台本にない恋、はじめました。

 翌朝、控室に集められた出演者たちは、誰も大きな声を出さなかった。
 昨日までなら、カメラが回っていない時間でも、誰かしらが笑って、冗談を言って、番組の空気を保とうとしていた。けれども、今日は違う。全員が、自分の立ち位置を測りかねている。
 俺も、その一人だった。
 正面のモニターには、まだ電源の落ちた黒い画面。プロデューサーとディレクター、数人のスタッフが出入りし、何かを確認するように小声で話している。
 昨日の告白が、どれだけ世間にとって“異常”だったか。その答えは、もう全員が分かっていた。

「それでは」

 プロデューサーが前に立ち、空気を切り替えるように言った。

「今回の件について、現時点での番組としての判断を共有します」

 誰かが、息を呑む音がした。

「まず前提として」

 淡々とした口調。

「最終日の告白シーンは、予定されていた構成から大きく逸脱しています。三國さんの行動は、台本にも事前確認にもないものでした」

 三國がわずかに肩をすくめる。俺は視線を向けられなかった。

「そのため、当初予定していた“成立、不成立を明確に描く最終回”という形での放送は困難です」

 やっぱり。胸の内に秘めた気分が静かに沈む。

「現在、編集・編成チームと協議した結果」

 一拍置いて、プロデューサーは続けた。

「今回のシリーズは、『結論保留』という形で放送する方向で進めます」

 ざわ、と小さな波が広がる。

「最終回では、三國さんの告白、その場にいた出演者の反応、収録が中断された事実までを含め、“起きたこと”はすべて映します。ただし」

 視線が、俺に向いた。

「香坂さんの返答については、番組内では扱いません」

 一瞬、時間が止まったように感じた。

「視聴者に委ねる形ですか?」


 誰かが尋ねる。

「そうなります。恋愛リアリティ番組としては異例ですが」

 プロデューサーは、はっきりと言った。

「これは、無理に物語として消化すべき出来事ではないと判断しました」

 その言葉が、胸に落ちる。“消化しない”。編集で整えず、オチをつけず、分かりやすい感動に変換しない。

「番組の公式見解としては」

 続く言葉は、少しだけ柔らいだ。

「誰かが誰かを好きになり、その気持ちを伝えた。それ以上でも、それ以下でもない。そういう結末です」

 俺は、ゆっくりと息を吐いた。
 安心とも、落胆とも違う感情。ただ、逃げ場を与えられた気がした。

「なお」

 プロデューサーが付け加える。

「放送後のSNS対応、メディア対応については、個別に説明します。出演者の皆さんには、必要以上の発言は控えてもらいますが──」

 そこで、少しだけ言葉を選ぶように間があった。

「個人的な関係について、番組が制限をかけることはありません」

 誰かが、小さく息をついた。
 会議は、それで終わった。解散の合図が出ても、すぐに立ち上がる人はいなかった。まるで、全員が“物語の外に放り出された”ことを、まだ飲み込めていないみたいに。
 廊下に出ると、スタッフの一人が俺に声をかけた。

「香坂さん」
「はい」
「……大変でしたね」

 それだけ言って、去っていった。慰めなのか、同情なのか、分からない。
 控室に戻り、椅子に腰を下ろす。
 番組は、結論を出したが、俺の中には、何も決まっていない。
 画面の向こうでは、きっと様々な声が飛び交うだろう。

“成立したのか”
 
“逃げたのか”
 
“ずるい終わり方だ”

 全部、想像がついても昨日、三國が立っていた場所。
俺が動揺して、何も言えなくなった瞬間、あれは、編集できない。
 番組がどんな結論を選ぼうと、俺たちが立った現実は、消えない。
 それでいい。これは、番組の結末だ。
 俺と三國の物語は、まだ続いている。

 ※※※

 『恋のサークル合宿』最終話放送当日に俺は、自室のソファに座って、テレビをつけなかった。
 代わりに、スマートフォンを伏せて置く。
通知は、すでに切ってあるが、時間だけは正確だった。エンディングテーマが流れ、あの場面が映り、番組が終わったであろう時刻。
 
 胸の奥が、じわりと重くなる。
 もう、始まっているんだ。逃げ場はないと分かっていても、俺はしばらく画面に触れなかった。

 呼吸を整え、ようやく指を伸ばす。
 通知欄。数字が、見たことのない桁になっていた。メンション。DM。フォロワー数。
 一つ一つを確認する気力はない。
ただ、タイムラインを静かにスクロールした。

『え、ちょっと待って????』

『恋愛リアリティショーであれはアリなの??』

『告白したの男??????』

『制作側、放送していいのこれ』

 言葉は、速い。誰かの感情が、誰かの感情を煽り、それがまた拡散されていく。

『香坂くん、顔真っ青だったよね』

『あの動揺、演技じゃないでしょ』

『三國くん、覚悟決まりすぎてて怖かった』

『でもさ、ずっと手紙送ってたの三國じゃない?』

 やはり、手紙のことに気づいている人もいる。

『成立しないの、ずるくない?』

『答え出さないとか逃げだろ』

『番組壊したって言われても仕方ない』

 胸がきしむ。でも、その一方で。

『あれを成立、不成立で消費しなかったの、逆に誠実だと思う』

『香坂くん、追い詰められてたよ』

『これは恋愛リアリティじゃなくて、人間ドキュメンタリー』

 擁護の声も、確かにあった。
 不思議とどれも遠く、どの言葉も俺を正確には掴んでいない。
正しくも、間違ってもいる。
 次に目に入ったのは、切り抜き動画だった。
 数秒。三國が立ち上がる瞬間。俺が、目を見開いて固まる瞬間。
 ──再生。
 音を消しても、あの場の空気は伝わってくる。
 スロー再生。拡大。テロップ。

『【放送事故】恋リア史上初の展開』

『香坂花埜、完全フリーズ』

 自分の表情を、初めて“他人の目”で見る。唇が、わずかに震えている。瞬きを、忘れている。
逃げるでも、拒むでもなく、ただ立ち尽くしている。
 ああ、と、思った。俺は、あの瞬間、高校の卒業式の日と、同じ顔をしていた。
 何かを言わなきゃいけないのに、何かを選ばなきゃいけないのに、時間が止まってしまった顔。
 スマートフォンを置く。画面を伏せると、部屋が静かになる。
 世界は、あれこれ言っている。
勝手に意味を与え、結論を作り、消費していく。
 実際は誰も俺が“何に怯えたか”までは、知らない。
 三國が告白したこと。それ自体じゃない。
 また、失うかもしれないと思ったこと。
 好きだと伝えられて、それに応えた先で、関係が壊れるかもしれない恐怖。
 だから俺は、あの場で、黙った。
 世間は、それを逃げと呼ぶだろう。否定はできないが、あの沈黙は俺が初めてちゃんと向き合おうとしていた証でもあった。
 スマートフォンが、静かに震える。
 通知を切っているはずなのに、一件だけ、表示された。

 ──三國。

 名前を見ただけで、胸が跳ねる。俺は、すぐには開かなかった。
 放送は終わった。番組も、世間も、もう動き出している。
 次に進むのは、画面の向こうじゃなくて、俺自身だ。
 画面に表示された三國の名前を、俺はしばらく見つめていた。通知は、たった一件。それだけなのに、胸の奥が騒がしい。
 今、開けばいい。そう思う一方で、指が動かない。
 メッセージを開くということは、あの告白の続きを、受け取るということだ。
 言葉にする前にもう答えは出ているくせに、俺は臆病だった。
 ベッドに腰を下ろし、スマートフォンを伏せる。
まるで、そこに三國の視線が宿っているみたいで、逃げるように。
 今日一日で、どれだけのものが変わっただろう。
 番組は終わったし、放送はされた。
世間は騒ぎ、名前は飛び交い、俺たちは特別な例として切り取られた。
 それなのに、俺と三國の関係だけが、あの告白の瞬間で止まっている。
 時計を見る、深夜一時。いつもなら、もう眠っている時間だ。
 目を閉じると、あの光景が浮かぶ。
 ライト。ざわめき。三國の声。まっすぐで、逃げ道を与えない声。
 ずるい。ずるかった。心の中で、そう呟く。
 俺はずっと、好意を向けられる側でいることで守られてきた。
 王子様。アイドル。期待される存在。
 誰かに好きだと言われても、

「ありがとう」

 と笑っていれば、それで済んだ。
 でも、三國は違った。俺が逃げれば、追ってきた。距離を取れば、黙って待った。
 そして最後に、俺の前に立って、好きだと言った。逃げ道を、全部塞ぐみたいに。
 スマートフォンが、また微かに震える。
 今度は通知じゃない。時間経過の錯覚だ。
 俺は自嘲気味に息を吐いた。

「……何やってんだよ」

 独り言が、部屋に落ちる。メッセージを開かないまま、俺はシャワーを浴び、髪を乾かし、何事もなかったみたいに過ごした。
 それでも、常に意識の端にある。三國からのメッセージ。
 内容を想像する。謝罪だろうか。
何もなかったみたいな一言だろうか。どちらでも、怖い。
 ベッドに横になる。天井を見上げながら、俺は高校時代のことを思い出す。
 あのときも、告白される前に、逃げた。言葉を聞く前に、距離を置いた。
 結果、三國は何も言えないまま、俺たちは離れた。
 同じことを、繰り返すのか? それとも──今度こそ、向き合うのか。
 答えは、もう決まっている。だからこそ、怖い。
 俺はようやくスマートフォンを手に取った。ロックを解除し、三國の名前をタップする。
 ……開かない。
 指が止まる。そのとき、画面に新しい通知が表示された。

『明日、少し話せないか』

 短く、逃げも押し付けもない。待っているだけの優しい文面。
 胸がぎゅっと締めつけられる。俺はしばらくその文字列を見つめてから、ようやく返信を打った。

『うん』

 それだけを送信し、たった二文字で世界が少しだけ動いた気がした。
 再会は明日。逃げないと、決めた夜だった。