放課後の図書室は、昼間のざわめきが嘘みたいに静かだ。
窓の外では部活の掛け声が遠くにほどけて、廊下の足音も、ここに入る手前で一度小さくなる。私はその「一度小さくなる」に、いつも救われる。
返却ボックスの蓋を開けると、紙の匂いと、誰かの手の温度が混ざったような空気が上がってきた。
本を一冊ずつ取り出し、背を撫でる。傷んだ角はセロテープで補修し、ページの折れは指でそっと戻す。返却期限の紙片が挟まっていれば、抜いて捨てる。ルールは単純だ。淡々とやればいい。淡々とやるほど、心が整う。
司書委員は私以外にもいる。だけど、放課後の当番に自分から残る人は少ない。
みんな忙しい。部活も、塾も、友だちとの約束もある。私だって忙しい日はあるけれど、ここにいると「忙しい」が少し薄まる気がした。
カウンターの上に積んだ返却本の山が、机の高さを越えないように整える。
背表紙の色が自然にグラデーションになるのが好きだ。書名の並びが整うと、呼吸も揃う。
――そのとき、入口のドアが、静かに開いた。
「いらっしゃいませ」と言いかけて、私は声を飲み込む。
この時間に入ってくる人はだいたい決まっている。遅くまで残って課題をする子か、先生か、そして――彼。
遼は、いつも同じ歩幅で入ってくる。急ぎもしない、迷いもしない。
視線をまっすぐ前に置いたまま、カウンターには来ない。返却もしない。最初に向かうのは、奥の棚だ。
私は彼の背中を、見ないふりをしながら見てしまう。
規則としては、当番は利用者を見守る。盗難防止も、迷惑行為の抑止も含めて。だから見ていること自体は変じゃない、と自分に言い訳しながら。
遼が立ち止まるのは、決まって文学の棚の端――派手な装丁が少なくて、背表紙の文字が小さいあたりだ。
新刊コーナーにも、マンガの棚にも寄らない。話題作にも、映画化の帯にも反応しない。まるで最初から目的地が決まっているみたいに、そこへだけ向かう。
その日もそうだった。
彼は、棚の前でほんの少し顔を傾け、指先で背をなぞる。一本ずつ、確かめるみたいに。
そして、迷わず一冊を引いた。
私は思わず、ペン先を止める。
また、同じ棚。――また、同じ系統の本。
(……棚の癖)
誰にでも癖はある。好きなジャンル、落ち着く場所。
だけど遼のそれは、少しだけ「意図」に見える。
例えば、昼休みに人が多いとき。
彼は他の棚で立ち読みをするふりをして、最後に必ずここへ戻ってくる。
例えば、貸出中で目当ての本が無いとき。
別の本を手に取ってみせるけれど、結局借りるのは似た背表紙の、似た厚みのものだ。
……まるで、「そこにしかない何か」を探しているみたいに。
カウンターの端に置いた当番表に、今日の日付を丸で囲む。
紬――自分の名前の横に、小さな丸がひとつ。
私はその丸に触れないように、指を引っ込めた。
遼が本を胸に抱えてカウンターへ向かってくる。
足音が、図書室の床に柔らかく落ちる。
彼は目を合わせない。合わせないけれど、ちゃんとこちらを見ている気配がする。
「……借ります」
声は低くて、淡々としている。
私は慌てて笑顔を作り、貸出票を差し出した。
「はい。学年とクラス、名前を」
遼はペンを取り、迷いのない筆圧で書く。
整った字。線が細いのに、意志だけは太い。私はその書き方を、なぜか知っている気がした。
返却期限のスタンプを押しながら、私は、できるだけ自然に聞いた。
「……また、その棚の本なんだね」
言ってしまってから、胸が少し跳ねる。
監視みたいで嫌だと思われるかもしれない。
でも、遼は驚いたように目を上げて、それから――ほんのわずか、口角を動かした。
「……落ち着く」
たったそれだけ。
それなのに、返却期限の赤い数字が、急にまぶしく見えた。
「そっか」
私は笑って、貸出カードを本の裏表紙から引き出す。
借りた人の名前と日付が並ぶ、薄い紙。
本の歴史が小さく詰まったそのカードが、私は好きだ。
名前を書く、という行為は、そこに居た証になる。
誰かがこのページをめくり、この言葉に触れた証になる。
遼の名前を書き足しながら、私はふと、あることに気づく。
この本――最近、回るのが早い。
同じ名前が短い間隔で並ぶ。日付が妙に整って見える。
偶然、ではない気がした。
けれど私は、その違和感を、まだ言葉にできない。
遼に本を渡すと、彼は受け取って、少しだけ指を止めた。
まるで、何か言いかけているみたいに。
「……」
でも、結局彼は何も言わず、軽く会釈をして、奥の机へ向かった。
いつもの、窓際の席。
そこも、彼の癖だ。
私はカウンターに戻り、積み上げた返却本の山を見下ろす。
静かな図書室。整った背表紙。規則正しい作業。
私の居場所は、いつも通りそこにある。
――けれど、貸出カードに残った遼の名前だけが、少しだけ、いつもと違う重さで胸に残った。
窓の外では部活の掛け声が遠くにほどけて、廊下の足音も、ここに入る手前で一度小さくなる。私はその「一度小さくなる」に、いつも救われる。
返却ボックスの蓋を開けると、紙の匂いと、誰かの手の温度が混ざったような空気が上がってきた。
本を一冊ずつ取り出し、背を撫でる。傷んだ角はセロテープで補修し、ページの折れは指でそっと戻す。返却期限の紙片が挟まっていれば、抜いて捨てる。ルールは単純だ。淡々とやればいい。淡々とやるほど、心が整う。
司書委員は私以外にもいる。だけど、放課後の当番に自分から残る人は少ない。
みんな忙しい。部活も、塾も、友だちとの約束もある。私だって忙しい日はあるけれど、ここにいると「忙しい」が少し薄まる気がした。
カウンターの上に積んだ返却本の山が、机の高さを越えないように整える。
背表紙の色が自然にグラデーションになるのが好きだ。書名の並びが整うと、呼吸も揃う。
――そのとき、入口のドアが、静かに開いた。
「いらっしゃいませ」と言いかけて、私は声を飲み込む。
この時間に入ってくる人はだいたい決まっている。遅くまで残って課題をする子か、先生か、そして――彼。
遼は、いつも同じ歩幅で入ってくる。急ぎもしない、迷いもしない。
視線をまっすぐ前に置いたまま、カウンターには来ない。返却もしない。最初に向かうのは、奥の棚だ。
私は彼の背中を、見ないふりをしながら見てしまう。
規則としては、当番は利用者を見守る。盗難防止も、迷惑行為の抑止も含めて。だから見ていること自体は変じゃない、と自分に言い訳しながら。
遼が立ち止まるのは、決まって文学の棚の端――派手な装丁が少なくて、背表紙の文字が小さいあたりだ。
新刊コーナーにも、マンガの棚にも寄らない。話題作にも、映画化の帯にも反応しない。まるで最初から目的地が決まっているみたいに、そこへだけ向かう。
その日もそうだった。
彼は、棚の前でほんの少し顔を傾け、指先で背をなぞる。一本ずつ、確かめるみたいに。
そして、迷わず一冊を引いた。
私は思わず、ペン先を止める。
また、同じ棚。――また、同じ系統の本。
(……棚の癖)
誰にでも癖はある。好きなジャンル、落ち着く場所。
だけど遼のそれは、少しだけ「意図」に見える。
例えば、昼休みに人が多いとき。
彼は他の棚で立ち読みをするふりをして、最後に必ずここへ戻ってくる。
例えば、貸出中で目当ての本が無いとき。
別の本を手に取ってみせるけれど、結局借りるのは似た背表紙の、似た厚みのものだ。
……まるで、「そこにしかない何か」を探しているみたいに。
カウンターの端に置いた当番表に、今日の日付を丸で囲む。
紬――自分の名前の横に、小さな丸がひとつ。
私はその丸に触れないように、指を引っ込めた。
遼が本を胸に抱えてカウンターへ向かってくる。
足音が、図書室の床に柔らかく落ちる。
彼は目を合わせない。合わせないけれど、ちゃんとこちらを見ている気配がする。
「……借ります」
声は低くて、淡々としている。
私は慌てて笑顔を作り、貸出票を差し出した。
「はい。学年とクラス、名前を」
遼はペンを取り、迷いのない筆圧で書く。
整った字。線が細いのに、意志だけは太い。私はその書き方を、なぜか知っている気がした。
返却期限のスタンプを押しながら、私は、できるだけ自然に聞いた。
「……また、その棚の本なんだね」
言ってしまってから、胸が少し跳ねる。
監視みたいで嫌だと思われるかもしれない。
でも、遼は驚いたように目を上げて、それから――ほんのわずか、口角を動かした。
「……落ち着く」
たったそれだけ。
それなのに、返却期限の赤い数字が、急にまぶしく見えた。
「そっか」
私は笑って、貸出カードを本の裏表紙から引き出す。
借りた人の名前と日付が並ぶ、薄い紙。
本の歴史が小さく詰まったそのカードが、私は好きだ。
名前を書く、という行為は、そこに居た証になる。
誰かがこのページをめくり、この言葉に触れた証になる。
遼の名前を書き足しながら、私はふと、あることに気づく。
この本――最近、回るのが早い。
同じ名前が短い間隔で並ぶ。日付が妙に整って見える。
偶然、ではない気がした。
けれど私は、その違和感を、まだ言葉にできない。
遼に本を渡すと、彼は受け取って、少しだけ指を止めた。
まるで、何か言いかけているみたいに。
「……」
でも、結局彼は何も言わず、軽く会釈をして、奥の机へ向かった。
いつもの、窓際の席。
そこも、彼の癖だ。
私はカウンターに戻り、積み上げた返却本の山を見下ろす。
静かな図書室。整った背表紙。規則正しい作業。
私の居場所は、いつも通りそこにある。
――けれど、貸出カードに残った遼の名前だけが、少しだけ、いつもと違う重さで胸に残った。


