台本にない恋、はじめました。

 高校の校舎は、思っていたよりも静かだった。
 夕方に部活の声も、チャイムもなく、ただ、風が通り抜ける音だけがある。
 門をくぐった瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
 ここだ。三國と、はじめて言葉を交わした場所でる母校。
 校舎の裏手にある、小さな中庭。コンクリートに囲まれた、四角い空。

 入学式の日、俺はここで立ち尽くしていた。誰にも声をかけられずに俺は柵越しに中庭を見下ろした。
 あの日と同じように、木々は少しだけ背を伸ばしていて、地面に落ちる影の形も、どこか懐かしい。

「……変わってないな」

 声に出すと、不思議と実感が湧く。変わったのは、俺たちだけだ。

「そうだな」

 背後から声がしたが、振り返る前にわかってしまう。この落ち着いた声。
 三國は、校舎の影から姿を現した。
 高校生だったころより、少し大人びているが。立ち方や視線の向け方は、あのままだ。
 俺は言葉を失った。三國がここに立っている。いつの間にか、心臓がそっと早鐘を打つ。

「……来てくれて、ありがとう」

 先に口を開いたのは、三國だった。

「うん」

 それしか言えない自分が、情けない。
 辺りが夜の浜辺のように静まり返る。でも、不思議と居心地は悪くなかった。
 ここは、俺たちが何度も黙り込んだ場所だ。言葉がなくても、成立していた時間。

「高校のときさ」

 三國が、中庭に視線を落とす。

「この場所、覚えてる?」
「……忘れるわけないだろ」

 俺は、困ったふうに苦笑してみせた。

「入学式の日。俺、固まってただろ」
「うん」

 三國はつられたように少しだけ笑う。その姿が愛おしくて堪らない。

「声かけるの、正直迷った」
「え?」
「王子様が一人で立ってるから。近づいたら怒られるんじゃないかって」

 思いがけず、吹き出しそうになった。

「そんなわけないだろ」
「でもさ」

 三國は、あの頃と同じ、少し照れたような表情をする。

「俺、あの瞬間で決まったんだ」

 胸が嵐の前のように小さくざわつく。

「……何が」
「この人と、仲良くなりたいって」

 それだけなのに、喉の奥が熱くなる。そういうところが、彼はいつもずるい。
 俺は照れ臭さから視線を逸らした。

「……俺はさ」

 必死になって、言葉を探す。

「誰も話しかけてこないと思ってた。だから、声かけられたときびっくりした」
「そうだろうな」
「うん。でも……嬉しかった」

 今も三國は黙って聞いている。
 促さないし、遮らない。あの頃から、ずっとそうだった。

「俺、卒業式の日」

 ゆっくりと息を吸い、空気が変わる。

「ここで、告白するつもりだった」

 心臓がぐっと強く打たれた。
 やっぱり。俺は知っていた。知らないふりをしていただけだ。

「でも」

 あのときの痛みを誤魔化すように彼は苦笑する。

「花埜、来なかった」

 喉が、詰まる。
 あの日、俺は彼の呼び出しに応えずに校舎を出た。怖かったからだ。もし、三國が何かを言おうとしていたら俺は、それを受け止められなかった。

「ごめん」

 ようやく、言葉が出た。

「……あのとき、俺」
「いい」

 三國が首を振る。

「責めるために呼んだんじゃない」

 中庭に、風が吹き抜ける。葉が揺れ、影が動く。

「俺さ」

 真正面から俺のことを見ている。

「ずっと、待ってた」

 この場からは逃げられない。

「今日、ここに来てくれたってことが」

 静かな声。

「それが、答えでいい」

 胸がいっぱいになるり、俺は、深く息を吸った。
 そして──ようやく、三國を見る。もう、目を逸らさない。答えでいい。
 三國のその言葉が、胸の奥に落ちた瞬間だった。考えるより先に、体が動いていた。

「……っ」

 気づいたときには、俺は一歩、前に出ていた。距離が消える。
 三國の服の裾に、指先が触れる。こんなことで、心臓が跳ね上がった。
 離れなきゃ、と頭では思うが、腕が言うことを聞かない。俺はそのまま三國に抱きついていた。
 ぎゅっと。逃げ道を塞ぐみたいに、自分でも驚くほど、強く。

「……花埜?」

 三國の声が、すぐ耳元でする。それが、だめだった。この距離でこの声なのだ。
 高校のとき、何度も隣にいたのに一度も越えなかった距離。
 俺は額を三國の胸に押しつける。息がうまくできない。

「……ごめん」

 何に対しての謝罪なのか、自分でもわからない。
 逃げたこと。黙って離れたこと。それでも、こうして触れてしまっていること。
 三國の体が、一瞬だけ強張ったのがわかった。
 でも、暫くしてからゆっくりと、背中に腕が回される。
 抱き返された。
 強くはないが、確かに拒絶じゃない。

「……いいよ」

 彼の声は、ほんとうに静かだった。

「今は、それで」

 その言葉に、胸の奥が崩れ、俺はさらに力を込めてしまう。
 指が、三國の背中の服を掴む。
 ああ、だめだ。こんなの王子様でも、芸能人でもない。ただの、弱い人間だ。

「俺……」

 声が震える。何か言おうとして、言葉にならない。喉の奥が、熱かった。
 三國は何も言わずに、ただ、背中を撫でる。ゆっくりと、何度も。まるで、泣き止ませるみたいに。
 その手つきが、あまりにも優しくて。
 ああ。俺は、このぬくもりに、ずっと縋ってきたんだ。
 高校のころも。離れてからも。番組の中でも。言葉にしなくても、体はずっと知っていた。
 どれだけ、この人を求めているか。どれだけ、この人のそばにいたいか。

「……離れないで」

 気づいたら、そんなことを口にしていた。願いというより、懇願だった。
 三國の腕が、ほんの少しだけ強くなる。

「うん」

 短い返事。それで十分だ。
 俺は目を閉じる、この腕の中にいるという事実だけで、もう全部が報われてしまいそうだった。
 当分の間、何も言葉はなかった。風の音と、互いの呼吸だけがそこにある。
 俺はまだ、三國の胸に額を預けたままだった。離れたら、何かが壊れてしまいそうで。

 何気なく三國の声が、すぐ上から落ちてきた。
 とても静かで、けど、はっきりと。

「……あの手紙」

 心臓が、跳ねた。俺の体が、無意識に強張るのがわかる。三國は続けずに、一拍だけ間を置く。
 そして。

「全部、俺だよ」

 時間が、止まった。耳が、じんと熱くなる。
 頭の中で、何度も読み返した文字。言葉の選び方。
遠回しで、不器用で、優しいあの文面。それが、全部。この人だった。
 俺は、息をするのを忘れる。呼吸しなきゃ、と思うが、もう無理だった。
 三國は俺を離さないまま、ただ続ける。

「確認とか、しなくていい」

 どこか心地よくて低い声。

「信じられなくてもいい」

 それでも、と。

「それでも、俺は」

 一瞬、言葉が途切れる。抱きしめる腕が、わずかに震えた。

「花埜が、ここに来てくれただけで」

 その声には、逃げも、保険もない。

「……もう、十分なんだ」

 俺の視界が、滲む。
 こんなふうに言われたら、どんな答えも嘘になってしまう。
 俺は、ようやく三國の服から手を離す。
 でも、離れきれず、指先がまだ袖を掴んだままだ。
 言葉はまだ出なくても、胸の奥で、何かが、はっきりと形を持つ。 
 三國の言葉が、胸の奥に残ったまま、動かない。十分だ、なんて。
そんなふうに言われる資格、俺にはないのに。
 何か言わなきゃ、と思う。ありがとうでも、ごめんでも、好きでも、違うでも。
 でも──口を開いた瞬間、喉が詰まった。

「……っ」

 声にならない。息を吸おうとしても、胸がうまく膨らまない。
 視界が、急に揺れた。ぽたり、と、頬を伝ったものが、三國の服に落ちる。
 あ。
 自覚した瞬間、もう止められなかった。
 涙が、次から次へと溢れてくる。音を立てないようにしようとして、
それすらうまくいかない俺は情けないくらい、泣いていた。

「……花埜」

 三國が名前を呼ぶとその声が優しすぎて、俺は首を振る。
 違う。言いたいことがある。
 けど、言葉にしたら、壊れてしまいそうで。
 俺は袖で目元を拭おうとして、途中で、手が止まった。三國の手が、先に伸びてきたからだ。
 指先で、そっと涙を拭われる。乱暴じゃなく、慣れているわけでもない。
 ただ、不器用で、真剣な手つき。

「……無理しなくていい」

 三國は、低く言った。

「今、答えなくていい」

 俺は、唇を噛む。
 それでも、何か伝えたくて。ようやく、掠れた声を絞り出す。

「……ずるい」
「ん?」
「……そんなふうに、言われたら……」

 そこでまた言葉が途切れ、涙が落ちる。
 三國は、何も急かさずに額を軽く、俺の額に預けた。
 近い。息が、混じる。
 この距離で言葉なんて、無理だ。俺は、何も言えないまま。
 それでも逃げなかった。
 泣いたまま、三國の前に、立ち続けていた。どれくらいそうしていただろう。
 涙が落ち着いて、呼吸が整っても胸の奥の熱だけが消えなかった。
 三國は、何も言わずに待っていたが、それが同時にありがたかった。
 俺はゆっくりと顔を上げる。目と目が合う。逃げ場はあるが逃げなくていい。

「……俺」

 声は、まだ少し震えていた。

「ずっと、怖かった」

 三國は、黙って聞いている。

「好きだって気づいたときから、ずっと」

 高校のこと。番組のこと。王子様でいること。
 全部が、頭をよぎる。

「好きだって言ったら、壊れると思ってた。友情も、居場所も、自分が積み上げてきたもの全部。だから、逃げた」

 卒業式。連絡を断った日々。

「それなのに……」

 三國を見る。
 今度は俺がまっすぐに。

「それでも、俺を好きでいてくれたんだろ」

 彼の喉が、小さく動く。

「手紙も、番組に来た理由も……全部胸が、ぎゅっと締めつけられる。そんなふうに想われて」

 俺は、苦笑した。

「好きにならないほうが、無理だろ」

 三國の目が、揺れた。俺は、深く息を吸う。

「俺も、三國が好きだ」

 言えた。ちゃんと、声になった。
 逃げずに。

「ずっと、ずっと前から」

 三國の表情が、崩れる。
 信じられないものを見るみたいに、それから、泣きそうな顔になる。

「……本当に?」

 その一言が、あまりにも弱くて俺は笑ってしまった。
 涙は、まだ頬に残っている。

「疑うなよ」

 俺は、 一歩、近づく今度は、はっきりと。
 三國の手を取った。

「俺が、今ここで言ってる」
「これが、全部だ」


 三國は、息を詰めたまま、俺の手を、ぎゅっと握り返す。強く確かめるみたいに。

「……花埜」

 名前を呼ばれる。
 その響きが、今までと違う。

「恋人になってほしい」

 三國は、そう言った。今度は迷わず俺は、少しだけ笑って頷いた。

「もう、なってるつもりだったけど」

 三國が、目を見開く。
 その表情が、あまりにも愛しくて。

「……うん」

 俺は、はっきり言う。

「なろう。三國の恋人に」

 次の瞬間。三國に、さっきよりもずっと強く抱きしめられた。
 守るみたいに、逃がさないみたいに俺も腕を回す。
 今度は迷わない。世界が、ようやく静かになった気がした。

 ※※※

 番組の放送は、少し形を変えて世に出た。告白の場面は、そのまま使われたけれど、余計な煽りは削られていた。

 「想定外の恋」
 「前例のない結末」

 そんな言葉が、テロップとして静かに流れる。残念なことに炎上はあった。
肯定も、否定も、両方あったが、番組は打ち切られなかった。
 “恋は、想定通りに進まない”という一言が、公式コメントとして添えられただけだった。
 俺は、それでいいと思った。

 放送がすべて終わって、ようやく日常が戻ってくる。
 といっても、以前と同じではない。俺と三國は引っ越しを機に同じ家で暮らすことになった。
「一緒にいられる選択肢」を、二人とも選んだだけだ。
 朝、コンビニでコーヒーを買って、帰り道にどっちが持つかで小さく揉める。
 夜、台本を読みながら、また、フリを覚えながら、どちらかが先に眠ってしまう。
 恋人らしいことを特別なことだとは思わなくなったことが、嬉しかった。

「なあ」

 ある日の夜。ソファに並んで座りながら、三國が、ふと思い出したように言う。

「最初に声かけた日あるじゃん?」
「……入学式だろ」
「うん」

 三國は、少し笑う。

「まさか、ここまで来るとは思わなかった」

 隣を見ると、あの頃と同じ目たが、もう迷っていない。

「俺は」

 正直に言う。

「あのとき、声かけてくれてなかったら今の俺、いなかったと思う」

 三國は、少し照れたように視線を逸らす。

「……重いな」
「うるさい」

 そう言いながら、俺は三國の肩に頭を預ける。何でもない夜だが、逃げなくてよくなった夜。
 
 王子様じゃなくなった俺を、それでも好きだと言ってくれる人がいる。
 理想じゃない俺を、選び続けてくれる人がいる。それだけで十分で、更に言えば、俺にはとても贅沢だった。
 そっと目を閉じると隣には確かな体温がある。
 恋は、想定通りじゃなくていい。むしろ、想定外だったからこそ、ここに辿り着けた。そう思いながら俺は、今日も三國の隣で生きている。