台本にない恋、はじめました。

 三日目の朝は、ひどく静かに始まった。
 目を覚ました瞬間、胸の奥に残る鈍い痛みで、すぐに現実だとわかった。夢は見なかったはずなのに、瞼の裏には昨夜書いた手紙の文字が焼きついている。


『君が別の人を思っていても、ずっと君のことが好き』


 あれは本当に、自分が書いたものなのだろうか。
 洗面所の鏡に映った顔は、いつも通りだった。柔らかく口角が上がり、誰にでも好かれる「王子様」の表情。昨夜あれほど泣いた痕跡は、どこにも残っていない。
それが少し、怖かった。
 朝食の席で、三國を探してしまう。
 三國はいた。伊藤さんと並んで座り、いつものように穏やかに笑っている。距離が近い。笑うタイミングも同じだ。
胸の奥が、ぎゅっと縮こまる。
 三國は一度だけ俺のほうを見たが、何も言わない。その視線には、問いも答えも含まれていなかった。
なにも変わらない。その事実に、少しだけ救われ、同時に深く傷つく。
 食事を終えたころ、スタッフが声をかけてきた。


「姫川さんが、香坂さんとお話ししたいそうです」

 ああ、来た。逃げられない話だ、と思った。

 ※※※

 中庭は風がよく通っている。明るい日差しの中で、姫川さんは真っ直ぐ俺の方を見ていた。

 「……来てくれてありがとう」

 いつもの柔らかな笑顔はなく、真剣にこちらを見る瞳だけがあった。
その視線だけで、もう隠し通すことはできないと悟ってしまう。

 「初日、私に手紙をくれたの。あれ、香坂くんだったよね」

 否定できなかった。姫川さんは続ける。

 「二日目の夜、来なかった。だからわかったの。私、もう選択肢じゃないんだって」

 責める口調ではないが、胸に静かに突き刺さる。

 「……違う。嫌いになったわけじゃない」


 俺は必死に言葉を探した。


 「俺、恋人を作るのが初めてで……ちゃんと、いろんな人と向き合ってから決めたいと思っただけで……」
 「じゃあ、三國くんのことは?」

 遮るように、姫川さんが問う。ふいに、喉が詰まった。

 「高校のとき、三國くんと何があったの? 香坂くん、ずっと見てる。歌のときも、スポーツセンターでも、鍋のときも」

 沈黙が落ちる、彼女は一歩踏み込んだ。


 「……香坂くん、三國くんのことが好きなんでしょ?」

 その瞬間、俺の中で何かが崩れたのだと思う。これまで少したりとも王子様を崩さなかった表情が、一瞬だけ歪む。

 「この番組、わかってるよね」


 声はか細く震えていた。俺をむやみに中傷する意図がないことも、既に分かりきっている。


 「男女のカップルが成立することを前提にしてる。視聴者もそれを望んでる。もし香坂くんの気持ちが知られたら、きっと……ひどい言葉を投げられる」

 それでも、と彼女は言葉を続けた。

 「私は、香坂くんに幸せになってほしいから、傷ついてほしくない。だから……私を見てほしい」

 一瞬、泣きそうな笑顔になって、


 「長年の恋も、初恋も、全部忘れさせるくらい愛するから」

 と。その言葉に、視界が滲んだ──初めてだった。人前で、こんなにも感情が溢れてしまったのは。

 「……ごめん」


 声が震える。


 「こんなにも想ってくれる人が目の前にいるのに……応えられない自分が、苦しくて」

 涙が頬を伝った。

「三國は……」


 言葉を選ぶ余裕なんて、もうなかった。


「初めて、俺の中に踏み込んできた人だった。王子様でも、完璧でもない俺を、そのまま包んでくれた」

 しっかりと自分の言葉を伝えるために息を吸う。

「そのぬくもりに、今もすがってる。本当は……自分だけのものであってほしいって、思ってしまう」

 最低だと思う。それでも。

「この感情が、すごく尊くて、失っちゃいけないものだってこともわかってる」

 俺ははっきりと顔を上げた。

「王子様としての自分も、今まで積み上げたものも、全部失っても……三國への気持ちは捨てられない。俺、ずっと自分を隠してきた。だからこそ、芽生えた本当の感情を大切にしたいんだ」

 沈黙のあと、姫川さんはゆっくり息を吐いた。

「……そっか」

 涙を拭い、姫川さんは微笑んだ。強い笑顔だった。

「だったら、正直に言ってくれてよかった! そんな弱さ、私は嫌いじゃない」

 立ち上がり、手を差し出す。

「恋人にはなれないけど、ここで戦う仲間には、なれるでしょ?」

 俺はその手を取った。

「……ありがとう」

 俺たちは恋ではなく、戦友になったのだろう。中庭に、一人残される。
 泣いたあとの世界は妙に澄んで見えた。
 視線は無意識に、三國を探してしまうが、未来は、まだなにも見えない。

 ※※※

 それは、はっきりとした出来事だったわけじゃないと思う。
 俺が三國のことを「好きだ」と自覚したのは、告白の瞬間でも、特別な言葉を向けられたときでもなかった。

 むしろ、なんでもない日の、どうでもいい時間だった。
 高校二年の冬。期末テストが終わった放課後、二人で駅前のファミレスに寄った。いつもの席、いつものドリンクバー。三國はポテトを頼み、俺はサラダを頼む。変わらない組み合わせだった。

「なあ、花埜さ」

 三國が、ストローを噛みながら言った。

「お前ってさ、ほんとすごいよな」
「なにが?」
「全部」

 雑すぎる褒め方に思わず笑ってしまう。

「またそれ。意味わかんない」
「でもさ、みんなそう思ってると思うぜ。顔もいいし、気遣いできるし。完璧じゃん」

 その言葉に、胸がちくりとした。
 完璧。それは、俺が一番言われ慣れていて、一番遠い言葉だった。

「……俺、完璧じゃないよ」

 珍しく弱音が口をつき、三國は驚いたように俺を見ている。

「え?」
「俺さ、こうしてるときも、ずっと考えてる。今の笑い方、変じゃなかったかな、とか。相手が求めてる俺でいられてるかな、とか」

 三國は、しばらく黙っていた。ポテトを一本、ゆっくり口に運び、それから言う。

「それ、俺の前でも?」
「……うん」

  こんなこと言うべきじゃなかった、と正直に答えた瞬間後悔したが、三國は笑わなかった。

「そっか」

 ただ、それだけ言って俺を見た。評価も、同情もない、まっすぐな目。

「でもさ」

 三國は少し照れたように、視線を逸らす。

「今の花埜、俺は好きだけどな」

 その言葉を聞いた瞬間、世界が、静止した。
 胸の奥で、何かが音を立てて崩れる。ずっと張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた感覚。

「……それって、どういう意味?」

 自分でも驚くほど、声が震えていた。
 三國は首を傾げる。

「どういう意味って、そのまんまだけど」
「王子様じゃない俺でも?」
「うん」
「気遣いできなくて、弱音吐いて、かっこ悪い俺でも?」
「むしろ、そっちのほうがいい」

 何気ない口調だった。
特別なことを言っている自覚なんて、きっとない。
 俺の胸は、苦しいほど熱くなり、だめだ、と初めて思った。この人に、全部を見られてもいいと思ってしまう。仮面を外した自分を、肯定されたいと。
 帰り道、駅のホームで、三國がスマホを見ながら言った。

「今日さ、花埜と来れてよかったわ」

 それだけで、心臓が跳ねた。その夜、布団に入ってからも、三國の声が耳から離れなかった。

 もし明日、三國が隣にいなかったら。もし、誰かに奪われたら。想像しただけで、息が詰まる。
 あ、これが。
 天井を見つめながら、目を閉じた。
 友情だと思っていた感情が、いつの間にか、戻れない場所まで来ていたことを、その夜、はっきりと理解してしまった。
 認めたくない。でも、もう、気づいてしまった。
 自分は、三國が好きだ。
 それも、取り繕った「王子様」としてではなく、弱くて、情けなくて、独占欲だらけの──ありのままの自分として。

 ※※※

 三日目の企画は、大学近くの商店街でのショッピングだった。
ロケバスを降りた瞬間、どこか浮き足立った空気が流れる。番組も折り返しに入り、誰もが「次の一手」を意識し始めているのがわかった。
 スタッフの説明が終わると、ひとつ追加ルールが告げられる。

「このあと抽選で選ばれた女子メンバー一名は、指名した男子一名と遊園地デートに行くことができます」

 ざわ、と声が上がった。同時に胸が、嫌な音を立てる。
くじを引いたのは、伊藤さんだったのだ。

「あ……私です」

 控えめにそう言って笑う伊藤さんに、周囲が拍手する。
俺は伊藤さんが恐らく発する次の言葉を、聞きたくなかった。

「……三國くん、よかったら一緒に行ってもらえますか?」

 一瞬、世界が遠のいた。三國は驚いた顔をしたあと、すぐに柔らかく笑った。

「ああ。誘ってくれてありがとう」

 その笑顔が、胸に突き刺さる。
 こうして、三日目は分断された。商店街チームと、遊園地チーム。
 何も言えない。笑顔を作ることすら、少し難しかった。

 商店街は、平日の昼間にも関わらず賑わっている。
古着屋、クレープ屋、雑貨店。カメラが回るなか、参加者たちは思い思いに歩き回る。
 姫川さんは、もう別の男子の隣にいたのにも関わらず、俺が一人になると、自然に声をかけてくれる。

「香坂くん、これ似合いそうじゃない?」

 古着屋でシャツを手に取りながら、姫川さんは明るく言った。

「……ありがとう」
「無理しなくていいからね」

 小さな声で、そう付け加える。振り返れば、救われるような気持ちになりながらも、心ここにあらずだったと思う。

 時計を見る。遊園地に行った二人は、今頃どこにいるのだろう。観覧車だろうか、もしくはジェットコースターだろうか。
 並んで歩きながら、どんな話をしているのだろう。想像するたびに、胸が締め付けられる。

「ねえ、香坂くん」

 姫川さんが、少し真面目な顔で言う。

「今日は、ちゃんと息して」

 思わず、苦笑いが漏れた。

「そんな顔してた?」
「うん。ずっと遠く見てる」

 俺は何も否定できなかった。
 その日の商店街ロケは、俺にとって、ひどく長い時間だった。カメラに映る自分は、きっといつも通りなのに、内側だけが空洞みたいだった。

 夜になれば、合宿所に遊園地組が戻ってきた。

「ただいまー!」

 明るい声と一緒に、伊藤さんと三國が玄関に現れる。二人は、自然に並んでいた。距離が、近い。
 三國の腕には、遊園地のキャラクターが描かれた紙袋が下がっている。
伊藤さんは、それを見て少し照れたように笑っていた。

「楽しかった?」

 誰かがそう聞く。

「うん。すごく」

 伊藤さんが答えてから、三國も頷く。

「ジェットコースター、伊藤さん意外と平気でさ」
「ちょっと怖かったですけど……三國くんが隣にいたので」

 そのやりとりを聞いた瞬間、胸に、ずしりと重たいものが落ちた。
 距離が、縮まったんだ。誰が見ても、そう思うくらいに。
 三國がふと俺のほうを見た。
 
 目が合う。一瞬だけ、昔と同じ目をしていた気がしたが、すぐに視線は逸れ、伊藤さんのほうへ戻っていく。
 王子様の仮面を完璧に被り直して、俺は微笑んだ。

 その夜は布団に入っても、眠れなかった。
 三國の隣にいたのは、今日一日、自分じゃなかった。
 それだけの事実が、どうしようもなく、苦しかった。明日も、こうして、少しずつ離れていくのだろうか。
 答えの出ない問いを抱えたまま、天井を見つめ続ける。就寝前で廊下の照明は少し落とされていた。
今日の手紙を回収したときの感触を、まだ指先に残したままだ。
 三日目の手紙は、一通だけだった。

 『あなたがみんなに視線を送ったとき、その視線の先が自分であることを願うのやめられない日々です』

 もちろん差出人は、書かれておらず、癖も、文体も、どうしても誰とも結びつかない。
 二日目の夜のことを思い出す。
あのときは、二通だった。一通は、姫川さん。もう一通は、今も正体不明のままの手紙。

 『この時間はいつもあなたから手紙を受け取れたらいいな、とか、そんな贅沢なことを思ってしまいます。一日で一番わがままなときです』

 その文章には押しつけがましさも甘さもなく、静かな願いだけが滲んでいた。
 誰だろう。どうして、こんなにも自分を見ている人がいるのだろう。
 答えの出ない問いに胸の奥がざわついた、そのときだった。
 ──コンコン。
 控えめなノック音。

「花埜、起きてる?」

 聞き慣れた声に、心臓が跳ねる。

「……三國?」

 ドアを開けると、三國が立っていた。部屋着のまま、少しだけ緊張した表情をしている。

「ちょっと、話してもいい?」

 断れるはずもなかった。俺たちはベッドに腰掛け、最初はどうでもいい話をした。
商店街のクレープが美味しかったとか、明日の企画は何だろうとか。

 三國はどこか落ち着かない様子でしばらくして、ぽつりと切り出した。

「……今日さ」

 俺は何を言われるのかと、息を詰める。

「伊藤さん、振った」

 一瞬、意味が理解できなかった。

「……え?」
「ちゃんと話した。気持ちに応えられないって」

 頭が、追いつかない。

「でも、まだ三日目だよ? これから好きになる可能性だって……」

 三國は、首を振った。

「無理だと思った」

 静かな声だった。

「もう、他に気になる人がいるから」

 その言葉に、胸が強く打たれる。
 やっぱり伊藤さんじゃなくて、姫川さんなのか、と勝手に思ってしまう。

 三國は姫川さんにあまりアピールしていなかった。だからこそ、急に気持ちが向いたように見えるのが、怖いのだと。

「……最終日、明後日だろ」

 三國は、視線を床に落としたまま言った。

「告白、するかどうか……迷ってる」
「どうして?」

 できるだけ平静を装う。

「好きだからだよ」

 三國の声が、わずかに震える。

「もし否定されたら、立ち直れない気がしてさ。それに……」

 一拍、間があいた。

「成立してもしなくても、俺がその人を想ってること自体が、この番組を壊すかもしれない」


 その感情が、あまりにも、自分と似ていたから、俺は何も言えない。

「……応援、してくれるか?」

 三國が、俺を見ている。
今まで見たことのないほど、切羽詰まった目だった。
 そのとき、はっきりと思った。俺の恋は、ここで終わるんだって。
 不思議と、苦しさよりも、澄んだ気持ちが勝った。
 自分の想いが報われなくても、三國には幸せになってほしい。それは、偽りのない本心だった。
 何も考えずに立ち上がり、三國を抱きしめた。

「……花埜?」
「俺、ずっとそばにいるから」

 震えない声で、言えた。

「応援してる。本気で」

 下心なんてなしに、ただ、そうしたかった。
 三國は、しばらく動かなかった。それから、ゆっくりと息を吐く。

「……ありがとう」

 小さな声を聞き、腕を離した。胸の奥が、少しだけ、空っぽになった気がする。
 その夜、三國が部屋を出ていったあと、再び一人でベッドに横になった。
 これでいいんだ。自分に言い聞かせる。
 恋は、諦めるものじゃないが、選ばないという選択も、確かにある。
 俺は目を閉じた。三國の幸せを願うことが、今の自分にできる、唯一の愛だった。
 そして、その愛は、もう戻らない場所に、静かに根を下ろしていた。