返却ボックスの蓋を開けたとき、いちばん上に乗っていた一冊が、妙に“軽く”見えた。
色も厚みも、昨日からずっと目の端に残っていた背表紙の系統。
私は息を止めて、その本を引き上げる。
――『透明な余白』。
心臓が一つ、遅れて跳ねた。
貸出シールの返却印は、まだ新しい。昨日、遼が借りた本じゃない。けれど「遼が選んだ本」であることだけが、私の中で同じ重さを持っていた。
カウンターの上にそっと置く。
背表紙を撫でる。紙の温度はもうない。
でも、指先が“誰かの手”を探してしまう。
私は本を開いた。
返却処理の前に、中身を確認するのは本当はルール違反じゃない。ページの折れや破れをチェックするのは当番の仕事。
――そう、言い訳しながら。
ぱら、と紙が鳴った。
その音の中に、別の音が混じった。
紙が紙に擦れる、軽い音。何かが落ちかける音。
私は反射的に指で挟んだ。
白い紙片。
細長くて、角が少し丸い。
コピー用紙を切っただけの、あの栞。
(……また)
胸の奥が、熱くなるのと冷えるのが同時に来る。
来ない人の“置いていったもの”ほど、強いものはない。
栞の表に、鉛筆で数字。
――112。
私はその数字を、しばらく見つめた。
37、58、243に重ねると、112はちょうど“次”の手触りだった。
昨日の栞が「そこから始まる」なら、これは「続き」だ。
誰が挟んだのか。
分かってしまうのが怖い。
でも、分からないままにしておく方がもっと怖い。
私は本を抱え、カウンターの内側の椅子に座った。
視線が届かない角度を選ぶ。誰もいないのに、誰かから隠れる癖がついてしまっている。
ページをめくって、112を探す。
指先が震えて、紙を一枚余計に送ってしまう。戻す。もう一度。
123、122、121……。
そして、112。
そのページの真ん中あたりに、鉛筆で引かれたような薄い線が一本ある。
下線じゃない。目印のように、短い。
線の上にある一文が、目に刺さる。
守ることは、黙ることに似ている。
言わないことでしか守れないものがある。
私は息を止めた。
図書室の静けさが、その一文を大きくした。
(……遼)
声に出していないのに、胸の中で名前が鳴った。
遼は黙る。
何も言わない。
何も言わないくせに、ページで答える。栞で呼ぶ。
そして――私の名前は、貸出カードから消されている。
「言わないことでしか守れないもの」
その言葉が、昨日見た空白と結びついて、背中に冷たい汗が浮いた。
もし、遼が何かを知っていて。
もし、遼が何かをしていて。
もし、それが「私を守るため」だったとしたら。
私は慌ててページを閉じかけて、止まった。
閉じたら、ここで終わってしまう気がした。
遼が来ないまま、私だけが取り残される。
指で栞の数字をなぞる。112。
数字は、ただの数字なのに、呼びかけみたいに聞こえる。
私はもう一度、その一文を目でなぞった。
読み返すたび、意味が少しずつ変わる。
最初は恋の言葉に見えたのに、今は罪の匂いが混じる。
(これが“答え”の一部なら、まだ他にもある)
私はそっと栞を抜き取り、ノートに挟んだ。
37、58、112、243。
数字が増えたぶんだけ、不安も増える。
でも増えたぶんだけ、道もできる。
返却処理のために本を閉じ、バーコードをスキャンする。
ピッ、という音が、いつもより乾いて聞こえた。
遼は来ない。
けれど遼のページは、戻ってくる。
私は背表紙を棚に戻しながら、心の中でひとつ決める。
――次は、58の“続き”を探す。
そして、3冊のページを繋いで、最後の一行まで辿り着く。
色も厚みも、昨日からずっと目の端に残っていた背表紙の系統。
私は息を止めて、その本を引き上げる。
――『透明な余白』。
心臓が一つ、遅れて跳ねた。
貸出シールの返却印は、まだ新しい。昨日、遼が借りた本じゃない。けれど「遼が選んだ本」であることだけが、私の中で同じ重さを持っていた。
カウンターの上にそっと置く。
背表紙を撫でる。紙の温度はもうない。
でも、指先が“誰かの手”を探してしまう。
私は本を開いた。
返却処理の前に、中身を確認するのは本当はルール違反じゃない。ページの折れや破れをチェックするのは当番の仕事。
――そう、言い訳しながら。
ぱら、と紙が鳴った。
その音の中に、別の音が混じった。
紙が紙に擦れる、軽い音。何かが落ちかける音。
私は反射的に指で挟んだ。
白い紙片。
細長くて、角が少し丸い。
コピー用紙を切っただけの、あの栞。
(……また)
胸の奥が、熱くなるのと冷えるのが同時に来る。
来ない人の“置いていったもの”ほど、強いものはない。
栞の表に、鉛筆で数字。
――112。
私はその数字を、しばらく見つめた。
37、58、243に重ねると、112はちょうど“次”の手触りだった。
昨日の栞が「そこから始まる」なら、これは「続き」だ。
誰が挟んだのか。
分かってしまうのが怖い。
でも、分からないままにしておく方がもっと怖い。
私は本を抱え、カウンターの内側の椅子に座った。
視線が届かない角度を選ぶ。誰もいないのに、誰かから隠れる癖がついてしまっている。
ページをめくって、112を探す。
指先が震えて、紙を一枚余計に送ってしまう。戻す。もう一度。
123、122、121……。
そして、112。
そのページの真ん中あたりに、鉛筆で引かれたような薄い線が一本ある。
下線じゃない。目印のように、短い。
線の上にある一文が、目に刺さる。
守ることは、黙ることに似ている。
言わないことでしか守れないものがある。
私は息を止めた。
図書室の静けさが、その一文を大きくした。
(……遼)
声に出していないのに、胸の中で名前が鳴った。
遼は黙る。
何も言わない。
何も言わないくせに、ページで答える。栞で呼ぶ。
そして――私の名前は、貸出カードから消されている。
「言わないことでしか守れないもの」
その言葉が、昨日見た空白と結びついて、背中に冷たい汗が浮いた。
もし、遼が何かを知っていて。
もし、遼が何かをしていて。
もし、それが「私を守るため」だったとしたら。
私は慌ててページを閉じかけて、止まった。
閉じたら、ここで終わってしまう気がした。
遼が来ないまま、私だけが取り残される。
指で栞の数字をなぞる。112。
数字は、ただの数字なのに、呼びかけみたいに聞こえる。
私はもう一度、その一文を目でなぞった。
読み返すたび、意味が少しずつ変わる。
最初は恋の言葉に見えたのに、今は罪の匂いが混じる。
(これが“答え”の一部なら、まだ他にもある)
私はそっと栞を抜き取り、ノートに挟んだ。
37、58、112、243。
数字が増えたぶんだけ、不安も増える。
でも増えたぶんだけ、道もできる。
返却処理のために本を閉じ、バーコードをスキャンする。
ピッ、という音が、いつもより乾いて聞こえた。
遼は来ない。
けれど遼のページは、戻ってくる。
私は背表紙を棚に戻しながら、心の中でひとつ決める。
――次は、58の“続き”を探す。
そして、3冊のページを繋いで、最後の一行まで辿り着く。


