台本にない恋、はじめました。

 周囲のざわめきは、まだ止まっていない。スタッフの動きが一瞬止まり、次の瞬間にはインカム越しに抑えきれない声が飛び交う。

 カメラは切られない。切れない、が正しいのかもしれない。
 男女の恋愛リアリティーショーで、予兆もなく男が男に告白した。それも、番組の中心人物同士で。
 異常事態かつ、放送事故。
そういう言葉が、空気の奥に沈んでいるのがわかる。
 でも、俺の世界には、もう三國しかいなかった。
 目の前で、少しだけ緊張した顔で立っている三國。さっきまでの強がりも、覚悟も、全部使い切ったみたいな表情。
 ──ああ、そうだったんだ。
 頭の中で、点が線になる。
手紙の言葉。字体。高校の記憶。卒業式の日という思い出に置き去りにしてきた三國の姿。
 全部、俺が見ないふりをしてきたものだった。
 胸が苦しいほど熱くなる。
 逃げたい、と思っても、それ以上に──逃げちゃいけない、と思った。
 三國はずっとここに立っていた。俺が気づくのを待っていたんだ。
 俺は、ゆっくり息を吸った。
 カメラがあるし、人がいる。世界が、俺たちを見ている。
 それでも、今だけは、全部を忘れて、三國の前に立ちたい。

「……三國」

 声が震えた。自分でも驚くほど、正直な声だった。

「俺さ……」

 言葉が長い間詰まる。王子様みたいに格好よくなんて言えない。
 でも、もういい。

「ずっと、自分の気持ちがわからなかった」

 視線を逸らしたら、もう戻れない気がして必死に三國を見る。

「好きになる資格があるのかとか、番組がどうとか、みんなの期待とか……」

 変なふうに声を出してしまい、喉が痛い。それでも、止めなかった。

「全部、言い訳だった」

 ざわめきが、少し遠のいた気がする。

「三國はさ……俺が一番、俺でいられる場所だった」

 高校の教室に放課後の帰り道。何も飾らなくてよかった時間。

「触れられると安心して、離れるのが、怖くて……」

 笑ってごまかすこともできない。

「だから、逃げた」

 卒業式の日。何も言わずに、消えたこと。

「……ごめん」

 三國の目が、わずかに揺れた。俺は、深く息を吸い直す。

「でも」

 ここからが、本当の答えだ。

「今日、ここで、三國が俺に気持ちを向けてくれたこと」

 胸に手を当てる。

「正直、怖い。失うものも、たくさんあると思う」

 王子様、芸能人、理想の自分。様々な単語が頭の中を反響している。

「それでも」

 声が、はっきりした。

「俺は、三國に告白されて……嬉しかった」

 その一言で、三國の目が大きく見開かれる。

「誰かの期待じゃなくて、番組の正解じゃなくて」

 一歩、踏み出す。

「俺自身の気持ちとして」

 胸が、もう痛くない。

「三國のことが──」

 ノイズが、一気に大きくなる。
スタッフの誰かが名前を呼んでいても、もう関係ない。

「……好きだ」

 言った。ついに言ってしまった。世界が、静止したような気がした。
 三國の表情が、ゆっくりほどけていく。泣きそうで、笑いそうで、信じられないみたいな顔。
 その顔を見た瞬間、俺は確信した。
 ああ、これが俺の選んだ答えだ、と。
 番組がどうなるかなんて、わからない。この先が、簡単じゃないことも、わかってる。
 それでも。ここで嘘をつくより、ずっと、ましだ。
 カメラの向こうで、世界が大きく揺れている音がした。
 でも俺は、ただ三國だけを見ていた。彼の声が、まだ耳の奥で反響している。
 ──好きだ。たったそれだけの言葉だったのに、世界の輪郭が一瞬で歪んだ。
 ざわ、と音が遅れて押し寄せてくる。

「え……?」

「今、誰に言った?」

「稲垣くん……香坂くんに……?」

 最初は小さな囁きだったのに、それが一気に膨れ上がる。驚き、困惑、好奇、混乱。視線が四方八方から突き刺さる。まるで俺と三國が、透明な水槽の中に放り込まれたみたいだった。
 俺は動けなかった。
 目の前には三國がいる。ただそれだけなのに、足が床に縫い止められたみたいに動かない。息の仕方も、瞬きの仕方も、全部忘れてしまった。
 ──どうして。
 頭の中で、意味のない言葉がぐるぐる回る。心臓の音だけがやけに大きい。

「……え、ちょっと待って」

「これ、番組的に……」

 スタッフの誰かが小声でそう言ったのが聞こえ、空気が変わった。

「一度、止めます!」

 鋭い声が飛ぶ。
 カメラが一斉に動きを止める。ブームマイクが引き上げられ、照明が落とされる。さっきまで“告白の場”だった場所が、急にただのセットに戻っていく。
 世界が、現実に引き戻される。

「香坂くん、稲垣くん、少しこちらへ」

 スタッフに声をかけられたが、俺はすぐに反応できなかった。三國の顔を見るのが怖かった。さっきまで真っ直ぐだった視線が、今は少しだけ揺れている気がして。
 俺は、今、どんな顔をしてるんだろう。
 王子様みたいに微笑んでいるのか。それとも、全部を失ったみたいな顔をしているのか。
 周囲のメンバーたちは、完全に取り残されていた。姫川さんが口元を押さえたまま固まっているのが見える。伊藤さんは、何か言いたそうにして、それでも言葉を失っている。
 誰も悪くないのに、誰も正解じゃないみたいな空気。
 俺と三國は、少し距離を空けて別々の方向に誘導された。
 振り返りそうになるのを、必死で堪える。今、三國を見たら、きっと全部崩れてしまう。
 廊下に足を踏み入れた瞬間、足の力が抜けた。壁に手をつかなければ、立っていられなかった。喉の奥が詰まって、息がうまく吸えない。涙が出るわけでもない。ただ、感情が渋滞しているみたいに、何も外に出てこない。
 俺は、何をしたんだろう。でも、不思議と後悔はなかった。
 怖い。全部壊れるかもしれない。
今まで積み上げてきたものが、一瞬でなくなるかもしれない。
 が、あの瞬間、三國が俺を見て言った「好きだ」という言葉だけは、嘘じゃなかった。そして、それを受け止めた自分の心も。
 スタッフが何か説明している声が聞こえる。


「確認が必要で」
「放送について」
「少し時間を……」

 そんな言葉は、どれも遠い。俺の中にあるのは、ただ一つ。もう、逃げられないということ。
 高校の卒業式の日、何も言わずに三國の前から消えたあの日。
 あのときに置き去りにした感情が、何年もかけて、ここまで追いかけてきた。
 王子様でいることも、正解を選び続けることも、もうどうでもいい。
 ただ、あの人が好きだという事実だけが、こんなにも重く、確かに、胸の奥にある。
 廊下の向こうで、ドアが閉まる音がした。
きっと、三國もどこかで待たされている。
 今はまだ、答えを出す時間ではないかもしれないがら心はもう決まっている。
 この気持ちを、なかったことにはしない。
 たとえ、世界がそれを許さなくても。

 ※※※

 白い部屋だった。無機質な長机と、パイプ椅子が三つ。壁には何も貼られていない。さっきまであれだけ眩しかった照明の熱も、ここには届いていなかった。
 椅子に座るよう促され、言われるまま腰を下ろす。手のひらがじっとりと湿っているのに気づいて、膝の上でそっと握りしめた。
 数秒遅れて、プロデューサーが入ってくる。
 テレビで何度も見た顔だ。柔らかく笑う人、場を盛り上げる人。その笑顔が今はなく、代わりに事務的な無表情が貼りついている。

「……香坂くん」

 名前を呼ばれただけで、背筋が伸びた。

「状況は、理解していますか?」

 責める口調ではない。ただ、確認するような声音だった。
 それが余計に怖い。

「はい……」

 声が少し掠れた。

「今回の告白は、この番組の前提を大きく逸脱しています」

 淡々と、事実だけを告げられる。

「この番組は、男女のカップル成立を前提に構成されている。スポンサーも、視聴者も、そこを期待している」

 俺は黙って頷くしかなかった。
 分かっていた。最初から。

「正直に言うとね」

 プロデューサーは一度、息を吐いた。

「このまま放送するかどうかは、かなり難しい判断になる」

 胸が、ぎゅっと縮む。
 カットされる。なかったことにされる。最初から存在しなかったみたいに。
 その可能性を、頭では理解していたはずなのに、いざ言葉にされると、心の奥がずきりと痛んだ。

「香坂くんは、芸能活動もしていますよね」
「……はい」
「今回の件で、イメージに影響が出る可能性もある。最悪の場合、今後の仕事に支障が出ることも考えられる」

 それでも、声は冷静だった。
脅しじゃない。ただの現実。
 俺は、少しだけ目を伏せた。
 頭の中に、今までの自分が浮かぶ。
 期待される自分。笑顔で、正解を選び続けてきた自分、でも──。

「……それでも」

 気づいたら、口が動いていた。
 プロデューサーが、わずかに眉を上げる。

「俺はあの告白がなかったことになるとしたなら……それでも構いません。そう思っています。」

 自分でも驚くほど、はっきりした声だった。

「放送されなくてもいい。編集で切られてもいい。叩かれても……ただ」

 言葉を探す。

「俺の気持ちだけは、嘘じゃないんです」

 沈黙が落ちる。
 時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえた。

「……強いですね」

 プロデューサーが、ぽつりと言った。

「いえ」

 首を振る。

「強くないです。逃げてきただけで……」

 高校の卒業式。
何も言わずにいなくなったこと。自分を守るために、誰かを置いてきたこと。

「だから、今度こそ逃げたくないんです」

 プロデューサーは、しばらく俺を見つめていた。

 商品を見る目でも、タレントを見る目でもなく、一人の人間を、測るような視線だった。

「分かりました」

 やがて、静かに言う。

「少し時間をください。制作側で協議します」
「……はい」
「それと」

 立ち上がりかけたところで、呼び止められる。

「香坂くん。これは忠告でも、お願いでもない。ただの事実として聞いてほしい」

 俺は顔を上げた。

「選んだ以上、もう元には戻れません」

 その言葉に、不思議と恐怖はなかった。むしろ、胸の奥が、少しだけ軽くなる。

「……大丈夫です」

 そう答えた自分の声は、震えていなかった。
 部屋を出るとき、ドアの向こうに広がる廊下が、やけに長く感じられた。
 それでも、足は前に出る。もう、覚悟は決めたんだ。