朝、カーテンの隙間から差し込む光で目が覚めた瞬間、俺は思い出してしまった。ここが、恋愛リアリティーショーの宿舎であることを。
四日目。もう折り返しを過ぎている。今日を含めてあと、二日しかない。
その事実が、胸の奥に鈍い重さを落とした。昨日、三國を応援すると決めた。 自分の恋を諦めると、はっきり口に出したわけじゃない。それでも、あの抱擁は、俺なりの覚悟だった。
──それなのに。ベッドの上で天井を見つめながら、ゆっくりと息を吐く。
目を閉じると、昨日の三國の声が蘇る。好きな人がいること、告白するか迷っていること。番組を壊してしまうかもしれないと怯えていた横顔。
俺はあんな顔をさせるほどの存在になれなかったんだな。
そう思った瞬間、胸がきつく締めつけられた。もし、三國が誰かに告白して、想いが通じたら。その光景を想像するだけで、呼吸が浅くなる。
俺は今、番組でどのように映っているのだろうか。姫川さんとのあの一連の会話はカメラに収められていないが、姫川さんが他の男子にアタックし始めたため、フラグは完全に折れてしまい、差出人不明の手紙を探ろうともせず。
視聴者には恋愛をする気がないのに、なんで恋愛リアリティーに参加したのか、と言われているのかもしれない。
もう考え込んでいても仕方がない。俺はベッドから起き上がり、洗面所へ向かった。
鏡に映る自分は、今日も“王子様”の顔をしている。誰にも悟られないように作った、完璧な仮面。
俺は、いつまでこれを被るんだろう。
答えは出ないまま、朝食へ向かった。
朝食の席は、どこか静かだった。最終日が近づくにつれ、空気が張り詰めていくのを肌で感じる。
無意識に、俺は三國を探していた。三國は男子メンバーと話していて、穏やかに笑っている。その横顔を見るだけで、胸が痛む。
見ないと決めて視線を落とす。
「おはよう」
声をかけてきたのは、姫川さんだった。隣に立つその人は、相変わらず綺麗で、落ち着いていて。
でも、昨日までとは少し違う空気をまとっている気がした。
「おはよう、姫川さん」
そう答えると、姫川さんは自然に隣の席に座る。
「緊張してる?」
不意打ちの質問だった。俺は一瞬、言葉に詰まる。
「……少しだけ」
正直にそう言うと、姫川さんは小さく笑った。
「私も。四日目って、いちばん落ち着かないよね」
その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなる。彼女も、不安を抱えたまま立っているのだ。
それなのに、俺はあれほど想ってくれた人がいたのに、応えられなかった。その事実が、何度も心を刺した。
※※※
昼は、大学構内を巡るグループ行動だった。キャンパスを歩き、課題に挑戦し、会話を交わす。
朝からずっと、三國の姿が視界に入っているだけで胸が落ち着かない。
同じ空気を吸って、同じ場所を歩いているだけなのに、昨日までより、距離が遠く感じた。
「じゃあ、まずは中庭から行こうか」
三國がそう言って、自然に先頭に立つ。声も、歩幅も、いつもと変わらない。 なのに俺だけが、その背中を直視できずにいた。
意識しすぎだと自分に言い聞かせる。
俺はもう、三國を応援すると決めた。昨夜、抱きついたときに、そう決めたはずだ。
中庭は春の光で満ちていた。芝生に座る学生たちの笑い声が、遠くで弾んでいる。
「ここ、ドラマとかで使われそうだよね」
姫川さんが言うと、三國が頷いた。
「確かに。花埜、こういう場所、似合いそう」
不意に振られて、心臓が跳ねた。
「……俺?」
「うん。なんか、立ってるだけで絵になる」
軽い冗談のはずなのに、感情がざわつく。そういうこと、軽々しく言わないでほしい。期待してしまう自分が、まだ消えていないから。
写真撮影のミッションで、数人ずつ並ばされる。 偶然なのか、必然なのか、俺と三國は隣になった。
肩と肩の距離は、ほんの数センチ。些細なことで、呼吸の仕方を忘れそうになる。
「花埜、もうちょい寄って」
三國が、自然に俺の腕を引いた。一瞬、触れた指先だけで、心臓が壊れそうになる。
笑顔を作りながら、内心では必死だった。この距離で、平然としていられるほど、俺は強くない。
図書館に入ると、空気が一気に静まった。声を潜めながら歩く。
三國は、本棚を眺めながら言った。
「高校のときさ、花埜と図書室よく行ったよな」
その言葉に、喉が詰まる。
「……行ったね」
「あのとき、なんであんなに静かな場所ばっか選んでたんだろ」
俺は答えられなかった。理由なんて、決まっている。隣に座って、同じ空間を共有できれば、それでよかった。 言葉がなくても、成立する関係が、心地よかった。
伊藤さんが少し後ろで、姫川さんと話している。 二人とも、俺たちを気遣うように、距離を保ってくれていた。みんな優しすぎる。
その優しさが、胸に染みて涙が出そうだった。
午後、構内を一周する頃には、俺はずっと三國の視線を意識していた。
俺を見るときの目。誰かと話すときの声のトーン。俺は、応援する側なんだと思おうとするたびに心のどこかで、小さな抵抗が生まれる。
夕方、解散の合図が出たときなぜかほっとしてしまった。
三國が近くにいるだけで、一日中、感情を抑え続けていたのだと、ようやく気づく。
夜が、怖い。手紙の時間。 あの箱の前に立つことを想像するだけで、胸が苦しくなっても三國の背中を見ながら俺は思ってしまう。
もし、俺が……。と、そこ迄心の中で口にして、その続きを考えるのをやめた。
四日目は、三國が「いる」からこそ、どうしようもなく苦しい一日だった。
そしてこの夜、俺はまた、手紙によって、自分の気持ちを試されることになる。
※※※
一通りの撮影を終え、宿舎に戻る。
俺は手紙ボックスの前で立ち止まった。今日、入っていたのは昨日と同じように一通だけ。
『明日、あなたに気持ちを伝えます。数日間、一緒に過ごせてよかった』
姫川さんの字でも伊藤さんでもない。やっぱり三日目の手紙と同じ人……?
正体の分からない想いが、じわじわと心を侵食する。俺は、こんなにも人の気持ちに疎かったのか。
部屋の灯りを落としても、眠気はまったく訪れなかった。ベッドに仰向けになり、天井を見つめる。頭の中では、今日一日の出来事が何度も何度も再生されていた。
三國の声、距離、笑顔。そして──手紙。
……あの手紙。
俺は起き上がり、枕元に置いた封筒を手に取った。今日、ボックスに入っていた、たった一通。
『明日、あなたに気持ちを伝えます。数日間、一緒に過ごせてよかった』
紙の感触。ペンの跡。文字の形。何度も読んでいるはずなのに、俺はもう一度、ゆっくりと文字をなぞった。
違和感は、ほんの小さなものだった。でも、一度気づいてしまうと、無視できなくなる。
文字のはね方。句読点の置き方。丁寧すぎるほど、感情を抑えた言葉選び。
これ……。俺の脳裏に、不意に三國の姿が浮かんだ。
誰かに何かを伝えるとき、三國はいつも慎重だ。感情をぶつけるよりも、言葉を選び、相手を気遣う。真正面から踏み込むくせに、最後の一線は越えない。
三國の口調にも似てる。
心臓が、どくん、と嫌な音を立てた。二日目の手紙も思い出す。
『この時間はいつもあなたから手紙を受け取れたらいいな、とか、そんな贅沢なことを思ってしまいます。一日で一番わがままなときです』
回りくどくて、少し照れたような言い回し。願望を、あくまで「贅沢なこと」として遠ざける書き方。
そんなの……。
俺は手紙を持つ指に、力が入るのを感じた。まさか。
頭の中で、その可能性が浮かんだ瞬間、全身が冷える。もし、これが三國からの手紙だったら? もし、三國が俺に向けて。俺の視線を待っていたとしたら。
喉がひくりと鳴った。
……そんなはず、ない。
俺は首を振り、無理やり思考を押し戻す。三國は、伊藤さんに誘われて遊園地に行った。 誰かに告白しようか迷っていると言っていた。それに、俺には「応援してくれるか」とまで聞いてきた。
俺を好きなやつが、そんなこと言うわけがない。
自分に言い聞かせるように、心の中で呟く。 もし本当に俺が相手なら、あんなふうに苦しそうな顔で、他の誰かの話をするはずがない。
それに、俺は男だ。
この番組は、男女の恋愛が前提だ。三國が、そのルールを壊すようなことをするとは思えない──思えない、はずだ。
それでも、胸の奥に残ったざらつきは消えなかった。 文字を見れば見るほど、三國が言いそうな言葉に見えてしまう自分が、怖かった。
期待するな、と自分に命令する。これ以上、勝手に希望を持ったら明日、確実に壊れる。
俺は手紙を封筒に戻し、引き出しの奥にしまった。まるで、見なかったことにするみたいに。
ベッドに戻り、目を閉じた。
三國は、別の誰かを想ってると思わなければ、俺は五日目を迎えられない。
告白されるのは、俺じゃないという事実を、胸に叩き込む。
なのに──文字の形だけが、どうしても頭から離れなかった。
四日目の夜は、疑念と否定が絡み合ったまま、静かに、五日目へと沈んでいく。
そのとき、ノックの音がした。
「……花埜」
三國の声に心臓が跳ねる。俺は深呼吸してから、ドアを開けた。
「大丈夫?」
そう聞かれて、胸が締めつけられる。三國は昨日より、ほんの少し距離を取って立っていた。 その距離が、やけに遠い。
「うん。大丈夫」
嘘だった。でも、本当のことを言ったら、崩れてしまいそうだった。
三國は少し迷ったあと、微笑んだ。
「無理すんなよ。明日もあるんだから」
その優しさが、いちばん残酷だった。俺はただ、頷くことしかできなかった。
ねえ、三國。なんで告白前日の夜にわざわざ俺の部屋に来たんだ?
ドアが閉まったあと、俺は床に座り込む。 応援すると決めた。諦めると決めたのに、結局俺は三國が好きだ。
その事実だけは、どうしても消えてくれなかった。
明日、何かが変わることを予感しながら、俺は目を閉じた。
※※※
夢の中で俺はまた、あの日に立っていた。
高校の卒業式。三月の体育館は、暖房が効いているはずなのに、どこか底冷えがした。
胸元に飾られたコサージュが、やけに重い。
周囲では、泣いている人、笑っている人、写真を撮り合っている人。 みんなが、俺以外はそれぞれの「区切り」をちゃんと受け止めている。
三國はどこだろう。
視線を巡らせれば、すぐに見つかった。人混みの中でも、三國は目立つ。背はそこまで高くないのに、妙に存在感がある。
女の子たちに囲まれて、笑っていた。三國は人気者だったから、だよな、とその場で納得をする。 俺の隣にいるときだけが特別なんて、そんなはずはない。
式が終わり、クラスごとの写真撮影も終わる。自由解散になった途端、体育館は一気に騒がしくなった。
「花埜!」
呼ばれて振り向くと、彼が手を振っていた。俺を見つけた瞬間の、あの笑顔。
それだけで、胸が苦しくなる。
「あとでさ、ちょっと話せる?」
そう言われた気がしたけど、はっきり覚えていない。俺は曖昧に頷いて、その場から逃げるように歩き出していた。
もし話したら、最後に二人きりになったら、俺はきっと、何かを期待してしまうし、気持ちを抑えきれなくなってしまう。
校舎裏に部活棟。思い出の場所を、無意味に歩く。
ポケットの中で、スマホが震えた。三國からのメッセージだった。
『どこ行った?』
画面を見つめたまま、指が動かない。
返したら終わらないから。俺はこの関係を終わらせなきゃいけない。
そうしないと、俺はずっと三國のそばで報われない感情を抱え続ける。
写真を撮るふりをして、校門の前を通り過ぎる。
振り返らなかった。最後に三國の顔を見たら、たぶん、俺は踏みとどまれなかった。
電車に乗り、座席に腰を下ろす。車窓に映る自分の顔は、笑っていなかった。
スマホが、もう一度震える。
『なにかあった?』
その一文がやけに優しくて視界が滲んだ。
ごめん、三國。
声に出さず、心の中で謝る。俺は何も言わないまま、彼の元から去ることを選んだ。
その後、連絡は減っていった。最初は忙しいふりをした。 次第に既読をつけるのも怖くなった。
理由を聞かれなかったのは、彼なりの優しさだったのかもしれない。それが、余計につらかった。
俺は逃げたんだ。卒業式は未来に向かうための儀式だったはずなのに。俺にとっては、一番大切なものから目を逸らすための日になった。
そして、あの日から今日まで俺は三國とちゃんと向き合わないまま生きてきた。
──この番組に来るまで。
夢の中で、体育館のざわめきが、ゆっくりと遠ざかっていく。
目を覚ましたとき、胸の奥にはあのときと同じ痛みが残っていた。
四日目。もう折り返しを過ぎている。今日を含めてあと、二日しかない。
その事実が、胸の奥に鈍い重さを落とした。昨日、三國を応援すると決めた。 自分の恋を諦めると、はっきり口に出したわけじゃない。それでも、あの抱擁は、俺なりの覚悟だった。
──それなのに。ベッドの上で天井を見つめながら、ゆっくりと息を吐く。
目を閉じると、昨日の三國の声が蘇る。好きな人がいること、告白するか迷っていること。番組を壊してしまうかもしれないと怯えていた横顔。
俺はあんな顔をさせるほどの存在になれなかったんだな。
そう思った瞬間、胸がきつく締めつけられた。もし、三國が誰かに告白して、想いが通じたら。その光景を想像するだけで、呼吸が浅くなる。
俺は今、番組でどのように映っているのだろうか。姫川さんとのあの一連の会話はカメラに収められていないが、姫川さんが他の男子にアタックし始めたため、フラグは完全に折れてしまい、差出人不明の手紙を探ろうともせず。
視聴者には恋愛をする気がないのに、なんで恋愛リアリティーに参加したのか、と言われているのかもしれない。
もう考え込んでいても仕方がない。俺はベッドから起き上がり、洗面所へ向かった。
鏡に映る自分は、今日も“王子様”の顔をしている。誰にも悟られないように作った、完璧な仮面。
俺は、いつまでこれを被るんだろう。
答えは出ないまま、朝食へ向かった。
朝食の席は、どこか静かだった。最終日が近づくにつれ、空気が張り詰めていくのを肌で感じる。
無意識に、俺は三國を探していた。三國は男子メンバーと話していて、穏やかに笑っている。その横顔を見るだけで、胸が痛む。
見ないと決めて視線を落とす。
「おはよう」
声をかけてきたのは、姫川さんだった。隣に立つその人は、相変わらず綺麗で、落ち着いていて。
でも、昨日までとは少し違う空気をまとっている気がした。
「おはよう、姫川さん」
そう答えると、姫川さんは自然に隣の席に座る。
「緊張してる?」
不意打ちの質問だった。俺は一瞬、言葉に詰まる。
「……少しだけ」
正直にそう言うと、姫川さんは小さく笑った。
「私も。四日目って、いちばん落ち着かないよね」
その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなる。彼女も、不安を抱えたまま立っているのだ。
それなのに、俺はあれほど想ってくれた人がいたのに、応えられなかった。その事実が、何度も心を刺した。
※※※
昼は、大学構内を巡るグループ行動だった。キャンパスを歩き、課題に挑戦し、会話を交わす。
朝からずっと、三國の姿が視界に入っているだけで胸が落ち着かない。
同じ空気を吸って、同じ場所を歩いているだけなのに、昨日までより、距離が遠く感じた。
「じゃあ、まずは中庭から行こうか」
三國がそう言って、自然に先頭に立つ。声も、歩幅も、いつもと変わらない。 なのに俺だけが、その背中を直視できずにいた。
意識しすぎだと自分に言い聞かせる。
俺はもう、三國を応援すると決めた。昨夜、抱きついたときに、そう決めたはずだ。
中庭は春の光で満ちていた。芝生に座る学生たちの笑い声が、遠くで弾んでいる。
「ここ、ドラマとかで使われそうだよね」
姫川さんが言うと、三國が頷いた。
「確かに。花埜、こういう場所、似合いそう」
不意に振られて、心臓が跳ねた。
「……俺?」
「うん。なんか、立ってるだけで絵になる」
軽い冗談のはずなのに、感情がざわつく。そういうこと、軽々しく言わないでほしい。期待してしまう自分が、まだ消えていないから。
写真撮影のミッションで、数人ずつ並ばされる。 偶然なのか、必然なのか、俺と三國は隣になった。
肩と肩の距離は、ほんの数センチ。些細なことで、呼吸の仕方を忘れそうになる。
「花埜、もうちょい寄って」
三國が、自然に俺の腕を引いた。一瞬、触れた指先だけで、心臓が壊れそうになる。
笑顔を作りながら、内心では必死だった。この距離で、平然としていられるほど、俺は強くない。
図書館に入ると、空気が一気に静まった。声を潜めながら歩く。
三國は、本棚を眺めながら言った。
「高校のときさ、花埜と図書室よく行ったよな」
その言葉に、喉が詰まる。
「……行ったね」
「あのとき、なんであんなに静かな場所ばっか選んでたんだろ」
俺は答えられなかった。理由なんて、決まっている。隣に座って、同じ空間を共有できれば、それでよかった。 言葉がなくても、成立する関係が、心地よかった。
伊藤さんが少し後ろで、姫川さんと話している。 二人とも、俺たちを気遣うように、距離を保ってくれていた。みんな優しすぎる。
その優しさが、胸に染みて涙が出そうだった。
午後、構内を一周する頃には、俺はずっと三國の視線を意識していた。
俺を見るときの目。誰かと話すときの声のトーン。俺は、応援する側なんだと思おうとするたびに心のどこかで、小さな抵抗が生まれる。
夕方、解散の合図が出たときなぜかほっとしてしまった。
三國が近くにいるだけで、一日中、感情を抑え続けていたのだと、ようやく気づく。
夜が、怖い。手紙の時間。 あの箱の前に立つことを想像するだけで、胸が苦しくなっても三國の背中を見ながら俺は思ってしまう。
もし、俺が……。と、そこ迄心の中で口にして、その続きを考えるのをやめた。
四日目は、三國が「いる」からこそ、どうしようもなく苦しい一日だった。
そしてこの夜、俺はまた、手紙によって、自分の気持ちを試されることになる。
※※※
一通りの撮影を終え、宿舎に戻る。
俺は手紙ボックスの前で立ち止まった。今日、入っていたのは昨日と同じように一通だけ。
『明日、あなたに気持ちを伝えます。数日間、一緒に過ごせてよかった』
姫川さんの字でも伊藤さんでもない。やっぱり三日目の手紙と同じ人……?
正体の分からない想いが、じわじわと心を侵食する。俺は、こんなにも人の気持ちに疎かったのか。
部屋の灯りを落としても、眠気はまったく訪れなかった。ベッドに仰向けになり、天井を見つめる。頭の中では、今日一日の出来事が何度も何度も再生されていた。
三國の声、距離、笑顔。そして──手紙。
……あの手紙。
俺は起き上がり、枕元に置いた封筒を手に取った。今日、ボックスに入っていた、たった一通。
『明日、あなたに気持ちを伝えます。数日間、一緒に過ごせてよかった』
紙の感触。ペンの跡。文字の形。何度も読んでいるはずなのに、俺はもう一度、ゆっくりと文字をなぞった。
違和感は、ほんの小さなものだった。でも、一度気づいてしまうと、無視できなくなる。
文字のはね方。句読点の置き方。丁寧すぎるほど、感情を抑えた言葉選び。
これ……。俺の脳裏に、不意に三國の姿が浮かんだ。
誰かに何かを伝えるとき、三國はいつも慎重だ。感情をぶつけるよりも、言葉を選び、相手を気遣う。真正面から踏み込むくせに、最後の一線は越えない。
三國の口調にも似てる。
心臓が、どくん、と嫌な音を立てた。二日目の手紙も思い出す。
『この時間はいつもあなたから手紙を受け取れたらいいな、とか、そんな贅沢なことを思ってしまいます。一日で一番わがままなときです』
回りくどくて、少し照れたような言い回し。願望を、あくまで「贅沢なこと」として遠ざける書き方。
そんなの……。
俺は手紙を持つ指に、力が入るのを感じた。まさか。
頭の中で、その可能性が浮かんだ瞬間、全身が冷える。もし、これが三國からの手紙だったら? もし、三國が俺に向けて。俺の視線を待っていたとしたら。
喉がひくりと鳴った。
……そんなはず、ない。
俺は首を振り、無理やり思考を押し戻す。三國は、伊藤さんに誘われて遊園地に行った。 誰かに告白しようか迷っていると言っていた。それに、俺には「応援してくれるか」とまで聞いてきた。
俺を好きなやつが、そんなこと言うわけがない。
自分に言い聞かせるように、心の中で呟く。 もし本当に俺が相手なら、あんなふうに苦しそうな顔で、他の誰かの話をするはずがない。
それに、俺は男だ。
この番組は、男女の恋愛が前提だ。三國が、そのルールを壊すようなことをするとは思えない──思えない、はずだ。
それでも、胸の奥に残ったざらつきは消えなかった。 文字を見れば見るほど、三國が言いそうな言葉に見えてしまう自分が、怖かった。
期待するな、と自分に命令する。これ以上、勝手に希望を持ったら明日、確実に壊れる。
俺は手紙を封筒に戻し、引き出しの奥にしまった。まるで、見なかったことにするみたいに。
ベッドに戻り、目を閉じた。
三國は、別の誰かを想ってると思わなければ、俺は五日目を迎えられない。
告白されるのは、俺じゃないという事実を、胸に叩き込む。
なのに──文字の形だけが、どうしても頭から離れなかった。
四日目の夜は、疑念と否定が絡み合ったまま、静かに、五日目へと沈んでいく。
そのとき、ノックの音がした。
「……花埜」
三國の声に心臓が跳ねる。俺は深呼吸してから、ドアを開けた。
「大丈夫?」
そう聞かれて、胸が締めつけられる。三國は昨日より、ほんの少し距離を取って立っていた。 その距離が、やけに遠い。
「うん。大丈夫」
嘘だった。でも、本当のことを言ったら、崩れてしまいそうだった。
三國は少し迷ったあと、微笑んだ。
「無理すんなよ。明日もあるんだから」
その優しさが、いちばん残酷だった。俺はただ、頷くことしかできなかった。
ねえ、三國。なんで告白前日の夜にわざわざ俺の部屋に来たんだ?
ドアが閉まったあと、俺は床に座り込む。 応援すると決めた。諦めると決めたのに、結局俺は三國が好きだ。
その事実だけは、どうしても消えてくれなかった。
明日、何かが変わることを予感しながら、俺は目を閉じた。
※※※
夢の中で俺はまた、あの日に立っていた。
高校の卒業式。三月の体育館は、暖房が効いているはずなのに、どこか底冷えがした。
胸元に飾られたコサージュが、やけに重い。
周囲では、泣いている人、笑っている人、写真を撮り合っている人。 みんなが、俺以外はそれぞれの「区切り」をちゃんと受け止めている。
三國はどこだろう。
視線を巡らせれば、すぐに見つかった。人混みの中でも、三國は目立つ。背はそこまで高くないのに、妙に存在感がある。
女の子たちに囲まれて、笑っていた。三國は人気者だったから、だよな、とその場で納得をする。 俺の隣にいるときだけが特別なんて、そんなはずはない。
式が終わり、クラスごとの写真撮影も終わる。自由解散になった途端、体育館は一気に騒がしくなった。
「花埜!」
呼ばれて振り向くと、彼が手を振っていた。俺を見つけた瞬間の、あの笑顔。
それだけで、胸が苦しくなる。
「あとでさ、ちょっと話せる?」
そう言われた気がしたけど、はっきり覚えていない。俺は曖昧に頷いて、その場から逃げるように歩き出していた。
もし話したら、最後に二人きりになったら、俺はきっと、何かを期待してしまうし、気持ちを抑えきれなくなってしまう。
校舎裏に部活棟。思い出の場所を、無意味に歩く。
ポケットの中で、スマホが震えた。三國からのメッセージだった。
『どこ行った?』
画面を見つめたまま、指が動かない。
返したら終わらないから。俺はこの関係を終わらせなきゃいけない。
そうしないと、俺はずっと三國のそばで報われない感情を抱え続ける。
写真を撮るふりをして、校門の前を通り過ぎる。
振り返らなかった。最後に三國の顔を見たら、たぶん、俺は踏みとどまれなかった。
電車に乗り、座席に腰を下ろす。車窓に映る自分の顔は、笑っていなかった。
スマホが、もう一度震える。
『なにかあった?』
その一文がやけに優しくて視界が滲んだ。
ごめん、三國。
声に出さず、心の中で謝る。俺は何も言わないまま、彼の元から去ることを選んだ。
その後、連絡は減っていった。最初は忙しいふりをした。 次第に既読をつけるのも怖くなった。
理由を聞かれなかったのは、彼なりの優しさだったのかもしれない。それが、余計につらかった。
俺は逃げたんだ。卒業式は未来に向かうための儀式だったはずなのに。俺にとっては、一番大切なものから目を逸らすための日になった。
そして、あの日から今日まで俺は三國とちゃんと向き合わないまま生きてきた。
──この番組に来るまで。
夢の中で、体育館のざわめきが、ゆっくりと遠ざかっていく。
目を覚ましたとき、胸の奥にはあのときと同じ痛みが残っていた。



