昼休みの図書室は、放課後と違って「音」がある。
椅子を引く音、ページをめくる音、誰かが小声で笑う音。
その全部が重なると、私の耳は自然に“普通”を思い出しそうになる。
でも、私は思い出したくなかった。
普通に戻ったふりをした瞬間、昨日までのことが「なかったこと」になる。
告発文も、空白も、粉も、栞も。
――遼の不在も。
私はカウンターの内側に立つ代わりに、司書委員の席の端に座っていた。
当番を外されているから、仕事はできない。
できないのに、ここにいる。
自分でも不自然だと思う。けれど、図書室から離れたら、何かが決定的に途切れそうだった。
机の上には、閉じたままのノート。
中には栞が挟んである。37、58、112、243。
数字が並ぶだけなのに、私の心臓を落ち着かせたり、煽ったりする。
「紬」
小さな声。沙良が通りかかって、目線だけ寄せた。
彼女は今日は当番だ。腕章をつけている。
「無理しないで。……先生たち、見てるかも」
見てる。
見られている。
その言葉を聞くだけで、背筋が固まる。
「うん」
私は曖昧に頷いて、ノートの表紙を指で叩いた。
叩いたのは、ただの癖。
でもその癖が、私の中の焦りを隠してくれる。
そのとき、入口のドアが静かに開いた。
私は反射的に顔を上げた。
誰でもいい。誰でもない。――でも、そういう開き方をするのは一人しかいない。
遼だった。
制服の襟はいつも通り。髪もいつも通り。
それなのに、遼だけが別の空気を連れて入ってきたみたいに、図書室の音が一瞬だけ薄まる。
遼はカウンターを見ない。私も見ない。
まっすぐ奥の棚へ向かう――はずが、その足が一度止まった。
止まった場所が、ちょうど私の視界の端だった。
(来た……)
胸が熱くなる。
同時に、怖さも来る。
遼が来たら、私は聞いてしまう。
聞いたら、遼は逃げるかもしれない。
逃げたら、もう戻らないかもしれない。
遼は棚へ行かなかった。
代わりに、窓際の席に向かった。いつもの席。
でも、座らない。
机の上に何かを置いて、またすぐに踵を返す。
(何?)
私は立ち上がりそうになって、やめた。
立ち上がったら“追いかける”になる。
追いかけるのは、規則違反ではない。
でも、今の私が追いかけたら、図書室の空気が割れてしまう。
遼が出口へ向かう。
その背中を見送るだけなんて、できない。
私は椅子から立った。
足音を殺して、遼の通り道へ一歩だけ出る。
遼が私の横を通り過ぎる瞬間、私は息を吸った。
「……遼」
名前を呼ぶだけで、声が震えた。
遼は止まった。
止まったのに、振り向かない。
「……来ないと思ってた」
私が言うと、遼はほんのわずか、肩を揺らした。
笑ったのか、息を吐いたのか分からない。
「……来た」
それだけ。
それだけで、涙が出そうになる。
「昨日から……」
言いかけて、言葉が喉に引っかかった。
昨日から何? 来ない。栞。空白。告発。粉。
全部言ったら、遼は逃げる。
逃げたら、私はもう一生“ページ”にしか触れられない。
だから私は、言葉を小さく変えた。
「……本、返ってきた」
遼はようやく、ほんの少しだけ顔をこちらへ向けた。
目は合わない。
合わないのに、見ている。
「……読んだ?」
問いが、ページの続きみたいに落ちる。
私は頷いた。
「112、読んだ」
遼の喉が、小さく動いた。
何か言いたいのに、飲み込んでいる喉の動き。
「……なら、いい」
いい?
何が?
私は思わず踏み込む。
「遼、私――」
“やってない”
“名前が消えてる”
“あなたがやったの?”
言葉が喉の渋滞を起こす。
遼は、その前に低く言った。
「……巻き込まれなくていい」
心臓が、ぎゅっと縮む。
巻き込まれなくていい。
その言葉は、優しさにも聞こえるし、切り捨てにも聞こえる。
「巻き込まれてるよ、もう」
私が言うと、遼の指先が少しだけ動いた。
ポケットの中で何かを握り直したみたいに。
遼は、窓際の席を顎で示した。
座っていない席。机の上に置かれたもの。
「……あれ」
私が目を向けると、机の上に小さな封筒が置かれていた。
白い封筒。宛名はない。
中身が透けて見えるほど薄い。
「これ、何?」
遼は答えない。
代わりに、私のノートの位置を見た。
見たというより、ノートがあるのを確認しただけ。
「……番号、増える」
番号。
栞。
ページ番号。
「増えたら……どうなるの」
私の声が、思ったより弱くなった。
聞きたいのに、聞くほど遠ざかる。
遼は、ようやく私を見る。
一瞬だけ。
本当に一瞬。
「……最後に、行く」
最後に行く。
どこへ? 何へ?
問いが口から出る前に、遼はもう背を向けていた。
ドアの方へ、いつもの歩幅で。
急がない。迷わない。
でも、今日の歩幅は“戻るため”じゃなく“去るため”に見える。
「遼!」
私が呼ぶと、遼はドアに手をかけたまま、ほんの少しだけ振り返った。
その目が、初めてちゃんと私を捉えた気がした。
「……37から、ちゃんと」
言って、遼はドアを開ける。
外の廊下の光が、図書室に細く差し込む。
次の瞬間、遼はいなくなった。
ドアが閉まり、昼休みの音が戻る。
笑い声も、ページをめくる音も、全部。
――遼だけが、音の外へ消えた。
私はしばらく、動けなかった。
会話にならない会話。
質問も答えも、途中で切れて、代わりに番号だけが残った。
窓際の机へ歩き、封筒を手に取る。
軽い。
中で紙が一枚、擦れる。
封筒の口は、閉じられていない。
私は指先を差し入れて、中の紙を引き出した。
白い紙に、鉛筆で、数字。
――201。
私は息を呑んだ。
『規則と告発』の、もう一つの栞。
昨日、私がまだ開けていないページ番号。
“番号、増える”
“最後に、行く”
遼の言葉が、封筒の軽さと一緒に胸へ落ちる。
私の世界は、まだ反転したままだ。
でも、反転の裏側に“辿れる線”があることだけは、確かになった。
椅子を引く音、ページをめくる音、誰かが小声で笑う音。
その全部が重なると、私の耳は自然に“普通”を思い出しそうになる。
でも、私は思い出したくなかった。
普通に戻ったふりをした瞬間、昨日までのことが「なかったこと」になる。
告発文も、空白も、粉も、栞も。
――遼の不在も。
私はカウンターの内側に立つ代わりに、司書委員の席の端に座っていた。
当番を外されているから、仕事はできない。
できないのに、ここにいる。
自分でも不自然だと思う。けれど、図書室から離れたら、何かが決定的に途切れそうだった。
机の上には、閉じたままのノート。
中には栞が挟んである。37、58、112、243。
数字が並ぶだけなのに、私の心臓を落ち着かせたり、煽ったりする。
「紬」
小さな声。沙良が通りかかって、目線だけ寄せた。
彼女は今日は当番だ。腕章をつけている。
「無理しないで。……先生たち、見てるかも」
見てる。
見られている。
その言葉を聞くだけで、背筋が固まる。
「うん」
私は曖昧に頷いて、ノートの表紙を指で叩いた。
叩いたのは、ただの癖。
でもその癖が、私の中の焦りを隠してくれる。
そのとき、入口のドアが静かに開いた。
私は反射的に顔を上げた。
誰でもいい。誰でもない。――でも、そういう開き方をするのは一人しかいない。
遼だった。
制服の襟はいつも通り。髪もいつも通り。
それなのに、遼だけが別の空気を連れて入ってきたみたいに、図書室の音が一瞬だけ薄まる。
遼はカウンターを見ない。私も見ない。
まっすぐ奥の棚へ向かう――はずが、その足が一度止まった。
止まった場所が、ちょうど私の視界の端だった。
(来た……)
胸が熱くなる。
同時に、怖さも来る。
遼が来たら、私は聞いてしまう。
聞いたら、遼は逃げるかもしれない。
逃げたら、もう戻らないかもしれない。
遼は棚へ行かなかった。
代わりに、窓際の席に向かった。いつもの席。
でも、座らない。
机の上に何かを置いて、またすぐに踵を返す。
(何?)
私は立ち上がりそうになって、やめた。
立ち上がったら“追いかける”になる。
追いかけるのは、規則違反ではない。
でも、今の私が追いかけたら、図書室の空気が割れてしまう。
遼が出口へ向かう。
その背中を見送るだけなんて、できない。
私は椅子から立った。
足音を殺して、遼の通り道へ一歩だけ出る。
遼が私の横を通り過ぎる瞬間、私は息を吸った。
「……遼」
名前を呼ぶだけで、声が震えた。
遼は止まった。
止まったのに、振り向かない。
「……来ないと思ってた」
私が言うと、遼はほんのわずか、肩を揺らした。
笑ったのか、息を吐いたのか分からない。
「……来た」
それだけ。
それだけで、涙が出そうになる。
「昨日から……」
言いかけて、言葉が喉に引っかかった。
昨日から何? 来ない。栞。空白。告発。粉。
全部言ったら、遼は逃げる。
逃げたら、私はもう一生“ページ”にしか触れられない。
だから私は、言葉を小さく変えた。
「……本、返ってきた」
遼はようやく、ほんの少しだけ顔をこちらへ向けた。
目は合わない。
合わないのに、見ている。
「……読んだ?」
問いが、ページの続きみたいに落ちる。
私は頷いた。
「112、読んだ」
遼の喉が、小さく動いた。
何か言いたいのに、飲み込んでいる喉の動き。
「……なら、いい」
いい?
何が?
私は思わず踏み込む。
「遼、私――」
“やってない”
“名前が消えてる”
“あなたがやったの?”
言葉が喉の渋滞を起こす。
遼は、その前に低く言った。
「……巻き込まれなくていい」
心臓が、ぎゅっと縮む。
巻き込まれなくていい。
その言葉は、優しさにも聞こえるし、切り捨てにも聞こえる。
「巻き込まれてるよ、もう」
私が言うと、遼の指先が少しだけ動いた。
ポケットの中で何かを握り直したみたいに。
遼は、窓際の席を顎で示した。
座っていない席。机の上に置かれたもの。
「……あれ」
私が目を向けると、机の上に小さな封筒が置かれていた。
白い封筒。宛名はない。
中身が透けて見えるほど薄い。
「これ、何?」
遼は答えない。
代わりに、私のノートの位置を見た。
見たというより、ノートがあるのを確認しただけ。
「……番号、増える」
番号。
栞。
ページ番号。
「増えたら……どうなるの」
私の声が、思ったより弱くなった。
聞きたいのに、聞くほど遠ざかる。
遼は、ようやく私を見る。
一瞬だけ。
本当に一瞬。
「……最後に、行く」
最後に行く。
どこへ? 何へ?
問いが口から出る前に、遼はもう背を向けていた。
ドアの方へ、いつもの歩幅で。
急がない。迷わない。
でも、今日の歩幅は“戻るため”じゃなく“去るため”に見える。
「遼!」
私が呼ぶと、遼はドアに手をかけたまま、ほんの少しだけ振り返った。
その目が、初めてちゃんと私を捉えた気がした。
「……37から、ちゃんと」
言って、遼はドアを開ける。
外の廊下の光が、図書室に細く差し込む。
次の瞬間、遼はいなくなった。
ドアが閉まり、昼休みの音が戻る。
笑い声も、ページをめくる音も、全部。
――遼だけが、音の外へ消えた。
私はしばらく、動けなかった。
会話にならない会話。
質問も答えも、途中で切れて、代わりに番号だけが残った。
窓際の机へ歩き、封筒を手に取る。
軽い。
中で紙が一枚、擦れる。
封筒の口は、閉じられていない。
私は指先を差し入れて、中の紙を引き出した。
白い紙に、鉛筆で、数字。
――201。
私は息を呑んだ。
『規則と告発』の、もう一つの栞。
昨日、私がまだ開けていないページ番号。
“番号、増える”
“最後に、行く”
遼の言葉が、封筒の軽さと一緒に胸へ落ちる。
私の世界は、まだ反転したままだ。
でも、反転の裏側に“辿れる線”があることだけは、確かになった。


