高校の校舎は、思っていたよりも静かだった。
夕方に部活の声も、チャイムもなく、ただ、風が通り抜ける音だけがある。
門をくぐった瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
ここだ。三國と、はじめて言葉を交わした場所でる母校。
校舎の裏手にある、小さな中庭。コンクリートに囲まれた、四角い空。
入学式の日、俺はここで立ち尽くしていた。誰にも声をかけられずに俺は柵越しに中庭を見下ろした。
あの日と同じように、木々は少しだけ背を伸ばしていて、地面に落ちる影の形も、どこか懐かしい。
「……変わってないな」
声に出すと、不思議と実感が湧く。変わったのは、俺たちだけだ。
「そうだな」
背後から声がしたが、振り返る前にわかってしまう。この落ち着いた声。
三國は、校舎の影から姿を現した。
高校生だったころより、少し大人びているが。立ち方や視線の向け方は、あのままだ。
俺は言葉を失った。三國がここに立っている。いつの間にか、心臓がそっと早鐘を打つ。
「……来てくれて、ありがとう」
先に口を開いたのは、三國だった。
「うん」
それしか言えない自分が、情けない。
辺りが夜の浜辺のように静まり返る。でも、不思議と居心地は悪くなかった。
ここは、俺たちが何度も黙り込んだ場所だ。言葉がなくても、成立していた時間。
「高校のときさ」
三國が、中庭に視線を落とす。
「この場所、覚えてる?」
「……忘れるわけないだろ」
俺は、困ったふうに苦笑してみせた。
「入学式の日。俺、固まってただろ」
「うん」
三國はつられたように少しだけ笑う。その姿が愛おしくて堪らない。
「声かけるの、正直迷った」
「え?」
「王子様が一人で立ってるから。近づいたら怒られるんじゃないかって」
思いがけず、吹き出しそうになった。
「そんなわけないだろ」
「でもさ」
三國は、あの頃と同じ、少し照れたような表情をする。
「俺、あの瞬間で決まったんだ」
胸が嵐の前のように小さくざわつく。
「……何が」
「この人と、仲良くなりたいって」
それだけなのに、喉の奥が熱くなる。そういうところが、彼はいつもずるい。
俺は照れ臭さから視線を逸らした。
「……俺はさ」
必死になって、言葉を探す。
「誰も話しかけてこないと思ってた。だから、声かけられたときびっくりした」
「そうだろうな」
「うん。でも……嬉しかった」
今も三國は黙って聞いている。
促さないし、遮らない。あの頃から、ずっとそうだった。
「俺、卒業式の日」
ゆっくりと息を吸い、空気が変わる。
「ここで、告白するつもりだった」
心臓がぐっと強く打たれた。
やっぱり。俺は知っていた。知らないふりをしていただけだ。
「でも」
あのときの痛みを誤魔化すように彼は苦笑する。
「花埜、来なかった」
喉が、詰まる。
あの日、俺は彼の呼び出しに応えずに校舎を出た。怖かったからだ。もし、三國が何かを言おうとしていたら俺は、それを受け止められなかった。
「ごめん」
ようやく、言葉が出た。
「……あのとき、俺」
「いい」
三國が首を振る。
「責めるために呼んだんじゃない」
中庭に、風が吹き抜ける。葉が揺れ、影が動く。
「俺さ」
真正面から俺のことを見ている。
「ずっと、待ってた」
この場からは逃げられない。
「今日、ここに来てくれたってことが」
静かな声。
「それが、答えでいい」
胸がいっぱいになるり、俺は、深く息を吸った。
そして──ようやく、三國を見る。もう、目を逸らさない。答えでいい。
三國のその言葉が、胸の奥に落ちた瞬間だった。考えるより先に、体が動いていた。
「……っ」
気づいたときには、俺は一歩、前に出ていた。距離が消える。
三國の服の裾に、指先が触れる。こんなことで、心臓が跳ね上がった。
離れなきゃ、と頭では思うが、腕が言うことを聞かない。俺はそのまま三國に抱きついていた。
ぎゅっと。逃げ道を塞ぐみたいに、自分でも驚くほど、強く。
「……花埜?」
三國の声が、すぐ耳元でする。それが、だめだった。この距離でこの声なのだ。
高校のとき、何度も隣にいたのに一度も越えなかった距離。
俺は額を三國の胸に押しつける。息がうまくできない。
「……ごめん」
何に対しての謝罪なのか、自分でもわからない。
逃げたこと。黙って離れたこと。それでも、こうして触れてしまっていること。
三國の体が、一瞬だけ強張ったのがわかった。
でも、暫くしてからゆっくりと、背中に腕が回される。
抱き返された。
強くはないが、確かに拒絶じゃない。
「……いいよ」
彼の声は、ほんとうに静かだった。
「今は、それで」
その言葉に、胸の奥が崩れ、俺はさらに力を込めてしまう。
指が、三國の背中の服を掴む。
ああ、だめだ。こんなの王子様でも、芸能人でもない。ただの、弱い人間だ。
「俺……」
声が震える。何か言おうとして、言葉にならない。喉の奥が、熱かった。
三國は何も言わずに、ただ、背中を撫でる。ゆっくりと、何度も。まるで、泣き止ませるみたいに。
その手つきが、あまりにも優しくて。
ああ。俺は、このぬくもりに、ずっと縋ってきたんだ。
高校のころも。離れてからも。番組の中でも。言葉にしなくても、体はずっと知っていた。
どれだけ、この人を求めているか。どれだけ、この人のそばにいたいか。
「……離れないで」
気づいたら、そんなことを口にしていた。願いというより、懇願だった。
三國の腕が、ほんの少しだけ強くなる。
「うん」
短い返事。それで十分だ。
俺は目を閉じる、この腕の中にいるという事実だけで、もう全部が報われてしまいそうだった。
当分の間、何も言葉はなかった。風の音と、互いの呼吸だけがそこにある。
俺はまだ、三國の胸に額を預けたままだった。離れたら、何かが壊れてしまいそうで。
何気なく三國の声が、すぐ上から落ちてきた。
とても静かで、けど、はっきりと。
「……あの手紙」
心臓が、跳ねた。俺の体が、無意識に強張るのがわかる。三國は続けずに、一拍だけ間を置く。
そして。
「全部、俺だよ」
時間が、止まった。耳が、じんと熱くなる。
頭の中で、何度も読み返した文字。言葉の選び方。 遠回しで、不器用で、優しいあの文面。それが、全部。この人だった。
俺は、息をするのを忘れる。呼吸しなきゃ、と思うが、もう無理だった。
三國は俺を離さないまま、ただ続ける。
「確認とか、しなくていい」
どこか心地よくて低い声。
「信じられなくてもいい」
それでも、と。
「それでも、俺は」
一瞬、言葉が途切れる。抱きしめる腕が、わずかに震えた。
「花埜が、ここに来てくれただけで」
その声には、逃げも、保険もない。
「……もう、十分なんだ」
俺の視界が、滲む。
こんなふうに言われたら、どんな答えも嘘になってしまう。
俺は、ようやく三國の服から手を離す。
でも、離れきれず、指先がまだ袖を掴んだままだ。
言葉はまだ出なくても、胸の奥で、何かが、はっきりと形を持つ。
三國の言葉が、胸の奥に残ったまま、動かない。十分だ、なんて。 そんなふうに言われる資格、俺にはないのに。
何か言わなきゃ、と思う。ありがとうでも、ごめんでも、好きでも、違うでも。
でも──口を開いた瞬間、喉が詰まった。
「……っ」
声にならない。息を吸おうとしても、胸がうまく膨らまない。
視界が、急に揺れた。ぽたり、と、頬を伝ったものが、三國の服に落ちる。
あ。
自覚した瞬間、もう止められなかった。
涙が、次から次へと溢れてくる。音を立てないようにしようとして、 それすらうまくいかない俺は情けないくらい、泣いていた。
「……花埜」
三國が名前を呼ぶとその声が優しすぎて、俺は首を振る。
違う。言いたいことがある。
けど、言葉にしたら、壊れてしまいそうで。
俺は袖で目元を拭おうとして、途中で、手が止まった。三國の手が、先に伸びてきたからだ。
指先で、そっと涙を拭われる。乱暴じゃなく、慣れているわけでもない。
ただ、不器用で、真剣な手つき。
「……無理しなくていい」
三國は、低く言った。
「今、答えなくていい」
俺は、唇を噛む。
それでも、何か伝えたくて。ようやく、掠れた声を絞り出す。
「……ずるい」
「ん?」
「……そんなふうに、言われたら……」
そこでまた言葉が途切れ、涙が落ちる。
三國は、何も急かさずに額を軽く、俺の額に預けた。
近い。息が、混じる。
この距離で言葉なんて、無理だ。俺は、何も言えないまま。
それでも逃げなかった。
泣いたまま、三國の前に、立ち続けていた。どれくらいそうしていただろう。
涙が落ち着いて、呼吸が整っても胸の奥の熱だけが消えなかった。
三國は、何も言わずに待っていたが、それが同時にありがたかった。
俺はゆっくりと顔を上げる。目と目が合う。逃げ場はあるが逃げなくていい。
「……俺」
声は、まだ少し震えていた。
「ずっと、怖かった」
三國は、黙って聞いている。
「好きだって気づいたときから、ずっと」
高校のこと。番組のこと。王子様でいること。
全部が、頭をよぎる。
「好きだって言ったら、壊れると思ってた。友情も、居場所も、自分が積み上げてきたもの全部。だから、逃げた」
卒業式。連絡を断った日々。
「それなのに……」
三國を見る。
今度は俺がまっすぐに。
「それでも、俺を好きでいてくれたんだろ」
彼の喉が、小さく動く。
「手紙も、番組に来た理由も……全部胸が、ぎゅっと締めつけられる。そんなふうに想われて」
俺は、苦笑した。
「好きにならないほうが、無理だろ」
三國の目が、揺れた。俺は、深く息を吸う。
「俺も、三國が好きだ」
言えた。ちゃんと、声になった。
逃げずに。
「ずっと、ずっと前から」
三國の表情が、崩れる。
信じられないものを見るみたいに、それから、泣きそうな顔になる。
「……本当に?」
その一言が、あまりにも弱くて俺は笑ってしまった。
涙は、まだ頬に残っている。
「疑うなよ」
俺は、 一歩、近づく今度は、はっきりと。
三國の手を取った。
「俺が、今ここで言ってる」
「これが、全部だ」
三國は、息を詰めたまま、俺の手を、ぎゅっと握り返す。強く確かめるみたいに。
「……花埜」
名前を呼ばれる。
その響きが、今までと違う。
「恋人になってほしい」
三國は、そう言った。今度は迷わず俺は、少しだけ笑って頷いた。
「もう、なってるつもりだったけど」
三國が、目を見開く。
その表情が、あまりにも愛しくて。
「……うん」
俺は、はっきり言う。
「なろう。三國の恋人に」
次の瞬間。三國に、さっきよりもずっと強く抱きしめられた。
守るみたいに、逃がさないみたいに俺も腕を回す。
今度は迷わない。世界が、ようやく静かになった気がした。
※※※
番組の放送は、少し形を変えて世に出た。告白の場面は、そのまま使われたけれど、余計な煽りは削られていた。
「想定外の恋」 「前例のない結末」
そんな言葉が、テロップとして静かに流れる。残念なことに炎上はあった。 肯定も、否定も、両方あったが、番組は打ち切られなかった。
“恋は、想定通りに進まない”という一言が、公式コメントとして添えられただけだった。
俺は、それでいいと思った。
放送がすべて終わって、ようやく日常が戻ってくる。
といっても、以前と同じではない。俺と三國は引っ越しを機に同じ家で暮らすことになった。 「一緒にいられる選択肢」を、二人とも選んだだけだ。
朝、コンビニでコーヒーを買って、帰り道にどっちが持つかで小さく揉める。
夜、台本を読みながら、また、フリを覚えながら、どちらかが先に眠ってしまう。
恋人らしいことを特別なことだとは思わなくなったことが、嬉しかった。
「なあ」
ある日の夜。ソファに並んで座りながら、三國が、ふと思い出したように言う。
「最初に声かけた日あるじゃん?」
「……入学式だろ」
「うん」
三國は、少し笑う。
「まさか、ここまで来るとは思わなかった」
隣を見ると、あの頃と同じ目たが、もう迷っていない。
「俺は」
正直に言う。
「あのとき、声かけてくれてなかったら今の俺、いなかったと思う」
三國は、少し照れたように視線を逸らす。
「……重いな」
「うるさい」
そう言いながら、俺は三國の肩に頭を預ける。何でもない夜だが、逃げなくてよくなった夜。
王子様じゃなくなった俺を、それでも好きだと言ってくれる人がいる。
理想じゃない俺を、選び続けてくれる人がいる。それだけで十分で、更に言えば、俺にはとても贅沢だった。
そっと目を閉じると隣には確かな体温がある。
恋は、想定通りじゃなくていい。むしろ、想定外だったからこそ、ここに辿り着けた。そう思いながら俺は、今日も三國の隣で生きている。
夕方に部活の声も、チャイムもなく、ただ、風が通り抜ける音だけがある。
門をくぐった瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
ここだ。三國と、はじめて言葉を交わした場所でる母校。
校舎の裏手にある、小さな中庭。コンクリートに囲まれた、四角い空。
入学式の日、俺はここで立ち尽くしていた。誰にも声をかけられずに俺は柵越しに中庭を見下ろした。
あの日と同じように、木々は少しだけ背を伸ばしていて、地面に落ちる影の形も、どこか懐かしい。
「……変わってないな」
声に出すと、不思議と実感が湧く。変わったのは、俺たちだけだ。
「そうだな」
背後から声がしたが、振り返る前にわかってしまう。この落ち着いた声。
三國は、校舎の影から姿を現した。
高校生だったころより、少し大人びているが。立ち方や視線の向け方は、あのままだ。
俺は言葉を失った。三國がここに立っている。いつの間にか、心臓がそっと早鐘を打つ。
「……来てくれて、ありがとう」
先に口を開いたのは、三國だった。
「うん」
それしか言えない自分が、情けない。
辺りが夜の浜辺のように静まり返る。でも、不思議と居心地は悪くなかった。
ここは、俺たちが何度も黙り込んだ場所だ。言葉がなくても、成立していた時間。
「高校のときさ」
三國が、中庭に視線を落とす。
「この場所、覚えてる?」
「……忘れるわけないだろ」
俺は、困ったふうに苦笑してみせた。
「入学式の日。俺、固まってただろ」
「うん」
三國はつられたように少しだけ笑う。その姿が愛おしくて堪らない。
「声かけるの、正直迷った」
「え?」
「王子様が一人で立ってるから。近づいたら怒られるんじゃないかって」
思いがけず、吹き出しそうになった。
「そんなわけないだろ」
「でもさ」
三國は、あの頃と同じ、少し照れたような表情をする。
「俺、あの瞬間で決まったんだ」
胸が嵐の前のように小さくざわつく。
「……何が」
「この人と、仲良くなりたいって」
それだけなのに、喉の奥が熱くなる。そういうところが、彼はいつもずるい。
俺は照れ臭さから視線を逸らした。
「……俺はさ」
必死になって、言葉を探す。
「誰も話しかけてこないと思ってた。だから、声かけられたときびっくりした」
「そうだろうな」
「うん。でも……嬉しかった」
今も三國は黙って聞いている。
促さないし、遮らない。あの頃から、ずっとそうだった。
「俺、卒業式の日」
ゆっくりと息を吸い、空気が変わる。
「ここで、告白するつもりだった」
心臓がぐっと強く打たれた。
やっぱり。俺は知っていた。知らないふりをしていただけだ。
「でも」
あのときの痛みを誤魔化すように彼は苦笑する。
「花埜、来なかった」
喉が、詰まる。
あの日、俺は彼の呼び出しに応えずに校舎を出た。怖かったからだ。もし、三國が何かを言おうとしていたら俺は、それを受け止められなかった。
「ごめん」
ようやく、言葉が出た。
「……あのとき、俺」
「いい」
三國が首を振る。
「責めるために呼んだんじゃない」
中庭に、風が吹き抜ける。葉が揺れ、影が動く。
「俺さ」
真正面から俺のことを見ている。
「ずっと、待ってた」
この場からは逃げられない。
「今日、ここに来てくれたってことが」
静かな声。
「それが、答えでいい」
胸がいっぱいになるり、俺は、深く息を吸った。
そして──ようやく、三國を見る。もう、目を逸らさない。答えでいい。
三國のその言葉が、胸の奥に落ちた瞬間だった。考えるより先に、体が動いていた。
「……っ」
気づいたときには、俺は一歩、前に出ていた。距離が消える。
三國の服の裾に、指先が触れる。こんなことで、心臓が跳ね上がった。
離れなきゃ、と頭では思うが、腕が言うことを聞かない。俺はそのまま三國に抱きついていた。
ぎゅっと。逃げ道を塞ぐみたいに、自分でも驚くほど、強く。
「……花埜?」
三國の声が、すぐ耳元でする。それが、だめだった。この距離でこの声なのだ。
高校のとき、何度も隣にいたのに一度も越えなかった距離。
俺は額を三國の胸に押しつける。息がうまくできない。
「……ごめん」
何に対しての謝罪なのか、自分でもわからない。
逃げたこと。黙って離れたこと。それでも、こうして触れてしまっていること。
三國の体が、一瞬だけ強張ったのがわかった。
でも、暫くしてからゆっくりと、背中に腕が回される。
抱き返された。
強くはないが、確かに拒絶じゃない。
「……いいよ」
彼の声は、ほんとうに静かだった。
「今は、それで」
その言葉に、胸の奥が崩れ、俺はさらに力を込めてしまう。
指が、三國の背中の服を掴む。
ああ、だめだ。こんなの王子様でも、芸能人でもない。ただの、弱い人間だ。
「俺……」
声が震える。何か言おうとして、言葉にならない。喉の奥が、熱かった。
三國は何も言わずに、ただ、背中を撫でる。ゆっくりと、何度も。まるで、泣き止ませるみたいに。
その手つきが、あまりにも優しくて。
ああ。俺は、このぬくもりに、ずっと縋ってきたんだ。
高校のころも。離れてからも。番組の中でも。言葉にしなくても、体はずっと知っていた。
どれだけ、この人を求めているか。どれだけ、この人のそばにいたいか。
「……離れないで」
気づいたら、そんなことを口にしていた。願いというより、懇願だった。
三國の腕が、ほんの少しだけ強くなる。
「うん」
短い返事。それで十分だ。
俺は目を閉じる、この腕の中にいるという事実だけで、もう全部が報われてしまいそうだった。
当分の間、何も言葉はなかった。風の音と、互いの呼吸だけがそこにある。
俺はまだ、三國の胸に額を預けたままだった。離れたら、何かが壊れてしまいそうで。
何気なく三國の声が、すぐ上から落ちてきた。
とても静かで、けど、はっきりと。
「……あの手紙」
心臓が、跳ねた。俺の体が、無意識に強張るのがわかる。三國は続けずに、一拍だけ間を置く。
そして。
「全部、俺だよ」
時間が、止まった。耳が、じんと熱くなる。
頭の中で、何度も読み返した文字。言葉の選び方。 遠回しで、不器用で、優しいあの文面。それが、全部。この人だった。
俺は、息をするのを忘れる。呼吸しなきゃ、と思うが、もう無理だった。
三國は俺を離さないまま、ただ続ける。
「確認とか、しなくていい」
どこか心地よくて低い声。
「信じられなくてもいい」
それでも、と。
「それでも、俺は」
一瞬、言葉が途切れる。抱きしめる腕が、わずかに震えた。
「花埜が、ここに来てくれただけで」
その声には、逃げも、保険もない。
「……もう、十分なんだ」
俺の視界が、滲む。
こんなふうに言われたら、どんな答えも嘘になってしまう。
俺は、ようやく三國の服から手を離す。
でも、離れきれず、指先がまだ袖を掴んだままだ。
言葉はまだ出なくても、胸の奥で、何かが、はっきりと形を持つ。
三國の言葉が、胸の奥に残ったまま、動かない。十分だ、なんて。 そんなふうに言われる資格、俺にはないのに。
何か言わなきゃ、と思う。ありがとうでも、ごめんでも、好きでも、違うでも。
でも──口を開いた瞬間、喉が詰まった。
「……っ」
声にならない。息を吸おうとしても、胸がうまく膨らまない。
視界が、急に揺れた。ぽたり、と、頬を伝ったものが、三國の服に落ちる。
あ。
自覚した瞬間、もう止められなかった。
涙が、次から次へと溢れてくる。音を立てないようにしようとして、 それすらうまくいかない俺は情けないくらい、泣いていた。
「……花埜」
三國が名前を呼ぶとその声が優しすぎて、俺は首を振る。
違う。言いたいことがある。
けど、言葉にしたら、壊れてしまいそうで。
俺は袖で目元を拭おうとして、途中で、手が止まった。三國の手が、先に伸びてきたからだ。
指先で、そっと涙を拭われる。乱暴じゃなく、慣れているわけでもない。
ただ、不器用で、真剣な手つき。
「……無理しなくていい」
三國は、低く言った。
「今、答えなくていい」
俺は、唇を噛む。
それでも、何か伝えたくて。ようやく、掠れた声を絞り出す。
「……ずるい」
「ん?」
「……そんなふうに、言われたら……」
そこでまた言葉が途切れ、涙が落ちる。
三國は、何も急かさずに額を軽く、俺の額に預けた。
近い。息が、混じる。
この距離で言葉なんて、無理だ。俺は、何も言えないまま。
それでも逃げなかった。
泣いたまま、三國の前に、立ち続けていた。どれくらいそうしていただろう。
涙が落ち着いて、呼吸が整っても胸の奥の熱だけが消えなかった。
三國は、何も言わずに待っていたが、それが同時にありがたかった。
俺はゆっくりと顔を上げる。目と目が合う。逃げ場はあるが逃げなくていい。
「……俺」
声は、まだ少し震えていた。
「ずっと、怖かった」
三國は、黙って聞いている。
「好きだって気づいたときから、ずっと」
高校のこと。番組のこと。王子様でいること。
全部が、頭をよぎる。
「好きだって言ったら、壊れると思ってた。友情も、居場所も、自分が積み上げてきたもの全部。だから、逃げた」
卒業式。連絡を断った日々。
「それなのに……」
三國を見る。
今度は俺がまっすぐに。
「それでも、俺を好きでいてくれたんだろ」
彼の喉が、小さく動く。
「手紙も、番組に来た理由も……全部胸が、ぎゅっと締めつけられる。そんなふうに想われて」
俺は、苦笑した。
「好きにならないほうが、無理だろ」
三國の目が、揺れた。俺は、深く息を吸う。
「俺も、三國が好きだ」
言えた。ちゃんと、声になった。
逃げずに。
「ずっと、ずっと前から」
三國の表情が、崩れる。
信じられないものを見るみたいに、それから、泣きそうな顔になる。
「……本当に?」
その一言が、あまりにも弱くて俺は笑ってしまった。
涙は、まだ頬に残っている。
「疑うなよ」
俺は、 一歩、近づく今度は、はっきりと。
三國の手を取った。
「俺が、今ここで言ってる」
「これが、全部だ」
三國は、息を詰めたまま、俺の手を、ぎゅっと握り返す。強く確かめるみたいに。
「……花埜」
名前を呼ばれる。
その響きが、今までと違う。
「恋人になってほしい」
三國は、そう言った。今度は迷わず俺は、少しだけ笑って頷いた。
「もう、なってるつもりだったけど」
三國が、目を見開く。
その表情が、あまりにも愛しくて。
「……うん」
俺は、はっきり言う。
「なろう。三國の恋人に」
次の瞬間。三國に、さっきよりもずっと強く抱きしめられた。
守るみたいに、逃がさないみたいに俺も腕を回す。
今度は迷わない。世界が、ようやく静かになった気がした。
※※※
番組の放送は、少し形を変えて世に出た。告白の場面は、そのまま使われたけれど、余計な煽りは削られていた。
「想定外の恋」 「前例のない結末」
そんな言葉が、テロップとして静かに流れる。残念なことに炎上はあった。 肯定も、否定も、両方あったが、番組は打ち切られなかった。
“恋は、想定通りに進まない”という一言が、公式コメントとして添えられただけだった。
俺は、それでいいと思った。
放送がすべて終わって、ようやく日常が戻ってくる。
といっても、以前と同じではない。俺と三國は引っ越しを機に同じ家で暮らすことになった。 「一緒にいられる選択肢」を、二人とも選んだだけだ。
朝、コンビニでコーヒーを買って、帰り道にどっちが持つかで小さく揉める。
夜、台本を読みながら、また、フリを覚えながら、どちらかが先に眠ってしまう。
恋人らしいことを特別なことだとは思わなくなったことが、嬉しかった。
「なあ」
ある日の夜。ソファに並んで座りながら、三國が、ふと思い出したように言う。
「最初に声かけた日あるじゃん?」
「……入学式だろ」
「うん」
三國は、少し笑う。
「まさか、ここまで来るとは思わなかった」
隣を見ると、あの頃と同じ目たが、もう迷っていない。
「俺は」
正直に言う。
「あのとき、声かけてくれてなかったら今の俺、いなかったと思う」
三國は、少し照れたように視線を逸らす。
「……重いな」
「うるさい」
そう言いながら、俺は三國の肩に頭を預ける。何でもない夜だが、逃げなくてよくなった夜。
王子様じゃなくなった俺を、それでも好きだと言ってくれる人がいる。
理想じゃない俺を、選び続けてくれる人がいる。それだけで十分で、更に言えば、俺にはとても贅沢だった。
そっと目を閉じると隣には確かな体温がある。
恋は、想定通りじゃなくていい。むしろ、想定外だったからこそ、ここに辿り着けた。そう思いながら俺は、今日も三國の隣で生きている。



