廊下に出た瞬間、音が刺さった。
昼休みの終わり、教室へ戻る流れの中で、笑い声と足音と机を引く音が混ざる――はずの時間。
今日は、その混ざり方が違う。声が、私の名前の形をしている。
「ねえ、聞いた? 台帳もあるらしいよ」
「控え? それでバレるやつじゃん」
「でもさ、先生たちが黙ってるってことは、逆に……」
逆に、何。
言葉の先は言わなくても分かるように、みんな口を濁す。
濁すくせに、視線だけは私を刺す。
私は教室の前で、立ち止まった。
扉を開ける手が、昨日より重い。
昨日より噂が広がっている。
昨日より“決まってきている”。
「紬」
真帆が廊下の向こうから走ってきた。
息を切らしているのに、声は低い。
“周りに聞こえないように”という慎重さが、もう私の胸を締めつける。
「大丈夫?」
またそれ。
大丈夫って聞かれるたびに、私は“今の私は大丈夫じゃない人”として扱われる。
でも、真帆が私を気にしてくれること自体は、ありがたい。
ありがたいのに、痛い。
「……大丈夫」
私はそう言ってしまった。
本当は大丈夫じゃないのに。
大丈夫じゃないと言ったら、彼女まで揺れるから。
真帆は一瞬、唇を噛んだ。
その噛み方に、迷いが見えた。
昨日までの「信じたい」が、今日の「怖い」に押されている。
「ねえ……紬さ」
真帆が言葉を探す。
その間に、背後から別の声が飛んだ。
「うわ、本人だ」
「え、普通に歩けるんだ」
「怖……」
怖い。
私のことを“怖い”と言う。
私が何をしたか確定していないのに、怖いと言われる。
真帆が顔をしかめて、後ろを振り向いた。
それだけで、私は少し救われる。
でも救われた分だけ、次の言葉が怖い。
「……紬、ほんとにさ、触ってないよね? カード」
真帆が言った。
昨日の「やってないんだよね?」より、具体的だ。
“触ってないよね”になっている。
疑いは、質問の形を変えて増えていく。
私は頷きかけて、首が固まった。
触っていない、は嘘になる。
当番としてカードには触った。返却処理で触った。確認で触った。
触ったこと自体は規則の範囲。
でも、今の空気の中では、その“触った”が罪の匂いになる。
「……当番で、触った」
私は正直に言った。
言った瞬間、真帆の目が揺れる。
「でも、削ったりしてない。剥がしたりもしてない」
真帆の唇が開きかけて、閉じた。
言いたいことがある。
でも言ったら、彼女自身が“どちら側か”を決めることになる。
廊下の先で、別のグループがざわつく。
「ねえ、遼って最近来てなくない?」
「そういえば……」
「え、もしかしてさ、あいつも関係あるんじゃ」
遼の名前が出た瞬間、私は背筋が冷えた。
出るな。出ないで。
遼は“巻き込まれなくていい”と言った。
でも噂は、勝手に人を巻き込む。
「え、だってさ、あの棚いつも居たじゃん」
「紬と最近話してたっぽいし」
「うわ、じゃあ共犯?」
共犯。
その単語が、胸の奥に黒く沈む。
真帆が私を見る。
“今の聞いた?”という目。
そして、ほんの少しだけ“もしかして”が混じる目。
味方が揺れる瞬間って、こういう顔なんだ。
昨日まで私の隣だった人が、今日、ほんの数センチだけ離れる。
その数センチが、崖みたいに深い。
「紬……遼って、何か言ってた?」
真帆が小声で聞いた。
遼のことを、真帆が自分から聞くなんて今までなかった。
それだけで、噂が遼に触れ始めているのが分かる。
私は首を振った。
否定ではない。
守りでもない。
ただ、ここで遼の名前を出したら終わる、という直感だった。
「……言ってない」
真帆は、少しだけ安心したように見えて、すぐにその安心を引っ込めた。
安心していいのか分からない、という顔。
廊下の壁に貼られた掲示物が、今日だけやけに綺麗に見える。
紙は嘘をつかない顔をしている。
でも、紙は簡単に人を刺す。告発文がそうだった。
私は自分の鞄の肩紐を握り直した。
ノートが入っている。栞が挟んである。
37から、ちゃんと。
ページは、私の味方だ。
味方は揺れない。揺れるのは、人の心だけだ。
そのとき、教室の扉が開いて、沙良が顔を出した。
「紬、先生、呼んでた。職員室……じゃなくて、図書準備室の前」
沙良の声も、いつもより硬い。
彼女も揺れている。
揺れながら、私を呼びに来てくれた。
「……分かった」
私は頷き、真帆に目を向けた。
何か言ってほしい。信じてほしい。
でも、その願いを口にした瞬間、私は弱くなる。
真帆が小さく言った。
「……紬、ちゃんと説明できる?」
説明。
説明すれば信じてもらえると思っていた時期は、もう終わっている。
説明より先に、“結論”が回っているから。
でも私は、真帆の揺れを見てしまった。
揺れを止められるのは、言い訳じゃなく“照合”だ。
「……できる」
私は言った。
自分に言い聞かせるみたいに。
「カードじゃなくて、台帳で。ページで。ちゃんと繋げて、説明できる」
真帆はそれ以上聞けずに、視線を落とした。
落とした視線の先に、私の靴先がある。
私の靴先が、昨日より少しだけ外側にある。
孤立の幅が、また数センチ広がった。
私は沙良の方へ歩き出した。
背中に、言葉が刺さる。
「逃げんなよー」
「今さら遅いって」
「どうせ認めれば軽く済むのに」
“認めれば軽く済む”
先生の言葉が、噂の形に変わって廊下に漂っている。
それが一番怖い。
大人の言葉が、子どもの悪意を補強する。
私は足を止めない。
止めたら、ここで貼られたままになる。
剥がすには、進むしかない。
――味方が揺れても、私は揺れない。
栞の順番が噛み合い始めた今、揺れるのは遅い。
廊下の突き当たり、図書準備室の前が見えた。
そこにあるのは、規則と記録と、消せない線。
そして、私が“証明できる唯一の場所”だった。
昼休みの終わり、教室へ戻る流れの中で、笑い声と足音と机を引く音が混ざる――はずの時間。
今日は、その混ざり方が違う。声が、私の名前の形をしている。
「ねえ、聞いた? 台帳もあるらしいよ」
「控え? それでバレるやつじゃん」
「でもさ、先生たちが黙ってるってことは、逆に……」
逆に、何。
言葉の先は言わなくても分かるように、みんな口を濁す。
濁すくせに、視線だけは私を刺す。
私は教室の前で、立ち止まった。
扉を開ける手が、昨日より重い。
昨日より噂が広がっている。
昨日より“決まってきている”。
「紬」
真帆が廊下の向こうから走ってきた。
息を切らしているのに、声は低い。
“周りに聞こえないように”という慎重さが、もう私の胸を締めつける。
「大丈夫?」
またそれ。
大丈夫って聞かれるたびに、私は“今の私は大丈夫じゃない人”として扱われる。
でも、真帆が私を気にしてくれること自体は、ありがたい。
ありがたいのに、痛い。
「……大丈夫」
私はそう言ってしまった。
本当は大丈夫じゃないのに。
大丈夫じゃないと言ったら、彼女まで揺れるから。
真帆は一瞬、唇を噛んだ。
その噛み方に、迷いが見えた。
昨日までの「信じたい」が、今日の「怖い」に押されている。
「ねえ……紬さ」
真帆が言葉を探す。
その間に、背後から別の声が飛んだ。
「うわ、本人だ」
「え、普通に歩けるんだ」
「怖……」
怖い。
私のことを“怖い”と言う。
私が何をしたか確定していないのに、怖いと言われる。
真帆が顔をしかめて、後ろを振り向いた。
それだけで、私は少し救われる。
でも救われた分だけ、次の言葉が怖い。
「……紬、ほんとにさ、触ってないよね? カード」
真帆が言った。
昨日の「やってないんだよね?」より、具体的だ。
“触ってないよね”になっている。
疑いは、質問の形を変えて増えていく。
私は頷きかけて、首が固まった。
触っていない、は嘘になる。
当番としてカードには触った。返却処理で触った。確認で触った。
触ったこと自体は規則の範囲。
でも、今の空気の中では、その“触った”が罪の匂いになる。
「……当番で、触った」
私は正直に言った。
言った瞬間、真帆の目が揺れる。
「でも、削ったりしてない。剥がしたりもしてない」
真帆の唇が開きかけて、閉じた。
言いたいことがある。
でも言ったら、彼女自身が“どちら側か”を決めることになる。
廊下の先で、別のグループがざわつく。
「ねえ、遼って最近来てなくない?」
「そういえば……」
「え、もしかしてさ、あいつも関係あるんじゃ」
遼の名前が出た瞬間、私は背筋が冷えた。
出るな。出ないで。
遼は“巻き込まれなくていい”と言った。
でも噂は、勝手に人を巻き込む。
「え、だってさ、あの棚いつも居たじゃん」
「紬と最近話してたっぽいし」
「うわ、じゃあ共犯?」
共犯。
その単語が、胸の奥に黒く沈む。
真帆が私を見る。
“今の聞いた?”という目。
そして、ほんの少しだけ“もしかして”が混じる目。
味方が揺れる瞬間って、こういう顔なんだ。
昨日まで私の隣だった人が、今日、ほんの数センチだけ離れる。
その数センチが、崖みたいに深い。
「紬……遼って、何か言ってた?」
真帆が小声で聞いた。
遼のことを、真帆が自分から聞くなんて今までなかった。
それだけで、噂が遼に触れ始めているのが分かる。
私は首を振った。
否定ではない。
守りでもない。
ただ、ここで遼の名前を出したら終わる、という直感だった。
「……言ってない」
真帆は、少しだけ安心したように見えて、すぐにその安心を引っ込めた。
安心していいのか分からない、という顔。
廊下の壁に貼られた掲示物が、今日だけやけに綺麗に見える。
紙は嘘をつかない顔をしている。
でも、紙は簡単に人を刺す。告発文がそうだった。
私は自分の鞄の肩紐を握り直した。
ノートが入っている。栞が挟んである。
37から、ちゃんと。
ページは、私の味方だ。
味方は揺れない。揺れるのは、人の心だけだ。
そのとき、教室の扉が開いて、沙良が顔を出した。
「紬、先生、呼んでた。職員室……じゃなくて、図書準備室の前」
沙良の声も、いつもより硬い。
彼女も揺れている。
揺れながら、私を呼びに来てくれた。
「……分かった」
私は頷き、真帆に目を向けた。
何か言ってほしい。信じてほしい。
でも、その願いを口にした瞬間、私は弱くなる。
真帆が小さく言った。
「……紬、ちゃんと説明できる?」
説明。
説明すれば信じてもらえると思っていた時期は、もう終わっている。
説明より先に、“結論”が回っているから。
でも私は、真帆の揺れを見てしまった。
揺れを止められるのは、言い訳じゃなく“照合”だ。
「……できる」
私は言った。
自分に言い聞かせるみたいに。
「カードじゃなくて、台帳で。ページで。ちゃんと繋げて、説明できる」
真帆はそれ以上聞けずに、視線を落とした。
落とした視線の先に、私の靴先がある。
私の靴先が、昨日より少しだけ外側にある。
孤立の幅が、また数センチ広がった。
私は沙良の方へ歩き出した。
背中に、言葉が刺さる。
「逃げんなよー」
「今さら遅いって」
「どうせ認めれば軽く済むのに」
“認めれば軽く済む”
先生の言葉が、噂の形に変わって廊下に漂っている。
それが一番怖い。
大人の言葉が、子どもの悪意を補強する。
私は足を止めない。
止めたら、ここで貼られたままになる。
剥がすには、進むしかない。
――味方が揺れても、私は揺れない。
栞の順番が噛み合い始めた今、揺れるのは遅い。
廊下の突き当たり、図書準備室の前が見えた。
そこにあるのは、規則と記録と、消せない線。
そして、私が“証明できる唯一の場所”だった。


