から出る。
それが、今いちばん怖い。
大人の圧が、正しさの皮を着て増幅する。
「先輩、これ……消して」
沙良が震える声で言った。
「剥がして」と言わないのが、沙良らしい。紙を剥がすことすら怖い。
佐伯先輩は首を振る。
「消さない。これは必要」
必要。
必要の名で、人は簡単に暴走する。
しかもそれが“善意”だと、自分で信じているときほど。
私は掲示板の二枚を見た。
一枚目は私の名前を貼り、二枚目は遼の影を貼る。
世界がまた反転する気配がする。
今度は、遼まで反転に巻き込まれる。
閉館のチャイムが鳴った。
一回だけ、短く。
「終わり」の合図。
その音で、私は決めた。
――ここで止める。
規則の中で。言葉で。ページで。
私は掲示板の紙に手を出さず、佐伯先輩をまっすぐ見た。
「先輩、先生に言います」
佐伯先輩が眉を動かす。
「この紙のことも。控え台帳の照合も。欠落日のことも。全部、先生の前で」
私は息を吸って、続ける。
「そして、ページ番号の順番も出します。証明は、私が“触らずに”できます。
だから――これ以上、勝手に貼らないで。図書室を守るなら、守り方を選んで」
“守り方を選ぶ”。
遼のページの一文が、胸の中で同期する。
言葉にした瞬間、私の声は少しだけ震えなくなった。
佐伯先輩は私を見つめて、しばらく黙った。
正しさの人が、正しさを揺らされたときの沈黙。
その沈黙の間に、私はもう一度チャイムを聞いた気がした。
終わりの音。
でも、今日が終わっても、紙は残る。噂は残る。
だから私は、終わらせる。
紙じゃなく、照合で。
図書室の灯りが、消灯の合図で少し暗くなった。
掲示板の白い紙が、暗闇の中でいっそう白く浮く。
――二枚目の告発文は、佐伯先輩の暴走だった。
その暴走を止めるには、私が“結論”を持って立つしかない。
図書室の蛍光灯が、いつもより白く冷たく見えた。
人はもうほとんどいない。
放課後のざわめきは校舎の外へ流れて、残っているのは返却ボックスの蓋が揺れる小さな音と、時計の秒針だけ。
「調査中」のせいで閉館が早まってから、図書室は夜に近づくのが早い。
私はカウンターの外側――“当番じゃない席”に座っていた。
当番を外されているから、私は片付けにも触れられない。
触れられないのに、見届けることしかできないのが、逆にきつい。
沙良が返却本の山を整えながら、何度もこちらを振り返る。
心配、というより監視に近い視線。
彼女を責められない。私が“疑われている”という状況そのものが、周りを変えてしまう。
そのとき、図書室のドアが開いた。
――遼じゃない。
入ってきたのは、三年の佐伯先輩だった。
司書委員長。腕章はきっちり。手には薄いファイル。
歩き方も、視線の置き方も、“規則”みたいに迷いがない。
「佐伯先輩?」
沙良が声を上げる。
先輩は小さく頷くだけで、カウンターも私も見ないまま、掲示板の方へ直進した。
図書室の奥、入り口付近にある小さな掲示板。
新刊案内、当番表、返却の注意。
“図書室は清潔に”――そういう正しさが貼られている場所。
佐伯先輩の手が、掲示板のコルクに触れた。
カチ、という音。
ピンを刺す音。
私は背筋が凍った。
この時間に、掲示板に何か貼る理由がない。
閉館間際。人のいない時間。
一番、紙が刺さる時間。
「先輩、それ……」
沙良が近づこうとして、止まる。
止まるのは、先輩の背中が“触るな”と言っているからだ。
佐伯先輩は貼り終えると、ようやくこちらを向いた。
目が、乾いている。
正しさに熱がない。熱がないのに、怖い。
「見て」
先輩は短く言った。
命令に近い。
私は立ち上がり、数歩だけ近づいた。
心臓が音を立てる。
嫌な予感が、確信になっていく。
掲示板に貼られた紙は、二枚。
一枚目は、見覚えのある形式――【告発】の見出し。
二枚目は、表みたいなもの。日付と書名と、空白の欄。
“控え台帳の記録”と書かれている。
私は一枚目の本文を読んだ。
【追加告発】
先日の貸出記録改ざんについて、状況証拠が揃いました。
貸出カードの欠落行は、2/13(木)・2/14(金)・2/15(土)。
該当日、該当書籍を借りた記録が「控え台帳」に残っています。
しかし、貸出カードには借り手が存在しません。
これは意図的な改ざんです。
また、複数の書籍に同一手口の剥がし跡が確認されました。
図書室の信用を守るため、関係者は速やかに名乗り出るべきです。
改ざんに関与した可能性が高いのは
司書委員であり、当番として貸出カードに触れられる 二年二組 紬。
さらに、紬が特定の利用者と密接に行動していることも確認されています。
関係者の調査を求めます。
二枚目の紙に、表がある。
2/13(木)『透明な余白』 (借り手:__)
2/14(金)『規則と告発』 (借り手:__)
2/15(土)『同じページの合図』 (借り手:__)
借り手欄は空白じゃない。
空白の上に、薄い横線が引かれている。
“伏せた”みたいな線。
まるで「本当は名前が書ける」と示すための線。
私は紙の端を握りしめそうになって、手を抑えた。
触ったら、また“触った”が増える。
私は立ったまま、呼吸だけを整えた。
「……先輩、これ……誰が」
言いかけたところで、佐伯先輩が私を見た。
視線がまっすぐ刺さる。
「私」
さらりと言った。
“私が書いた”と。
隠さない。
隠さないことが、正しさだと信じている人の目。
「先生に言われたわけじゃない。規則を守るために、必要だと思った」
沙良が震える声で言った。
「先輩、これ……勝手に……」
「勝手じゃない」
佐伯先輩は即答した。
その即答が、怖い。
「規則は、守るためにある。図書室の信用が落ちたら、困るのは利用者全員。委員の役目は、信用を守ること」
“信用”。
その言葉が、昨日からずっと私を殴っている。
「先輩……」
私の声が掠れた。
目の前の紙は、私を告発している。
しかも“追加”。
一枚目が反転させた世界に、二枚目が釘を打つ。
「控え台帳の記録、見たの?」
私が言うと、佐伯先輩の眉がほんのわずか動いた。
「見た。先生の許可のもとで」
“許可”。
その言葉が、私を一段下に落とす。
私には触るなと言ったのに。
先輩には許可が出る。
先輩の正しさは、学校に都合がいい。
「だから――揃った」
先輩は淡々と続ける。
「欠落日と、控え台帳の記録。貸出カードの剥がし跡。あなたの当番。偶然の範囲ではない」
偶然じゃない。
それは、私も分かっている。
でも“結論”を私に貼るのは違う。
「私、やってません」
私は言った。
何度目か分からない。
言うたびに薄くなるはずの言葉が、今日は逆に刃になっていた。
薄いままじゃ刺さらないから、私は刃を立てるしかない。
「……だから証明するって言ってるのに」
佐伯先輩が、少しだけ目を細めた。
「証明? どうやって?」
その問いは、私の道を奪う問いだ。
カードに触るな。台帳に触るな。
その状態で、どう証明するのか。
――私は答えを持っている。ページ。
「ページで」
私は言った。
先輩が一瞬、理解できない顔をする。
「栞がある。ページ番号で……」
言いかけた瞬間、佐伯先輩の視線が冷たくなった。
「噂の“密接な利用者”って、それ?」
その言葉で、私は凍った。
遼の名前は出していないのに、先輩の中で線が引かれた。
“密接”。
“特定の利用者”。
その枠に、遼が押し込まれ始めている。
沙良が息を呑む。
図書室の静けさが、一段深くなる。
閉館間際の静けさが、告発文の文字を大きくする。
「先輩、お願い」
私は声を低くした。
必死さを見せたら負ける。だから低く。
「遼を巻き込まないで」
言ってしまった。
遼の名前。
口から出た瞬間、遅かったと分かった。
でももう戻せない。名前は出た。
佐伯先輩は、わずかに口角を引いた。笑いじゃない。
“確信”の形。
「やっぱり」
その一言で、私の喉が詰まった。
「関係者の調査が必要だって、書いた」
先輩は掲示板の紙を指で叩く。
「あなたが一人で抱えてるなら、出しなさい。正直に言えば軽く済む。先生もそう言ってるでしょ」
“認めれば軽く済む”。
先生の言葉が、先輩の口から出る。
それが、今いちばん怖い。
大人の圧が、正しさの皮を着て増幅する。
「先輩、これ……消して」
沙良が震える声で言った。
「剥がして」と言わないのが、沙良らしい。紙を剥がすことすら怖い。
佐伯先輩は首を振る。
「消さない。これは必要」
必要。
必要の名で、人は簡単に暴走する。
しかもそれが“善意”だと、自分で信じているときほど。
私は掲示板の二枚を見た。
一枚目は私の名前を貼り、二枚目は遼の影を貼る。
世界がまた反転する気配がする。
今度は、遼まで反転に巻き込まれる。
閉館のチャイムが鳴った。
一回だけ、短く。
「終わり」の合図。
その音で、私は決めた。
――ここで止める。
規則の中で。言葉で。ページで。
私は掲示板の紙に手を出さず、佐伯先輩をまっすぐ見た。
「先輩、先生に言います」
佐伯先輩が眉を動かす。
「この紙のことも。控え台帳の照合も。欠落日のことも。全部、先生の前で」
私は息を吸って、続ける。
「そして、ページ番号の順番も出します。証明は、私が“触らずに”できます。
だから――これ以上、勝手に貼らないで。図書室を守るなら、守り方を選んで」
“守り方を選ぶ”。
遼のページの一文が、胸の中で同期する。
言葉にした瞬間、私の声は少しだけ震えなくなった。
佐伯先輩は私を見つめて、しばらく黙った。
正しさの人が、正しさを揺らされたときの沈黙。
その沈黙の間に、私はもう一度チャイムを聞いた気がした。
終わりの音。
でも、今日が終わっても、紙は残る。噂は残る。
だから私は、終わらせる。
紙じゃなく、照合で。
図書室の灯りが、消灯の合図で少し暗くなった。
掲示板の白い紙が、暗闇の中でいっそう白く浮く。
――二枚目の告発文は、佐伯先輩の暴走だった。
その暴走を止めるには、私が“結論”を持って立つしかない。


