栞が繋ぐ一行体験――3冊のページで、告白を完成させる

廊下に出た瞬間、音が刺さった。
昼休みの終わり、教室へ戻る流れの中で、笑い声と足音と机を引く音が混ざる――はずの時間。
今日は、その混ざり方が違う。声が、私の名前の形をしている。

「ねえ、聞いた? 台帳もあるらしいよ」

「控え? それでバレるやつじゃん」

「でもさ、先生たちが黙ってるってことは、逆に……」

逆に、何。
言葉の先は言わなくても分かるように、みんな口を濁す。
濁すくせに、視線だけは私を刺す。

私は教室の前で、立ち止まった。
扉を開ける手が、昨日より重い。
昨日より噂が広がっている。
昨日より“決まってきている”。

「紬」

真帆が廊下の向こうから走ってきた。
息を切らしているのに、声は低い。
“周りに聞こえないように”という慎重さが、もう私の胸を締めつける。

「大丈夫?」

またそれ。
大丈夫って聞かれるたびに、私は“今の私は大丈夫じゃない人”として扱われる。
でも、真帆が私を気にしてくれること自体は、ありがたい。
ありがたいのに、痛い。

「……大丈夫」

私はそう言ってしまった。
本当は大丈夫じゃないのに。
大丈夫じゃないと言ったら、彼女まで揺れるから。

真帆は一瞬、唇を噛んだ。
その噛み方に、迷いが見えた。
昨日までの「信じたい」が、今日の「怖い」に押されている。

「ねえ……紬さ」

真帆が言葉を探す。
その間に、背後から別の声が飛んだ。

「うわ、本人だ」

「え、普通に歩けるんだ」

「怖……」

怖い。
私のことを“怖い”と言う。
私が何をしたか確定していないのに、怖いと言われる。

真帆が顔をしかめて、後ろを振り向いた。
それだけで、私は少し救われる。
でも救われた分だけ、次の言葉が怖い。

「……紬、ほんとにさ、触ってないよね? カード」

真帆が言った。
昨日の「やってないんだよね?」より、具体的だ。
“触ってないよね”になっている。
疑いは、質問の形を変えて増えていく。

私は頷きかけて、首が固まった。
触っていない、は嘘になる。
当番としてカードには触った。返却処理で触った。確認で触った。
触ったこと自体は規則の範囲。
でも、今の空気の中では、その“触った”が罪の匂いになる。

「……当番で、触った」

私は正直に言った。
言った瞬間、真帆の目が揺れる。

「でも、削ったりしてない。剥がしたりもしてない」

真帆の唇が開きかけて、閉じた。
言いたいことがある。
でも言ったら、彼女自身が“どちら側か”を決めることになる。

廊下の先で、別のグループがざわつく。

「ねえ、遼って最近来てなくない?」

「そういえば……」

「え、もしかしてさ、あいつも関係あるんじゃ」

遼の名前が出た瞬間、私は背筋が冷えた。
出るな。出ないで。
遼は“巻き込まれなくていい”と言った。
でも噂は、勝手に人を巻き込む。

「え、だってさ、あの棚いつも居たじゃん」

「紬と最近話してたっぽいし」

「うわ、じゃあ共犯?」

共犯。
その単語が、胸の奥に黒く沈む。

真帆が私を見る。
“今の聞いた?”という目。
そして、ほんの少しだけ“もしかして”が混じる目。

味方が揺れる瞬間って、こういう顔なんだ。
昨日まで私の隣だった人が、今日、ほんの数センチだけ離れる。
その数センチが、崖みたいに深い。

「紬……遼って、何か言ってた?」

真帆が小声で聞いた。
遼のことを、真帆が自分から聞くなんて今までなかった。
それだけで、噂が遼に触れ始めているのが分かる。

私は首を振った。
否定ではない。
守りでもない。
ただ、ここで遼の名前を出したら終わる、という直感だった。

「……言ってない」

真帆は、少しだけ安心したように見えて、すぐにその安心を引っ込めた。
安心していいのか分からない、という顔。

廊下の壁に貼られた掲示物が、今日だけやけに綺麗に見える。
紙は嘘をつかない顔をしている。
でも、紙は簡単に人を刺す。告発文がそうだった。

私は自分の鞄の肩紐を握り直した。
ノートが入っている。栞が挟んである。
37から、ちゃんと。
ページは、私の味方だ。
味方は揺れない。揺れるのは、人の心だけだ。

そのとき、教室の扉が開いて、沙良が顔を出した。

「紬、先生、呼んでた。職員室……じゃなくて、図書準備室の前」

沙良の声も、いつもより硬い。
彼女も揺れている。
揺れながら、私を呼びに来てくれた。

「……分かった」

私は頷き、真帆に目を向けた。
何か言ってほしい。信じてほしい。
でも、その願いを口にした瞬間、私は弱くなる。

真帆が小さく言った。

「……紬、ちゃんと説明できる?」

説明。
説明すれば信じてもらえると思っていた時期は、もう終わっている。
説明より先に、“結論”が回っているから。

でも私は、真帆の揺れを見てしまった。
揺れを止められるのは、言い訳じゃなく“照合”だ。

「……できる」

私は言った。
自分に言い聞かせるみたいに。

「カードじゃなくて、台帳で。ページで。ちゃんと繋げて、説明できる」

真帆はそれ以上聞けずに、視線を落とした。
落とした視線の先に、私の靴先がある。
私の靴先が、昨日より少しだけ外側にある。
孤立の幅が、また数センチ広がった。

私は沙良の方へ歩き出した。
背中に、言葉が刺さる。

「逃げんなよー」

「今さら遅いって」

「どうせ認めれば軽く済むのに」

“認めれば軽く済む”
先生の言葉が、噂の形に変わって廊下に漂っている。
それが一番怖い。
大人の言葉が、子どもの悪意を補強する。

私は足を止めない。
止めたら、ここで貼られたままになる。
剥がすには、進むしかない。

――味方が揺れても、私は揺れない。
栞の順番が噛み合い始めた今、揺れるのは遅い。

廊下の突き当たり、図書準備室の前が見えた。
そこにあるのは、規則と記録と、消せない線。
そして、私が“証明できる唯一の場所”だった。