翌日から、図書室は“いつも”に戻ろうとしていた。
ポスターは貼り替えられ、掲示板の告発文は剥がされ、先生たちは「調査中」という言葉を校内放送みたいに繰り返す。
でも一度反転した世界は、簡単には元に戻らない。
図書室のドアを開けると、紙の匂いは変わらないのに、私の胸の奥だけが変わっていた。
カウンターに立つと、背中に“見られている”感覚が残る。実際、誰かの視線があるのかもしれないし、私の中の疑いが勝手に視線を作っているのかもしれない。
放課後当番。
いつもなら好きな時間だった。
今日は、時間が重い。
返却ボックスを開け、返却された本を取り出す。
“粉”を探してしまう自分が嫌だ。
底の隅を見てしまう。昨日の黒が残っていないか、紙片が落ちていないか。
何もない。何もないはずなのに、指先がざらりとした感触を覚えている。
私は深呼吸し、棚戻しを始めた。
本の背を揃える。角を直す。ページの折れを戻す。
整えるほど、私の心も整う――はずなのに、今日は整っていかない。
目が、どうしても窓際の席を探す。
遼が座っていた席。
そこだけ、空気が薄い。椅子が空いているのが、妙に目立つ。
(来ない)
昨日の予兆は、予兆で終わらなかった。
遼は昼休みにも来なかった。
放課後も来ない。
昨日だけなら、偶然と言えた。今日は、偶然じゃない。
私は棚の間を歩きながら、耳を澄ませる。
足音。ドアの開く音。
カウンターのベルが鳴る音。
何でもいい。遼が来たと分かる音が欲しい。
でも、図書室は静かだった。
静かすぎて、時計の秒針が紙を削る音みたいに響く。
「……紬」
沙良が、机の間から顔を出した。
司書委員の腕章をつけたまま、そっとこちらに近づいてくる。
彼女の声も、いつもより小さい。
「今日も来ないの? あの子」
“あの子”と言う。
遼の名前を出さないのは、私のためか、彼女自身のためか分からない。
私は首を振った。
「……来てない」
沙良は唇を噛む。
目が、ほんの少しだけ私の胸ポケットに落ちる。栞は入れていない。昨日、家でノートに挟んで持ってきた。37、58、243。数字が並ぶ紙片。
「ねえ、紬……大丈夫?」
また、その言葉。
大丈夫?
私は曖昧に頷いた。曖昧にしか頷けない。大丈夫じゃない、と言ったら、そのまま崩れてしまいそうだった。
沙良はそれ以上踏み込まず、返却本の山に目を移した。
「先生たち、なんか言ってた?」
「……まだ、調査中って」
「そっか……」
調査中。
その言葉の間に、私の名前はまだ宙吊りだ。
“やってない”と私は言った。
でも“やってない”を証明するのは、私の言葉じゃ足りないらしい。
“証拠”。
先生はそれを探している。
私も、探している。
でも私が探したいのは、誰かを罰する証拠じゃない。
遼が何をしたのか。
そして、なぜ私の名前が消されているのか。
それだけだ。
沙良が帰っていくのを見送り、私は窓際の席に視線を戻す。
遼の席は、今日も空だ。
空の椅子が、問いかけてくる。
(来ないのは、私のせい?)
告発文のせい。
調査のせい。
私のせい。
どれも理由になりそうで、どれも理由にしたくない。
私は棚の端に立ち、遼がいつも触れていた背表紙の列を見た。
背表紙の文字が小さく並び、誰かに見つけられるのを待っている。
昨日、確かに本は戻っていた。
栞が挟まっていた。
遼がいなくなった代わりに、ページが残った。
でも今日は――本は、動かない。
棚は静かだ。
栞も増えない。
その“増えない”が、胸を締めつける。
遼の不在は、一日目なら不安。
二日目なら、恐れ。
三日目になると、予感になる。
(このまま、来なくなる)
予感が、確信の輪郭を持ち始める。
私はその輪郭を見ないふりをしながら、指先で背表紙をなぞった。
“落ち着く”。
遼はそう言った。
落ち着く場所に、彼が来られなくなる理由があるとしたら――それは、かなり大きい。
返却本の山が少しずつ減っていく。
棚が整っていく。
図書室は、見た目だけいつも通りになる。
でも、遼の席の空白だけが、埋まらない。
私はカウンターに戻り、ノートを開いた。
そこに挟んである栞三枚を取り出す。
37、58、243。
数字は、黙っている。
私が開かなければ、何も語らない。
遼が来ないのなら、私がページを開くしかない。
胸の奥で、不安が膨らむ。
膨らんだ不安の中心に、遼の名前がある。
(遼、どこにいるの)
問いは声にならず、図書室の静けさに溶けた。
ポスターは貼り替えられ、掲示板の告発文は剥がされ、先生たちは「調査中」という言葉を校内放送みたいに繰り返す。
でも一度反転した世界は、簡単には元に戻らない。
図書室のドアを開けると、紙の匂いは変わらないのに、私の胸の奥だけが変わっていた。
カウンターに立つと、背中に“見られている”感覚が残る。実際、誰かの視線があるのかもしれないし、私の中の疑いが勝手に視線を作っているのかもしれない。
放課後当番。
いつもなら好きな時間だった。
今日は、時間が重い。
返却ボックスを開け、返却された本を取り出す。
“粉”を探してしまう自分が嫌だ。
底の隅を見てしまう。昨日の黒が残っていないか、紙片が落ちていないか。
何もない。何もないはずなのに、指先がざらりとした感触を覚えている。
私は深呼吸し、棚戻しを始めた。
本の背を揃える。角を直す。ページの折れを戻す。
整えるほど、私の心も整う――はずなのに、今日は整っていかない。
目が、どうしても窓際の席を探す。
遼が座っていた席。
そこだけ、空気が薄い。椅子が空いているのが、妙に目立つ。
(来ない)
昨日の予兆は、予兆で終わらなかった。
遼は昼休みにも来なかった。
放課後も来ない。
昨日だけなら、偶然と言えた。今日は、偶然じゃない。
私は棚の間を歩きながら、耳を澄ませる。
足音。ドアの開く音。
カウンターのベルが鳴る音。
何でもいい。遼が来たと分かる音が欲しい。
でも、図書室は静かだった。
静かすぎて、時計の秒針が紙を削る音みたいに響く。
「……紬」
沙良が、机の間から顔を出した。
司書委員の腕章をつけたまま、そっとこちらに近づいてくる。
彼女の声も、いつもより小さい。
「今日も来ないの? あの子」
“あの子”と言う。
遼の名前を出さないのは、私のためか、彼女自身のためか分からない。
私は首を振った。
「……来てない」
沙良は唇を噛む。
目が、ほんの少しだけ私の胸ポケットに落ちる。栞は入れていない。昨日、家でノートに挟んで持ってきた。37、58、243。数字が並ぶ紙片。
「ねえ、紬……大丈夫?」
また、その言葉。
大丈夫?
私は曖昧に頷いた。曖昧にしか頷けない。大丈夫じゃない、と言ったら、そのまま崩れてしまいそうだった。
沙良はそれ以上踏み込まず、返却本の山に目を移した。
「先生たち、なんか言ってた?」
「……まだ、調査中って」
「そっか……」
調査中。
その言葉の間に、私の名前はまだ宙吊りだ。
“やってない”と私は言った。
でも“やってない”を証明するのは、私の言葉じゃ足りないらしい。
“証拠”。
先生はそれを探している。
私も、探している。
でも私が探したいのは、誰かを罰する証拠じゃない。
遼が何をしたのか。
そして、なぜ私の名前が消されているのか。
それだけだ。
沙良が帰っていくのを見送り、私は窓際の席に視線を戻す。
遼の席は、今日も空だ。
空の椅子が、問いかけてくる。
(来ないのは、私のせい?)
告発文のせい。
調査のせい。
私のせい。
どれも理由になりそうで、どれも理由にしたくない。
私は棚の端に立ち、遼がいつも触れていた背表紙の列を見た。
背表紙の文字が小さく並び、誰かに見つけられるのを待っている。
昨日、確かに本は戻っていた。
栞が挟まっていた。
遼がいなくなった代わりに、ページが残った。
でも今日は――本は、動かない。
棚は静かだ。
栞も増えない。
その“増えない”が、胸を締めつける。
遼の不在は、一日目なら不安。
二日目なら、恐れ。
三日目になると、予感になる。
(このまま、来なくなる)
予感が、確信の輪郭を持ち始める。
私はその輪郭を見ないふりをしながら、指先で背表紙をなぞった。
“落ち着く”。
遼はそう言った。
落ち着く場所に、彼が来られなくなる理由があるとしたら――それは、かなり大きい。
返却本の山が少しずつ減っていく。
棚が整っていく。
図書室は、見た目だけいつも通りになる。
でも、遼の席の空白だけが、埋まらない。
私はカウンターに戻り、ノートを開いた。
そこに挟んである栞三枚を取り出す。
37、58、243。
数字は、黙っている。
私が開かなければ、何も語らない。
遼が来ないのなら、私がページを開くしかない。
胸の奥で、不安が膨らむ。
膨らんだ不安の中心に、遼の名前がある。
(遼、どこにいるの)
問いは声にならず、図書室の静けさに溶けた。


