夢を見た。はじまりは、春の匂いだった。
桜がまだ校門のあたりに残っていて、新品の制服が少しだけ、体に馴染まない。
高校の入学式。体育館の床はやけに光っていて、天井から吊られた校旗が、静かに揺れている。
俺は、いつだってひとりだ。周りには人がいるのに、誰とも話していない。
視線だけが、ひそひそと刺さる。
「……あの人、芸能人みたいじゃない?」
「王子様じゃん」
そんな声が、聞こえた気がした。
近づいてこない。距離を測るように、遠巻きにされる。
昔から、そうだった。笑顔でいれば、好かれる。完璧でいれば、安心される。でも、誰も“普通に”話しかけてはくれない。
そのときだ。
「なあ」
横から、声がした。
振り向くと、同じ制服を着た男子が立っている。少し寝癖の残った髪に、気取らない表情。
「ここ、何組?」
それだけ。王子様でもなく、噂の人でもなく、ただの、同級生として。
「……A組」
「俺も。よろしくな」
そう言って、三國は笑った。
それが、最初だった。
教室まで一緒に歩いて、席が近いことに気づいて、昼休みに一緒に弁当を食べた。
「三國はさ、俺を特別扱いしないよね」
「どういう意味?」
「他の人は俺にこんなふうに話しかけたりしないのにって思って」
「うーん、特別とかそうでないとかじゃなくて。俺が花埜と仲良くしたいと思ったらこうしてるだけだよ」
冗談みたいに言われて、なぜか、胸が軽くなった。
それからは、自然だった。
帰り道が同じで、気づけば一緒に自転車を押して帰る。
テスト前は、ノートを見せ合って。放課後は、意味もなく残って話して。
笑うタイミングも、沈黙の間も、心地よかった。特別なことなんて、何もなくても誰かの隣にいることが、こんなにも楽なんだと、初めて知った。
夢の中の三國は、ずっと自然体だった。
俺を、持ち上げもしないし、特別扱いもしないで、ただ、隣にいる。それが、高校時代の俺にとってどれだけ救いだったか。
「花埜」
名前を呼ばれる。振り向こうとした刹那、景色がゆっくりと滲んでいく。
桜の花びらが舞い上がって、視界が白くなる。
※※※
目を覚ますと、天井があった。
合宿所の見慣れない天井。カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。
……夢だった。
胸の奥に残る、あたたかさと、少しの痛みに布団の中で、静かに息を吐く。
どうして、今になって。どうして、こんな夢を。
こんな自問自答しなくても、答えは知っていた。俺はずっと、三國に“普通に”接してもらえたあの日から、何かを、手放せずにいる。
二日目の朝は、そんな感情を連れたまま、始まってしまった。
午前中は、スポーツセンターでのグループデート。
巨大な施設に足を踏み入れ、空気が一気に明るくなる。テニスコート、アーチェリー、トランポリン、ボウリング。
子どもの頃に戻ったみたいな空間に、参加者たちの表情も自然と緩んでいった。
「うわ、懐かしい!」
「トランポリンやろうよ!」
みんなが思い思いに気になる人を誘って散っていく中で、俺も笑って頷き、流れに身を任せる。
カメラがあることを意識して、口角を上げた。
──王子様でいないと。
最初に向かったのはテニスだった。
ラケットを握り、軽くボールを打つ。音はいい。フォームも悪くない。
「香坂くん、運動神経よさそうだね!」
「ありがとう」
自然に返せる。こういう場面では、俺はちゃんと“求められている自分”になれた。
その一方で隣のコートでは、三國と伊藤さんがペアを組んで別のペアと戦っていた。
「そっち行った!」
「ナイス、今の」
声を掛け合い、笑い合い、呼吸が合っている。長く一緒にいるみたいな自然さ。
胸の奥が、じくりと痛む。
ふと、昨日の手紙のことが、頭をよぎる。三國のポストに入っていた、複数の封筒。伊藤さんの、あの照れた表情。
ボールを打つたび、視線がそちらへ逸れてしまう。
「香坂くん?」
呼ばれて、はっとする。
「ごめん、今のミス」
笑って誤魔化すが、集中できていないのは自分でもわかっていた。
テニスの次は、アーチェリー。
矢をつがえ、的を狙う。引き絞る腕が、微かに震えた。
「力抜いたほうがいいよ」
後ろから、三國の声。振り返ると、すぐ近くに立っている。
「肘、もうちょい下げて」
軽く触れられただけなのに、背中が熱くなる。
「……こう?」
「そう。それ」
矢は、的の中心から少し外れたところに刺さった。
「惜しいな」
「うん」
たったそれだけの会話なのに、心臓の音がうるさい。
離れ際、三國は伊藤さんの方へ向かっていった。 伊藤さんが笑って、何か言う。三國も、同じように笑う。
俺は、何を期待しているんだろう。
トランポリンでは、無邪気な歓声が上がる。伊藤さんが跳ねるたび、三國が手を伸ばして支える。 危ないから、という理由だろう。それでも、その距離が、俺には近すぎる。
ボウリングでは、俺がストライクを出して、歓声が上がっていた。
「さすが、香坂くんっ」
「王子様じゃん!」
拍手されて、笑って、照れても、喜びより先に浮かぶのは、この場で一番、俺のことを見てほしい相手の視線だった。
彼は、見ていなかった。伊藤さんと話していたから。
心が空洞になる。
楽しいはずの時間なのに、俺だけが、どこにも居場所を見つけられない。
──手紙を書いた夜のことが、また浮かぶ。
三通の封筒。正体不明の差出人。
それでも、いちばん欲しい手紙は、たぶん最初から一つしかない。
それが届かないことを、俺はもう、どこかで悟ってしまっていた。
※※※
夜は、合宿所で鍋パーティーだった。
大きな鍋を囲み、具材を入れて、火を入れて。みんなで作る、いかにも“合宿”らしい光景。
相変わらず、三國と伊藤さんは隣同士だった。伊藤さんが鍋を覗き込み、三國が「まだ早いよ」と笑う。
胸に、また小さな棘が刺さる。
「姫川さん。じゃあ、俺が取るよ」
箸を伸ばした、その瞬間だった。
「うわっ、ごめん!」
背後から男子がぶつかってきて、バランスを崩す。次の瞬間、鍋の縁が傾き、熱々の湯気が一気にこちらへ──
「あつっ……!」
手に、焼けるような熱が走った。
「花埜!」
痛みに耐え忍ぶより先に、三國が動いていた。
俺の手首を掴み、台所まで引っ張っていく。蛇口をひねり、氷水を勢いよく流す。
「ほら、ここ。冷やせ」
言葉は短く、動きは迷いがない。水に当てられた手が、じんじんと痛む。
「……大丈夫か」
「う、うん……」
「お前、意外と危なっかしいんだよな」
そう言って、三國は小さく笑った。高校時代と、同じ笑い方だ。目頭がじんと熱くなる。
氷水の音だけが響く中、俺は意を決した。
「……三國さ」
「ん?」
「いま……気になる人、いるの?」
少しの間、空気が止まる。三國は少しだけ目を細めて、俺を見た。
「……そういうこと聞くってことはさ」
「……」
「気づいてるんでしょ?」
心臓が、大きく跳ねた。答えられずにいると、今度は三國が問い返してくる。
「花埜は? 花埜の方はどうなんだよ」
逃げ場が、なかった。だから俺は、嘘をついた。
「……もう、姫川さんに決めたよ」
言い切るように。三國は、ほんの一瞬だけ目を見開いて、それから視線を逸らした。
「……そっか」
その声は、妙に低くて、切なそうだった。表情を見た瞬間、胸の奥が、ざわりと波立つ。
──あぁ、思い出す。
高校時代。三國とは、いつも一緒だった。クラスでも、帰り道でも、放課後でも。
成績も、笑いのツボも、妙に噛み合っていて。気づけば隣にいるのが当たり前で、理由なんて考えたこともなかった。
「なあ花埜、今日の英語の小テストさ」
「うわ、忘れてた……」
そんな他愛のない会話をしながら、二人で自転車を押して帰った夕暮れ。 コンビニでゴリゴリくんのアイスを買って、溶ける前に食べきろうとして、笑った。
何も特別じゃなくても、一番長い時間を共有していた相手だった。
ただ、今思えば、不思議な瞬間が、確かにあった。例えば、クラスの誰かの話をしたとき。
「隣のクラスのさ、田中さんいるでしょ? この前話したんだけど、結構いい人でさ」
軽い気持ちでそう言っただけなのに。
「……ふーん」
三國は、ほんの一瞬だけ、表情を曇らせる。すぐにいつもの顔に戻るから、俺は気に留めなかった。 疲れてるのかな、とか。眠いのかな、とか。深く考えなかった。
別の日もそうだ。
「この前、部活の帰りに内山とカラオケ行ったんだよね。意外と歌うまくてびっくりした」
そう話すと、三國は笑った。笑ったけれど。その笑顔は、どこか作り物みたいで、目だけが、取り残されたみたいに静かだった。そのときも、俺は何も言わなかった。
仲がいいから? 気が合うから? それだけの理由で、すべてを片づけていた。
むしろ、俺はこう思っていた。俺たちは、仲良しで、趣味も合って。だからきっと、好みのタイプまで似ているんだろう。
恋愛感情を抜きにしても、同じ人を「いいな」と思っても、不思議じゃない。
そう思い込むことで、三國の沈んだ表情に、意味を与えないようにしていた。
違ったのかもしれない。あの悲しそうな目と、あの、ほんの一瞬の沈黙は。
俺が誰かを見た瞬間、自分が好きな人に選ばれないと悟った顔だったんじゃないか。今になって、そう思ってしまう。
もし、あのときに一度でも「どうした?」「何かあった?」と聞いていたら。
俺たちは、今とは違う場所に立っていたんだろうか。答えはもう出ないが、一つだけ、はっきりしている。
俺はずっと、三國の気持ちに気づかないふりをしてきた。いや、気づくのが、怖かったのかもしれない。三國が俺以外の人物に惹かれることと、三國がその相手に惹かれても俺に取られてしまうと思っていること。
つまり三國は、最初から姫川さんのことが気になっていたんじゃないか。 でも、姫川さんが俺に一途だから、既に失恋を悟っているんじゃないか。
そう思うと、申し訳なくて胸が痛む筈なのに、もし、俺が姫川さんとカップルになれば、三國は誰のものにもならないんだ。
そんな、卑しい考えが、頭をよぎった。……最低だ。
こんな感情、今まで抱いたことなんてなかった。 これじゃあ、みんなが期待する“王子様”どころか、人として失格だ。
自分の気持ちが、わからなくなる。ぐちゃぐちゃに絡まって、ほどけない。
その夜。
俺は、ペンを握っていた。匿名レターの紙の前で、何度も書いては消して。
最後には、震える手で、こう書いてしまった。
『君が、別の人を想っていても。ずっと君のことが好き。結ばれなくてもいいから、君を好きでいることだけは、許してほしい』
名前は、書かない。
封筒を閉じると、胸の奥が、ひどく静かになった。これは願いじゃなくて、懺悔だ。
俺はその手紙を、三國のポストに入れた。もう、後戻りはできない。
桜がまだ校門のあたりに残っていて、新品の制服が少しだけ、体に馴染まない。
高校の入学式。体育館の床はやけに光っていて、天井から吊られた校旗が、静かに揺れている。
俺は、いつだってひとりだ。周りには人がいるのに、誰とも話していない。
視線だけが、ひそひそと刺さる。
「……あの人、芸能人みたいじゃない?」
「王子様じゃん」
そんな声が、聞こえた気がした。
近づいてこない。距離を測るように、遠巻きにされる。
昔から、そうだった。笑顔でいれば、好かれる。完璧でいれば、安心される。でも、誰も“普通に”話しかけてはくれない。
そのときだ。
「なあ」
横から、声がした。
振り向くと、同じ制服を着た男子が立っている。少し寝癖の残った髪に、気取らない表情。
「ここ、何組?」
それだけ。王子様でもなく、噂の人でもなく、ただの、同級生として。
「……A組」
「俺も。よろしくな」
そう言って、三國は笑った。
それが、最初だった。
教室まで一緒に歩いて、席が近いことに気づいて、昼休みに一緒に弁当を食べた。
「三國はさ、俺を特別扱いしないよね」
「どういう意味?」
「他の人は俺にこんなふうに話しかけたりしないのにって思って」
「うーん、特別とかそうでないとかじゃなくて。俺が花埜と仲良くしたいと思ったらこうしてるだけだよ」
冗談みたいに言われて、なぜか、胸が軽くなった。
それからは、自然だった。
帰り道が同じで、気づけば一緒に自転車を押して帰る。
テスト前は、ノートを見せ合って。放課後は、意味もなく残って話して。
笑うタイミングも、沈黙の間も、心地よかった。特別なことなんて、何もなくても誰かの隣にいることが、こんなにも楽なんだと、初めて知った。
夢の中の三國は、ずっと自然体だった。
俺を、持ち上げもしないし、特別扱いもしないで、ただ、隣にいる。それが、高校時代の俺にとってどれだけ救いだったか。
「花埜」
名前を呼ばれる。振り向こうとした刹那、景色がゆっくりと滲んでいく。
桜の花びらが舞い上がって、視界が白くなる。
※※※
目を覚ますと、天井があった。
合宿所の見慣れない天井。カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。
……夢だった。
胸の奥に残る、あたたかさと、少しの痛みに布団の中で、静かに息を吐く。
どうして、今になって。どうして、こんな夢を。
こんな自問自答しなくても、答えは知っていた。俺はずっと、三國に“普通に”接してもらえたあの日から、何かを、手放せずにいる。
二日目の朝は、そんな感情を連れたまま、始まってしまった。
午前中は、スポーツセンターでのグループデート。
巨大な施設に足を踏み入れ、空気が一気に明るくなる。テニスコート、アーチェリー、トランポリン、ボウリング。
子どもの頃に戻ったみたいな空間に、参加者たちの表情も自然と緩んでいった。
「うわ、懐かしい!」
「トランポリンやろうよ!」
みんなが思い思いに気になる人を誘って散っていく中で、俺も笑って頷き、流れに身を任せる。
カメラがあることを意識して、口角を上げた。
──王子様でいないと。
最初に向かったのはテニスだった。
ラケットを握り、軽くボールを打つ。音はいい。フォームも悪くない。
「香坂くん、運動神経よさそうだね!」
「ありがとう」
自然に返せる。こういう場面では、俺はちゃんと“求められている自分”になれた。
その一方で隣のコートでは、三國と伊藤さんがペアを組んで別のペアと戦っていた。
「そっち行った!」
「ナイス、今の」
声を掛け合い、笑い合い、呼吸が合っている。長く一緒にいるみたいな自然さ。
胸の奥が、じくりと痛む。
ふと、昨日の手紙のことが、頭をよぎる。三國のポストに入っていた、複数の封筒。伊藤さんの、あの照れた表情。
ボールを打つたび、視線がそちらへ逸れてしまう。
「香坂くん?」
呼ばれて、はっとする。
「ごめん、今のミス」
笑って誤魔化すが、集中できていないのは自分でもわかっていた。
テニスの次は、アーチェリー。
矢をつがえ、的を狙う。引き絞る腕が、微かに震えた。
「力抜いたほうがいいよ」
後ろから、三國の声。振り返ると、すぐ近くに立っている。
「肘、もうちょい下げて」
軽く触れられただけなのに、背中が熱くなる。
「……こう?」
「そう。それ」
矢は、的の中心から少し外れたところに刺さった。
「惜しいな」
「うん」
たったそれだけの会話なのに、心臓の音がうるさい。
離れ際、三國は伊藤さんの方へ向かっていった。 伊藤さんが笑って、何か言う。三國も、同じように笑う。
俺は、何を期待しているんだろう。
トランポリンでは、無邪気な歓声が上がる。伊藤さんが跳ねるたび、三國が手を伸ばして支える。 危ないから、という理由だろう。それでも、その距離が、俺には近すぎる。
ボウリングでは、俺がストライクを出して、歓声が上がっていた。
「さすが、香坂くんっ」
「王子様じゃん!」
拍手されて、笑って、照れても、喜びより先に浮かぶのは、この場で一番、俺のことを見てほしい相手の視線だった。
彼は、見ていなかった。伊藤さんと話していたから。
心が空洞になる。
楽しいはずの時間なのに、俺だけが、どこにも居場所を見つけられない。
──手紙を書いた夜のことが、また浮かぶ。
三通の封筒。正体不明の差出人。
それでも、いちばん欲しい手紙は、たぶん最初から一つしかない。
それが届かないことを、俺はもう、どこかで悟ってしまっていた。
※※※
夜は、合宿所で鍋パーティーだった。
大きな鍋を囲み、具材を入れて、火を入れて。みんなで作る、いかにも“合宿”らしい光景。
相変わらず、三國と伊藤さんは隣同士だった。伊藤さんが鍋を覗き込み、三國が「まだ早いよ」と笑う。
胸に、また小さな棘が刺さる。
「姫川さん。じゃあ、俺が取るよ」
箸を伸ばした、その瞬間だった。
「うわっ、ごめん!」
背後から男子がぶつかってきて、バランスを崩す。次の瞬間、鍋の縁が傾き、熱々の湯気が一気にこちらへ──
「あつっ……!」
手に、焼けるような熱が走った。
「花埜!」
痛みに耐え忍ぶより先に、三國が動いていた。
俺の手首を掴み、台所まで引っ張っていく。蛇口をひねり、氷水を勢いよく流す。
「ほら、ここ。冷やせ」
言葉は短く、動きは迷いがない。水に当てられた手が、じんじんと痛む。
「……大丈夫か」
「う、うん……」
「お前、意外と危なっかしいんだよな」
そう言って、三國は小さく笑った。高校時代と、同じ笑い方だ。目頭がじんと熱くなる。
氷水の音だけが響く中、俺は意を決した。
「……三國さ」
「ん?」
「いま……気になる人、いるの?」
少しの間、空気が止まる。三國は少しだけ目を細めて、俺を見た。
「……そういうこと聞くってことはさ」
「……」
「気づいてるんでしょ?」
心臓が、大きく跳ねた。答えられずにいると、今度は三國が問い返してくる。
「花埜は? 花埜の方はどうなんだよ」
逃げ場が、なかった。だから俺は、嘘をついた。
「……もう、姫川さんに決めたよ」
言い切るように。三國は、ほんの一瞬だけ目を見開いて、それから視線を逸らした。
「……そっか」
その声は、妙に低くて、切なそうだった。表情を見た瞬間、胸の奥が、ざわりと波立つ。
──あぁ、思い出す。
高校時代。三國とは、いつも一緒だった。クラスでも、帰り道でも、放課後でも。
成績も、笑いのツボも、妙に噛み合っていて。気づけば隣にいるのが当たり前で、理由なんて考えたこともなかった。
「なあ花埜、今日の英語の小テストさ」
「うわ、忘れてた……」
そんな他愛のない会話をしながら、二人で自転車を押して帰った夕暮れ。 コンビニでゴリゴリくんのアイスを買って、溶ける前に食べきろうとして、笑った。
何も特別じゃなくても、一番長い時間を共有していた相手だった。
ただ、今思えば、不思議な瞬間が、確かにあった。例えば、クラスの誰かの話をしたとき。
「隣のクラスのさ、田中さんいるでしょ? この前話したんだけど、結構いい人でさ」
軽い気持ちでそう言っただけなのに。
「……ふーん」
三國は、ほんの一瞬だけ、表情を曇らせる。すぐにいつもの顔に戻るから、俺は気に留めなかった。 疲れてるのかな、とか。眠いのかな、とか。深く考えなかった。
別の日もそうだ。
「この前、部活の帰りに内山とカラオケ行ったんだよね。意外と歌うまくてびっくりした」
そう話すと、三國は笑った。笑ったけれど。その笑顔は、どこか作り物みたいで、目だけが、取り残されたみたいに静かだった。そのときも、俺は何も言わなかった。
仲がいいから? 気が合うから? それだけの理由で、すべてを片づけていた。
むしろ、俺はこう思っていた。俺たちは、仲良しで、趣味も合って。だからきっと、好みのタイプまで似ているんだろう。
恋愛感情を抜きにしても、同じ人を「いいな」と思っても、不思議じゃない。
そう思い込むことで、三國の沈んだ表情に、意味を与えないようにしていた。
違ったのかもしれない。あの悲しそうな目と、あの、ほんの一瞬の沈黙は。
俺が誰かを見た瞬間、自分が好きな人に選ばれないと悟った顔だったんじゃないか。今になって、そう思ってしまう。
もし、あのときに一度でも「どうした?」「何かあった?」と聞いていたら。
俺たちは、今とは違う場所に立っていたんだろうか。答えはもう出ないが、一つだけ、はっきりしている。
俺はずっと、三國の気持ちに気づかないふりをしてきた。いや、気づくのが、怖かったのかもしれない。三國が俺以外の人物に惹かれることと、三國がその相手に惹かれても俺に取られてしまうと思っていること。
つまり三國は、最初から姫川さんのことが気になっていたんじゃないか。 でも、姫川さんが俺に一途だから、既に失恋を悟っているんじゃないか。
そう思うと、申し訳なくて胸が痛む筈なのに、もし、俺が姫川さんとカップルになれば、三國は誰のものにもならないんだ。
そんな、卑しい考えが、頭をよぎった。……最低だ。
こんな感情、今まで抱いたことなんてなかった。 これじゃあ、みんなが期待する“王子様”どころか、人として失格だ。
自分の気持ちが、わからなくなる。ぐちゃぐちゃに絡まって、ほどけない。
その夜。
俺は、ペンを握っていた。匿名レターの紙の前で、何度も書いては消して。
最後には、震える手で、こう書いてしまった。
『君が、別の人を想っていても。ずっと君のことが好き。結ばれなくてもいいから、君を好きでいることだけは、許してほしい』
名前は、書かない。
封筒を閉じると、胸の奥が、ひどく静かになった。これは願いじゃなくて、懺悔だ。
俺はその手紙を、三國のポストに入れた。もう、後戻りはできない。



