五日目の朝は今までの合宿の朝の中で、一番静かだった。
合宿所の廊下を歩く足音が、いつもより少ないし、みんな必要以上に声を出さない。
それぞれが、それぞれの結末を想像しているからだ。
今日で終わるという事実だけが、胸の奥で重く沈んでいる。
洗面所で顔を洗い、鏡を見ると、そこに映る自分は笑っていなかった。
俺は何をしに来たんだろう。
答えはわかっていても口に出せるほど、整理はできていない。
朝食の席でも、空気は張りつめていた。三國は、少し離れた席に座っている。視線が合いそうで、合わない。
伊藤さんは、静かに箸を動かしていた。姫川さんは、いつも通りの笑顔を浮かべながら俺にだけ小さく頷いてみせた。
……姫川さん。胸が、きゅっと締めつけられる。
三日目にちゃんと話した。俺の弱さも、逃げも、全部さらけ出した。
それなのに俺はまだ、ここにいる。
昼前、スタッフから告げられた。
「これから、順番に呼び出します。呼ばれた方は、指定の場所へ向かってください」
誰に呼ばれるのかは、知らされない。ただ、名前だけが呼ばれる。その仕組みが、残酷だと思った。
先に何人かが呼ばれていく。帰ってきた人もいれば、戻らない人もいる。
三國は、まだということに、心拍数が上がる。
そして。
「香坂さん」
俺の名前が、呼ばれた。正直に言えば、耳を疑った。
立ち上がると、足が少し震えている。一体、誰なのだろう。
姫川さんかもしれない。初日の赤チームの誰かかもしれない。あるいは、昨日まで手紙をくれていた“誰か”。
確信しているのは、三國じゃないことだけ。そう思い込もうとする自分がいる。
案内されたのは、大学構内の外れ。木立に囲まれた、小さな広場だった。
人の気配は、ほとんどない。ただ、風が葉を揺らす音だけが響く。
ここで、俺は誰かに告白されるんだ。
一歩、踏み出す。そして、視界の先に、一人、立っている人影が見えた。
背中。立ち姿。見間違えるはずがなかった。
三國……?
その瞬間、思考が止まった。まさか、という言葉が、何度も頭の中を回る。
でも、距離が縮まるにつれて、その“まさか”は現実になっていく。
三國が振り返った。
「……来たか」
いつもの声と太陽のように眩しい笑顔。少しだけ、緊張を含んだ声。
「ここに呼ばれたってことは……」
俺は言葉を失った。
なんで。問いが、喉の奥で詰まる。
ざわめきが、遅れて届いた。遠くでスタッフや他の参加者たちの気配が動く。何かが起きていると、察している音。
三國は、一度、深く息を吸った。
「花埜」
名前を呼ばれただけで、背すじがぴんと張る。聞き慣れた名前を呼ぶ声なのに、今日はどこか声色が違う。
「俺さ……」
言葉を選ぶように、少し間があった。
「番組が始まる前から、ずっと、好きな人がいた」
頭の中が、真っ白になる。
……それ、聞いた。四日目の夜、応援すると言った。抱きしめた──でも。
「それが、誰かって言ったら」
三國の視線が、まっすぐ俺を捉える。
心臓が破裂しそうなくらいバクバクと鳴っていて、三國の声はほとんど聞こえなかった。
「花埜だよ」
またたく間に俺の世界から音が消えた。風の音も、遠くのざわめきも、全部、遮断されたみたいに。
……は? 理解が、追いつかない。
つい先刻までは、周りの音が正しく聞き取れなかったのに、今は鮮明に聞こえている。
「高校のときから」
彼は困惑している俺に構わず、言葉を続ける。
「お前がいなくなってからも、ずっと」
胸が、苦しい。息の仕方が、わからない。
冗談だろう? でも、三國の顔は真剣で、逃げ場のない目をしていた。
ざわざわと、周囲が騒ぎ出す。誰かが息を呑む音や小さな声で名前を呼ぶ音。
番組の空気が、一気に揺れる。
……告白、されてる。今さら、その事実に気づく。
俺は何も言えず、足元は不安定だ。
三國が一歩、近づいた。
「花埜が好きなんだ」
それだけで、場の温度が一気に変わったのがわかった。
一拍、遅れてざわり、と音が走る。
誰かが息を呑み、小さく「え……?」と漏らした。それが、連鎖する。
「……今、何て?」
「香坂くんと稲垣くんだよね……?」
「え、待って、手紙って……」
囁き声が、重なり合う。 決して大きな声ではないのに、そのざわめきは、耳鳴りのように俺を包んだ。
視界の端で、スタッフが動くのが見えた。
無線に手を伸ばす人や顔を見合わせる人に、想定外なんだという事実を、身体で理解してしまう。
これは、番組が用意してきた「告白」じゃない。 台本にないし、予定調和じゃない。
俺と三國の間に立ち込める空気が、場の均衡を、完全に壊していた。
「ちょっと……」
「嘘でしょ……?」
後方で、誰かが肩を掴まれている。
制止する声。それでも視線は、俺たちから離れない。
伊藤さんの姿が、ふと目に入った。表情が、凍りついている。理解できない、という顔。
姫川さんは──少し離れた場所で、まっすぐこちらを見ていた。驚きと、覚悟と、そして、どこかで理解しているような目。
……みんな、見ないでくれ。
でも、視線を逸らすことすら、できなかった。
三國は周囲の反応を気にしていないようだ。 それとも、気づいていないふりをしているだけか。
ざわめきは、さらに広がる。
「これ、放送できるの……?」
「え、でも……ルール的に……」
「プロデューサー、どうするんだろ」
誰かの言葉が、断片的に耳に入った。 『番組』『ルール』『放送』それらの単語が、刃物みたいに刺さる。
壊しているんだ。
三國が言っていた通りだ。自分の感情が、番組を壊すかもしれない、って。
今まさに、カメラが俺たちを捉え続けているのがわかる。 逃げ場はない。『王子様』という視聴者が期待する存在。
その俺が、男から告白されて、何も言えずに立ち尽くしている。
あーあ……笑えよ。無意識に口角を上げようとするが、顔が動かない。
誰かが俺の名前を呼んだ気がしても、どこからなのかわからない。
足元がぐらつく。
三國はそんな俺を見て、わずかに眉を下げた。
「……無理しなくていい」
その一言で、張り詰めていた何かが、切れそうになる。
鬱陶しいざわめきは、もう、背景音じゃない。俺たちを中心に、渦を巻いている。
この場にいる全員が、「想定外」を目撃している。番組的な“異常事態”。
その中心に、俺と三國が立っている。
息がうまく吸えなければ、言葉も選べない。ただ、三國の視線だけが、やけに鮮明で。
俺は返事をする前に、世界が壊れていく音を確かに聞いていた。
合宿所の廊下を歩く足音が、いつもより少ないし、みんな必要以上に声を出さない。
それぞれが、それぞれの結末を想像しているからだ。
今日で終わるという事実だけが、胸の奥で重く沈んでいる。
洗面所で顔を洗い、鏡を見ると、そこに映る自分は笑っていなかった。
俺は何をしに来たんだろう。
答えはわかっていても口に出せるほど、整理はできていない。
朝食の席でも、空気は張りつめていた。三國は、少し離れた席に座っている。視線が合いそうで、合わない。
伊藤さんは、静かに箸を動かしていた。姫川さんは、いつも通りの笑顔を浮かべながら俺にだけ小さく頷いてみせた。
……姫川さん。胸が、きゅっと締めつけられる。
三日目にちゃんと話した。俺の弱さも、逃げも、全部さらけ出した。
それなのに俺はまだ、ここにいる。
昼前、スタッフから告げられた。
「これから、順番に呼び出します。呼ばれた方は、指定の場所へ向かってください」
誰に呼ばれるのかは、知らされない。ただ、名前だけが呼ばれる。その仕組みが、残酷だと思った。
先に何人かが呼ばれていく。帰ってきた人もいれば、戻らない人もいる。
三國は、まだということに、心拍数が上がる。
そして。
「香坂さん」
俺の名前が、呼ばれた。正直に言えば、耳を疑った。
立ち上がると、足が少し震えている。一体、誰なのだろう。
姫川さんかもしれない。初日の赤チームの誰かかもしれない。あるいは、昨日まで手紙をくれていた“誰か”。
確信しているのは、三國じゃないことだけ。そう思い込もうとする自分がいる。
案内されたのは、大学構内の外れ。木立に囲まれた、小さな広場だった。
人の気配は、ほとんどない。ただ、風が葉を揺らす音だけが響く。
ここで、俺は誰かに告白されるんだ。
一歩、踏み出す。そして、視界の先に、一人、立っている人影が見えた。
背中。立ち姿。見間違えるはずがなかった。
三國……?
その瞬間、思考が止まった。まさか、という言葉が、何度も頭の中を回る。
でも、距離が縮まるにつれて、その“まさか”は現実になっていく。
三國が振り返った。
「……来たか」
いつもの声と太陽のように眩しい笑顔。少しだけ、緊張を含んだ声。
「ここに呼ばれたってことは……」
俺は言葉を失った。
なんで。問いが、喉の奥で詰まる。
ざわめきが、遅れて届いた。遠くでスタッフや他の参加者たちの気配が動く。何かが起きていると、察している音。
三國は、一度、深く息を吸った。
「花埜」
名前を呼ばれただけで、背すじがぴんと張る。聞き慣れた名前を呼ぶ声なのに、今日はどこか声色が違う。
「俺さ……」
言葉を選ぶように、少し間があった。
「番組が始まる前から、ずっと、好きな人がいた」
頭の中が、真っ白になる。
……それ、聞いた。四日目の夜、応援すると言った。抱きしめた──でも。
「それが、誰かって言ったら」
三國の視線が、まっすぐ俺を捉える。
心臓が破裂しそうなくらいバクバクと鳴っていて、三國の声はほとんど聞こえなかった。
「花埜だよ」
またたく間に俺の世界から音が消えた。風の音も、遠くのざわめきも、全部、遮断されたみたいに。
……は? 理解が、追いつかない。
つい先刻までは、周りの音が正しく聞き取れなかったのに、今は鮮明に聞こえている。
「高校のときから」
彼は困惑している俺に構わず、言葉を続ける。
「お前がいなくなってからも、ずっと」
胸が、苦しい。息の仕方が、わからない。
冗談だろう? でも、三國の顔は真剣で、逃げ場のない目をしていた。
ざわざわと、周囲が騒ぎ出す。誰かが息を呑む音や小さな声で名前を呼ぶ音。
番組の空気が、一気に揺れる。
……告白、されてる。今さら、その事実に気づく。
俺は何も言えず、足元は不安定だ。
三國が一歩、近づいた。
「花埜が好きなんだ」
それだけで、場の温度が一気に変わったのがわかった。
一拍、遅れてざわり、と音が走る。
誰かが息を呑み、小さく「え……?」と漏らした。それが、連鎖する。
「……今、何て?」
「香坂くんと稲垣くんだよね……?」
「え、待って、手紙って……」
囁き声が、重なり合う。 決して大きな声ではないのに、そのざわめきは、耳鳴りのように俺を包んだ。
視界の端で、スタッフが動くのが見えた。
無線に手を伸ばす人や顔を見合わせる人に、想定外なんだという事実を、身体で理解してしまう。
これは、番組が用意してきた「告白」じゃない。 台本にないし、予定調和じゃない。
俺と三國の間に立ち込める空気が、場の均衡を、完全に壊していた。
「ちょっと……」
「嘘でしょ……?」
後方で、誰かが肩を掴まれている。
制止する声。それでも視線は、俺たちから離れない。
伊藤さんの姿が、ふと目に入った。表情が、凍りついている。理解できない、という顔。
姫川さんは──少し離れた場所で、まっすぐこちらを見ていた。驚きと、覚悟と、そして、どこかで理解しているような目。
……みんな、見ないでくれ。
でも、視線を逸らすことすら、できなかった。
三國は周囲の反応を気にしていないようだ。 それとも、気づいていないふりをしているだけか。
ざわめきは、さらに広がる。
「これ、放送できるの……?」
「え、でも……ルール的に……」
「プロデューサー、どうするんだろ」
誰かの言葉が、断片的に耳に入った。 『番組』『ルール』『放送』それらの単語が、刃物みたいに刺さる。
壊しているんだ。
三國が言っていた通りだ。自分の感情が、番組を壊すかもしれない、って。
今まさに、カメラが俺たちを捉え続けているのがわかる。 逃げ場はない。『王子様』という視聴者が期待する存在。
その俺が、男から告白されて、何も言えずに立ち尽くしている。
あーあ……笑えよ。無意識に口角を上げようとするが、顔が動かない。
誰かが俺の名前を呼んだ気がしても、どこからなのかわからない。
足元がぐらつく。
三國はそんな俺を見て、わずかに眉を下げた。
「……無理しなくていい」
その一言で、張り詰めていた何かが、切れそうになる。
鬱陶しいざわめきは、もう、背景音じゃない。俺たちを中心に、渦を巻いている。
この場にいる全員が、「想定外」を目撃している。番組的な“異常事態”。
その中心に、俺と三國が立っている。
息がうまく吸えなければ、言葉も選べない。ただ、三國の視線だけが、やけに鮮明で。
俺は返事をする前に、世界が壊れていく音を確かに聞いていた。



