台本にない恋、はじめました。

 部屋に戻されてから、どれくらい時間が経ったのか分からない。
 カーテンの隙間から差し込む外灯の光が、床に細長い影を落としている。それをぼんやり眺めながら、俺はベッドの端に座ったまま動けずにいた。
 スマホは机の上に置いたままだ。
通知が来ていないか、確認するのが怖い。
 もし、何も来ていなかったら。すべてが「なかったこと」になっていたら。
 考え始めると、胸の奥がきしむ。
 さっきまで、あんなにも騒がしかった。カメラ、照明、ざわめき、視線。
それなのに、今は驚くほど静かだ。
 世界が一度、俺を置いて止まったみたいだった。
 ベッドに仰向けになり、天井を見る。白いだけの天井。高校の頃、三國の部屋で二人並んで寝転んだときも、こんなふうに何もない天井を見ていた気がする。
 どうして、あのとき言えなかったんだろう。
 好きだった。今なら、はっきり言える。あの頃からずっと。
 三國が俺の隣にいるのが当たり前で、声をかけてくれるのが自然で、笑うときに少し目を細める癖を知っていて。それを全部「友情」だと呼んで、疑いもしなかった。
 疑わなかったんじゃない。疑わないようにしていた。
 もし気づいてしまったら、壊れると思っていたから。
 王子様でいる自分。みんなの期待に応える自分。
正解を選び続ける自分。そのどれにも、三國への恋は収まらなかった。
 だから逃げた。卒業式の日、何も言わずに。
 布団に顔を埋める。
息が、少しだけ震えた。
 最低だと思う。今さらになって、向き合うなんて。三國が、あんなにも勇気を出してくれたあとで。
 だとしても、あの瞬間、三國が俺を見て言った「好きだ」という言葉は、確かに俺を救った。
 誰かに選ばれるための「王子様」じゃなくて。誰かの期待に応えるための役割でもなくて。
 ただ、一人の人間として俺は初めて、真正面から見られた気がした。
 胸に手を当てるが、まだ、心臓は早い。
 怖いのはもちろんのこと、この先どうなるのか、分からない。

 仕事も、番組も、世間も。全部、俺の味方じゃないかもしれないが、もし時間を巻き戻せたとしても、俺はあの場で同じ顔をして、同じように立ち尽くして、同じように動揺したと思う。
 だって、あれは嘘じゃなかった。
 涙が、ようやく一筋こぼれた。声を殺して、袖で拭う。泣くつもりなんてなかったのに、勝手に溢れてくる。
 ──好きだ。
 それだけの感情が、こんなにも重くて、苦しくて、それでも手放したくない。
 スマホが、短く震えた。反射的に体が強張る。画面を伏せたまま、しばらく動けなかった。
 深呼吸をしてから、ゆっくりと手を伸ばす。表示された通知は、スタッフからの簡単な連絡だった。
明日についての話。詳細は後日。
 それだけ。分かっていたはずなのに、少しだけ、肩の力が抜ける。
 ベッドに横になり、目を閉じる。三國の声が、また耳に蘇る。
少し掠れた声と真っ直ぐな目。
 逃げなかったこと、それだけで、今夜は十分だ。
 明日、世界がどう変わっても俺は、この夜のことを忘れない。
 自分の気持ちを、初めて裏切らなかった夜を。
 
 そのとき突如ノックの音がして、俺は少しの間呼吸を忘れた。
 この時間帯に、部屋を訪ねてくる人間は限られている。スタッフか、それとも──。

「……花埜、起きてる?」

 ドア越しに聞こえた声は、間違いなく三國のものだった。
 胸の奥が、ひどく音を立てる。

「起きてる」

 そう答えるまでに、ほんの数秒かかった。声が震えないよう、喉に力を入れる。ドアを開けると、廊下の薄暗い照明の中に、三國が立っていた。
 昼間のステージの上とは、まるで別人みたいだった。派手な衣装も、整えられた髪もない。ただの私服姿で、少しだけ肩を落としている。

「……急にごめん。少しだけ、話せる?」

 俺は黙って頷いた。
 部屋に招き入れると、三國は遠慮がちに足を踏み入れ、ドアの近くに立ったまま動かなかった。まるで、一線を越えるのをためらっているみたいに。

「座る?」
「あ、いや……大丈夫」

 結局、二人とも立ったまま、微妙な距離を空けて向かい合う。
 沈黙が落ちる。
 昼間、あれほど言葉が溢れていたはずなのに、今は何を言えばいいのか分からない。視線を合わせるのが怖くて、床を見る。

「……今日は、ごめん」

 先に口を開いたのは、三國だった。

「本当は、あんな形で言うつもりじゃなかった」

 声は落ち着いているけれど、指先がわずかに震えているのが分かる。

「番組も、花埜も……全部、混乱させた」
「……」

 俺は首を振った。

「謝られることじゃない」

 自分でも驚くほど、はっきり言えた。

「三國が悪いわけじゃない」

 顔を上げると、三國がこちらを見ていた。探るような目。怯えるような目。

「……後悔、してない?」

 小さな声だった。

 胸が、きゅっと締めつけられる。

「してない」

 即答だった。

「怖いけど……後悔はしてない」

 三國は、ふっと息を吐いた。

「よかった」

 その一言が、ひどく重く感じられる。
 よかったなんて、そんな言葉を使わせてしまったことに、胸が痛む。

「俺さ」

 三國は、少し視線を逸らしてから言った。

「花埜が応援するって言ってくれたとき……本当は、あれで終わりにするつもりだった」
「……」
「自分の気持ち、しまって。番組では普通にやって。花埜が誰かと成立しても……ちゃんと笑おうって」

 その言葉一つ一つが、胸に刺さる。
 俺は、知らなかった。知らないまま、三國にあんなことを言っていた。

「でも」

 三國が、またこちらを見る。

「無理だった」

 その目はいつも通り凛としていた。

「最後の日が近づくほど、逃げる自分が嫌でさ」 

 俺は、何も言えなかった。
 代わりに、一歩だけ近づくと、三國の肩がわずかに揺れた。

「……ありがとう」

 三國が、ぽつりと言う。

「告白、受け止めてくれて」
「……うん」

 受け止めた。それだけは、確かだ。
 でも、未来の形は、まだ分からない。

「番組のこと、これからどうなるか分からない」

 三國が続ける。

「放送されないかもしれないし、変な編集になるかもしれない」
「……分かってる」
「けどさ」

 三國は、少しだけ笑った。高校の頃と同じ、柔らかい笑い方。

「俺は、言えてよかった」

 胸の奥が、熱くなる。

「逃げなかったから」

 その言葉に、視界が滲んだ。
 俺は慌てて瞬きをする。泣くつもりなんてなかった。

「……三國」
「なに?」
「……ありがとう」

 それしか言えなかった。
 まだ恋人でもないだろうし、答えも出ていなくても、今ここに立って、同じ時間を共有している。
 それだけで、十分だった。

「じゃあ……今日は、戻る」

 三國はそう言って、ドアに手をかける。
 一瞬、振り返った。

「花埜」
「うん」
「……無理しなくていいから」

 その言葉が、ひどく優しくて、残酷だった。
 ドアが閉まる。部屋に残された静けさの中で、俺はしばらく動けなかった。
 成立も、不成立も、まだ先だが、少なくとも、俺たちはもう逃げていないということが確かな事実だった。